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したがえいち麗子れいこほん源氏物語げんじものがたり

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したがえいち麗子れいこほん源氏物語げんじものがたり(じゅいちいれいしほんげんじものがたり)とは、みなもと麗子れいこにより平安へいあん時代じだい末期まっき作成さくせいされたとされる源氏物語げんじものがたり写本しゃほんのことである。麗子れいこほん(れいしほん)や京極きょうごく北政所きたのまんどころほん(きょうごくきたのまんどころほん)とばれることもある。ほん項目こうもくでは昭和しょうわ時代じだい初期しょき発見はっけんされ1945ねん昭和しょうわ20ねん)のだい世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせんどき混乱こんらんうしなわれたほん写本しゃほん転写てんしゃほんられる写本しゃほんについてもべる。

概要がいよう

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したがえいち麗子れいこばれたみなもと麗子れいこにより作成さくせいされた源氏物語げんじものがたり写本しゃほん存在そんざいすることは原中はらなかさいしょうかわうみしょう記述きじゅつがあり、すくなくとも室町むろまち時代ときよ初期しょきまでは存在そんざいしていたとられる。かわうみしょうにはその本文ほんぶん内容ないようについてのいくつかの言及げんきゅうがある。またかわうみしょうとう記述きじゅつれば、この写本しゃほんみなもと光行みつゆきかわ内方ないほうみずからの証本しょうほんである「河内かわうちほん」をつくるにあたって参考さんこうにしたおおくの写本しゃほんなかとく重要じゅうようしていたとされる7つの写本しゃほんのうちのひとつであるとされている。

写本しゃほん巻末かんまつ和歌わか

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なお、ほん写本しゃほん完成かんせいしたときみなもと麗子れいこ写本しゃほん末尾まつびけたとされる以下いかのような和歌わか勅撰ちょくせんしゅうひとつ『しん勅撰ちょくせん和歌集わかしゅう』に採集さいしゅうされてのこっている。

みなもと物語ものがたりきておくけられてはべりぬ

はかもなき とりあととは おもふとも わがすゑヽヽは あわれとをよ」

しん勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうまき7、ざつ2、1199

このうたはこの写本しゃほんが「わがすゑ」すなわち自分じぶん子孫しそんたちにつたえられてくことをんでいる。平安へいあん時代じだいには、さまざまな記録きろくから「物語ものがたり」が無数むすうつくられ、女性じょせい中心ちゅうしんおおくの人々ひとびとひろまれていたことがかっているが、当時とうじ物語ものがたりすうおおくの物語ものがたりされると同時どうじわればてられ、えていく運命うんめいにあるものであり、また更級さらしな日記にっきにおいて著者ちょしゃ菅原孝標女すがわらたかすえのむすめ長年ながねん源氏物語げんじものがたりはじめとするさまざまな物語ものがたり耽溺たんできしていた自分じぶんじているように、当時とうじ物語ものがたり位置いちづけは「おんな子供こども手慰てなぐさみ」・「絵空事えそらごと」といったものでありけっしてたかいものではなかった。それがやがて平安へいあん時代じだい末期まっきには藤原ふじわら俊成としなりによってうたさくで「みなもとざる歌詠うたよ遺恨いこんのことなり」などとして重要じゅうようされ、古典こてん聖典せいてんへつながっていくようになるのであるが、このうたはそれに時代じだいてき先行せんこうして源氏物語げんじものがたり写本しゃほんを「子孫しそんのこすべきもの」とかんがえていることがかるというてん重要じゅうよう証言しょうげんであり、池田いけだ利夫としおはこの写本しゃほんつくられたことは源氏物語げんじものがたり伝播でんぱ様態ようたいなか画期的かっきてきことであるとしている[1]

