月山がっさん富田とみたじょうたたか

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月山がっさん富田とみたしろ遠景えんけい

月山がっさん富田とみたじょうたたか(がっさんとだじょうのたたかい)は、1542ねんから1543ねん1565ねんから1566ねん尼子あまこ本拠ほんきょである出雲いずもこく月山がっさん富田とみたしろげん島根しまねけん安来やすぎ)をめぐって発生はっせいした合戦かっせんである。

この合戦かっせんは、大内おおうち義隆よしたか毛利もうりなどのしょ勢力せいりょくれてんだだいいち月山がっさん富田とみたじょうたたかと、大内おおうち滅亡めつぼう毛利もうり元就もとなりおこなっただい月山がっさん富田とみたじょうたたかけることができる。なお、だい合戦かっせんにより尼子あまこ滅亡めつぼうしたが、その尼子あまこ再興さいこう目指めざ勢力せいりょくこしたたたかいについても、あわせてほんこう記述きじゅつする。

だいいち月山がっさん富田とみたじょうたたか[編集へんしゅう]

月山がっさん富田とみたじょうたたか
戦争せんそう戦国せんごく時代じだい (日本にっぽん)
年月日ねんがっぴ1542ねん - 1543ねん
場所ばしょ月山がっさん富田とみたしろ
結果けっかだい内方ないほう撤退てったい尼子あまこ勢力せいりょく回復かいふく
交戦こうせん勢力せいりょく
大内おおうち 尼子あまこ
指導しどうしゃ指揮しきかん
大内おおうち義隆よしたか
大内おおうちはる
毛利もうり元就もとなり
尼子あまこ晴久はるひさ
新宮しんぐうとう各員かくいん
戦力せんりょく
やく45,000 やく15,000
毛利もうり元就もとなりたたか

背景はいけい[編集へんしゅう]

天文てんもん10ねん1541ねん)に尼子あまこ晴久はるひさひきいる尼子あまこぐんは、毛利もうり本拠ほんきょである吉田よしだぐん山城やましろめたものの、大内おおうちぐん援軍えんぐん毛利もうりぐん撃退げきたいされた(吉田よしだぐん山城やましろたたか)。この尼子あまこによる安芸あき遠征えんせい失敗しっぱいにより、安芸あき備後びんご国人くにびとしゅは、尼子あまこがわだった国人くにびと領主りょうしゅたちをふくめて、大内おおうちがわもの続出ぞくしゅつした。さらに、安芸あき備後びんご出雲いずも石見いわみ主要しゅよう国人くにびとしゅから、尼子あまこ退治たいじもとめる連署れんしょじょう大内おおうちされたことをけ、とう隆房たかふさはじめとする武断ぶだん出雲いずも遠征えんせい主張しゅちょう相良さがらたけつとむ冷泉れいせんりゅうゆたか文治ぶんじ反対はんたいするが、最終さいしゅうてき大内おおうち義隆よしたかは、出雲いずも出兵しゅっぺいることになった。なお、大内おおうち出陣しゅつじんすこまえとなる、天文てんもん10ねん11月には、尼子あまこ経久つねひさ死去しきょしている。

合戦かっせん経過けいか[編集へんしゅう]

毛利もうり元就もとなり九死きゅうし一生いっしょうななざか

天文てんもん11ねん1がつ11にち(1542ねん1がつ26にち)に出雲いずもかって大内おおうちぐん本隊ほんたい出陣しゅつじん大内おおうちぐん義隆よしたかみずからがそう大将たいしょうとなり、とう隆房たかふさ杉重すぎじゅうのり内藤ないとうきょうもり冷泉れいせんりゅうゆたか弘中ひろなかたかしつつみらがへいひきいていた。また、義隆よしたか養嗣子ようしし大内おおうちはるあわせて出陣しゅつじんする。1月19にち厳島いつくしま神社じんじゃ戦勝せんしょう祈願きがんをしたのち、出雲いずもかう。毛利もうりぐん毛利もうり元就もとなり小早川こばやかわ正平しょうへい益田ますだ藤兼ふじかね安芸あき周防すおう石見いわみ国人くにびとしゅあつめて大内おおうちぐん合流ごうりゅうした。

