尼子あまこ経久つねひさ

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尼子あまこ 経久つねひさ
尼子あまこ経久つねひさ肖像しょうぞうほらこうてらぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 長禄ちょうろく2ねん11月20にち1458ねん12月25にち
死没しぼつ 天文てんもん10ねん11月13にち1541ねん11月30にち[1]
改名かいめい 又四郎またしろう[1]幼名ようみょう)→ 経久つねひさ
別名べつめい 官途かんとみんしょう[1]伊予いよもり[1]
渾名あだなじゅういちしゅう太守たいしゅ鬼神きじんくもしゅうおおかみはかりごときよし
戒名かいみょう 興國こうこくいん殿どのがつ叟省こころだい居士こじ[1]
經久つねひさてら殿どのがつまど清心せいしんだい居士こじ
眞性しんせいいん殿どのがつ叟省こころだい居士こじ
墓所はかしょ ほらこうてら島根しまねけん安来やすぎ
経久つねひさてら鳥取とっとりけん西伯さいはくぐん伯耆ほうきまち
永昌寺えいしょうじ島根しまねけん浜田はまだ金城きんじょうまち
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ出雲いずも守護しゅごだい
主君しゅくん 京極きょうごく政経せいけい大内おおうち義興よしおき
氏族しぞく 尼子あまこ
父母ちちはは ちち尼子あまこきよしじょう[1]はは真木まきちょうおやむすめ
兄弟きょうだい 経久つねひさみなもと四郎しろう久幸ひさゆき義勝よしかつ
つま 正室せいしつ吉川よしかわ夫人ふじん吉川よしかわけいもとむすめ[1]
政久まさひさ[1]国久くにひさ[1]塩冶えんやきょうひさし[1]、いとう(北島きたじましつ[1])、むすめ千家せんげしつ[1])、むすめ宍道しんじひさけいしつ[1])、たけどうけん大和尚だいおしょう
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尼子あまこ 経久つねひさ(あまご つねひさ)は、戦国せんごく時代じだい (日本にっぽん)武将ぶしょう大名だいみょう出雲いずも守護しゅごだい、のち出雲いずも守護しゅごじゅういちヶ国かこく太守たいしゅわれる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

少年しょうねん[編集へんしゅう]

長禄ちょうろく2ねん(1458ねん)11がつ20日はつか出雲いずも守護しゅごだい尼子あまこきよしじょう嫡男ちゃくなんとして出雲いずもこくまれる[2]幼名ようみょう又四郎またしろう

文明ぶんめい6ねん1474ねん)、人質ひとじちとして出雲いずも飛騨ひだ隠岐おき近江おうみ守護しゅごつとめる主君しゅくん京極きょうごく政経せいけい京都きょうと屋敷やしきおくられ、京都きょうと滞在たいざいする。滞在たいざいちゅう元服げんぷくし、京極きょうごく政経せいけいへんいみなたまわり、経久つねひさ名乗なのる。5ねん出雲いずもこく下向げこうする。文明ぶんめい10ねん1478ねん)までにちちから家督かとくゆずられた。

家督かとく継承けいしょう[編集へんしゅう]

当初とうしょ京極きょうごくがわ立場たちばであったが、次第しだい国人くにびとしゅむすびつきをつよくし、室町むろまち幕府ばくふ命令めいれい無視むしして政経せいけい寺社じしゃりょうを押領し、美保関みほのせき公用こうようぜにだんぜに徴収ちょうしゅう拒否きょひなどをつづけて独自どくじ権力けんりょく基盤きばんきずく。だが、その権力けんりょく基盤きばん拡大かくだい途上とじょう西出にしでくも塩冶えんや対立たいりつするなど、権力けんりょく拡大かくだいには限界げんかいがあった。

