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阿仏尼本源氏物語 - Wikipedia コンテンツにスキップ

阿仏あぶつほん源氏物語げんじものがたり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

阿仏あぶつほん源氏物語げんじものがたり(あぶつにぼんげんじものがたり)とは、阿仏あぶつによって書写しょしゃされたとつたえられている源氏物語げんじものがたり写本しゃほんである。「阿仏あぶつひつ源氏物語げんじものがたり」、「でん阿仏あぶつひつ源氏物語げんじものがたり」などとばれたり、それぞれの時代じだい所有しょゆうしゃ名前なまえから「紀州きしゅうほん源氏物語げんじものがたり」、「高木たかぎほん源氏物語げんじものがたり」、「東洋大学とうようだいがくほん源氏物語げんじものがたりとうばれることもある。

源氏物語げんじものがたり本文ほんぶん研究けんきゅうするじょう非常ひじょう重要じゅうよう写本しゃほんでありながら、かつてわずかに調査ちょうさされただけで行方ゆくえ不明ふめいになってしまったため「まぼろし写本しゃほん」などともばれていた。現在げんざいそのうちの帚木1じょうだけが東洋大学とうようだいがく付属ふぞく図書館としょかん所蔵しょぞうされており、「これほど数奇すうき運命うんめいをたどったつてほんらない」などとわれている[1]

阿仏あぶつ源氏物語げんじものがたり

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阿仏あぶつとは、源氏物語げんじものがたり本文ほんぶんについてあお表紙ひょうしほんさだめた藤原ふじわら定家さだいえ息子むすこ藤原為家ふじわらのためいえ後妻ごさいであり、『うたたね』や『十六夜いざよい日記にっき』などの作者さくしゃとしてもられる鎌倉かまくら時代ときよ代表だいひょうてき女性じょせい歌人かじん女性じょせい作家さっかのひとりである。阿仏あぶつためつまとなって以後いごおっとためとともにんでいた邸宅ていたくにおいては「おんな主人しゅじん」とばれており、そこでため飛鳥井あすかい雅有まさありらに源氏物語げんじものがたりについての講釈こうしゃくなどをおこなっており、その様子ようす飛鳥井あすかい雅有まさありによってしるされた「嵯峨さがのかよひ」などにえがかれている[2]おっと死後しごその財産ざいさん相続そうぞくをめぐる訴訟そしょうのために鎌倉かまくらおもむいたさいには河内かわうち学派がくはかわ内方ないほう)をてたみなもとちかしぎょうらと源氏物語げんじものがたり解釈かいしゃくなどについて対等たいとう議論ぎろんわすなど、生前せいぜんからその源氏物語げんじものがたりかんする見識けんしき尊重そんちょうされていた。藤原ふじわら定家さだいえちち藤原ふじわら俊成としなりからはじまる御子みこひだりためいえからはじまる冷泉れいせんにおいて勅撰ちょくせんしゅうなどにうたのこした妻女さいじょすくなくないが、現在げんざい冷泉れいせんにおいて歴代れきだい男性だんせい当主とうしゅならんで遠忌えんきいとなまれている女性じょせい阿仏あぶつただひとりである[3]など、現代げんだいでも冷泉れいせんかかわる女性じょせいなかでも別格べっかくあつかいをけている。

うたたねやじゅうろく日記にっきなどの阿仏あぶつ作品さくひん源氏物語げんじものがたり影響えいきょうつよけていることはふるくから様々さまざまてんにおいて指摘してきされており、阿仏あぶつ自身じしんもそのむすめ内侍ないしおくった「阿仏あぶつぶん」のなかでもすぐれた女房にょうぼうであることの条件じょうけん古今ここん和歌集わかしゅうしん古今ここん和歌集わかしゅうつうじるとともに「源氏物語げんじものがたりつうじていること」をあげている。ただしこの「阿仏あぶつぶん」については原型げんけい阿仏あぶつ作成さくせいしたとられるものの後世こうせいくわえられたものもあるらしく現在げんざいでは内容ないようことなるいくつかの写本しゃほん存在そんざいしており、この記述きじゅつ存在そんざいしない写本しゃほん存在そんざいする。そのためこの記述きじゅつ阿仏あぶつ自身じしんいたのかどうかについては異論いろん存在そんざいする[4]

