歴史れきし地理ちりがく

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歴史れきし地理ちりがく(れきしちりがく、英語えいご: historical geography)は、過去かこ環境かんきょう景観けいかん地域ちいき空間くうかんなどを研究けんきゅう対象たいしょうとする、地理ちりがくいち分野ぶんやである[1]

概説がいせつ[編集へんしゅう]

歴史れきし地理ちりがくは、過去かこ景観けいかん復原ふくげんし、その空間くうかんパターンを分析ぶんせきしたり、過去かこ産業さんぎょう交通こうつうのありかた考察こうさつするなど、地理ちりがく歴史れきし研究けんきゅう双方そうほう方法ほうほうろんもちいる学問がくもんである。その研究けんきゅう領域りょういき文献ぶんけん史学しがく考古学こうこがくなどともかさなるが、それらが過去かこ社会しゃかい文化ぶんか解明かいめい目指めざすのにたいし、歴史れきし地理ちりがく歴史れきしてき事象じしょう分析ぶんせきつうじて、過去かこにおける空間くうかん構造こうぞう人間にんげん社会しゃかい環境かんきょうとの相互そうご関係かんけいあきらかにすることを目標もくひょうとする[2]。こうした研究けんきゅうは、かつては歴史れきしがくいち分野ぶんやともとらえられていたが、20世紀せいきになってドイツフランスなどで歴史れきしてき景観けいかん変遷へんせん地理ちりがくにおいてさかんとなり、地理ちりがく下位かい分野ぶんやとしての歴史れきし地理ちりがく成立せいりつした。

伝統でんとうてきには過去かこ景観けいかん復原ふくげんおこな研究けんきゅう主流しゅりゅうであったが、1970年代ねんだい以降いこうには地理ちりがくにおいて人間にんげん空間くうかん認知にんち表象ひょうしょうへの関心かんしんたかまったことをけ、歴史れきし地理ちりがくにも人間にんげん内的ないてき世界せかいあつか研究けんきゅうあらわれた[3]。この立場たちばからは、絵図えず地誌ちし文学ぶんがく作品さくひんなどから当時とうじ人々ひとびと地理ちりてき認識にんしきあきらかにする研究けんきゅうおこなわれている。また、現在げんざいにおける過去かこ認識にんしきや、歴史れきしてき町並まちなみ、文化ぶんかてき景観けいかんなど、現代げんだいあつか研究けんきゅう増加ぞうかしている。

研究けんきゅう領域りょういき[編集へんしゅう]

時代じだいによる分類ぶんるい[編集へんしゅう]

先史せんし古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい近代きんだい現代げんだい

歴史れきし地理ちりがくにおいては、一般いっぱんてきひろもちいられる歴史れきしがくてき時代じだい区分くぶん踏襲とうしゅうすることがおお[4]。かつては中世ちゅうせい以前いぜん研究けんきゅうおおかったが、徐々じょじょあたらしい時代じだい研究けんきゅうおおくなる傾向けいこうにある。人文じんぶん地理ちり学会がっかいによる雑誌ざっし人文じんぶん地理ちり』には、1ねんごとに前年ぜんねん研究けんきゅう動向どうこう概観がいかんする「学界がっかい展望てんぼう」がもうけられており、2009ねん以降いこう歴史れきし地理ちりがく動向どうこうは「先史せんし古代こだい」・「なか近世きんせい」・「きん現代げんだい」の3区分くぶんから解説かいせつされていた。しかし、中世ちゅうせい以前いぜん研究けんきゅう減少げんしょうしてきたことをけ、2016ねん学界がっかい展望てんぼうからは「近世きんせい以前いぜん」と「きん現代げんだい」の2区分くぶんさい編成へんせいされた[5]

次元じげんによる分類ぶんるい[編集へんしゅう]

イギリスの地理ちり学者がくしゃプリンス(H.Prince)は、歴史れきし地理ちりがく研究けんきゅう領域りょういきを3つに分類ぶんるいした[6]

Real world(現実げんじつ世界せかい実在じつざいてき世界せかい[編集へんしゅう]

現実げんじつ地表ちひょう空間くうかんあつかう。おおくの歴史れきし地理ちりがくてき研究けんきゅうはここに該当がいとうする。史料しりょう批判ひはんふみ資料しりょうもちいて景観けいかん復原ふくげんし、過去かこにおける客観きゃっかんてき地理ちりぞうえがくことを目的もくてきとする。その手法しゅほうにおいては様々さまざま理論りろん提唱ていしょうされている。城下町じょうかまち門前もんぜまち景観けいかん山野やまのかわうみ環境かんきょう農林のうりん漁業ぎょぎょうしょう工業こうぎょう社会しゃかい経済けいざい街道かいどう鉄道てつどうなどの交通こうつう海外かいがい移民いみん社会しゃかいなど、さまざまな領域りょういきにおいて研究けんきゅう蓄積ちくせきされている。

Imagined world(認識にんしきされた世界せかい主体しゅたいてき世界せかい[編集へんしゅう]

人々ひとびと認識にんしきじょう地表ちひょう空間くうかんあつかう。1970年代ねんだい以降いこう人文じんぶん主義しゅぎ地理ちりがく興隆こうりゅうによって発展はってんした領域りょういきである。「きられた空間くうかん」というかんがかたもとづき、人々ひとびと空間くうかん場所ばしょたいしていていた認識にんしき研究けんきゅうする。地理ちりてきイメージの分析ぶんせきさいしては、絵図えずをはじめとして、文学ぶんがく作品さくひん紀行きこうぶん地誌ちしなど多様たよう資料しりょうもちいられる。

Abstruct world(抽象ちゅうしょうされた世界せかい抽象ちゅうしょうてき世界せかい[編集へんしゅう]