これらの行動こうどう原因げんいんとなり幕府ばくふ守護しゅご国人くにびとからも反発はんぱつけ、文明ぶんめい16ねん1484ねん)に居城きょじょう包囲ほういされ、守護しゅごだいしょく剥奪はくだつされて出雲いずもから追放ついほうされたと後世こうせい軍記ぐんきぶつではかれている。しかし、守護しゅごだいしょくわれたのみであり、出雲いずも在国ざいこくしたまま一定いってい権力けんりょく保有ほゆうしていた。実際じっさいちょうとおる2ねん1488ねん)、出雲いずも国人くにびと三沢みさわ攻撃こうげき降伏ごうぶくさせるなど、その権力けんりょくおとろえてはいなかった。

ただ、守護しゅごだい地位ちいかえき、完全かんぜん復権ふっけんたしたのはあかりおう9ねん1500ねん)であり、近江おうみこくいえ騒動そうどう京極きょうごく騒乱そうらん)にやぶれて下向げこうしてきた政経せいけいとの関係かんけい修復しゅうふくした。そして政経せいけい死後しご出雲いずも大社たいしゃ造営ぞうえいおこなったうえで、経久つねひさ宍道しんじとの婚姻こんいん関係かんけいすすめ、対立たいりつ関係かんけいにあった塩冶えんや圧迫あっぱくするなど、出雲いずも統治とうちしゃとしての地位ちい確立かくりつしはじめる。なお、政経せいけいまごよし童子丸どうじまる家督かとくゆずえいただし5ねん1508ねん)に死去しきょ経久つねひさ多賀たがけいちょうともよし童子丸どうじまる後見こうけんたくされた。経久つねひさきち童子丸どうじまるはは御料ごりょうじん京都きょうとからせ、彼女かのじょ威光いこう背景はいけいに、京極きょうごく守護しゅご)・尼子あまこ守護しゅごだい体制たいせい維持いじして出雲いずもこく統治とうちした。きち童子丸どうじまるえいただし11ねん1514ねん以降いこう病死びょうししたため、経久つねひさ事実じじつじょう出雲いずもあるじとなっていった。このさいよし童子丸どうじまる経久つねひさ殺害さつがいされたとする主張しゅちょう存在そんざいするが、当時とうじ守護しゅごだい家格かかくにあるもの下剋上げこくじょうによって守護しゅご就任しゅうにんすることは不可能ふかのうであり、下剋上げこくじょうせつりたない。なお、よし童子丸どうじまる死後しご経久つねひさ抵抗ていこうする出雲いずも国内こくないうごきはつづいており、経久つねひさ出雲いずも国内こくない完全かんぜん掌握しょうあくしたのはそれから10ねん以上いじょうだいひさし年間ねんかんはいってからである[3]

えいただしだいひさし年間ねんかんしるされた『大舘おおたちつねきょう書札しょさつしょう』には、「くもしゅう守護しゅご佐々木ささき尼子あまこ殿どの」といてあることから、すくなくともだいひさし年間ねんかん1521ねん1528ねん)には経久つねひさ守護しゅご就任しゅうにんしていたことがわかる。守護しゅごだいであった経久つねひさ守護しゅご就任しゅうにんできたのは、守護しゅご京極きょうごく断絶だんぜつしたこと、尼子あまこ室町むろまち幕府ばくふ京極きょうごくおな佐々木ささきであるとみとめられていたことがおおきい。

尼子あまこ勢力せいりょく拡大かくだい[編集へんしゅう]

えいただし5ねん1508ねん)、西国さいごくだいである周防すおう山口やまぐち大内おおうち当主とうしゅ大内おおうち義興よしおき上洛じょうらく。この上洛じょうらく経久つねひさしたがった。そのながせい8ねん1511ねん)、京都きょうとふね岡山おかやま合戦かっせん参加さんかした。