ほん写本しゃほん伝来でんらい

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阿仏あぶつによる源氏物語げんじものがたり写本しゃほん存在そんざいすることは、ふるくは『むらさきあきらしょう』・『原中はらなかさいしょう』らにれられている。ただし、ほん写本しゃほん南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代ときよにかけての所在しょざい一切いっさい不明ふめいである。この写本しゃほん伏見ふしみ宮家みやけつたえられていたことから、阿仏あぶつ飛鳥井あすかい雅有まさあり時代じだい伏見天皇ふしみてんのう献上けんじょうされたか、ないしは、のち冷泉れいせん、もしくは飛鳥井あすかいからゆかりの伏見ふしみ宮家みやけ献上けんじょうされのではないかともかんがえられる。

ほん写本しゃほん江戸えど時代じだい以来いらい紀州きしゅう徳川とくがわのもとにあったため「紀州きしゅうほん源氏物語げんじものがたり」・「紀州きしゅう徳川とくがわきゅう蔵本ぞうほん源氏物語げんじものがたりとうともばれていた。21世紀せいきはいってほん写本しゃほん現物げんぶつたいする詳細しょうさい調査ちょうさおこなわれるまでは、ほん写本しゃほん代表だいひょうてき河内かわうちほんとされている尾張おわり徳川とくがわつたえられていた「しゅう河内かわうちほん源氏物語げんじものがたり」などと同様どうように、徳川とくがわ家康いえやすからその死後しご御三家ごさんけゆずわたされたいわゆる「駿河するがゆずるほん」のひとつであるとかんがえられていた。しかしほん写本しゃほんうえけの表書おもてがきによってほん写本しゃほんはもともと伏見ふしみ宮家みやけ伝来でんらいしていたものであり、それが1657ねんあかりれき3ねん伏見ふしみみや貞清さだきよ親王しんのうむすめやすみや照子てるこ紀州きしゅう徳川とくがわだいだい藩主はんしゅ徳川とくがわ光貞みつさだのもとに降嫁こうかしたさい嫁入よめい道具どうぐのひとつとして紀州きしゅう徳川とくがわ持参じさんしたものであることがあきらかになった[5]

ほん写本しゃほん明治めいじ時代じだいはいってからは、紀州きしゅう徳川とくがわ東京とうきょう麻布あざぶ飯倉いいくらもうけたみなみまもる文庫ぶんこなかかれ、研究けんきゅうしゃたいしてもひろ公開こうかいされていた。この時期じき1926ねん大正たいしょう15ねん/昭和しょうわ元年がんねん)とされる)に佐佐木ささき信綱のぶつなおよ武田たけだ祐吉ゆうきちによって活字かつじほん[6]校異こういかたちでの調査ちょうさおこなわれ、いわゆる「武田たけだ校合きょうごうほん」が作成さくせいされたとかんがえられる。山岸やまぎし徳平とくひらはこの「武田たけだ校合きょうごうほん」を三谷みたに栄一えいいちかいして借用しゃくようしたとされ、「山岸やまぎし採録さいろくほん」を作成さくせいしたのち、これをもとにいくつかの研究けんきゅう発表はっぴょうしている。

関東大震災かんとうだいしんさいのちみなみまもる文庫ぶんこ管理かんり困難こんなんになったことひとしからこのとき当主とうしゅである徳川とくがわよりゆきりんによって、この文庫ぶんこふくまれていたほとんどの書籍しょせき東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく寄託きたくされ、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく図書館としょかんみなみあおい文庫ぶんこ所属しょぞくすることになったが、ほん写本しゃほんはそのなかふくまれていなかった。のちあきらかになったところによると、ほん写本しゃほん当時とうじこの文庫ぶんこ司書ししょつとめていた文献ぶんけん学者がくしゃ高木たかぎあや管理かんりにあり、すうさつがサンプルとして、さる研究けんきゅうしゃ武田たけだ祐吉ゆうきちとされる)に貸与たいよされ、返却へんきゃくされたのちはこれらが高木たかぎ所蔵しょぞうとなっていた[7]。そのためほん写本しゃほんは「高木たかぎほん源氏物語げんじものがたり」の名前なまえばれることもある。

