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あお表紙ひょうしほん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

あお表紙ひょうしほん(あおびょうしぼん)は、源氏物語げんじものがたり写本しゃほんのうち藤原ふじわら定家さだいえ作成さくせいしたとされるもの、およびそれをうつして作成さくせいされたとされるものをいう。「あお表紙ひょうしほん」というは、定家さだいえ作成さくせいした写本しゃほん表紙ひょうしあおかったことに由来ゆらいする。

成立せいりつ

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藤原ふじわら定家さだいえ日記にっきである『明月めいげつ』などの記述きじゅつもとにすると、「藤原ふじわら定家さだいえいえにはかつて「証本しょうほん」とびうる信頼しんらいできる「源氏物語げんじものがたり」の写本しゃほんがあった。しかしあるときこれをぬすまれてしまった。その自身じしん怠惰たいだにより、そのような状態じょうたいながつづいてきたが、あるときしかるべきところから写本しゃほんりてきていえ少女しょうじょらにめいじて写本しゃほんつくらせ、そのもいろいろなところにある写本しゃほん照合しょうごうした」とある。

定家さだいえととのえた源氏物語げんじものがたりほんを「あお表紙ひょうし」とぶことは源氏物語げんじものがたり注釈ちゅうしゃくしょとしてはかわうみしょう源氏げんじろくじょうしょうなどではじめてられるもので、注釈ちゅうしゃくしょ以外いがいふくめるとのべけいりょうきょう訴陳じょうにおいて「あお表紙ひょうし源氏物語げんじものがたり一部いちぶ」とあるのが初出しょしゅつとされる[1]。また「あお表紙ひょうし」が「あお表紙ひょうしほん」とばれるようになるのはさらにおそく、近世きんせいになってからである[2]

定家さだいえ自筆じひつほん現存げんそんは、ぜん54じょうのうち「はなさと(はなちるさと)」「柏木かしわぎ」「行幸ぎょうこう(みゆき)」「早蕨さわらび(さわらび)」「若紫わかむらさき」の5じょうである[3]

評価ひょうか

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現在げんざいあるあお表紙ひょうしほん河内かわうちほん本文ほんぶんくらべると、あお表紙ひょうしほんほうだと意味いみとおらないおおくの箇所かしょで、河内かわうちほんでは意味いみとおるようになっていることがおおい。これは、河内かわうちほん意味いみとおりにくい本文ほんぶん積極せっきょくてきくわえて意味いみとおるようにする方針ほうしん校訂こうていされたのにたいして、あお表紙ひょうしほんでは意味いみとおらない本文ほんぶん可能かのうかぎりそのままのこすという方針ほうしん校訂こうていされたためであるからだとかんがえられている。このことは、藤原ふじわら定家さだいえみなもと光行みつゆきらがとも当時とうじ本文ほんぶん状況じょうきょうを「みだれていてどれがただしいのかわからない。」と認識にんしきしていたにもかかわらず、定家さだいえは「疑問ぎもん解決かいけつすることはできなかった。」という意味いみのことをべ、みなもと光行みつゆきは「調しらべた結果けっか疑問ぎもん解決かいけつすることができた。」という意味いみのことをべていることともよく対応たいおうしているとかんがえられてきた。そのため河内かわうちほんくらべると、あお表紙ひょうしほんほう原本げんぽんによりちか本文ほんぶんであるとかんがえられてきた。

ただし、あお表紙ひょうしけい本文ほんぶん本当ほんとうもと本文ほんぶんくわえていないかどうかについては、定家さだいえによる『土佐とさ日記にっき』の写本しゃほん調しらべると、本文ほんぶん意識いしきてきととのえたとられる部分ぶぶんもあることなどから、さい検討けんとう必要ひつようとなえられている。鎌倉かまくら時代じだい後期こうき成立せいりつられる昭和中しょうわなかになって発見はっけんされた資料しりょう光源氏ひかるげんじ物語ものがたりほんことには、あお表紙ひょうしほんのそれもおそらくは原本げんぽんのことであるとおもわれる「京極きょうごく自筆じひつほん」について、「こともよのつねよりも枝葉えだはをぬきたるほん」と「ほんよりも言葉ことばっている」との批判ひはんくわえている。藤原ふじわら定家さだいえにより写本しゃほんおくけられた注釈ちゅうしゃくである『おくいれ』にだいいちだいがあることをかんがえても、あお表紙ひょうしほん定義ていぎである「藤原ふじわら定家さだいえさだめた本文ほんぶん」がそもそもいちとおりではないとする見方みかたもある[4]