えいただし9ねん1512ねん)、備後びんご国人くにびと大場おおば山城やましろおも古志こし為信ためのぶ大内おおうちへの反乱はんらん支援しえんしている。この時期じき次男じなん尼子あまこ国久くにひさ細川ほそかわだかこくから、三男さんなん塩冶えんやきょうひさし大内おおうち義興よしおきからへんいみなけており、両者りょうしゃとの関係かんけい親密しんみつにしようとしていた。

えいただし10ねん1513ねん)、経久つねひさおとうと久幸ひさゆき伯耆ほうきこく南条なんじょう宗勝むねかつめさせる一方いっぽう嫡男ちゃくなん尼子あまこ政久まさひさ叛旗はんきひるがえした桜井さくらい入道にゅうどうむねてきもるおもねようじょうけた。しかしその最中さいちゅう政久まさひさたっていのちとした[4]

えいただし14ねん1517ねん)、大内おおうち義興よしおき石見いわみ守護しゅご就任しゅうにん納得なっとく出来できなかったぜん石見いわみ守護しゅご山名やまなむすび、石見いわみこくうちだい内方ないほうしろめている。ただし、このとき大内おおうちとのたたかいは小競こぜ程度ていどのものであり、えいただし15ねん1518ねん)に本国ほんごく周防すおうこく帰還きかんすることになる大内おおうち義興よしおき在京ざいきょうちゅうより、経久つねひさ大内おおうちりょう侵略しんりゃくおこなっていたとする見方みかた正確せいかくなものではない[3]

また、同年どうねん備中びっちゅうこく北部ほくぶちから新見にいみむすび、三村みつむら攻撃こうげきしている。

えいただし17ねん1520ねん)、経久つねひさ出雲いずもこく西部せいぶ支配しはいをようやく確立かくりつすることになる。だが、一方いっぽう備後びんごこく山内やまうち安芸あきこく宍戸ししどなど国境こっきょうせっする国人くにびと領主りょうしゅたちとの対立たいりつみ、とく山内やまうち出雲いずも国内こくないへの影響えいきょうりょく無視むししえないものであった。そのため、備後びんご安芸あきへの進出しんしゅつ出雲いずも国内こくない支配しはい安定あんてい必要ひつようじょうかせないものであり、それはどう地域ちいき利害りがい関係かんけい大内おおうちとの軍事ぐんじてき衝突しょうとつをも意味いみしていた[3]

だいなが元年がんねん1521ねん以降いこう尼子あまこ石見いわみこく侵入しんにゅうした。安芸あきこくへもばし、だいなが3ねん1523ねん)には重臣じゅうしん亀井かめいしげるつないのち傘下さんか安芸あき国人くにびとである毛利もうりに、大内おおうち安芸あき経営けいえい拠点きょてんであるかがみ山城やましろめさせた。毛利もうり当主とうしゅ毛利もうりみゆき松丸まつまる叔父おじである元就もとなり策略さくりゃく使つかい、城主じょうしゅくら田房たふさしん叔父おじ蔵田くらた直信なおのぶ寝返ねがえらせ、城主じょうしゅぼうしん自害じがいきょう山城やましろ落城らくじょうした[5]のち直信なおのぶ自害じがいさせられた(鏡山かがみやまじょうたたか)。

だいなが4ねん1524ねん)、経久つねひさ軍勢ぐんぜいひき西にし伯耆ほうき侵攻しんこうし、南条なんじょう宗勝むねかつやぶさら守護しゅご山名やまなきよしこれ敗走はいそうさせ、西にし伯耆ほうき手中しゅちゅうおさめた。敗北はいぼくした伯耆ほうき国人くにびとおおくは因幡いなば但馬たじまへと逃亡とうぼうし、南条なんじょう宗勝むねかつ但馬たじま山名やまなたよった。かつては、この進撃しんげきはたっていちばんげられたとされていたが、これはだいなが4ねんから200ねん以上いじょう時代じだいしるされた『伯耆ほうきみんことわざ』に由来ゆらいする後世こうせい創作そうさくであり、実際じっさいには、文明ぶんめい3ねん1471ねんごろに、ちち尼子あまこきよしじょうが、きよしこれ対立たいりつしていた西にし伯耆ほうき山名やまな元之もとゆききよしこれおとうと)とむすんだときからの一連いちれんこうそう結果けっかである。