その前後ぜんご写本しゃほん本体ほんたいは、1927ねん昭和しょうわ2ねん)4がつ紀州きしゅう所蔵しょぞうひんいち度目どめ売立うりたてさい当時とうじ横浜よこはま在住ざいじゅうで、のち神戸こうべオリエンタルホテル長期間ちょうきかん居住きょじゅうしたことでられる英国えいこくせきインドひと貿易ぼうえきしょうにして、かず時計とけい蒔絵まきえ収集しゅうしゅうのモーデ(Naoroji Hormusji Mody, 1873-1944. 「モディ」ともばれる)のわたった。池田いけだ亀鑑きかんは、モーデは写本しゃほんそのものに興味きょうみがあったのではなく、写本しゃほんはいっていた箪笥たんすばこえがかれた蒔絵まきえ関心かんしんがあったとしるしている。ほん写本しゃほんがモーデのにあった時期じきに、池田いけだ亀鑑きかんはモーデにたいして写本しゃほん調査ちょうさねがたが、手紙てがみしても返事へんじもらえずにいた。ようやく、1930ねん(昭和しょうわ5ねん)に許可きょかられ、松田まつだ武夫たけおともなって、大阪おおさかでの平瀬ひらせほん調査ちょうさ直後ちょくご、そのあし神戸こうべおもむいて面会めんかいもとめたが、モーデの気紛きまぐれから、うこともかなわず、結局けっきょく「きわめて屈辱くつじょくてきあつかいをけたうえ」に、調査ちょうさすることが出来できなかったことを、後年こうねん回想かいそうしている。モーデは、戦時せんじちゅう当局とうきょくによって軟禁なんきん状態じょうたいかれたまま、1944ねん昭和しょうわ19ねん)2がつ死去しきょした。池田いけだ亀鑑きかんはこの写本しゃほんについて、「戦火せんかまぬかれたのだろうか。いまどこにあるのだろうか。」とべている[8]。これにたいして、山岸やまぎし徳平とくひらはこの写本しゃほんを「あるところからいた情報じょうほう」として「大阪おおさか神戸こうべ住友銀行すみともぎんこう倉庫そうこにあるらしい」とべていた[9]が、以降いこうのことは不明ふめいであった。最近さいきん、その詳細しょうさい久保木くぼき秀夫ひでお調査ちょうさによってようやくあきらかとなった[10]久保木くぼきによると、1944ねん昭和しょうわ19ねん)2がつのモーデの死去しきょ敵性てきせい資産しさんとして住友銀行すみともぎんこう管理かんりし、森本もりもと倉庫そうこかれていたが、1945ねん昭和しょうわ20ねん)の神戸大こうべだい空襲くうしゅう灰燼かいじんかえしたであろうと推測すいそくしている。

この「まぼろし写本しゃほん」は、戦後せんごから1990年代ねんだいいたるまで、武田たけだ祐吉ゆうきち三谷みたに栄一えいいち室伏むろふし信助しんすけ伊藤いとう鉃也といったさまざまな学者がくしゃによって、長年ながねんこの写本しゃほん行方ゆくえもとめる努力どりょくつづけられたが、その行方ゆくえあきらかにはなっていなかった。2002ねん平成へいせい14ねん時点じてんでの伊藤いとう鉃也による本文ほんぶん研究けんきゅう論文ろんぶんにも「現在げんざい所在しょざい不明ふめい」との記述きじゅつがある[11]