抽象ちゅうしょうされた地表ちひょう空間くうかんあつかう。計量けいりょう革命かくめい影響えいきょうけて発展はってんした分野ぶんやであり、地理ちり空間くうかん理論りろん過去かこ地表ちひょう空間くうかんにもてはまるか検証けんしょうすることが目的もくてきとされ、抽象ちゅうしょう理論りろん法則ほうそく定立ていりつ志向しこうする。具体ぐたいてき研究けんきゅうとしては、弥生やよい時代じだい集落しゅうらくたいしてティーセン理論りろん適用てきようしたもの[7]空間くうかんてき相互そうご作用さようモデルによって御蔭おかげまいりの空間くうかんてき拡散かくさん検証けんしょうしたもの[8]などがある。2000年代ねんだい以降いこうには、過去かこ情報じょうほう地理ちり情報じょうほうシステム(GIS)によって可視かし分析ぶんせきする「歴史れきしGIS英語えいごばん」の開発かいはつすすめられている[9]

研究けんきゅう対象たいしょう[編集へんしゅう]

日本にっぽん歴史れきし地理ちりがくあつかわれるおも研究けんきゅう対象たいしょうげた。すべての対象たいしょう網羅もうらしているわけではなく、区分くぶん便宜べんぎてきなものである。おおくのテーマは、歴史れきしがく考古学こうこがく建築けんちくなど地理ちりがく以外いがい学問がくもんにおいても研究けんきゅうされている。

集落しゅうらく地割じわり[編集へんしゅう]

じょうさと地割じわり都城みやこのじょう国府こくふ荘園しょうえんかんほり集落しゅうらく港町みなとちょう門前もんぜまち寺内てらうちまち城下町じょうかまち陣屋じんやまち農村のうそん漁村ぎょそん山村さんそん新田にった集落しゅうらく在郷ざいきょうまちどう業者ぎょうしゃまち鉱山こうざんまち渡津わたづ集落しゅうらくなど。

歴史れきし地理ちりがくなかでは、もっとはやくから研究けんきゅう蓄積ちくせきされた分野ぶんやであり、絵図えず地籍ちせき使つかった景観けいかん復原ふくげんなどがおこなわれている。

全国ぜんこく各地かくちられるじょうさと地割じわりについては、かつてはんでんおさむ授法もとづいてかれたものとかんがえられていたが、研究けんきゅう進展しんてんによってほとんどのじょうさと地割じわりはんでんおさむ開始かいしよりも時代じだい成立せいりつしたことがかった。金田かねだ章裕あきひろは、じょうさと地割じわりじょうさと呼称こしょうふたつをわせた用語ようごとして「じょうさとプラン」を提唱ていしょうしている[10]。また、古代こだい国府こくふ研究けんきゅう米倉よねくら二郎じろうによる近江おうみ国府こくふ調査ちょうさはじまり、金田かねだ章裕あきひろによって、南北なんぼく中軸ちゅうじくがた東西とうざい中軸ちゅうじくがた外郭がいかく官衙かんががたという3類型るいけい見出みいだされた[11]

城下町じょうかまち研究けんきゅうにおいては、「都市としプラン」に着目ちゃくもくした矢守やもり一彦かずひこによって、戦国せんごくがたそうくるわがたうちまちそでまちがた郭内かくないせんがた開放かいほうがた崩壊ほうかいがたという形態けいたい分類ぶんるいがなされた[12]。また、門前もんぜまちについては藤本ふじもと利治としはる[13]寺内てらうちまちについては金井かないねん[14]包括ほうかつてき研究けんきゅうおこなっている。

村落そんらく研究けんきゅうでは、小川おがわ琢治たくじによってむらじょうさと集落しゅうらくかんする問題もんだい提起ていきおこなわれ、分野ぶんやんでの論争ろんそうひろげられた。その内田うちだ寛一かんいちによって近世きんせい新田にった集落しゅうらく研究けんきゅうすすめられた。また、水津すいつ一朗いちろう社会しゃかい生活せいかつ最小さいしょう単位たんいである「基礎きそ地域ちいき」を提唱ていしょうした。村落そんらく空間くうかんかんする研究けんきゅう民俗みんぞくがくとも関連かんれんふかい。今里いまさとさとるこれは、英語えいごけんにおける「あたらしい文化ぶんか地理ちりがく」の視角しかくれ、村落そんらく空間くうかん構造こうぞう分析ぶんせきしている[15]

文化ぶんか社会しゃかい[編集へんしゅう]

民俗みんぞく宗教しゅうきょう地名ちめい古墳こふん墓地ぼちたび名所めいしょ人口じんこう移動いどう地誌ちし風景ふうけい郷土きょうど移民いみん植民しょくみんなど。

地理ちりがく下位かい領域りょういきである文化ぶんか地理ちりがく歴史れきしがくてき研究けんきゅう方法ほうほうることもおおく、歴史れきし地理ちりがくかさなる部分ぶぶんおおい。巡礼じゅんれい信仰しんこうひろがりといった事象じしょう宗教しゅうきょう地理ちりがくにおいてもあつかわれる[16]。また、歴史れきし人口じんこうがく手法しゅほう歴史れきし地理ちりがくにも援用えんようされ、婚姻こんいん奉公ほうこうによる人口じんこう移動いどうによる地域ちいき変容へんよう研究けんきゅうすすめられてきた[17]

地理ちりがくにおいて1920年代ねんだい勃興ぼっこうした植民しょくみん研究けんきゅうは、地政学ちせいがくへの傾倒けいとうから戦後せんご忌避きひされた。しかし、1980年代ねんだい以降いこうには、ポストコロニアリズム視点してんった植民しょくみんツーリズム研究けんきゅうなどがさかんとなった[18]

経済けいざい産業さんぎょう[編集へんしゅう]