しかし、同年どうねんにはあま子方こかたであった安芸あき武田たけだ友田ともだ大内おおうち敗北はいぼくし、毛利もうり元就もとなり異母弟いぼていである相合そうごうもとつなとの内紛ないふんのちだいなが5ねん1525ねん)に尼子あまことの関係かんけい解消かいしょうして大内おおうち所属しょぞくえた。これらにより、尼子あまこかたむいていた安芸あき国内こくない勢力せいりょくバランスがわることになった。毛利もうり離反りはんは、毛利もうり後継こうけいあらそいに尼子あまこ家臣かしん亀井かめいしげるつな介入かいにゅうしたことがおおきな原因げんいんとされているが、実際じっさいには経久つねひさつよ意向いこうはたらいていた。

だいなが6ねん1526ねん)、伯耆ほうき備後びんご守護しゅごしょくであった山名やまなはんあま子方こかたであることを鮮明せんめいとし、尼子あまこ大内おおうち山名やまな包囲ほういされるかたち窮地きゅうちたされる。よくだいなが7ねん1527ねん)、経久つねひさみずか備後びんごこくへとへい出兵しゅっぺいさせるもほそ沢山だくさんたたかにてとうきょうぼう敗走はいそうし、尼子あまこかたであった備後びんご国人くにびと大半たいはん大内おおうちへと寝返ねがえった。

塩冶えんやきょうひさらん[編集へんしゅう]

とおるろく元年がんねん(1528ねん)、ふたた経久つねひさみずか備後びんごこくへとおもむ多賀たがやましとみ山城やましろめこれを陥落かんらくさせるも、同年どうねん5がつには石見いわみこくにおける尼子あまこかた高橋たかはし毛利もうり和智わちによりほろぼされている。

とおるろく3ねん1530ねん)、三男さんなん塩冶えんやきょうひさが、はん尼子あまごであることを鮮明せんめいにして内紛ないふん勃発ぼっぱつした。このとききょうひさ出雲いずも大社たいしゃ鰐淵わにぶちてら三沢みさわ多賀たが備後びんご山内やまうちとうしょ勢力せいりょく味方みかたけており、だい規模きぼ反乱はんらんであったことがうかがえる。また、どう時期じきにはきょうひさ大内おおうち援助えんじょもとめており、経久つねひさおな時期じきぶんってつたえている。結局けっきょくところ消極しょうきょくてきながら大内おおうち経久つねひさがわ支援しえんする立場たちばになっている。当時とうじ大内おおうち家臣かしんとうきょうぼうとおるろく3ねん5がつ28にちしるした書状しょじょうるにしても、きょうひさ経久つねひさこうから対立たいりつしており、さらには経久つねひさ攻撃こうげきなん退しりぞけていることがうかがえる。また、大内おおうち両者りょうしゃから支援しえんもとめられるも、最終さいしゅうてきには経久つねひさがわ支援しえんしており、尼子あまこ和睦わぼくしている。

だが、この反乱はんらん天文てんもん3ねん1534ねん)に鎮圧ちんあつされ、きょうひさ備後びんご山内やまうちきのえ山城やましろのがれたのちおいであるかいひさし攻撃こうげきとうもあり自害じがいした。そのくび検証けんしょうため塩漬しおづけにしたきょうひさくび尼子あまごがわおくっている。きょうひさのこりょう経久つねひさ次男じなん尼子あまこ国久くにひさいだ。また、どう時期じきには隠岐おきこく国人くにびと隠岐おきためきよし反乱はんらんこしているが、すぐに鎮圧ちんあつされている。同年どうねんにはかいひさ美作みさくこくへと侵攻しんこうし、これを尼子あまこ影響えいきょうく。また、その備前びぜんへと侵攻しんこうするなど勢力せいりょく徐々じょじょひがしへと拡大かくだいしていった。こののちかいひさ大友おおともともはん大内おおうち包囲ほういもう参加さんかしている。