4がつ出雲いずも侵入しんにゅうしたものの、あかあなじょう攻略こうりゃく[1]に6がつ7にちから7がつ27にちまでの日数にっすうようし、10月になって三刀屋みとやほう本陣ほんじんかまえた。そのとしして月山がっさん富田とみたしろのぞ京羅木山きょうらぎさん本陣ほんじんうつす。天文てんもん12ねん1543ねん)3がつになって攻防こうぼうせん開始かいしされたが、しろめは難航なんこうする[2]。また、糧道りょうどうにて尼子あまごぐんゲリラ戦術せんじゅつ兵站へいたん補給ほきゅうくるしむ。そして、4がつまつには、尼子あまこ麾下きかから大内おおうち鞍替くらがえしてさんじんしていた三刀屋みとやひさ三沢みさわためきよし本城ほんじょう常光じょうこう吉川よしかわきょうけいなどの国人くにびとしゅふたたあま子方こかた寝返ねがえった。『陰徳いんとく太平たいへい』によると、しろめるとせかけて堂々どうどう城門じょうもんから尼子あまこぐん合流ごうりゅうしていったとわれる。これによりだい内方ないほう劣勢れっせい明白めいはくとなった。

5月7にち大内おおうちぐん撤退てったいにとりかかり、出雲いずも意宇いうぐん出雲いずもうら[注釈ちゅうしゃく 1]退しりぞいた。だが、尼子あまこぐん追撃ついげきはげしく、大内おおうち家臣かしん福島ふくしま源三郎げんざぶろう親弘ちかひろ右田みぎた弥四郎やしろうたちがふせ戦死せんししている。このとき、義隆よしたかはれ別々べつべつのルートで周防すおうまで退却たいきゃくはかった。義隆よしたかは、宍道湖しんじこ南岸なんがん陸路りくろとおり、石見いわみ経由けいゆして5がつ25にち山口やまぐち帰還きかんする。しかし、中海なこみから海路かいろ退却たいきゃくしようとしたはれは、ふね事故じこ転覆てんぷくしたため溺死できしした[3][4]

また、毛利もうりぐんには殿しんがりめいじられていたが、尼子あまこぐんはげしい追撃ついげきくわえて、一揆いっきせもけたため、壊滅かいめつてき打撃だげきけた。安芸あきへの撤退てったいつづける毛利もうりぐんであったが、石見いわみ山吹やまぶきじょうからされた軍勢ぐんぜい追撃ついげきによって、元就もとなり嫡子ちゃくしりゅうはじめ自害じがい覚悟かくごするまでにめられたとされる。このとき毛利もうり家臣かしん渡辺わたなべとおる元就もとなり甲冑かっちゅう身代みがわりとなり、わずか7追撃ついげきぐんれて奮戦ふんせんしたのちにした[5]。この犠牲ぎせいにより元就もとなり吉田よしだぐん山城やましろへの撤退てったい成功せいこうした。

戦後せんご[編集へんしゅう]

この遠征えんせいは、1ねん4ヶ月かげつ長期間ちょうきかんにもおよんだ挙句あげく大内おおうちがわ敗戦はいせんとなり、寵愛ちょうあいしていたはれうしなった義隆よしたかはこれ以後いご政治せいじたいする意欲いよくうしなってしまう。このたたかいは大内おおうち衰退すいたい一因いちいんとなった一方いっぽう尼子あまこ晴久はるひさのもとで勢力せいりょく回復かいふくさせ、最盛さいせい創出そうしゅつする。また、大内おおうち滅亡めつぼうには石見いわみこくめぐって毛利もうり尼子あまこ熾烈しれつあらそいをつづけることとなった。

だい月山がっさん富田とみたじょうたたか[編集へんしゅう]

月山がっさん富田とみたじょうたたか
戦争せんそう戦国せんごく時代じだい (日本にっぽん)
年月日ねんがっぴ1565ねん1567ねん
場所ばしょ月山がっさん富田とみたしろ
結果けっか月山がっさん富田とみたしろ陥落かんらく(出雲いずも尼子あまこ滅亡めつぼう)
交戦こうせん勢力せいりょく
毛利もうりぐん 尼子あまこぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
毛利もうり元就もとなり
吉川よしかわ元春もとはる
小早川こばやかわ隆景たかかげ
尼子あまこ義久よしひさ
尼子あまこ倫久みちひさ
尼子あまこ秀久ひでひさ
戦力せんりょく
やく30,000~35,000 やく10,000
毛利もうり元就もとなりたたか

