新庄しんじょうきょく

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新庄しんじょうきょく(しんじょうのつぼね、天文てんもん2ねん1533ねん) - 慶長けいちょう11ねん12月11にち1607ねん1がつ9にち))は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての女性じょせい熊谷くまがいしんただし次女じじょ吉川よしかわ元春もとはる正室せいしつ法名ほうみょうは慈光いんまどだまよし珪。そのは、だいはうさま・慈光いん・いわくに。

生涯しょうがい[ソースを編集へんしゅう]

安芸あきこく国人くにびと領主りょうしゅ熊谷くまがいしんただし次女じじょとしてまれる。

天文てんもん16ねん1547ねん)に毛利もうり元就もとなり次男じなん吉川よしかわ元春もとはる結婚けっこんよく天文てんもん17ねん1548ねん)には長男ちょうなん吉川よしかわ元長もとながみ、つづいて吉川よしかわもとむねしげるさわはじめ吉川よしかわひろ吉川よしかわ松寿しょうじゅまる七尾ななおきょく益田ますだもとさちしつ)、ゆきがんしゅううめ吉見よしみもとよりゆきしつ)をんだ。元々もともと政略せいりゃく結婚けっこんとはいえ、元春もとはる新庄しんじょうきょくふかあいし、側室そくしつつことはかった。新庄しんじょうきょく自身じしんもそんなもとはる誠実せいじつさにしんうたれたのか、もとはるだれよりも信頼しんらいし、あいした。

勝気かちき女性じょせいであったのか、毛利もうり元就もとなりむすめ義姉ぎし宍戸ししどたかしつま五龍ごりゅうきょく険悪けんあく雰囲気ふんいきがあったらしく、家中いえじゅうのぞ元就もとなりに「三子みつご教訓きょうくんじょう」でそのことをたしなめられている。また、元就もとなりおくった書状しょじょうは「文章ぶんしょう非常ひじょうみじかく、まるで尼子あまこ経久つねひさ弘中ひろなかたかしつつみえらそうな書状しょじょうのようだ」と元就もとなり苦笑くしょうさせ、五龍ごりゅうきょくとの和解わかい仲介ちゅうかいする書状しょじょうおくってきた小早川こばやかわ隆景たかかげたいしては返事へんじおくらなかった。しかし、吉川よしかわ家中かちゅうでは良妻賢母りょうさいけんぼであったようで、もとはる息子むすここういえおくった手紙てがみには「うちとわれらにんのひざもと」などと、その家庭かていのぬくもりをかたっている[1]けいごとこういえ)にてた手紙てがみにはもとはる連名れんめいして「われらにん おやふたり にんおや」とあざやかな夫婦ふうふ姿すがたうわきぼりにしている[1]

天正てんしょう14ねん1586ねん)に九州きゅうしゅう出陣しゅつじんちゅう元春もとはるよく天正てんしょう15ねん1587ねん)に長男ちょうなん元長もとなが相次あいついで病死びょうしすると、吉川よしかわ継嗣けいしとなった三男さんなんこういえられた。慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかのちは、こういえしたがって周防すおうこく岩国いわくに移住いじゅう

慶長けいちょう11ねん(1606ねん12月11にち死去しきょ岩国いわくに万徳まんとくいんほうむられたが改葬かいそうされ、現在げんざい墓所はかしょ山口やまぐちけん山口やまぐち瑠璃光寺るりこうじ山口やまぐちけん岩国いわくに洞泉寺とうせんじにある。

陰徳いんとく太平たいへい元春もとはる夫人ふじん醜女しこめせつ成立せいりつ[ソースを編集へんしゅう]

香川かがわせんおもねによる『陰徳いんとく太平たいへい』に「しろくもあたまにあばためんある姿すがたはがにまた・せむし」「にまたとなき悪女あくじょ」とかれており、吉川よしかわ家臣かしんによる書物しょもつであるというのに、遠慮えんりょもなく無惨むざんであるのは、世評せひょうどおり事実じじつであったものであろうといえる[1]

かたちみにくくければ、ひとこれをめとらず、ちちの歎き、またいかばかりぞや」とうわさされた醜女しこめを、もとはるみずから「わがのぞむところは熊谷くまがいしんじきの嫡女なり」と、すすんでむかえたとされている[1]

参考さんこう資料しりょう[ソースを編集へんしゅう]

  • げいはんどおりこころざし
  • はぎ藩閥はんばつ閲録』
  • 防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ山口やまぐち支社ししゃへん へん近世きんせいぼうちょう諸家しょか系図けいず綜覧そうらん三坂みさかけい監修かんしゅう防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ、1966ねん3がつNCID BN07835639OCLC 703821998全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:73004060 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション

脚注きゃくちゅう[ソースを編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 藤木ふじき久志ひさし ちょ戦国せんごく乱世らんせいおんなたち」、笠原かさはら一男かずお へん彼岸ひがんきる中世ちゅうせいおんな評論ひょうろんしゃ日本にっぽん女性じょせい3〉、1976ねん 

関連かんれん項目こうもく[ソースを編集へんしゅう]

  • 吉川よしかわ元春もとはるかん新庄しんじょうきょく居住きょじゅう隣接りんせつには吉川よしかわ元春もとはるかん完成かんせいまでんだ松本まつもと屋敷やしきあともある)