農業のうぎょう林業りんぎょう漁業ぎょぎょう工業こうぎょう商業しょうぎょう流通りゅうつうなど。

社会しゃかい経済けいざいにおいてあつかわれるような対象たいしょう空間くうかんてき分析ぶんせきする。みかん栽培さいばい、ニシン漁業ぎょぎょう薬種やくしゅ問屋とんや電力でんりょく事業じぎょうなど、さまざまな対象たいしょうあつかわれる。しょく文化ぶんか地域ちいき資源しげんなど、横断おうだんてきなテーマによるシンポジウムが開催かいさいされることもある。

日本にっぽん歴史れきし地理ちりがくにおいては、戦後せんごはいるまで歴史れきしがく経済けいざいがく主流しゅりゅう社会しゃかい経済けいざいとの接点せってん希薄きはくであった[19]東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく経済学部けいざいがくぶ卒業そつぎょうソルボンヌ大学そるぼんぬだいがく地理ちりがく教室きょうしつまなんだ飯塚いいづか浩二こうじは、ながらく理学部りがくぶけいつよかった関東かんとう地理ちり学界がっかいにおいて、地理ちりがく歴史れきしがく経済けいざいがくむすびつける役割やくわりたした[20]。その黒崎くろさき千晴ちはる明治めいじ統計とうけい資料しりょうもちいて、計量けいりょうてき歴史れきし地理ちりがく研究けんきゅうおこなった[20]。また、経済けいざい地理ちりがくにおいても歴史れきしてき観点かんてんからの研究けんきゅう蓄積ちくせきされている。

地図ちず[編集へんしゅう]

荘園しょうえん絵図えず日本にっぽん世界せかいかんせんむら絵図えず道中どうちゅう官製かんせい地籍ちせきそとくに都市とし鳥瞰図ちょうかんずなど。

過去かこ地図ちず絵図えずは、過去かこ景観けいかん復原ふくげんするさい基礎きそ史料しりょうであるとともに、それ自体じたい歴史れきし地理ちりがく研究けんきゅう対象たいしょうとなっている。1980年代ねんだい以降いこうには、葛川くずかわ絵図えず研究けんきゅうかいによる成果せいか[21]代表だいひょうされる、地図ちずから人々ひとびと世界せかい認識にんしきこうとする研究けんきゅうあらわれた[22]。2000年代ねんだい以降いこうには近代きんだい地図ちず絵図えずかんする研究けんきゅうすすみ、戦前せんぜん日本にっぽん陸軍りくぐん陸地りくち測量そくりょう作成さくせいしたそとくにかんする研究けんきゅう[23]や、近代きんだいツーリズムの発達はったつともなって数多かずおお作成さくせいされた鳥瞰図ちょうかんずについての研究けんきゅう[24]などがおこなわれた。

環境かんきょう[編集へんしゅう]

山林さんりん河川かせん治水ちすい湖沼こしょう資源しげん管理かんり歴史れきし災害さいがい気候きこうなど。

環境かんきょう研究けんきゅうでは、人間にんげん環境かんきょうからどのような影響えいきょうけるか(参照さんしょう環境かんきょう決定けっていろん)、あるいは反対はんたい人間にんげん環境かんきょうをどのように改変かいへんするかといった問題もんだいあつかわれる。地理ちりがく民俗みんぞくがく双方そうほう業績ぎょうせきのこした千葉ちばいさおなんじは、日本にっぽん朝鮮ちょうせん中国ちゅうごくにおける山地さんち植生しょくせい変化へんか調査ちょうさし、ぜん近代きんだいにおいては人間にんげん活動かつどう結果けっかとしてのはげやまひろられたことをしめした[25]

過去かこ自然しぜん環境かんきょうかんする研究けんきゅうは、自然しぜん地理ちりがく環境かんきょう考古学こうこがくとのかかわりがふかい。古文書こもんじょ古記こきろく絵図えずといった歴史れきし史料しりょう利用りようだけでなく、花粉かふん分析ぶんせきやプラント・オパール分析ぶんせきなどの自然しぜん科学かがくてき手法しゅほうによる植生しょくせい復原ふくげんきゅう耕地こうちめん特定とくていおこなわれている。

交通こうつう[編集へんしゅう]

駅路えきろ街道かいどう宿場しゅくば水運すいうん鉄道てつどうなど。

古代こだい交通こうつう研究けんきゅう考古学こうこがくとのかかわりがふかく、歴史れきし地理ちりがくにおいては、空中くうちゅう写真しゃしん判読はんどくや、行政ぎょうせいかい境界きょうかいなどから律令りつりょう時代じだい直線ちょくせん道路どうろつけ研究けんきゅうおこなわれてきた[26]

きん現代げんだい交通こうつうでは、鉄道てつどう忌避きひ伝説でんせつ検証けんしょうはじめとする実証じっしょうてき歴史れきし研究けんきゅうおこなった青木あおき栄一えいいち業績ぎょうせき特筆とくひつされる。また、三木みき近代きんだい日本にっぽんにおける「かよい」(通勤つうきん通学つうがく)の誕生たんじょうや、植民しょくみんにおける交通こうつう物流ぶつりゅう分析ぶんせきすすめ、研究けんきゅう方法ほうほう体系たいけいおこなっている[27]

地方ちほう制度せいど[編集へんしゅう]

くにぐんさとせいはん都道府県とどうふけん市町村しちょうそんなど。

地方ちほう制度せいど行政ぎょうせい区域くいきあつかう。古代こだい政治せいじ領域りょういきかんする研究けんきゅう[28]や、明治めいじ時代じだい地方ちほう制度せいど成立せいりつ過程かていかんする研究けんきゅう[29]などがある。

記憶きおく遺産いさん[編集へんしゅう]