あお表紙ひょうしほんべつほんせつ

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阿部あべ秋生あきおによりとなえられたもので、伝承でんしょうによればあお表紙ひょうしほんとは藤原ふじわら定家さだいえまえにあったある写本しゃほんひとつを忠実ちゅうじつうつったものであり、藤原ふじわら定家さだいえまえにあったある写本しゃほんとはべつほんひとつになるはずであるから、あお表紙ひょうしほんとはじつべつほんひとつにすぎないとして、あお表紙ひょうしほんべつほんふくめてかんがえるせつである。

問題もんだいてん

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そもそもあお表紙ひょうしほん成立せいりつには不明ふめいてんおおく、藤原ふじわら定家さだいえおおくの写本しゃほん照合しょうごうしたとかんがえられるものの、具体ぐたいてきにどのような写本しゃほん資料しりょうとしてあつめたのかはわかっていない。またそのなかからどのような基準きじゅん本文ほんぶんえらんだのかもわからない。現在げんざいのこっている藤原ふじわら定家さだいえ自筆じひつほんはごく断片だんぺんてきなものであり、できあがった定家さだいえ自筆じひつほんが1くみだけなのかということもわからない(おくいれだいいちおくいれだいおくいれの2つがあることなどから、現在げんざいでは定家さだいえ自筆じひつほんすくなくとも2種類しゅるいあるとするかんがえが有力ゆうりょくである)。

あお表紙ひょうしほんができた経緯けいいについても、『源氏物語げんじものがたり』をきわめて重要じゅうようした藤原ふじわら定家さだいえ態度たいどかんがえると、30ねんものあいだ源氏物語げんじものがたり』の写本しゃほんまったっていなかったとするのはきわめて不自然ふしぜんであるとする意見いけんもある。そもそも藤原ふじわら定家さだいえ当時とうじ本文ほんぶん状況じょうきょうを「みだれていてどれがただしいのかわからない。」と認識にんしきしており、さまざまな写本しゃほん照合しょうごうしたが「本文ほんぶんじょう疑問ぎもんてん解決かいけつすることはできなかった。」とべている。このような記述きじゅつしかない定家さだいえ研究けんきゅう成果せいかあお表紙ひょうしほんであり、そのようなものを基準きじゅんにしてよいのかという根本こんぽんてき問題もんだい存在そんざいする。阿部あべ秋生あきおは、「あお表紙ひょうしほんが、河内かわうちほんべつほんよりは、原典げんてんかたちのこしているのではないかというのは、研究けんきゅうしゃてた臆説おくせつぎない。」としている[5]

つてりゅう

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鎌倉かまくら時代ときよには河内かわうちほん優勢ゆうせいで、今川いまがわ了俊りょうしゅんなどは「あお表紙ひょうしほんえてしまった。」とべていたほどだったが、室町むろまち時代ときよなかごろから藤原ふじわら定家さだいえながれを三条西さんじょうにし活動かつどうによりあお表紙ひょうしほん優勢ゆうせいになり、ぎゃく河内かわうちほんほうえてしまったかのような状況じょうきょうになった。ただし、このとき普及ふきゅうした三条さんじょう西家にしいえ系統けいとうあお表紙ひょうしほんは、純粋じゅんすいあお表紙ひょうしほんくらべると河内かわうちほんとうからの混入こんにゅうられる本文ほんぶんであった。

江戸えど時代じだいはいると、版本はんぽんによる『源氏物語げんじものがたり』の刊行かんこうはじまった。そのさいおおくはあお表紙ひょうし系統けいとう本文ほんぶんであった。『でん嵯峨さがほん源氏物語げんじものがたり』、『にゅう源氏物語げんじものがたり』、『くびしょ源氏物語げんじものがたり』、『源氏物語げんじものがたりみずうみがつしょうとう版本はんぽんひろ意味いみでのあお表紙ひょうしほん系統けいとうであり、おおくの場合ばあいさんじょう西家にしいえ系統けいとうあお表紙ひょうしほんけい本文ほんぶんにさらに河内かわうちほんべつほんからの混入こんにゅうられるものであった。明治めいじ時代じだいはいって活字かつじほん出版しゅっぱんされるようになってもこの状況じょうきょうはしばらくつづき、与謝野よさの晶子あきこによるものなど、当時とうじ現代げんだいやくもこれらの本文ほんぶんもとつくられていた。