したがえいち麗子れいこ源氏物語げんじものがたり

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みなもと麗子れいこ1040ねん長久ながひさ元年がんねん)-1114ねん永久えいきゅう2ねん))は平安へいあん時代じだい後期こうき村上むらかみはじめ女性じょせいである。村上むらかみ天皇てんのう具平親王ともひらしんのうまごで、みなもとぼう藤原ふじわら道長みちながじょ尊子たかこむすめであり、藤原ふじわらしん養女ようじょとなって関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわらつまとなり、藤原ふじわらどおりんでいる。同人どうじんは、したがえいちさづけられたことから「したがえいち麗子れいこ」とばれたり、邸宅ていたく所在地しょざいち関白かんぱくつまであったことから「京極きょうごく北政所きたのまんどころ」とばれたりしている。父方ちちかた祖父そふである具平親王ともひらしんのう紫式部むらさきしきぶちち藤原ふじわらためくらいであった時代じだい一時いちじいえをつとめたとされており、母方ははかた祖父そふである藤原ふじわら道長みちながはそのむすめである上東門院じょうとうもんいん藤原ふじわら彰子あきこ女房にょうぼうであった紫式部むらさきしきぶにとっては実質じっしつてきやとぬしであるといえる。さらに伝承でんしょう源氏物語げんじものがたりのおこり」では、麗子れいこから大叔母おおおばにあたるだい斎院さいいんばれたせん内親王ないしんのう紫式部むらさきしきぶ源氏物語げんじものがたりくきっかけになったとされているなど、みなもと麗子れいこ源氏物語げんじものがたり紫式部むらさきしきぶとさまざまなかたちなんじゅうにもつながりを立場たちばにある人物じんぶつである。かわうみしょうとう記述きじゅつによるところの「かわ内方ないほう河内かわうちほんつくるにあたってとく重要じゅうようしていたとされる7つの写本しゃほん」のなかには、このしたがえいち麗子れいこほんほか麗子れいこあにみなもとしゅんぼうほん堀川ほりかわ左大臣さだいじんしゅんぼうほん)や麗子れいこのひまご藤原ふじわらただしどおりほん法性寺ほっしょうじ関白かんぱくほん)がげられている。