家督かとく譲渡じょうと[編集へんしゅう]

天文てんもん6ねん1537ねん)、経久つねひさ家督かとく嫡孫ちゃくそんかいひさし尼子あまこ晴久はるひさ)にゆずっている。同年どうねんには大内おおうち所有しょゆうしていた石見いわみ銀山ぎんざん奪取だっしゅしている。

大友おおとも大内おおうちあらそいがつづいていたこともあり(または大内おおうちとは表面ひょうめんじょう和睦わぼく状態じょうたいだったため)、東部とうぶへの勢力せいりょくさら拡大かくだいすべく播磨はりま守護しゅご赤松あかまつまさしゆうたたか大勝たいしょうする。これにせいゆう一時いちじ淡路あわじこくへと逃亡とうぼうする。翌年よくねん天文てんもん8ねん1539ねん)、別所べっしょ籠城ろうじょうする三木みきしろ尼子あまごかたへと寝返ねがえったため、せいゆうさかいへと逃亡とうぼう。これによりかいひさきょう上洛じょうらくするかまえをせたが、大友おおとも大内おおうち和解わかいさらには尼子あまことの和睦わぼく破棄はきされ石見いわみ銀山ぎんざん奪回だっかいされた。同年どうねん大内おおうちによって尼子あまこから援兵えんぺいけていた安芸あき子方こかた武田たけだ居城きょじょう佐東さとう銀山ぎんざんじょう落城らくじょう当主とうしゅ武田たけだ信実しんじつ一時いちじ若狭わかさこくへと逃亡とうぼうする。そのため、かいひさ出雲いずもこくへと撤退てったいした。

これにより大内おおうちとの和睦わぼく完全かんぜん破綻はたんし、天文てんもん9ねん1540ねん)、大内おおうちとの早期そうき決戦けっせん目指めざ大内おおうち勢力せいりょくにある安芸あき国人くにびと毛利もうり討伐とうばつ武田たけだ信実しんじつ要請ようせいかいひさ出陣しゅつじん周囲しゅうい形勢けいせい尼子あまこ有利ゆうりであり、その軍勢ぐんぜいしょ外国がいこくからの援軍えんぐんくわわり3まんにんへとふくがっていた。この大軍たいぐんひき吉田よしだぐん山城やましろ包囲ほうい大内おおうちとの決戦けっせんそなえるも翌年よくねんには厳島いつくしま神社じんじゃにて戦勝せんしょう祈願きがんえたとう隆房たかふさひきいる大内おおうち援軍えんぐん2まんにんとの激戦げきせんすえ敗北はいぼくし、尼子あまこ安芸あきでの基盤きばんうしなった(吉田よしだぐん山城やましろたたか)。

