(Translated by https://www.hiragana.jp/)
更級日記 - Wikipedia コンテンツにスキップ

更級さらしな日記にっき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原ふじわら定家さだいえ書写しょしゃ、80ちょう

更級さらしな日記にっき』(さらしなにっき / さらしなのにき)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきごろかれた回想かいそうろく作者さくしゃ菅原すがわら道真みちざねの5せいまごにあたる菅原すがわらたかししるべ次女じじょ菅原孝標女すがわらたかすえのむすめはは異母いぼあねは『蜻蛉とんぼ日記にっき』の作者さくしゃ藤原道綱母ふじわらのみちつなのははである。おっとかなしんでいたといわれている。作者さくしゃ13さいかぞどし)の寛仁かんじん4ねん1020ねん)から、52さいごろ康平こうへい2ねん1059ねん)までのやく40年間ねんかんつづられている。ぜん1かん。『蜻蛉とんぼ日記にっき』『紫式部むらさきしきぶ日記にっき』などとなら平安へいあん女流じょりゅう日記にっき文学ぶんがく代表だいひょうさくいちかぞえられる[1]江戸えど時代じだいにはひろ流通りゅうつうしてまれた。

内容ないよう[編集へんしゅう]

東国とうごく上総かずさ国府こくふ市原いちはらぐん、(現在げんざい千葉ちばけん市原いちはら)にあったとかんがえられている[1])に任官にんかんしていたちち菅原すがわらたかししるべ任期にんき終了しゅうりょうしたことにより、寛仁かんじん4ねん(1020ねん)9がつ上総かずさからきょう現在げんざい京都きょうと)へ帰国きこく上京じょうきょう)するところから起筆きひつする。『源氏物語げんじものがたり』をみふけり、物語ものがたり世界せかい憧憬どうけいしながらごした少女しょうじょ時代じだい度重たびかさなる身内みうち死去しきょによってきびしい現実げんじつ祐子ゆうこ内親王ないしんのういえへの出仕しゅっし、30だいでのたちばなしゅんどおりとの結婚けっこんなかしゅんらの出産しゅっさんおっと単身たんしん赴任ふにんそして康平こうへい元年がんねんあきおっと病死びょうしなどをて、子供こどもたちが巣立すだったのち孤独こどくなか次第しだいふかまった仏教ぶっきょう傾倒けいとうまでが平明へいめい文体ぶんたいえがかれている。執筆しっぴつ形態けいたいとしてはまとめていたのだろうとわれている。

源氏物語げんじものがたり』についてもっとはや時期じきから言及げんきゅうしていたとされ、貴重きちょう資料しりょうとなっている。『光源氏ひかるげんじ物語ものがたりほんこと』につたえられる、定家さだいえほんにはない逸文いつぶんからはばれる、おそらく注釈ちゅうしゃくしょのようなものの存在そんざいられる。

書名しょめい[編集へんしゅう]

書名しょめいの「更級さらしな」(更科さらしな)は、作中さくちゅうの「つきででやみにくれたる姨捨おばすてになにとて今宵こよいたづねつらむ」のうたが、『古今ここん和歌集わかしゅう』のいちしゅ「わがしんなぐさめかねつ更級さらしな姨捨山おばすてやまつきて(雑歌ぞうかじょうよみじんしらず)」を本歌ほんかしていることに由来ゆらいするとわれている。作中さくちゅうに「更級さらしな」の文言もんごんい。

御物ぎょもつほん後述こうじゅつ)の外題げだいに「更級さらしな日記にっき」とあるが、それ以前いぜんだいがあったかどうかは不明ふめいである。

写本しゃほん錯簡さっかん[編集へんしゅう]

東山ひがしやま文庫ぶんこつたえられてきた 藤原ふじわら定家さだいえによる写本しゃほん通称つうしょう御物ぎょぶつほん」が現存げんそんする。現存げんそんする写本しゃほんすべ御物ぎょもつほん系統けいとうである。すなわち異本いほんるい一切いっさいなく、そのてんにおいて例外れいがいてき古典こてんである。一方いっぽう以下いかくように、定家さだいえ以前いぜんにも一部いちぶ(もしくは全体ぜんたい)がうつされたことがあり、断片だんぺんてきには定家さだいえほん以外いがいのテキストもられる。

いつしか御物ぎょもつほん順序じゅんじょあやまってじられていて(錯簡さっかん)、写本しゃほんすべて、この錯簡さっかんふく御物ぎょもつほん由来ゆらいしていたためただしい順番じゅんばんむことは困難こんなんだったが、大正たいしょう13ねん1924ねん)の御物ぎょもつほん発見はっけんつづき、佐佐木ささき信綱のぶつな玉井たまいみゆきすけによって錯簡さっかん発見はっけんおよび整理せいり訂正ていせいされ、それ以降いこうただしくめるようになった。 