このように普及ふきゅうしたあお表紙ひょうしけい本文ほんぶんであったが、あまりにもひろ普及ふきゅうぎたために、大筋おおすじではおなじであるもののこまかいところがことなるきわめておおくの写本しゃほん存在そんざいし、そのどれがもとかたちなのかわからない状況じょうきょうであり、良質りょうしつあお表紙ひょうしけい本文ほんぶん保存ほぞんした写本しゃほん存在そんざいしないといわれてきた。そのため、池田いけだ亀鑑きかん当初とうしょ河内かわうちほん系統けいとう写本しゃほんもと学術がくじゅつてき校本こうほんつくろうとし、いち完成かんせい間近まぢかまで作業さぎょう進行しんこうした。しかしながら明治めいじ末期まっきころから本格ほんかくてき写本しゃほん所在しょざい調査ちょうさとその比較ひかくはじまり、大島本おおじまほんなど良質りょうしつ本文ほんぶんつとされる写本しゃほんがいくつも発見はっけんされることにより、あお表紙ひょうしほんもと校本こうほん作成さくせいすることが可能かのうになった。そしてそれらを基準きじゅんとして『校異こうい源氏物語げんじものがたり』や『源氏物語げんじものがたり大成たいせい校異こういへん』といった学術がくじゅつてき校本こうほん作成さくせいされた。