ほん写本しゃほん伝来でんらい

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前述ぜんじゅつのように、勅撰ちょくせんしゅうのこ和歌わかによれば、ほん写本しゃほんみなもと麗子れいこがその子孫しそんつたえるためにつくったものであり、実際じっさいみなもと麗子れいこ意図いとしたとおりにそのまま藤原ふじわら摂関せっかん伝来でんらいしたとかんがえられる。鎌倉かまくら時代じだい初期しょきにはみなもとちかしぎょう河内かわちかたによってその証本しょうほんたる現在げんざい河内かわうちほんばれている本文ほんぶんつくるのに参考さんこうにされているが、この時点じてんでこの写本しゃほんだれもとにあったのかはあきらかではない。また池田いけだ亀鑑きかん無名むめい草子ぞうしかれた本文ほんぶんがこのしたがえいち麗子れいこほん系統けいとうであるとかんがえられると指摘してきしている[2]。その室町むろまち時代じだい初期しょきほん写本しゃほんみなもと麗子れいこ藤原ふじわらどおりからかぞえて10代目だいめ子孫しそんにあたる[3]二条にじょう良基よしもと1320ねんもとおう2ねん)-1388ねん南朝なんちょうもとなか5ねん北朝ほくちょうよしみけい2ねん))のもとにあり、同人どうじんからいちせいみなもとである四辻よつつじ善成よしなり1326ねんよしみれき元年がんねん)-1402ねんおうなが9ねん))にゆずわたされたとられる記録きろく存在そんざいする[4]四辻よつつじ善成よしなりはその著作ちょさくかわうみしょう』においてほん写本しゃほん校異こういが4しょげられている。またかわうみしょうには津守つもりこくふゆひつほん源氏物語げんじものがたりきりつぼまきがこのしたがえいち麗子れいこほんもとにしたものであるとの記述きじゅつがある。ただし四辻よつつじ善成よしなりかわうみしょうにおいてげているほん写本しゃほん校異こういきりつぼと帚木の2じょうかぎられるため、このとき四辻よつつじ善成よしなり手許てもとにあったのはこの2じょうだけであろうとかんがえられている[5]。さらに『類聚るいじゅうしょう』の記事きじによれば四辻よつつじ善成よしなりはもともといちじょう伝来でんらいしていた「京極きょうごく北政所きたのまんどころ自筆じひつ水源すいげん小巻こまき帚木いちかん」を二条にじょう良基よしもとからって手許てもといていたが、1397ねんおうなが4ねん)9がつ24にち二条にじょう良基よしもと一条いちじょうけい1358ねん南朝なんちょう正平しょうへい13ねん北朝ほくちょうのべぶん3ねん) - 1418ねんおうなが25ねん))に源氏物語げんじものがたり講義こうぎをしたさい返却へんきゃくしたとの記録きろくがあり、「水源すいげん」とばれていることから現在げんざいではうしなわれてしまったかわ内方ないほう注釈ちゅうしゃくしょ水原みずはらしょう」のことであると理解りかいされることのおおかったこの記事きじについて、小川おがわ剛生たけおは「ほん写本しゃほんしたがえいち麗子れいこほん』の伝来でんらいについての記録きろくであろう」としている[6]一条いちじょうけい嗣のまごにあたる[7]奈良なら興福寺こうふくじ大乗だいじょういん門跡もんぜきであったひろみこと大僧正だいそうじょう1430ねんえいとおる2ねん)-1508ねんえいただし5ねん))は、その日記にっきひろ尊大そんだい僧正そうじょう[8]1478ねん文明ぶんめい10ねん)7がつ28にちじょうにおいて、源氏物語げんじものがたりについて、源氏物語げんじものがたりのおこり主要しゅようつてほん主要しゅよう注釈ちゅうしゃくしょ源氏物語げんじものがたりまきじょとしりつなどについてれているが、主要しゅようつてほんについてれているなかでこのしたがえいち麗子れいこほんを「一条いちじょう相伝そうでんほんである」としている[9]。ただ、ひろみこときしているようにほん写本しゃほんが「一条いちじょう相伝そうでんほんである」ことが事実じじつであったとしても、それがいつ時点じてんのことをしているのか(またはいつまでのことをしているのか)はあきらかでなく、1467ねん応仁おうにん元年がんねん)に応仁おうにんらん勃発ぼっぱつしてまもなくいちじょう室町むろまちにあった一条いちじょう邸宅ていたくとその書庫しょこももはなぼう文庫ぶんこ」が焼失しょうしつしており、その二条にじょう良基よしもとさん代目だいめ子孫しそんでありひろみことちちである一条いちじょう兼良かねら1402ねんおうなが9ねん)-1481ねん文明ぶんめい13ねん))が奈良なら居住きょじゅうしていた息子むすこひろみことのもとにせてからあらわした源氏物語げんじものがたり注釈ちゅうしゃくしょ花鳥かちょう余情よじょう』においては「定家さだいえきょうほん」・「くだりのう自筆じひつおやぎょうほん」・「為相ためすけきょうほん」といった写本しゃほんれていながらこの「したがえいち麗子れいこほん」についてはれていないため、ほん写本しゃほん応仁おうにんらん戦火せんかなかうしなわれたのであり、ひろみことう「一条いちじょう相伝そうでんほんである」とはこれがしるされた時点じてんのことではなく、かつてほん写本しゃほん存在そんざいしたころのことをべているとする見方みかたもある。そしてこれ以降いこうのこの写本しゃほん動向どうこうしめ記録きろく発見はっけんされていない[10]

