仁保にほたかしざい

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仁保にほたかしざい
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん しょう
死没しぼつ えいろく9ねん12月21にち1567ねん1がつ31にち
官位かんい 上総かずさかい
主君しゅくん 大内おおうち義隆よしたか義長よしなが毛利もうり元就もとなり
氏族しぞく ひらせい三浦みうらりゅう仁保にほ
父母ちちはは ちち吉田よしだきょうしゅ
養父ようふ仁保にほきょうたてまつ
兄弟きょうだい 吉田よしだたけししゅりゅうざい
おんな仁保にほもとむね正室せいしつ
養子ようし仁保にほもとむねしげるさわはじめ
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仁保にほ たかしざい(にほ たかあり)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう大内おおうち毛利もうり家臣かしん婿養子むこようし吉川よしかわ元春もとはる次男じなん仁保にほもとむねしげるさわはじめがいる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

仁保にほの庶流である吉田よしだきょうしゅ次男じなんとしてまれ、はじ大内おおうちつかえる。天文てんもん8ねん1539ねん)に仁保にほきょうたてまつ死去しきょし、その後継こうけいとなって仁保にほいだ。

大内おおうち滅亡めつぼう毛利もうり元就もとなりつかえて1700かん所領しょりょうあたえられたが、えいろく9ねん1566ねん12月21にち死去しきょりゅうざいには後継こうけいとなる男子だんしがいなかったため、吉川よしかわ元春もとはる次男じなんである吉川よしかわもとむねしげるさわはじめたかしざい婿養子むこようしとして家督かとく所領しょりょう相続そうぞくした。

なお、仁保にほ関連かんれん文書ぶんしょおさめられている『三浦みうら文書ぶんしょ』にはいちじるしい史料しりょう偏在へんざいられ、りゅうざい当主とうしゅであった時期じき文書ぶんしょ残存ざんそんしていない。これはえいろく12ねん1569ねん)10がつりゅうざい実父じっぷである吉田よしだきょうしゅが、大内おおうち輝弘てるひろらん加担かたんしたという罪状ざいじょうにより討伐とうばつけ、かつてのりゅうざい居館きょかんとう攻防こうぼうせんひろげられたためとかんがえられている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]