石碑せきひ史跡しせき町並まちな保存ほぞん文化ぶんかてき景観けいかんなど。

共同きょうどうたい歴史れきし意識いしきやアイデンティティがどのように景観けいかん反映はんえいされるか、あるいは社会しゃかい景観けいかんをどのように評価ひょうかするかについてろんじる。「記憶きおく」をろんじた歴史れきし学者がくしゃピエール・ノラや、「場所ばしょちから」をろんじた建築けんちく学者がくしゃドロレス・ハイデンなどの影響えいきょうけ、1990年代ねんだい以降いこう本格ほんかくてきあつかわれるようになった分野ぶんやである[30]

ふみ資料しりょう[編集へんしゅう]

歴史れきし地理ちりがくもちいられる資料しりょういちれい以下いかしめ[31]

地図ちず絵図えず
過去かこ景観けいかんえがいた地図ちず絵図えず)は、歴史れきし地理ちりがくがとりわけ関心かんしんってきた資料しりょうである。古代こだい律令制りつりょうせい作成さくせいされたはん中世ちゅうせい荘園しょうえん絵図えず近世きんせい幕府ばくふ作成さくせいしたくに絵図えずなど、時代じだいごとに多様たよう絵図えず存在そんざいする。また、えがかれるスケールも、世界せかい日本にっぽん都市としなどさまざまである。明治めいじ以降いこう作成さくせいされた地籍ちせき土地とち1ぴつごとの形状けいじょう地目ちもくしめしたものとして、景観けいかん復原ふくげんをするじょう有用ゆうようである。そのほか、現代げんだい地形ちけい空中くうちゅう写真しゃしん地割じわりのこ過去かこ景観けいかん見出みいだ手段しゅだんとしてや、景観けいかん復原ふくげんさいのベースマップとしてもちいることができる。近世きんせい名所めいしょ図会ずえ近代きんだいおおえがかれた鳥瞰図ちょうかんずは、より主観しゅかんてき場所ばしょ認識にんしきあらわれたものとして活用かつようされる。
古文書こもんじょ古記こきろく
歴史れきし地理ちりがくでは、歴史れきしがくあつかわれるような古文書こもんじょ古記こきろく資料しりょうとしてもちいる。けんちゅうとばり検地けんちちょう名寄なよせちょうといった台帳だいちょうるいや、地誌ちししょ名所めいしょ案内あんない旅行りょこうなど直接的ちょくせつてき土地とち場所ばしょについて記述きじゅつされたものにくわえ、地方ちほうしょのうしょ江戸えど幕府ばくふ文書ぶんしょ大名だいみょう文書ぶんしょ宗旨しゅうし人別にんべつちょう日記にっきるいなどももちいる。
統計とうけいるい
近代きんだい以降いこう研究けんきゅうでは、統計とうけいるいもちいられる。主要しゅよう統計とうけい列挙れっきょすると、統計とうけい年鑑ねんかん府県ふけん統計とうけいしょ国勢調査こくせいちょうさ日本にっぽん地誌ちし提要ていようきょう武政たけまさひょう徴発ちょうはつ物件ぶっけん一覧いちらんひょう地方ちほう行政ぎょうせい区画くかく便覧びんらん府県ふけん物産ぶっさんひょう全国ぜんこく農産のうさんひょう全国ぜんこく工場こうじょう統計とうけいひょうなどがある。
その
歴史れきし地理ちりがくでは、おも考古学こうこがくあつかってきた考古こうこ資料しりょうもちいることもある。また、過去かこ自然しぜん環境かんきょうあつか分野ぶんやでは、ボーリング資料しりょう花粉かふん放射ほうしゃせい炭素たんそプラント・オパールなどももちいられる。そのほか、対象たいしょうのこ建築けんちくぶつ石造せきぞうぶつといった景観けいかん要素ようそ分析ぶんせきや、ききと調査ちょうさなどもおこなわれる。

おも学術がくじゅつ雑誌ざっし組織そしき[編集へんしゅう]

歴史れきし地理ちりがく専門せんもんてきあつか学術がくじゅつ雑誌ざっしには以下いか存在そんざいする。

上記じょうき雑誌ざっしだけでなく、地理ちりがく評論ひょうろん人文じんぶん地理ちりなど地理ちりがく全般ぜんぱんあつか雑誌ざっしにも歴史れきし地理ちりがく研究けんきゅう掲載けいさいされる。

また、学会がっかい下部かぶ組織そしきとして、日本にっぽん地理ちり学会がっかいには近代きんだい日本にっぽん地域ちいき形成けいせい研究けんきゅうグループが、人文じんぶん地理ちり学会がっかいには歴史れきし地理ちり研究けんきゅう部会ぶかいかれている。

がく[編集へんしゅう]

近代きんだい地理ちりがく以前いぜん[編集へんしゅう]

19世紀せいきカール・リッターらによって近代きんだい地理ちりがく形成けいせいされる以前いぜんから、「歴史れきし地理ちりがくてき営為えいい存在そんざいした。れいとしては、聖書せいしょ記紀ききといったふる文献ぶんけん登場とうじょうする場所ばしょ比定ひていや、過去かこ国家こっか領域りょういき景観けいかんなどを復原ふくげんした歴史れきし地図ちず作成さくせいなどがげられる[32]ヘロドトスの『歴史れきし』や日本にっぽん古代こだいの『風土記ふどき』にられるように、歴史れきしてき知識ちしき地理ちりてき知識ちしき一体いったいのものとしてあつかわれることがおおかった。

哲学てつがくしゃであり地理ちり学者がくしゃでもあったイマヌエル・カントは、人間にんげん先験的せんけんてき観念かんねんとして時間じかん空間くうかんげた。カントは「かく時代じだい出来事できごと本来ほんらい歴史れきしは、とりもなおさず連続れんぞくする地理ちりにほかならない。それゆえに、ある事象じしょうがどこでこったのか、それによってどのような性質せいしつをもつことになったのかということについてなにらないとすれば、それはきわめて不完全ふかんぜん歴史れきしである」[33]と、歴史れきしにおける地理ちり重要じゅうようせい言及げんきゅうしている。現在げんざいられる歴史れきしがく地理ちりがくとの区別くべつは、世界せかい時間じかんもとづいて記述きじゅつするのが歴史れきしがくであり、空間くうかんもとづいて記述きじゅつするのが地理ちりがくであるというカントの見解けんかいはしはっする[34]