ほん写本しゃほん転写てんしゃほん

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昭和しょうわ初期しょきになってほん写本しゃほん転写てんしゃほんられる写本しゃほん出現しゅつげんした[11]当時とうじ東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく国文学こくぶんがく専攻せんこうする学生がくせいであり、戦後せんごきた小路しょうじけん筆名ひつめい国文学こくぶんがくしゃ古文書こもんじょ学者がくしゃとして活動かつどうすることになる渡部わたなべさかえが、同人どうじんちち渡部わたなべきよしもと1932ねん昭和しょうわ7ねん)9がつ大連たいれん死去しきょしその葬儀そうぎえたころに、ちち世話せわになったとする人物じんぶつから、「京都きょうとふるくからちゃしょういとなんでいた自分じぶんいえ代々だいだい家宝かほうとしてつたえられてきた源氏物語げんじものがたり写本しゃほん」を世話せわになったおれいとして同人どうじん母親ははおやわたし、それを同年どうねん年末ねんまつ帰省きせいした渡部わたなべさかえった[12]渡部わたなべさかえはこのような経緯けいいはいったほん写本しゃほんを「父親ちちおや形見かたみである」として、全文ぜんぶん翻刻ほんこくふく詳細しょうさい研究けんきゅう成果せいか発表はっぴょう目指めざして研究けんきゅうしていたとしている。その写本しゃほん箱入はこいりの写本しゃほん源氏物語げんじものがたり54じょうそろっている室町むろまち時代じだい書写しょしゃられる形態けいたいっていた。その写本しゃほん巻末かんまつにはその写本しゃほんしたがえいち麗子れいこほんからの転写てんしゃほんであるむね上記じょうき和歌わかとともに記載きさいされていた。またその写本しゃほん筆跡ひっせきは、前後ぜんごする時期じき渡部わたなべさかえ書店しょてんから購入こうにゅうした中山なかやませんおや1458ねん長禄ちょうろく2ねん)-1517ねんえいただし14ねん))の筆写ひっしゃ鑑定かんていされていた写本しゃほんのものにていたという。そとばこなか写本しゃほんども部分ぶぶんてきけたあとがあったものの中身なかみだい部分ぶぶんることが可能かのうであったとしている。結局けっきょく渡部わたなべさかえ自身じしん東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく卒業そつぎょうする前年ぜんねんの(昭和しょうわ11ねん)11月に母親ははおやした資金しきんによって自費じひ出版しゅっぱんかたちほん写本しゃほん概要がいよう本文ほんぶんちゅう特徴とくちょうてき文言もんごんげてあお表紙ひょうしほん河内かわうちほん比較ひかくした、あお表紙ひょうしほん河内かわうちほんおおきくことなるため源氏物語げんじものがたり写本しゃほんるときはずここをるとされるきりつぼまきの「だいえき芙蓉ふよう未央柳びようやなぎ」の一節いっせつ部分ぶぶんゆめ浮橋うきはし巻末かんまつしたがえいち麗子れいこ和歌わか部分ぶぶんの2まい写真しゃしんりの研究けんきゅう論文ろんぶん源氏物語げんじものがたりしたがえいち麗子れいこほん研究けんきゅう』を出版しゅっぱんすることになった[13]当時とうじ同人どうじん大学だいがく卒業そつぎょうしたら大学生だいがくせいみとめられていた徴兵ちょうへい猶予ゆうよされて召集しょうしゅうされることはほぼ確実かくじつであり、当時とうじにちちゅう関係かんけい緊迫きんぱくしていた時期じきであったため、入隊にゅうたいすれば戦場せんじょうおくられる可能かのうせいたかく、そうなれば戦死せんししてしまう可能かのうせいすくなくかったためにいそいでその時点じてんまでの研究けんきゅう成果せいか公表こうひょうしたのであるが、結局けっきょく同人どうじん入隊にゅうたい直後ちょくご持病じびょうつかったため戦地せんちおくられることはなくすぐに除隊じょたいとなった[14]。