文学ぶんがくてき位置いち評価ひょうか[編集へんしゅう]

作者さくしゃこうしるべおんな平安へいあん文化ぶんか全盛期ぜんせいきせいけ、成長せいちょうとともに平安朝へいあんちょう栄華えいがすこしずつくずれてゆくのを経験けいけんしており、時代じだいてきにも個人こじんてきにも少女しょうじょ時代じだい一番いちばんかったことになる。その少女しょうじょ時代じだいおも感傷かんしょうなみだながし、わびしい自己じこささえているというおもむきのため、この日記にっきまさ時代じだい動向どうこう反映はんえいしているといえる。このてん平安へいあん全盛期ぜんせいき最中さいちゅうり、作者さくしゃ生涯しょうがいしるしていることで『更級さらしな日記にっき』と共通きょうつうする『蜻蛉とんぼ日記にっき』と比較ひかくしておおきなちがいがられる。りょう日記にっき結末けつまつ比較ひかくしてみると、『蜻蛉とんぼ日記にっき』は自分じぶん運命うんめいって不可抗力ふかこうりょく無言むごんはいっているのにたいし、『更級さらしな日記にっき』は人生じんせい寂寥せきりょうしのび、すこしばかり神秘しんぴてき境地きょうちいているとえる。描写びょうしゃというてんで、『蜻蛉とんぼ日記にっき』はかなり写実しゃじつてきであり、写実しゃじつてっして象徴しょうちょうはいっているところえるが、『更級さらしな日記にっき』はまったくの印象いんしょう描写びょうしゃである。もし『更級さらしな日記にっき』にロマン精神せいしんみとめられ、現実げんじつ彼方かなた永遠えいえん思慕しぼをよせているとするならば、思慕しぼ方向ほうこうは、これから創造そうぞうされるものへの期待きたいという前向まえむきではなく、過去かこ彼方かなたへの愛惜あいせきという、うしきの感傷かんしょうということになる[2]

現代げんだいにおけるもういちめん評価ひょうかとして、冒頭ぼうとうぶんいちほどをめる「上洛じょうらく」におけるたび描写びょうしゃが、ふとし日川にっかわ江戸川えどがわ渡河とか太平洋たいへいようとつながる水路すいろこんきり」ができるまえ浜名湖はまなこなどの様子ようすをうかがえる歴史れきし地理ちりがく交通こうつう研究けんきゅう寄与きよしている[1]

菅原孝標女すがわらたかすえのむすめまれそだった上総かずさ国府こくふがあったと推定すいていされる千葉ちばけん市原いちはらなどは、旅立たびだちの旧暦きゅうれき9月3にち現在げんざいこよみで9がつ22にち)から1000ねんとなる2020ねん9がつ~10がつ、イベントや記念きねん行事ぎょうじ展開てんかいした[3]

外国がいこくやく[編集へんしゅう]

2019ねん11月、ペルー日系にっけいじん協会きょうかい出版しゅっぱん基金ききんより、Hiroko Izumi ShimonoとIvan Pinto Romanによる、日本にっぽん古典こてんから直接ちょくせつスペイン翻訳ほんやくされた、El diario de Sarashina(更科さらしな日記にっき。ISBN:978-612-4397-04-2)が出版しゅっぱんされた。挿絵さしえには、国宝こくほう粉河寺こかわでら縁起えんぎ絵巻えまき」などがもちいられ大変たいへんうつくしいほんである。

構成こうせい[編集へんしゅう]

  1. 上洛じょうらく
  2. 家居かきょ
  3. 宮仕みやづかえの
  4. 物詣ものもうででの
  5. 晩年ばんねん
  • 門出かどで
  • たけしばてら
  • 足柄あしがらやま
  • 富士ふじかわ
  • うめえだ
  • 物語ものがたり
  • 大納言だいなごん姫君ひめぎみ
  • 野邊のべ笹原ささはら
  • ひがしよりたり
  • にんもり
  • かがみかげ
  • 宮仕みやづかえ
  • 春秋しゅんじゅうのさだめ
  • 初瀬はつせ
  • おっと
  • たの

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 更級さらしな日記にっき東国とうごく史料しりょうに1000ねんまえたび記録きろくひかり」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん2020ねん9がつ30にち文化ぶんかめん)2020ねん10がつ10日とおか閲覧えつらん
  2. ^ 西下さいかけいいちこうちゅう更級さらしな日記にっき』(岩波いわなみ文庫ぶんこ解説かいせつ p88〜90
  3. ^ 更級さらしな日記にっき 千年紀せんねんき2020/イベント情報じょうほう市原いちはら教育きょういく委員いいんかいふるさと文化ぶんか)2020ねん10がつ10日とおか閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]