ところが、それより30ねん以上いじょうまえ1966ねん昭和しょうわ41ねん)5がつ開催かいさいされた古書こしょてん東京とうきょう本郷ほんごう古書こしょてん「琳浪かく書店しょてん」が出品しゅっぴんした帚木まき1じょうのみの源氏物語げんじものがたり写本しゃほんを、当時とうじ東洋大学とうようだいがく教授きょうじゅであった吉田よしだ幸一こういち見出みだしだし、東洋大学とうようだいがく付属ふぞく図書館としょかん購入こうにゅうして、その所蔵しょぞうとした。この「帚木まき1じょうのみの源氏物語げんじものがたり写本しゃほん」こそが、高木たかぎぶん架蔵かぞうとなってなんのがれた、「まぼろし写本しゃほん」たるつて阿仏あぶつほんなかいちさつであった[12]。この写本しゃほん東洋大学とうようだいがく所蔵しょぞうになってあいだもなく、かつて池田いけだ亀鑑きかん門下生もんかせいにして、源氏物語げんじものがたり中心ちゅうしんとした中古ちゅうこ文学ぶんがく専門せんもんであり、どう大学だいがく教授きょうじゅであった石田いしだみのるによる簡単かんたん調査ちょうさ報告ほうこくおこなわれていた[13]ものの、この報告ほうこく掲載けいさいされたのが「図書館としょかんニュース」という基本きほんてき東洋大学とうようだいがく学内がくないでのみ配布はいふされるだけの出版しゅっぱんぶつであったことから「当時とうじ学会がっかい反応はんのうはほとんどかった」という状況じょうきょうであって、一般いっぱん源氏物語げんじものがたり研究けんきゅうしゃにはこののちながられないままであった[14]石田いしだみのるは、時期じきほん写本しゃほん詳細しょうさい調査ちょうさをするつもりであったらしく、そのあきらとおるほん帚木まき本文ほんぶん分析ぶんせきおこなった論文ろんぶん[15]自身じしん論文ろんぶんしゅう収録しゅうろくしたさい付記ふきした後記こうきに「なほ帚木のまきについては、紀州きしゅう徳川とくがわきゅうぞうつて阿仏あぶつひつほん鎌倉かまくら中期ちゅうき写本しゃほん東洋大学とうようだいがくぞう)を調査ちょうさする機会きかいがあった。純度じゅんどたかあお表紙ひょうしほんで、本論ほんろん記述きじゅつ補強ほきょうすべき材料ざいりょうむが、このほん紹介しょうかいべつ機会きかいゆずりたい。」とべている[16]。しかし、石田いしだみのるはその作業さぎょうにとりかかることのないまま、1995ねん平成へいせい7ねん)に東洋大学とうようだいがく退職たいしょくし、2003ねん平成へいせい15ねん)5がつ死去しきょしてしまったため、ほん写本しゃほんは、所蔵しょぞうさきからも、すっかりわすられた存在そんざいになってしまっていたようである。

しかし、1990年代ねんだいなかば、東洋大学とうようだいがく所蔵しょぞうする源氏物語げんじものがたりいち写本しゃほんが、つて阿仏あぶつひつほんであろうことを前提ぜんていとした学会がっかい報告ほうこく上原うえはらさくによってなされるなど、わば「さい発見はっけん」されて以降いこう、ようやくこの写本しゃほんかんする本格ほんかくてき研究けんきゅうはじまったとえる。そのはまはし顕一けんいち大内おおうち英範ひろのり久保木くぼき秀夫ひでおらによって、ほん写本しゃほん伝来でんらい本文ほんぶんについてのきわめて詳細しょうさい研究けんきゅうおこなわれるようになり、源氏物語げんじものがたりしょ本中ほんなか研究けんきゅう進展しんてんもっと顕著けんちょ写本しゃほんとなった。

2008ねん平成へいせい20ねん)、つとむまこと出版しゅっぱんより、オールカラーの影印えいいんならびに翻刻ほんこくほん出版しゅっぱんされている。

現状げんじょう

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現在げんざい写本しゃほん現物げんぶつ自体じたいは帚木まき1じょうのみ東洋大学とうようだいがく付属ふぞく図書館としょかんにあることがあきらかになっており、これについては2008ねん平成へいせい20ねん)11月にオールカラーの精巧せいこう影印えいいん翻刻ほんこくほん出版しゅっぱんされ、その全貌ぜんぼう公開こうかいされた。また、2005ねん平成へいせい17ねん)5がつ刊行かんこうされた『源氏物語げんじものがたりべつほん集成しゅうせい ぞく だい1かん』にも「東洋大学とうようだいがくほん」としてその校異こうい収録しゅうろくされている。 紀州きしゅう徳川とくがわ所蔵しょぞうしていた時点じてんでは54じょうすべそろっていたが、現在げんざいのこりの53じょう存在そんざい確認かくにんされていない。ただし、久保木くぼき秀夫ひでお推定すいていするこう木本もくほんすうじょう現存げんそんする可能かのうせいはある。

また武田たけだ祐吉ゆうきちらが戦前せんぜん写本しゃほん調査ちょうさしたさい金子かねこ元臣もとおみ定本ていほん源氏物語げんじものがたりしんかい』に主要しゅよう校異こういうつった「武田たけだ校合きょうごうほん」がられる(現在げんざい所在しょざい不明ふめい)。ただし、同校どうこう合本がっぽん室伏むろふし信助しんすけうつった「室伏むろふし校合きょうごうほん」が、きりつぼ1じょうのみ現存げんそんし、伊藤いとう鉃也がこれにもとづく本文ほんぶん分析ぶんせきおこなっている[17]

