尼子あまこ清久きよひさ

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尼子あまこ清久きよひさ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
別名べつめい 塩冶えんや清久きよく通称つうしょう彦四郎ひこしろう[1]
主君しゅくん 尼子あまこ晴久はるひさ
氏族しぞく 塩冶えんや尼子あまこ
父母ちちはは ちち塩冶えんやきょうひさし
加藤かとうまさしさだ
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尼子あまこ 清久きよひさ(あまご きよひさ)は、戦国せんごく時代じだい武士ぶし尼子あまこ家臣かしん

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

尼子あまこ経久つねひさ三男さんなん塩冶えんやきょうひさ嫡男ちゃくなん[1]として誕生たんじょう天文てんもん3ねん1534ねん)、ちちおきひさ尼子あまこたいして反乱はんらんこしたすえ自害じがいしたが、天文てんもん9ねん1540ねん)の史料しりょうである『自尊じそん上人しょうにんこう奉加ほうが目録もくろく』から清久きよくがあり一門いちもん序列じょれつであったことから、経緯けいい不明ふめいであるがちち反乱はんらんゆるされ尼子あまこせいふくしていたようである。

しかし、天文てんもん11ねん1542ねん)のだいいち月山がっさん富田とみたじょうたたかにおいてはん尼子あまご立場たちばえたため、その尼子あまこ晴久はるひさにより粛清しゅくせいされたようである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  • 今井いまいたかし日本にっぽん総覧そうらん』 3(中世ちゅうせい 2)、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1984ねんNCID BN00172373