欧米おうべいにおける展開てんかい[編集へんしゅう]

ドイツ[編集へんしゅう]

今日きょう歴史れきし地理ちりがく源流げんりゅうは19世紀せいきのドイツにはじまる。近代きんだい地理ちりがくにおいては、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンアルフレート・ヘットナーらによって体系たいけいされた「地誌ちしがく(Chorologie)」の枠組わくぐみが、ながらく影響えいきょうりょくっていた。ヘットナーは、「クロスセクション(cross-section in past)」という言葉ことばで、地理ちりがくにおける歴史れきし地理ちりがく位置いちづけを説明せつめいした。これは、一般いっぱん地理ちりがく現代げんだい対象たいしょうとするのにたいし、歴史れきし地理ちりがく過去かこのある時点じてんにおける地理ちり研究けんきゅうするものとするかんがかたである。「過去かこにおける地理ちり」とでもべるこの思想しそうひろれられたが、一方いっぽう過去かこ固定こていてきなものとているという批判ひはんもあった。以降いこう歴史れきし地理ちりがくは「クロスセクション」の継承けいしょう批判ひはんによって展開てんかいしていった[6]

19世紀せいきまつから20世紀せいき初頭しょとうにかけて、ドイツでは村落そんらく形態けいたいかんする研究けんきゅうすすめられた。農業のうぎょう史家しかアウグスト・マイツェン英語えいごばんは、かたまりむらむらえんむらといった村落そんらく形態けいたい民族みんぞくちがいから説明せつめいした[35]。それをけ、地理ちり学者がくしゃであるオットー・シュリューターはドイツの村落そんらくについて実証じっしょうてき研究けんきゅうおこない、マイツェンの民族みんぞく起源きげんせつ不正確ふせいかくなことをしめした。当時とうじのドイツ地理ちりがくでは、人間にんげん自然しぜん関係かんけいひろとらえるべきとするかんがえが主流しゅりゅうとなっていたが、シュリューターは研究けんきゅう対象たいしょう景観けいかん限定げんていし、「文化ぶんか景観けいかん形態けいたいがく(Morphologie der Kulturlandschaft)」としての地理ちりがく提唱ていしょうした[36]

その、シュリューターはドイツを中心ちゅうしんとした中世ちゅうせい近世きんせいヨーロッパの景観けいかんについて研究けんきゅうし、景観けいかん変遷へんせんを「自然しぜん景観けいかん」、「はら景観けいかん」、「景観けいかん」の3つの概念がいねんから説明せつめいした。シュリューターは景観けいかん発生はっせい過程かていめんから分析ぶんせきし、時代じだいわってもえずその場所ばしょあらわれる事象じしょう注目ちゅうもくした。時代じだいかかわらず見出みいだされる事象じしょう、すなわち「時間じかん克服こくふく」にこそ、地理ちりてき真理しんりがあるとかれかんがえた。シュリューターの景観けいかん研究けんきゅうは、「断面だんめん」をとなえたヘットナーよりは歴史れきし推移すいい関心かんしんはらっているが、一方いっぽう歴史れきしえた普遍ふへんせい追究ついきゅうするてん特色とくしょくがある[37]

イギリス[編集へんしゅう]

ドイツではじまった歴史れきし地理ちりがくは、イギリスにおいてひとつのディシプリンとして確立かくりつすることになった。イギリスにおいてなが指導しどうてき立場たちばにあった歴史れきし地理ちり学者がくしゃとして、ヘンリー・クリフォード・ダービー英語えいごばんげられる。かれは、11世紀せいきウィリアム1せいによって作成さくせいされた土地とち台帳だいちょうドゥームズデイ・ブックから、中世ちゅうせいイングランドの景観けいかん復原ふくげんおこなった。さらに、先史せんしから近代きんだいにいたるイングランドの包括ほうかつてき歴史れきし地理ちりしょりまとめた。ダービーによれば、歴史れきし地理ちりがく研究けんきゅうは「過去かこ地理ちり(past geographies)」、「景観けいかん変遷へんせん(changing landscapes)」、「現在げんざいなか過去かこ(past in the present)」、「地理ちりてき変化へんか(geographical change)」の4つにけられるという。また、方法ほうほうろんとしては「連続れんぞく断面だんめんほう(successive cross-section)」をとなえ、いくつかの年代ねんだいにおける復原ふくげんと、そのあいだをつなぐ説明せつめいによって地域ちいき変化へんか全体ぜんたいぞうえがこうとした[38]

ダービーにつづいて歴史れきし地理ちりがく方法ほうほうろん主導しゅどうしたのは、アラン・ベイカーである。ダービーのしたまなんだベイカーは、既存きそん歴史れきし地理ちりがく批判ひはんし、分野ぶんや知見ちけん計量けいりょうてき手法しゅほう行動こうどうろんてき視点してんなど、あらたな方向ほうこうせい提示ていじした[39]。ダービーやベイカーらの活躍かつやくによって、歴史れきし地理ちりがくはイギリスの地理ちりがくにおいておおきな位置いちめるようになるとともに、世界せかい歴史れきし地理ちりがく主導しゅどうするようにもなった[6]

アメリカ[編集へんしゅう]