その渡部わたなべさかえ終戦しゅうせんにはしんきょう現在げんざい長春ちょうしゅん)において、満州まんしゅう政府せいふ外郭がいかく団体だんたいである満州まんしゅう出版しゅっぱん協会きょうかい所属しょぞく審査しんさ機関きかんである満州まんしゅう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ研究けんきゅういんとしてつとめていたが、終戦しゅうせん、1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ23にち自宅じたくんできたロシアへいから、「ここをロシアぐん将校しょうこう宿舎しゅくしゃとするからいまから2時間じかん以内いない退去たいきょせよ」とわれ、その混乱こんらんなか和書わしょ7せんさつふくむ1まん3せんさつにもなる蔵書ぞうしょのほぼすべてをはらわれ、その財産ざいさんすべうしない、とく大事だいじにしていたほん写本しゃほん中山なかやません親筆しんぴつとされるほんふたつの源氏物語げんじものがたり写本しゃほんについても、このときはなにとかのこすことに成功せいこうし、中国ちゅうごくにとどまっていたあいだ手元てもといていたものの、翌年よくねん1がつ日本にっぽんへのにはどうしてもすことが出来できず、満州まんしゅう文化ぶんか研究所けんきゅうじょにおいて渡部わたなべさかえ同僚どうりょう研究けんきゅういんであったおうおもんみあかりなる人物じんぶつが、戦後せんごよん馬路まじ書店しょてんひらこうとしておりほん写本しゃほんしがったので同人どうじんあづけて日本にっぽん帰国きこくしたとしている[15]渡部わたなべ再度さいどにちちゅうあいだ自由じゆう往来おうらいできるようになったにちちゅう国交こっこう回復かいふくのち1981ねん昭和しょうわ56ねん)12月から翌年よくねん1がつにかけて満州まんしゅう写真しゃしんしゅう出版しゅっぱんするための取材しゅざいのために写真しゃしんである息子むすこ渡部わたなべまなぶとともに中国ちゅうごくおもむき、そのさい時間じかんゆるかぎほん写本しゃほんさがもとめたが、その行方ゆくえっているとおもわれるおうおもんみあかり所在しょざいあきらかにはならず、町中まちなか書店しょてんさがまわったがほん写本しゃほん発見はっけんすることは出来できなかったという[16][17]。このような経緯けいいほん写本しゃほん渡部わたなべさかえ以外いがい研究けんきゅうしゃれることがないままにうしなわれてしまった[18]。『源氏物語げんじものがたりしたがえいち麗子れいこほん研究けんきゅう』が出版しゅっぱんされてまもないころ、のちに「校異こうい源氏物語げんじものがたりおよび「源氏物語げんじものがたり大成たいせい」に結実けつじつすることになる源氏物語げんじものがたり本文ほんぶん調査ちょうさおこなっていた池田いけだ亀鑑きかんらのグループの研究けんきゅうしゃほん写本しゃほん調査ちょうさ渡部わたなべさかえねがったがつよ拒否きょひされ調査ちょうさすることが出来できなかったためほん写本しゃほん実在じつざいやその内容ないよう疑問ぎもんする意見いけんもあったという[19]。また国文学研究資料館こくぶんがくけんきゅうしりょうかん館長かんちょう伊井いい春樹はるきもと東北とうほく師範しはん大学だいがく教授きょうじゅりょ元明もとあきなど中国ちゅうごく源氏物語げんじものがたり研究けんきゅうしゃ何人なんにんかにほん写本しゃほんのことをつたえて調査ちょうさ依頼いらいし、興味きょうみって調査ちょうさおこなったもの何人なんにんかいたがいまのところほん写本しゃほん所在しょざいつながる情報じょうほうられていないという[20]