このほか山岸やまぎし徳平とくひらが、「武田たけだ校合きょうごうほん」を三谷みたに栄一えいいちによって転写てんしゃさせた「山岸やまぎし採録さいろくほん」(現在げんざい所在しょざい不明ふめい)を作成さくせいしており、これにもとづいて自身じしん論文ろんぶん[18]や、自身じしん編集へんしゅうたずさわった、島津しまつひさもと対訳たいやく源氏物語げんじものがたり講話こうわだい2かん矢島やじま書房しょぼう1946ねん、『日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけい源氏物語げんじものがたり岩波書店いわなみしょてん1958ねん、において、若干じゃっかんぶんあきらかにしている。ちなみに、東洋大学とうようだいがくぞう帚木まき本文ほんぶんは、山岸やまぎし採録さいろく本文ほんぶんぜん12れいちゅう、11れい一致いっちする。

本文ほんぶん評価ひょうか

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池田いけだ亀鑑きかんは、「この写本しゃほんは、鎌倉かまくら時代じだい学者がくしゃ歌人かじんたち分担ぶんたんしていたもので、非常ひじょうにめずらしい本文ほんぶん系統けいとうのものであった」[19]、「大和やまと大沢おおさわ紀州きしゅう徳川とくがわつたわった写本しゃほんのごときは、多数たすうの『べつほん』をまじえた鎌倉かまくら取合とりあわほんであったが、いまその行方ゆくえらない」[20]しるしている。

武田たけだ校合きょうごうほん」を三谷みたに栄一えいいちによって転写てんしゃさせた「山岸やまぎし採録さいろくほん」によってほん写本しゃほん本文ほんぶん調査ちょうさした山岸やまぎし徳平とくひらは、「あお表紙ひょうしほんはなはちかい」が「あお表紙ひょうしほん河内かわうちほんのいずれにもぞくさない」として陽明ようめい文庫ぶんこほんなら代表だいひょうてきべつほんひとつにげていた[21]。しかしこのとき山岸やまぎし比較ひかく対象たいしょうとした「あお表紙ひょうしほん」とは、純粋じゅんすいあお表紙ひょうしほんではなく河内かわうちほんべつほんからの本文ほんぶん混入こんにゅうられる江戸えど時代じだい版本はんぽんであるみずうみがつしょうであるなど、現在げんざい研究けんきゅう水準すいじゅんからるとそのまま採用さいようするには問題もんだいのある内容ないようではある。

おなじ「武田たけだ校合きょうごうほん」から作成さくせいされた「室伏むろふし校合きょうごうほん」にもとづいてきりつぼじょう本文ほんぶん分析ぶんせきおこなった伊藤いとう鉃也は、このつて阿仏あぶつひつほん本文ほんぶんなか陽明ようめい文庫本ぶんこぼん独自どくじぶんちかいものがいくつかふくまれていることを確認かくにんしており、「あお表紙ひょうしほん河内かわうちほんはもとよりくにふゆほんおもねさと莫本麦生むぎうほん御物ぎょもつほんといったどの主要しゅよう古伝こでんほんけいべつほんくらべても陽明ようめい文庫本ぶんこぼんちかい」としている[22]

これにたい東洋大学とうようだいがく所蔵しょぞうとなった帚木まき調査ちょうさした石田いしだみのるは、ほん写本しゃほん紹介しょうかいしたレポートのなかでその本文ほんぶんを「きわめて純度じゅんどたかあお表紙ひょうしほんである」と評価ひょうかしている。

さらに上原うえはらさくは、東洋大学とうようだいがく所蔵しょぞうの帚木まき1じょうのみの分析ぶんせき結果けっかではあるが、ほん写本しゃほんを「あきらとおる臨模りんもほんよりもさらに純度じゅんどたかあお表紙ひょうしほん原本げんぽんちか写本しゃほんであり、これとくらべると源氏物語げんじものがたり大成たいせい以来いらいあお表紙ひょうしほん系統けいとう写本しゃほんなかさい善本ぜんぽんであるとして底本ていほん使つかわれることのおお大島本おおじまほんなどは精度せいどひく原本げんぽんからはなれた写本しゃほんぎない。」と評価ひょうかしている[23]