アメリカでは、歴史れきし地理ちりがく文化ぶんか地理ちりがく不可分ふかぶんなかたちで展開てんかいした。文化ぶんか地理ちりがく創始そうししゃとされるカール・O・サウアーは、農業のうぎょう伝播でんぱ植生しょくせい変化へんか対象たいしょうとし、おも歴史れきしてき観点かんてんから研究けんきゅうおこなった。サウアーはアメリカ地理ちりがく協会きょうかい年次ねんじ大会たいかいでの「歴史れきし地理ちりがくへの序説じょせつ」とだいした会長かいちょう就任しゅうにん演説えんぜつにおいて、従来じゅうらい地理ちりがく歴史れきし軽視けいししてきたことを批判ひはんした。サウアーは景観けいかんを「自然しぜん景観けいかん」から「文化ぶんか景観けいかん」へ変化へんかするものとしてとらえ、人類じんるいあたらしい技術ぎじゅつ生活せいかつ様式ようしき獲得かくとくしたり、自然しぜん景観けいかん改変かいへんしていく過程かていを「時間じかん継起けいき(sequence in time)」においてとらえるべきと主張しゅちょうした[40]。それまでのアメリカ地理ちりがくではエレン・センプルらによる環境かんきょう決定けっていろん主流しゅりゅうだったが、サウアーとその門下生もんかせい中心ちゅうしんとした「バークレー学派がくは」は、環境かんきょうたいする人間にんげん積極せっきょくてきはたらきかけを重視じゅうしし、とりわけ農村のうそん地域ちいきにおける物質ぶっしつてき景観けいかん要素ようそ分布ぶんぷ伝播でんぱ研究けんきゅうおこなった[41]

フランス[編集へんしゅう]

ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュはじまるフランス地理ちりがくは、伝統でんとうてき歴史れきし重視じゅうしする地誌ちしがく影響えいきょうつよく、「極言きょくげんすれば、あの栄光えいこうちみちたフランスの地理ちりがくのすべてが、歴史れきし地理ちりがくであったともかんがえられるし、あるいはまたぎゃくに、フランスにおいては純粋じゅんすい歴史れきし地理ちりがくなどは存在そんざいせず、たんなる補助ほじょてき科学かがくとして地理ちりがく歴史れきしがく内包ないほうされてきたともかんがえられる」[42]われる状況じょうきょうにあった。アナール学派がくはとしてられる歴史れきし学者がくしゃリュシアン・フェーヴルは、『大地だいち人類じんるい進化しんか歴史れきしへの地理ちりがくてき序論じょろんー』とだいした著作ちょさくにおいて地理ちりがく研究けんきゅう紹介しょうかいし、でもあるブラーシュをたか評価ひょうかした[43]が、このことはフランスにおける地理ちりがく歴史れきしがく距離きょりちかさを物語ものがたる。ブラーシュの影響えいきょうけた地理ちり学者がくしゃには、La Géographie de l’histoire(『歴史れきし地理ちりがく』)とだいした著作ちょさくカミーユ・ヴァローフランス語ふらんすごばん[44]や、ロワールがわ流域りゅういき地誌ちし近代きんだいフランスのブドウえん歴史れきししるしたロジェ・ディオン[45]などがいる。

国際こくさいてきうご[編集へんしゅう]

1975ねんには、イギリスとアメリカの地理ちり学者がくしゃ中心ちゅうしんとして、Journal of Historical Geography英語えいごばん(JHG)が創刊そうかんされた。このとしには国際こくさい歴史れきし地理ちりがく会議かいぎ(ICHG)もはじまり、だいいちかいはカナダのキングストンひらかれた。

日本にっぽんにおける展開てんかい[編集へんしゅう]

日本にっぽん歴史れきし地理ちり研究けんきゅうかい[編集へんしゅう]

川合かわい一郎いちろうは「日本にっぽん歴史れきし地理ちり研究けんきゅうかいけい」と「京都きょうと帝国ていこく大学だいがくけい」の2つの系譜けいふから近代きんだい歴史れきし地理ちりがく記述きじゅつしている[46]。1899ねん日本にっぽん歴史れきし地理ちり研究けんきゅうかい設立せつりつされた。その中心ちゅうしんとなったのが、帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく国史こくしげん東京大学とうきょうだいがく文学部ぶんがくぶ)でともに坪井つぼいきゅうさんまなんだ喜田きた貞吉さだきちはらしげる四郎しろうである。かい設立せつりつ趣意しゅいしょには、①史学しがく補助ほじょがくとしての「歴史れきし地理ちり」をすすめること、②実地じっち調査ちょうさ重視じゅうししていること、③地方ちほう研究けんきゅうしゃとの連携れんけいのぞんでいることなどがげられた。また、喜田きたは、自然しぜん地理ちりにおいては1879ねん東京とうきょう地学ちがく協会きょうかい設立せつりつされる一方いっぽうで、人文じんぶん地理ちり推進すいしんする組織そしきいことをなげいており、その振興しんこうかい目的もくてきひとつとしてかんがえていた。こうして設立せつりつされた日本にっぽん歴史れきし地理ちり研究けんきゅうかいは、1907ねんには日本にっぽん歴史れきし地理ちり学会がっかい現在げんざい歴史れきし地理ちり学会がっかいとはべつ)と改称かいしょうし、機関きかん歴史れきし地理ちり』をとおしてプロ・アマチュアわず多数たすう論考ろんこうした[47]

この系譜けいふにおいて注目ちゅうもくされるのが、吉田よしだ東伍とうご事績じせきである。吉田よしだ小学校しょうがっこう教員きょういん読売新聞よみうりしんぶん記者きしゃなどの経歴けいれきたのちに地誌ちし編纂へんさんこころざし、1895ねんに『だい日本にっぽん地名ちめい辞書じしょ』を起稿きこうした。吉田よしだは13ねんにわたって独力どくりょく編纂へんさん作業さぎょうおこない、ぜん11さつにおよぶだい地誌ちしつくげた[48]。また、はらしげる四郎しろうは、日本にっぽんはじめて歴史れきし地理ちりがく博士はかせ学位がくい取得しゅとくし、歴史れきし地名ちめい研究けんきゅうや、『日本にっぽん国史こくし地図ちず 日本にっぽん国史こくし地理ちり』をはじめとする歴史れきし地図ちず作製さくせいなどをおこなった[49]