本文ほんぶん

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かわうみしょうにおいてきりつぼじょうおよ帚木じょうにおいてけい4ヶ所かしょげられているほん写本しゃほん本文ほんぶんとされるものは、ほん写本しゃほん河内かわうちほんともあお表紙ひょうしほんともことなる系統けいとう本文ほんぶんっており、陽明ようめい文庫本ぶんこぼんでん阿仏あぶつひつほんくにふゆほんおよ無名むめい草子ぞうしところ引本といったものと一致いっちしている[21]

また渡部わたなべさかえは、著書ちょしょ源氏物語げんじものがたりしたがえいち麗子れいこほん研究けんきゅう』において、きりつぼまきからはしひめまきまでについて、どう写本しゃほんふくまれるおおくのぶんしめしてあお表紙ひょうしほん[22]河内かわうちほんしゅう河内かわちほん)との異同いどう調しらべ、まきによって、

  • あお表紙ひょうしほんちか本文ほんぶんまき蓬生よもぎう玉鬘たまかずら(「みずうみがつ抄本しょうほんまった一致いっちしている」としている。)・胡蝶こちょうなど)
  • 河内かわうちほんちか本文ほんぶんまき紅葉こうよう朝顔あさがお(「河内かわうちほんまった一致いっちしている」としている。)・はしひめなど)
  • あお表紙ひょうしほん河内かわうちほんのどちらともことなる本文ほんぶんまき松風まつかぜけん澪標みおつくしなど)

があり、写本しゃほん全体ぜんたいとしては「あお表紙ひょうしほんでも河内かわうちほんでも本文ほんぶんっている」[23]としている。なお、このようにほん写本しゃほんあお表紙ひょうしほん河内かわうちほん一致いっちするまきがあることについて、池田いけだ亀鑑きかんほん写本しゃほんすべしたがえいち麗子れいこほん転写てんしゃしたのではなくあお表紙ひょうしほん河内かわうちほん転写てんしゃしたまきふくわせほんなのではないかとしている[24]山岸やまぎし徳平とくひらほん写本しゃほん大筋おおすじ河内かわうちほんちかかったのではないかとしている[25]

伊藤いとう鉃也源氏物語げんじものがたり大成たいせい源氏物語げんじものがたりべつほん集成しゅうせい成果せいかまえて渡部わたなべさかえが『源氏物語げんじものがたりしたがえいち麗子れいこほん研究けんきゅう』においてしめしたぶん調査ちょうさし、そこにしめされた数々かずかずぶんは、鎌倉かまくら時代じだい本文ほんぶんつたえるとされる陽明ようめい文庫本ぶんこぼんでん阿仏あぶつひつほんくにふゆほん保坂ほさかほんちか本文ほんぶんつ、いわゆる古伝こでんほんけいべつほんぞくする研究けんきゅう史上しじょう大変たいへん重要じゅうようなものであると結論けつろんづけている[26][27]

上原うえはらさく平安へいあん時代じだい源氏物語げんじものがたり本文ほんぶんでんりゅうなか古伝こでんほんけいべつほんぐんひとつとしてあお表紙ひょうしほん河内かわうちほん成立せいりつする以前いぜん存在そんざいした「摂関せっかん伝来でんらいほんぐん」の存在そんざい想定そうていしており、ほん写本しゃほんはそのなかこころまたはそうでないとしてもそれにちかいところにある写本しゃほんであるとかんがえられるとしている[28]

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 渡部わたなべさかえ源氏物語げんじものがたりしたがえいち麗子れいこほん研究けんきゅう大道だいどうしゃ、1936ねん昭和しょうわ11ねん)11月。のち『源氏物語げんじものがたり研究けんきゅう叢書そうしょだい6かん』クレス出版しゅっぱん、1997ねん平成へいせい9ねん)5がつ
  • きた小路しょうじけん古文書こもんじょ面白おもしろさ』新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう選書せんしょ〉、1984ねん昭和しょうわ59ねん)11月。ISBN 978-4-10-600276-2