翻刻ほんこくほん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • はまはし顕一けんいちでん阿仏あぶつひつ帚木の本文ほんぶんについて」王朝おうちょう物語ものがたり研究けんきゅうかいへん論叢ろんそう源氏物語げんじものがたり 1 本文ほんぶん様相ようそうしんてんしゃ1999ねん平成へいせい11ねん)6がつ、pp.. 127-181。ISBN 4-7879-4916-0
  • 大内おおうち英範ひろのり高木たかぎほん(でん阿仏あぶつひつ帚木まき)の書写しょしゃ方法ほうほう久下くげひろし久保木くぼき秀夫ひでお平安へいあん文学ぶんがくしん研究けんきゅう物語ものがたり古筆切こひつぎれかんがえる』しんてんしゃ2006ねん平成へいせい18ねん)9がつISBN 978-4787927156
  • 大内おおうち英範ひろのり高木たかぎほんでん阿仏あぶつひつ帚木まき)とその本文ほんぶん」(2005ねん平成へいせい17ねん)5がつ 中古ちゅうこ文学ぶんがく 75ごう
  • 松田まつだ武夫たけおおとずれしょたび1973ねん昭和しょうわ48ねん)10がつのち『おとずれしょたびあつまりしょたび日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくかい1988ねん昭和しょうわ63ねん)。
  • 松田まつだ武夫たけおゆめ浮橋うきはし東京大学とうきょうだいがく国語こくご国文こくぶん学会がっかい国語こくご国文学こくぶんがく』34かん2ごう池田いけだ亀鑑きかん博士はかせ追悼ついとうごう)、1957ねん昭和しょうわ32ねん)。
  • 上原うえはらさく「<戦国せんごく時代じだい>の『源氏物語げんじものがたり本文ほんぶん研究けんきゅう」『テーマで源氏物語げんじものがたりろん 2 本文ほんぶん史学しがく展開てんかい言葉ことばをめぐる精査せいさつとむまこと出版しゅっぱん2008ねん平成へいせい20ねん)。ISBN 978-4-585-03187-1
  • 上原うえはらさくまぼろしつてほんをもとめて つて阿仏あぶつとうひつ源氏物語げんじものがたり』とその周辺しゅうへん」『物語ものがたり研究けんきゅうかい会報かいほう』28ごう 物語ものがたり研究けんきゅうかい1997ねん平成へいせい9ねん)8がつ
  • 久保木くぼき秀夫ひでお「『源氏物語げんじものがたり紀州きしゅう徳川とくがわきゅう蔵本ぞうほん行方ゆくえ」『中古ちゅうこ文学ぶんがくだい85ごう2010ねん(平成へいせい22ねん)6がつ、PP..48〜62。
  • 上原うえはらさくでん阿仏あぶつとうひつほん源氏物語げんじものがたり傳來でんらい」『光源氏ひかるげんじ物語ものがたり傳來でんらい武蔵野むさしの書院しょいん2011ねん平成へいせい23ねん)11月、pp…130-141、283‐284。ISBN 978-4-838-60256-8