おも写本しゃほん

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藤原ふじわら定家さだいえ自筆じひつほん[6]
現在げんざい藤原ふじわら定家さだいえ自筆じひつほんみとめられるものとして、以下いかの4じょうのみが断片だんぺんてき現存げんそんしている。このほか天理大学てんりだいがく図書館としょかんしょ蔵本ぞうほん野分のわけ」が定家さだいえひつとされているが、定家さだいえ筆跡ひっせきとしては疑問ぎもんおおく、鎌倉かまくら末期まっき書写しょしゃられており、河内かわうちほんちか本文ほんぶんふくんでいるとされる。
あきらとおるほん[7]
冷泉れいせんあきらとおるによる写本しゃほんきりつぼ帚木はなえん若菜わかな上下じょうげ柏木かしわぎはしひめ浮舟うきふねについては定家さだいえ自筆じひつほん文字もじ配列はいれついたるまですべてそのままうつしたとされていることから、あきらとおる臨模りんもほんともばれる。定家さだいえ自筆じひつほんいで尊重そんちょうされることがおおい。そのはなさともあるが、これは臨模りんもほんではない。東海大学とうかいだいがく図書館としょかん桃園ももぞの文庫ぶんこぞうあきらとおるほんとされるものにはこのほかに、山岸やまぎし徳平とくひらしょ蔵本ぞうほん44じょうがあり、表紙ひょうし体裁ていさいなどがおなじで両者りょうしゃ重複じゅうふくするまきはないため、もといちぞろいであったのではないかとする見方みかたもあるが確証かくしょうはない。こちらは24じょうあかりとおる書写しょしゃとされており、ほかにくにだか親王しんのう飛鳥井あすかい雅康まさやすいき曾衣、飛鳥井あすかいみやびさかえおんな連歌れんがそうよう大覚寺だいかくじしゅんらが書写しょしゃしゃであるとされている。こちらには臨模りんもほんおもわれるまきふくまれていない。
大島本おおじまほん[8]
だい部分ぶぶん飛鳥井あすかい雅康まさやすによる筆写ひっしゃつたえられる写本しゃほん。ほぼ全巻ぜんかんそろったあお表紙ひょうしほんけい写本しゃほんなかではもっと良質りょうしつのものとされており、「源氏物語げんじものがたり大成たいせい」をはじめとするおおくの校本こうほん底本ていほん採用さいようされている。
池田本いけだほん[9]
池田いけだ亀鑑きかん所蔵しょぞうであったことから「池田本いけだほん」とばれる。きりつぼゆめ浮橋うきはし源氏物語げんじものがたり大成たいせい底本ていほんとして採用さいようされている。はなさと柏木かしわぎじょうけており、帚木と空蝉うつせみ蓬生よもぎう関屋せきや常夏とこなつ篝火かがりびがそれぞれ合冊がっさつされているため52かん49さつである。そのうち45じょう鎌倉かまくら時代じだい書写しょしゃとされ、書写しょしゃしゃとして二条にじょう為氏ためうじじょうためあきら藤原ふじわらこうのうらの名前なまえげられている。本文ほんぶんあきらとおるほん大島本おおじまほんちか本文ほんぶん池田いけだ亀鑑きかんは「大島本おおじまほんぐ(良質りょうしつ本文ほんぶんである)」としているが、東屋あずまや習はべつほんとされる。戦時せんじちゅう行方ゆくえ不明ふめいになったが現在げんざい天理大学てんりだいがく天理てんり図書館としょかんぞう[10][11]
三条さんじょう西家にしいえほん
室町むろまち時代ときよはいってから三条西さんじょうにし実隆さねたかが「証本しょうほん」をもとつくったとされる写本しゃほん宮内庁くないちょうしょりょうぞう三条西さんじょうにしきゅうぞう)。三条西さんじょうにし実隆さねたかによる写本しゃほんには日本にっぽん大学だいがく所蔵しょぞうほんもある。にゅう源氏物語げんじものがたりみずうみがつしょうなどの江戸えど時代じだい版本はんぽんはこの写本しゃほん系統けいとう本文ほんぶんちかく、源氏物語げんじものがたり解釈かいしゃくなどにはおおきな影響えいきょうりょくったが、本文ほんぶん自体じたい定家さだいえ自筆じひつほんなどとはことなるてんおおいもので、純粋じゅんすいあお表紙ひょうしけい本文ほんぶんではなく、河内かわうちほんべつほん影響えいきょうけたものである。山岸やまぎし徳平とくひら校訂こうていによる(きゅう岩波いわなみ日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけい源氏物語げんじものがたり」(1958ねん昭和しょうわ33ねん)-1963ねん昭和しょうわ38ねん))の底本ていほんになった。
肖柏しょうはくほん
榊原さかきばらほん
横山よこやまほん
大正大学たいしょうだいがくほん
よもぎひだり文庫ぶんこぞう天文てんもん2ねん奥書おくがきほん
ひがし久邇くに宮家みやけきゅう蔵本ぞうほん
吉川よしかわほん
中院なかのいん文庫本ぶんこぼん
早稲田大学わせだだいがくほん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 池田いけだ亀鑑きかんあお表紙ひょうしほんかんする古人こじん研究けんきゅう」『源氏物語げんじものがたり大成たいせい 研究けんきゅう資料しりょうへん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ1956ねん昭和しょうわ31ねん)、p. 59。
  2. ^ 阿部あべ秋生あきおべつほん本文ほんぶん」『源氏物語げんじものがたり本文ほんぶん岩波書店いわなみしょてん、1986ねん昭和しょうわ61ねん)6がつ、p. 223。 ISBN 978-4-00-000583-8
  3. ^ 若紫わかむらさき」は2019ねん発見はっけんの4じょう戦前せんぜん発見はっけん
  4. ^ 室伏むろふし信助しんすけ源氏物語げんじものがたりしょほん あお表紙ひょうしほん展望てんぼう」『国文学こくぶんがく解釈かいしゃく鑑賞かんしょう 別冊べっさつ 源氏物語げんじものがたり鑑賞かんしょう基礎きそ知識ちしき 29 はなさと』(至文しぶんどう2003ねん7がつ8にち) pp.. 196-204。
  5. ^ 阿部あべ秋生あきお昨今さっこん源氏物語げんじものがたり研究けんきゅう」『源氏物語げんじものがたり本文ほんぶん岩波書店いわなみしょてん、1986ねん6がつ、p. 13。
  6. ^ 源氏物語げんじものがたりしょほん情報じょうほう 定家さだいえほん
  7. ^ 源氏物語げんじものがたりしょほん情報じょうほう あきらとおるほん
  8. ^ 源氏物語げんじものがたりしょほん情報じょうほう 大島本おおじまほん
  9. ^ 源氏物語げんじものがたりしょほん情報じょうほう 池田本いけだほん
  10. ^ 池田いけだ亀鑑きかん桃園ももぞの文庫ぶんこぞう源氏物語げんじものがたり」『源氏物語げんじものがたり大成たいせい大成たいせい研究けんきゅう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ資料しりょうへんp. 253。
  11. ^ 加藤かとうあきらよしみ池田本いけだほん源氏物語げんじものがたり』(天理大学てんりだいがく付属ふぞく天理てんり図書館としょかんぞう)」人間にんげん文化ぶんか研究けんきゅう機構きこう国文学研究資料館こくぶんがくけんきゅうしりょうかんへん立川たちかわ移転いてん記念きねん特別とくべつ展示てんじ図録ずろく 源氏物語げんじものがたり せんねんのかがやき』思文閣出版しぶんかくしゅっぱん2008ねん10月、p. 94。 ISBN 978-4-7842-1437-2

参考さんこう文献ぶんけん

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