外部がいぶリンク

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 池田いけだ利夫としお源氏物語げんじものがたり書写しょしゃ黎明れいめい」『源氏物語げんじものがたり回廊かいろう 笠間かさま書院しょいん、2010ねん平成へいせい22ねん)1がつ、pp.. 3-14。 ISBN 978-4-305-70495-5.
  2. ^ 池田いけだ亀鑑きかんしたがえいち麗子れいこ源氏物語げんじものがたり」『池田いけだ亀鑑きかん選集せんしゅう 物語ものがたり文学ぶんがく II』至文しぶんどう、1969ねん昭和しょうわ44ねん)、pp.. 99-101。
  3. ^ 藤原ふじわらどおり-藤原ふじわら忠実ちゅうじつ-藤原ふじわらただしどおり-九条くじょうけん-九条くじょうりょうけい-九条くじょう道家どうか-二条にじょうりょう-じょうただし-じょう兼基かねもと-じょう道平どうたいら-二条にじょう良基よしもと
  4. ^ 小川おがわ剛生たけお四辻よつつじ善成よしなり生涯しょうがい 源氏げんじ学者がくしゃとしての善成よしなり(1)」『二条にじょう良基よしもと研究けんきゅう笠間かさま叢書そうしょ笠間かさま書院しょいん、2005ねん平成へいせい17ねん)11月、pp.. 563-566。 ISBN 978-4-305-10362-8
  5. ^ 池田いけだ亀鑑きかんみなもとしゅんぼうしたがえいち麗子れいこ源氏物語げんじものがたりつてりゅう」『源氏物語げんじものがたり大成たいせい 研究けんきゅうへん普及ふきゅうばん)』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、1885ねん昭和しょうわ60ねん)9がつ、pp.. 12-14。 ISBN 4-1240-2482-7
  6. ^ 小川おがわ剛生たけお四辻よつつじ善成よしなり生涯しょうがい ろく 源氏げんじ学者がくしゃとしての善成よしなり(2)」『二条にじょう良基よしもと研究けんきゅう笠間かさま叢書そうしょ362、笠間かさま書院しょいん、2005ねん平成へいせい17ねん)11月、pp.. 566-568。 ISBN 4-305-10362-1
  7. ^ 一条いちじょうけい-一条いちじょう兼良かねら-ひろみこと
  8. ^ 現在げんざい大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ』にふくまれるかたちのこっている。
  9. ^ 竹内たけうちさんへんぞく史料しりょう大成たいせい. だい31かん 大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ. 6 文明ぶんめい6ねん7がつ文明ぶんめい11ねん3がつ臨川りんせん書店しょてん、1978ねん6がつ、pp.. 444-450。 ISBN 4-653-00478-1つじ善之助ぜんのすけへん さん教書きょうしょいん1933年刊ねんかん複製ふくせい
  10. ^ 池田いけだ利夫としお源氏物語げんじものがたり写本しゃほん 麗子れいこほんつてりゅう定家さだいえ光行みつゆき秋山あきやまけん別冊べっさつ国文学こくぶんがく No.36 源氏物語げんじものがたり事典じてんがくとうしゃ、1989ねん平成へいせい元年がんねん)5がつ、pp.. 362-364。
  11. ^ しょほん解題かいだい 渡部わたなべぞうしたがえいち麗子れいこほん源氏物語げんじものがたり池田いけだ亀鑑きかんへん合本がっぽん 源氏物語げんじものがたり事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1987ねん昭和しょうわ62ねん)3がつ15にち下巻げかんp. 147。 ISBN 4-4901-0223-2
  12. ^ きた小路しょうじけん古文書こもんじょへの接近せっきん」『古文書こもんじょ面白おもしろさ』pp.. 15-24