日本にっぽん歴史れきし地理ちり研究けんきゅうかい学会がっかい)においては、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく関係かんけいしゃのみならず地誌ちし研究けんきゅうしゃ郷土きょうど史家しか活動かつどう参画さんかくし、大正たいしょう以降いこう郷土きょうど地方ちほう研究けんきゅう発展はってん寄与きよすることとなった。かい明治めいじから昭和しょうわにかけて活動かつどうし、戦時せんじちゅう休刊きゅうかんしたものの、1977ねんに『歴史れきし地理ちり』が事実じじつじょう廃刊はいかんとなるまでつづいた。日本にっぽん歴史れきし地理ちり研究けんきゅうかい学会がっかい)は、設立せつりつ趣旨しゅしにおいては地理ちりがく重視じゅうししていたものの、実際じっさいに『歴史れきし地理ちり』に掲載けいさいされる論文ろんぶん歴史れきしてき手法しゅほうによるものがおおく、その歴史れきし地理ちりがく主流しゅりゅうとはならなかった[50]

京都大きょうとだいがく京都きょうと帝国ていこく大学だいがく[編集へんしゅう]

明治めいじ中期ちゅうき在野ざいや郷土きょうど研究けんきゅうむすいて発展はってんした日本にっぽん歴史れきし地理ちり研究けんきゅうかいけいたいし、そののアカデミズムの中心ちゅうしんとなったのは京都きょうと帝国ていこく大学だいがくけい歴史れきし地理ちりがくだった。この系譜けいふ源流げんりゅうつくったのは小川おがわ琢治たくじである。小川おがわ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく理科りか大学だいがく地質ちしつ学科がっか卒業そつぎょうしたのち、1908ねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく学科がっかげん京都大学きょうとだいがく文学部ぶんがくぶ)に地理ちりがく教室きょうしつひらいた。これは第一高等学校だいちこうとうがっこう時代じだい小川おがわ同級生どうきゅうせいであった内田うちだ銀蔵ぎんぞう[注釈ちゅうしゃく 1]かんがえによるとされる[51]。これは日本にっぽんにおいてはじめて設置せっちされた地理ちりがく教室きょうしつであった。

小川おがわ大学だいがく時代じだい専攻せんこうであった地質ちしつがくのほか、畿内きない垣内かきうち集落しゅうらく孤立こりつそうたくむら)の研究けんきゅうすすめた。小川おがわ砺波となみ平野へいやむら着目ちゃくもく歴史れきし学者がくしゃ牧野まきの信之のぶゆきすけあいだでその成立せいりつ過程かていをめぐる論争ろんそうわした。小川おがわ砺波となみむら起源きげんを、東大寺とうだいじ荘園しょうえん開発かいはつ時代じだいにまでさかのぼるとかんがえたが、牧野まきの加賀かがはん新田にった開発かいはつ政策せいさくによって開発かいはつされたものとた。現在げんざいでは、近世きんせい以降いこう開拓かいたくによるものとの見解けんかい一般いっぱんてきとなっている。

また、初代しょだい助教授じょきょうじゅであった石橋いしばし五郎ごろうは、「からそう時代じだいささえ沿海えんかい貿易ぼうえきなみ貿易ぼうえきこうに就て」とだいする卒業そつぎょう論文ろんぶん提出ていしゅつして東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく学科がっか卒業そつぎょうしていた。石橋いしばしはそのも『歴史れきし地理ちり』に歴史れきし地理ちりてき研究けんきゅう発表はっぴょうしていたが、明治めいじ40年代ねんだい以降いこう過去かこよりも現在げんざい重点じゅうてんいた研究けんきゅうすすめた[52]

京都きょうと帝国ていこく大学だいがく地理ちりがく教室きょうしつにおける初期しょき研究けんきゅうは、集落しゅうらく形態けいたい起源きげんろんをはじめとする景観けいかん復原ふくげんてき研究けんきゅう中心ちゅうしんとなった。とくに、小牧こまきみのるしげるがドイツ地理ちりがく影響えいきょうけて1933ねん提唱ていしょうした「どき断面だんめんせつは、その日本にっぽん歴史れきし地理ちりがく方向ほうこうせい決定けっていづけることとなった[53]小牧こまきはその地政学ちせいがく傾倒けいとうしたが、門下もんか米倉よねくら二郎じろう藤岡ふじおか謙二郎けんじろうなどが「断面だんめんせつ継承けいしょうした。米倉よねくら小川おがわ小牧こまき影響えいきょうけつつ研究けんきゅうすすめ、綿密めんみつ文献ぶんけんてき考証こうしょう実地じっち踏査とうさによってじょうさとせい研究けんきゅうした。藤岡ふじおかは「断面だんめんせつ発展はってんさせて「景観けいかん変遷へんせんほう」を提唱ていしょうした。これは、研究けんきゅう対象たいしょうをより「あつみのある」時間じかん断面だんめんさだめることで、豊富ほうふ情報じょうほう記述きじゅつもうとする方法ほうほうである。藤岡ふじおか歴史れきし地理ちりがくかんする総説そうせつ一般いっぱんしょおお執筆しっぴつ編纂へんさんしたほか、1966ねんには研究けんきゅうしゃ以外いがい対象たいしょうとした野外やがい歴史れきし地理ちりがく研究けんきゅうかい創設そうせつし、歴史れきし地理ちりがく普及ふきゅうつとめた。

近年きんねんにおいては、金田かねだ章裕あきひろが「景観けいかん」の立場たちばとなえている。これは、景観けいかん構成こうせいする個々ここ景観けいかん要素ようそ時代じだいごとにどのような状況じょうきょうにあったのかを考察こうさつし、その機能きのう役割やくわり時代じだいてき文脈ぶんみゃく景観けいかん要素ようそとの関連かんれんることで、景観けいかん全体ぜんたい意味いみするところをさぐかたである[54]