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 上原うえはらさくあお表紙ひょうしほん源氏物語げんじものがたり原論げんろん あお表紙ひょうしほんけいでんほん本文ほんぶん批判ひはんとその方法ほうほうろんてき課題かだい王朝おうちょう物語ものがたり研究けんきゅうかいへん論叢ろんそう源氏物語げんじものがたり 4 本文ほんぶん表現ひょうげんしんてんしゃ2002ねん平成へいせい14ねん)5がつ、pp.. 17-78。ISBN 4-7879-4923-3 のち『光源氏ひかるげんじ物語ものがたり學藝がくげい みぎしょひだりきん思想しそう翰林かんりん書房しょぼう2005ねん平成へいせい17ねん)5がつ、pp.. 134-179。ISBN 978-4-87737-229-3
  2. ^ 田渕たぶち美子よしこ「『嵯峨さがのかよひ』の阿仏あぶつ」『原典げんてん講読こうどくセミナー6 阿仏あぶつとその時代じだい うたたねがかた中世ちゅうせい臨川りんせん書店しょてん、2000ねん8がつ、pp.. 159-163。ISBN 4-653-03723-X
  3. ^ 田渕たぶち美子よしこ冷泉れいせんおよ大通だいつうてら」『原典げんてん講読こうどくセミナー6 阿仏あぶつとその時代じだい うたたねがかた中世ちゅうせい臨川りんせん書店しょてん2000ねん平成へいせい12ねん)8がつ、pp.. 190-193。ISBN 4-653-03723-X
  4. ^ 田渕たぶち美子よしこ解題かいだい阿仏あぶつぶん』について」『十六夜いざよい日記にっき 阿仏あぶつぶん 白描はくびょう淡彩たんさいにゅう写本しゃほんつとむまこと出版しゅっぱん2009ねん平成へいせい21ねん)3がつ、pp.. 96-99。ISBN 978-4-585-00334-2
  5. ^ 上原うえはらさくでん阿仏あぶつとうひつほん源氏物語げんじものがたり』と本文ほんぶん學藝がくげい紀州きしゅう徳川とくがわきゅう蔵本ぞうほん駿河するがゆずるほんにあらざるのろん」『国文学こくぶんがく 解釈かいしゃく鑑賞かんしょうだい73かんだい5ごう特集とくしゅう・『源氏物語げんじものがたり危機きき彼方かなたに)、至文しぶんどう2008ねん平成へいせい20ねん)5がつ、pp. 94-102。
  6. ^ 金子かねこ元臣もとおみ定本ていほん源氏物語げんじものがたりしんかい明治めいじ書院しょいんうえ1925ねん大正たいしょう14ねん
  7. ^ 高木たかぎあやたまもの書屋しょおく随筆ずいひつ」『書物しょもつ展望てんぼうだい5かんだい8ごうつうごうだい50ごう)、書物しょもつ展望てんぼうしゃ、1935ねん昭和しょうわ10ねん)8がつ、pp. 126-129、久保木くぼき秀夫ひでお「『源氏物語げんじものがたり紀州きしゅう徳川とくがわきゅう蔵本ぞうほん行方ゆくえ」『中古ちゅうこ文学ぶんがくだい85ごう2010ねん平成へいせい22ねん)6がつ、PP. 48-62。
  8. ^ 池田いけだ亀鑑きかんほんのゆくへ」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 1955ねん昭和しょうわ30ねん)8がつ20にちごう日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ。のち『はなる』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ1959ねん昭和しょうわ34ねん)、pp. 61-62。および今西いまにし祐一郎ゆういちろう室伏むろふし信助しんすけ監修かんしゅう上原うえはらさくじん英則ひでのりへん『テーマで源氏物語げんじものがたりろん 2 本文ほんぶん史学しがく展開てんかい 言葉ことばをめぐる精査せいさつとむまこと出版しゅっぱん2008ねん平成へいせい20ねん6月12にち、pp. 36-44。ISBN 978-4-585-03187-1
  9. ^ 山岸やまぎし徳平とくひら源氏物語げんじものがたりしょほん山岸やまぎし徳平とくひらおか一男かずお監修かんしゅう源氏物語げんじものがたり講座こうざ だい8かん有精ゆうせいどう出版しゅっぱん1972ねん昭和しょうわ47ねん)、pp. 1-68。
  10. ^ 久保木くぼき秀夫ひでお「『源氏物語げんじものがたり紀州きしゅう徳川とくがわきゅう蔵本ぞうほん行方ゆくえ」『中古ちゅうこ文学ぶんがくだい85ごう2010ねん(平成へいせい22ねん)6がつ、pp. 48-62.
  11. ^ 伊藤いとう鉃也「主要しゅよう本文ほんぶん関係かんけい資料しりょう略説りゃくせつ でん阿仏あぶつひつほん」『源氏物語げんじものがたり本文ほんぶん研究けんきゅう』おうふう、2002ねん平成へいせい14ねん)11月、p. 438。ISBN 4-273-03262-7
  12. ^ 上原うえはらさくでん阿仏あぶつとうひつほん源氏物語げんじものがたり傳來でんらい」『光源氏ひかるげんじ物語ものがたり傳來でんらい武蔵野むさしの書院しょいん2011ねん(平成へいせい23ねん)11月、pp. 130-141, 283‐284。ISBN 978-4-838-60256-8