天文てんもん10ねん(1541ねん)11月13にち月山がっさん富田とみたしろうち死去しきょした。享年きょうねん84(まん82さいぼつ[1]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • かつては北条早雲ほうじょうそううんなら下剋上げこくじょう典型てんけいとされた。現在げんざいは、はやくも盛時せいじ)も経久つねひさ下剋上げこくじょうをして勢力せいりょく拡大かくだいしたとする見方みかた否定ひていされている。
  • 大内おおうち義興よしおきたたかい、尼子あまこ領地りょうちひろげ、全盛ぜんせい時代じだい実際じっさい全盛期ぜんせいきかれ嫡孫ちゃくそんにあたる尼子あまこ晴久はるひさだい)をつくったことから、「はかりごときよし(ぼうせい)」「はかりごとしょう(ぼうしょう)」としょうされた。「毛利もうり元就もとなり宇喜多うきた直家なおいえなら謀略ぼうりゃく天才てんさい」ともわれ、経久つねひさ元就もとなり直家なおいえ中国ちゅうごくさんだいはかりごとしょうともしょうされる。
  • 多面ためんすぐれ、文武両道ぶんぶりょうどうだったという。晩年ばんねん自画像じがぞうのこしている。
  • 家臣かしんたいしては非常ひじょう使つかやさしい人物じんぶつであった。『 塵塚ちりづか物語ものがたり』によれば、経久つねひさ家臣かしん経久つねひさものめるとたいそうよろこび、どんな高価こうかなものでもすぐにそのものあたえてしまうため、家臣かしんたちは使つかって、経久つねひさものめずながめているだけにしたとつたえている。あるとき家臣かしんにわまつなら大丈夫だいじょうぶだろうとおもい、まつえだぶりをほめたところ、経久つねひさはそのまつこしてわたそうとしたため、周囲しゅういものあわててめたという。それでも経久つねひさあきらめず、とうとうってたきぎにしてわたしたという。世人せじんは「もったいないことだ」とはなしたが、経久つねひさまったにもしなかったという。また、ふゆにはている着物きものいでは家臣かしんあたえていたため、うす綿めん小袖こそでいちまいごしていたともいわれる。『塵塚ちりづか物語ものがたり』は経久つねひさのことを「天性てんせい無欲むよく正直しょうじきひと」とひょうしている。
  • ケチともえるほどの倹約けんやくであり、家臣かしんふりかわあつることをいやがり、自分じぶんうすっていた。

政策せいさく[編集へんしゅう]

外交がいこう関係かんけい[編集へんしゅう]

  • 尼子あまこ本願寺ほんがんじこうきょうむすんでいた。嫡孫ちゃくそんはれひさだいにも本願寺ほんがんじ連絡れんらくっており、本願寺ほんがんじがわ日記にっき尼子あまこ度々どど登場とうじょうしている。

内政ないせい[編集へんしゅう]

  • 経久つねひさ配下はいか国人くにびとしゅ尼子あまこ直接ちょくせつ配下はいかとはいえず、非常ひじょう不安定ふあんていなものであった。これらを統一とういつ掌握しょうあくするべく、経久つねひさ対外たいがい遠征えんせいによる侵略しんりゃくにより出雲いずも国内こくない国人くにびとしゅをまとめようと努力どりょくしている。このよう配下はいか国人くにびとしゅたいして明確めいかく目標もくひょうかかげ、それに従属じゅうぞくさせるれいどう時代じだい大名だいみょうにもられ、甲斐かい武田たけだなどがある。
  • 11ヶ国かこく太守たいしゅ形容けいようされるが、実質じっしつじょう支配しはいけた勢力せいりょく出雲いずも石見いわみ隠岐おき伯耆ほうき備後びんご山陰やまかげであり、地域ちいき流動的りゅうどうてきであった。また勢力せいりょく形式けいしきてき主従しゅうじゅう関係かんけいふくまれたものであり、おおくの出雲いずも国人くにびと造反ぞうはんまねいている。そのうえ山陰さんいんどう山陽さんようどうには長年ながねんあいだ基盤きばんかためていた大内おおうち存在そんざいおおきく、最終さいしゅうてきには大内おおうち侵攻しんこう苦慮くりょし、きょうひさらんにより家中いえじゅう泥沼どろぬま状態じょうたいかったというのも事実じじつである。
  • 尼子あまこ拠点きょてんとした出雲いずもは、明徳めいとくらん以降いこう京極きょうごく守護しゅごだい派遣はけんすることで管理かんりをしていたが、しょう守護しゅごだいぐん奉行ぶぎょうといった下部かぶ組織そしき存在そんざいせず、守護しゅごだいのみが派遣はけんされるといった政治せいじ統治とうち代々だいだいおこなわれた。出雲いずもはその歴史れきしから他国たこくとはことなった統治とうち機構きこう支配しはい機構きこうっていた(出雲いずも国造くにのみやつこ勢力せいりょく寺社じしゃ勢力せいりょく在地ざいち国人くにびと・たたら製鉄せいてつじょうとう)。このため経久つねひさ国造くにのみやつこ勢力せいりょくである千家せんげ北島きたじま国人くにびと勢力せいりょくとしてもっと権力けんりょくのある宍道しんじ塩冶えんやとの婚姻こんいん政策せいさくすすめたのは、それらを尼子あまこ下部かぶ組織そしきへと体制たいせいしようとしたものであった。