筑波大学つくばだいがく東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく東京教育大学とうきょうきょういくだいがく[編集へんしゅう]

筑波大学つくばだいがくきゅう東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく東京教育大学とうきょうきょういくだいがく)の歴史れきし地理ちりがくは、内田うちだ寛一かんいちとその門下生もんかせいである喜多村きたむら俊夫としお浅香あさか幸雄ゆきお菊地きくち利夫としおらによって主導しゅどうされてきた[55]内田うちだ寛一かんいち京都きょうと帝国ていこく大学だいがくにおいて小川おがわ琢治たくじ石橋いしばし五郎ごろうまなび、文部省もんぶしょうでの職務しょくむたのちに近世きんせい農村のうそん研究けんきゅう開始かいしした。内田うちだ徹底てっていした史料しりょう実証じっしょう主義しゅぎもとづき、熱海あたみ初島はつしま武蔵野むさしの新田しんでん研究けんきゅうおこなった。そのかれは1933ねん東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく着任ちゃくにんし、1946ねんまで教授きょうじゅつとめた。京都大きょうとだいがく京都きょうと帝国ていこく大学だいがく)では先史せんし古代こだいおも研究けんきゅう対象たいしょうとされたのにたいし、内田うちだらは近世きんせい中心ちゅうしん研究けんきゅう展開てんかいした。1958ねんには、菊地きくちらが中心ちゅうしんとなって「日本にっぽん歴史れきし地理ちりがく研究けんきゅうかいげん歴史れきし地理ちり学会がっかい)」が設立せつりつされ、浅香あさか幸雄ゆきお初代しょだい会長かいちょうとなった[56]。また、菊地きくち歴史れきし地理ちりがく方法ほうほうろんについても著作ちょさくのこした[57]

1978ねん東京教育大学とうきょうきょういくだいがく筑波つくば移転いてんしたのち、1981ねん歴史れきし地理ちりがく調査ちょうさ報告ほうこく創刊そうかんされた。これは筑波大学つくばだいがく人文じんぶん社会しゃかい科学かがく研究けんきゅう授業じゅぎょうとしておこなわれる歴史れきし地理ちりがく実習じっしゅう巡検じゅんけん)の調査ちょうさ成果せいかをまとめたものである[58]実習じっしゅうでは那須野原なすのはら秩父ちちぶ銚子ちょうし三浦半島みうらはんとうなど関東かんとう縁辺えんぺん地域ちいき対象たいしょうとした野外やがい調査ちょうさおこなわれ、その成果せいか書籍しょせきとしても刊行かんこうされている[59]。2009ねんからは歴史れきし地理ちりがく野外やがい研究けんきゅう改称かいしょうされ、隔年かくねんでの刊行かんこうつづけられている。

立命館大学りつめいかんだいがく[編集へんしゅう]

立命館大学りつめいかんだいがく文学部ぶんがくぶ地理ちり学科がっか卒業そつぎょうした安田やすだけんは、1980年代ねんだい日本にっぽんはじめて環境かんきょう考古学こうこがく提唱ていしょうした。環境かんきょう考古学こうこがく考古学こうこがくからも研究けんきゅうおこなわれる学際がくさいてき分野ぶんやであるが、宮本みやもと真二しんじによれば、環境かんきょう考古学こうこがくは「立命館大学りつめいかんだいがく京都きょうと大学だいがく地理ちりがく関係かんけいしゃ中心ちゅうしんとした歴史れきし地理ちりがくから蓄積ちくせきされてきた景観けいかん変遷へんせん発展はってんがたとして位置いちづけるのが適当てきとう」とされる[60]立命館大学りつめいかんだいがくにおいては、日下くさか雅義まさよしとその指導しどう学生がくせいによって平野へいや中心ちゅうしんとした地形ちけい環境かんきょう研究けんきゅうおこなわれてきた。これは「先史せんし地理ちりがく」を提唱ていしょうした小牧こまきみのるしげるや、歴史れきし地理ちりがくいち分野ぶんやとして考古こうこ地理ちりがく確立かくりつした小野おのただしひろし、のちに立命館大学りつめいかんだいがく総長そうちょうにも就任しゅうにんした谷岡たにおか武雄たけおらの「景観けいかん変遷へんせん研究けんきゅう影響えいきょうけている。安田やすだ以降いこうには、高橋たかはしまなぶ環境かんきょう考古学こうこがく立場たちばから災害さいがい環太平洋かんたいへいよう地域ちいきについて研究けんきゅうすすめている。高橋たかはしまなぶ博士はかせ論文ろんぶんは「平野へいや環境かんきょう考古学こうこがく」というだいであるが、提出ていしゅつにあたっては教員きょういんから題名だいめいに「歴史れきし地理ちりがく」とれるようにとのつよいコメントがあったという[61]。このように、環境かんきょう考古学こうこがく系譜けいふてき歴史れきし地理ちりがくとつながりをつが、その関係かんけい不和ふわ見受みうけられる。これは、気候きこう文明ぶんめい関係かんけい大胆だいたんろんじるような安田やすだ議論ぎろんが、環境かんきょう決定けっていろんてきだとしてほか地理ちり学者がくしゃから批判ひはんされてきた[62]ことも関係かんけいしている。こうした環境かんきょう考古学こうこがくてき研究けんきゅうのほか、立命館大学りつめいかんだいがくには歴史れきし都市とし防災ぼうさい研究けんきゅうセンターが設置せっちされ、災害さいがいかんする歴史れきし地理ちりがくてき研究けんきゅうおこなわれている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 当時とうじ史学しがく開設かいせつ委員いいんつとめていた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]