  13. ^ 石田いしだみのる貴重きちょうしょから でん阿仏あぶつひつ紀州きしゅう徳川とくがわきゅう蔵本ぞうほん源氏物語げんじものがたり『帚木』(表紙ひょうし写真しゃしんばん解説かいせつ)」東洋大学とうようだいがく図書館としょかん図書館としょかんニュース』だい2ごう1966ねん昭和しょうわ41ねん10がつ10日とおか直接ちょくせつ参照さんしょう以下いかさいろくされたものによる。はまはし顕一けんいちでん阿仏あぶつひつ帚木の本文ほんぶんについて」王朝おうちょう物語ものがたり研究けんきゅうかいへん論叢ろんそう源氏物語げんじものがたり 1 本文ほんぶん様相ようそうしんてんしゃ1999ねん平成へいせい11ねん)6がつ、pp. 127-181ちゅうの127-128。ISBN 4-7879-4916-0
  14. ^ かわおさむ古田ふるた正幸まさゆき解説かいせつ」『阿仏あぶつほんはゝきつとむまこと出版しゅっぱん2008ねん平成へいせい20ねん)11月、pp. 140-146。ISBN 978-4-585-03214-4
  15. ^ 石田いしだみのるあきらとおるほん帚木の本文ほんぶんについて」東洋大学とうようだいがく国語こくご国文こくぶん学会がっかい文学ぶんがくろんだい11ごう1958ねん昭和しょうわ33ねん)5がつ
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  18. ^ 山岸やまぎし徳平とくひら源氏物語げんじものがたりしょほん研究けんきゅう」『国文学こくぶんがく 解釈かいしゃく教材きょうざい研究けんきゅうだい3かんだい5ごう特集とくしゅう 源氏物語げんじものがたりだいさん総合そうごう探求たんきゅう)、がくとうしゃ、1958ねん昭和しょうわ33ねん)5がつ、pp. 24-30。のち『山岸やまぎし徳平とくひら著作ちょさくしゅう 3 (物語ものがたり随筆ずいひつ文学ぶんがく研究けんきゅう)』有精ゆうせいどう1978ねん昭和しょうわ53ねん)および今西いまにし祐一郎ゆういちろう室伏むろふし信助しんすけ監修かんしゅうじょう原作げんさくじん英則ひでのりへん『テーマで源氏物語げんじものがたりろん 2 本文ほんぶん史学しがく展開てんかい 言葉ことばをめぐる精査せいさつとむまこと出版しゅっぱん、2008ねん平成へいせい20ねん)6がつ12にち、pp.. 45-57。ISBN 978-4-585-03187-1
  19. ^ 池田いけだ亀鑑きかんほんのゆくへ」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 1955ねん昭和しょうわ30ねん)8がつ20にちごう日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ。のち『はなる』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ1959ねん昭和しょうわ34ねん)、pp. 61-62。および今西いまにし祐一郎ゆういちろう室伏むろふし信助しんすけ監修かんしゅうじょう原作げんさくじん英則ひでのりへん『テーマで源氏物語げんじものがたりろん 2 本文ほんぶん史学しがく展開てんかい 言葉ことばをめぐる精査せいさつとむまこと出版しゅっぱん2008ねん平成へいせい20ねん6月12にち、pp. 36-44。ISBN 978-4-585-03187-1
  20. ^ 池田いけだ亀鑑きかん源氏物語げんじものがたりべつほん』の性格せいかく」『日本にっぽん文学ぶんがく日本にっぽん文学ぶんがく協会きょうかいだい5かんだい9ごう特集とくしゅう源氏物語げんじものがたり)、1956ねん昭和しょうわ31ねん)9がつ、pp. 21-31。
  21. ^ 山岸やまぎし徳平とくひらしょほん」『日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけい 14 源氏物語げんじものがたり 1』岩波書店いわなみしょてん、1958ねん昭和しょうわ33ねん)1がつ、pp.. 14-16。
  22. ^ 伊藤いとう鉃也「しん資料しりょうでん阿仏あぶつひつほん・「きりつぼ」の位相いそうしつふくこう合本がっぽん検討けんとうとおして」『大阪明浄女子短期大学おおさかめいじょうじょしたんきだいがく紀要きようだい6ごう1991ねん平成へいせい3ねん)12月25にち、pp. 1-14。のち伊藤いとう鉃也『源氏物語げんじものがたり本文ほんぶん研究けんきゅう』おうふう、2002ねん平成へいせい14ねん)11月、pp.. 25-46 とくに「まとめ」p.44。
  23. ^ 上原うえはらさくあお表紙ひょうしほん源氏物語げんじものがたりつてほん本文ほんぶん批判ひはんとその方法ほうほうろんてき課題かだい -帚木まきにおける現行げんこう校訂こうてい本文ほんぶん処置しょち若干じゃっかんれいとして」『中古ちゅうこ文学ぶんがく』55ごう1995ねん平成へいせい7ねん)5がつ

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