尼子あまこ一族いちぞく造反ぞうはん[編集へんしゅう]

  • はれひさだいいち月山がっさん富田とみたじょうたたか以降いこう出雲いずもから退転たいてん追放ついほうするにいたったものなかに、尼子あまこ清久きよひさ多賀たが千家せんげ宍道しんじ佐波さわがいるが、これらは尼子あまこ婚姻こんいん縁戚えんせき関係かんけいむす一族いちぞくであった。これらは経久つねひさ時代じだい方針ほうしんにより婚姻こんいん関係かんけいすすめられたところがおおい。さら塩冶えんやきょうひさらんときにも一度いちどこれらの処分しょぶんけたもの塩冶えんやがわ加担かたんした。また、経久つねひさ塩冶えんやきょうひさけんまえて晴久はるひさ正室せいしつ尼子あまこ国久くにひさむすめとつがせて、親族しんぞく不和ふわくそうとした。しかし、このつまにより国久くにひさとのきずな晴久はるひさ新宮しんぐうとう粛清しゅくせいという手段しゅだんらせることになった。

画像がぞうしゅう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 今井いまい 1984, p. 326.
  2. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 51ぺーじ
  3. ^ a b c 藤井ふじい 2014, pp. 141–144.
  4. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』9へん4さつ717ぺーじ。「佐々木ささき系図けいず」「陰徳いんとく
  5. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』9へん20さつ142ぺーじ。「毛利もうり日記にっき

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ データベース『だい日本にっぽん史料しりょう
  • 今井いまいたかし日本にっぽん総覧そうらん』 3(中世ちゅうせい 2)、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1984ねんNCID BN00172373 
  • 藤井ふじいたかし大内おおうち義興よしおき : 西国さいこくの「覇者はしゃ」の誕生たんじょうえびすひかりさち出版しゅっぱん中世ちゅうせい武士ぶし選書せんしょ 21〉、2014ねん6がつISBN 978-4-86403-111-0NCID BB15726292全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:22420785 
  • 藤岡ふじおか大拙だいせつ藤沢ふじさわ秀晴ひではる山陰さんいん武将ぶしょう山陰中央新報社さんいんちゅうおうしんぽうしゃ、1974ねん 
  • べいはら正義まさよし出雲いずも尼子あまご一族いちぞく新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1981ねん 

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

銅像どうぞう
小説しょうせつ
主人公しゅじんこう一人ひとりであるあかあな宗右衛門そうえもんかたきやくとして登場とうじょうする。うたぐふか冷酷れいこく人物じんぶつとして描写びょうしゃされる一方いっぽう信義しんぎ敬意けいいはらうことのできるふところふか人物じんぶつとしてもえがかれている。
はかりごときよし 尼子あまこ経久つねひさでん 青雲せいうんあきら
はかりごときよし 尼子あまこ経久つねひさでん 風雲ふううんあきら
はかりごときよし 尼子あまこ経久つねひさでん 瑞雲ずいうんあきら
はかりごときよし 尼子あまこ経久つねひさでん 雷雲らいうんあきら
  • 今村いまむらしょうわれはかりごとひじりにえ』(『戦国せんごく武将ぶしょうでん 西日本にしにほんへん収録しゅうろく)PHP研究所けんきゅうじょ
テレビドラマ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]