  13. ^ きた小路しょうじけんあたらしいみち」『古文書こもんじょ面白おもしろさ』pp.. 29-40
  14. ^ きた小路しょうじけん虎口ここうのがれて」『古文書こもんじょ面白おもしろさ』pp.. 40-44
  15. ^ きた小路しょうじけん南下のうげゆき大連たいれんへのみち)」『古文書こもんじょ面白おもしろさ』pp.. 110-131
  16. ^ きた小路しょうじけん「『流離譚りゅうりたん』とともに」『古文書こもんじょ面白おもしろさ』pp.. 255-267
  17. ^ きた小路しょうじけん「あるたしかめ」『新潮しんちょう』1982ねん昭和しょうわ57ねん)4がつごう、pp.. 196-197。
  18. ^ 日向ひゅうが一雅かずまさ解題かいだい」『源氏物語げんじものがたり研究けんきゅう叢書そうしょ だい6かん 渡部わたなべさかえ 源氏物語げんじものがたりしたがえいち麗子れいこほん研究けんきゅう』クレス出版しゅっぱん、1997ねん平成へいせい9ねん)5がつ、pp.. 3-4。
  19. ^ 池田いけだ利夫としお源氏物語げんじものがたり書写しょしゃ黎明れいめい 付記ふき」『源氏物語げんじものがたり回廊かいろう笠間かさま書院しょいん、2010ねん平成へいせい22ねん)1がつ、p. 14。 ISBN 978-4-305-70495-5
  20. ^ 中国ちゅうごくにあるか?『源氏物語げんじものがたり』の写本しゃほん
  21. ^ 寺本てらもと直彦なおひこ源氏物語げんじものがたりつてりゅう」『源氏物語げんじものがたり受容じゅよう論考ろんこう 続編ぞくへん風間かざま書房しょぼう、1984ねん昭和しょうわ59ねん)1がつ、pp.. 124-151。
  22. ^ ここで比較ひかくされているのは当時とうじ流布るふほんといえる江戸えど時代じだい版本はんぽんであるみずうみがつしょう本文ほんぶん
  23. ^ 当時とうじ池田いけだ亀鑑きかん校異こうい源氏物語げんじものがたり完成かんせいさせるまえであり、べつほんという用語ようごはまだかった。
  24. ^ 池田いけだ亀鑑きかんみなもとしゅんぼうしたがえいち麗子れいこ源氏物語げんじものがたりつてりゅう」『源氏物語げんじものがたり大成たいせい 研究けんきゅうへん普及ふきゅうばん)』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、1985ねん昭和しょうわ60ねん)9がつ、pp.. 12-14。 ISBN 4-1240-2482-7
  25. ^ 山岸やまぎし徳平とくひら源氏物語げんじものがたりしょほん山岸やまぎし徳平とくひらおか一男かずお監修かんしゅう源氏物語げんじものがたり講座こうざ だい8かん しょほんはらいずみ影響えいきょう研究けんきゅう有精ゆうせいどう、1972ねん昭和しょうわ47ねん)3がつ、pp.. 1-68。
  26. ^ 伊藤いとう鉃也「「きりつぼ」のだいてき本文ほんぶん資料しりょう集成しゅうせいでん阿仏あぶつひつほんつて慈鎮ひつほんしたがえいち麗子れいこほん源氏げんじしゃく抄出しょうしゅつほん」『源氏物語げんじものがたり研究けんきゅうだい3ごう、1993ねん平成へいせい5ねん)10がつ。 のち『源氏物語げんじものがたり本文ほんぶん研究けんきゅう』おうふう、2002ねん平成へいせい14ねん)11月、oo.. 363-410。 ISBN 978-4-273-03262-3
  27. ^ 伊藤いとう鉃也「「きりつぼまきにおけるべつほんぐん位相いそう きりつぼみかど描写びょうしゃ中心ちゅうしんとして」『中古ちゅうこ文学ぶんがくだい50ごうちゅう古文こぶん学会がっかい、1992ねん平成へいせい4ねん)11月。 のち『源氏物語げんじものがたり本文ほんぶん研究けんきゅう』おうふう、2002ねん平成へいせい14ねん)11月、pp.. 47-72。 ISBN 978-4-273-03262-3
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