背景はいけい[編集へんしゅう]

周防すおう長門ながと攻略こうりゃくして大内おおうちほろぼし、勢力せいりょく拡大かくだいした毛利もうりは、石見いわみ銀山ぎんざんめぐって尼子あまこ対立たいりつしていたが、弘治こうじ2ねん(1556ねん)のしのぶげんくずえいろく2ねん(1559ねん)のくだざかたたかではやぶれていた。しかし、えいろく3ねん(1561ねん)12月に尼子あまこ晴久はるひさくなると、嫡男ちゃくなん尼子あまこ義久よしひさ家督かとくいだのちに、くもげい和議わぎえいろく5ねん(1562ねん)には石見いわみ銀山ぎんざん手中しゅちゅうおさめることに成功せいこうする。一方いっぽう尼子あまごがわは、家臣かしんだんにおける不和ふわくもげい和議わぎによる不満ふまん噴出ふんしゅつもあって、出雲いずも西部せいぶ南部なんぶ国人くにびとしゅおおくは毛利もうりがわへと離反りはんしていた。

しろ鹿しかじょうたたか[編集へんしゅう]

えいろく5ねん(1562ねん)7がつ3にち元就もとなりは3にん息子むすこ軍勢ぐんぜいひきいて吉田よしだぐん山城やましろ出陣しゅつじん途中とちゅう九州きゅうしゅう大友おおとも宗麟そうりん豊前ぶぜん毛利もうりりょうおどかしたため、毛利もうりたかしもと遠征えんせいぐんからはなれてその対応たいおうたった。

毛利もうりぐん石見いわみ経由けいゆして出雲いずもこく侵攻しんこう、12月には宍道湖しんじこ北岸ほくがん本陣ほんじんとなるあらいあい(あらわい)(あらくましろきずいた[6]月山がっさん富田とみたじょう防衛ぼうえいもうである「尼子あまこじゅうはた」とばれるささえじょうぐんのうち、あかあなじょう三沢みさわじょうなどいくつかのしろたたかわずして毛利もうりっているが、しろ鹿しかじょうなどは毛利もうりぐん抵抗ていこうしろ鹿しかじょうには城主じょうしゅ松田まつだまこととそのちち松田まつだみつるひさ、さらに援軍えんぐんである尼子あまこ家臣かしん牛尾うしおひさきよし軍勢ぐんぜい[7]ひきいてもっていた。しろ鹿しかじょう月山がっさん富田とみたじょう日本海にほんかいがわ玄関げんかんこうともいうべき役割やくわりしろで、月山がっさん富田とみたしろ孤立こりつさせるためには、このしろとすことによりふね日本海にほんかいから兵糧ひょうろうはこませるのをふせ必要ひつようがあった。しろ鹿しかじょう攻略こうりゃくのため、しろ鹿しかじょうきたにある真山まやま新山しんやましろもとはる占拠せんきょして布陣ふじんし、さらに和久羅山わくらさんさえ、中海なかうみ児玉こだま就方麾下きか水軍すいぐん派遣はけんして封鎖ふうさするなど、しろ鹿しかじょう月山がっさん富田とみたじょう分断ぶんだんすすめた。

えいろく6ねん1563ねん)、幕府ばくふ仲介ちゅうかい大友おおともとの和議わぎむすんだたかしもとは、遠征えんせいぐん合流ごうりゅうすべくしろ鹿しかじょうかう途上とじょう安芸あき佐々部ささべ急死きゅうしした。元就もとなりかなしみをかおさず[よう出典しゅってん]たかしもとへの追善ついぜん尼子あまこ撃滅げきめつのほかになし」と将兵しょうへいさとしたので、ぜんぐん士気しきふるった。8月13にちよるそう攻撃こうげき[8]おこなわれ、しょうしろ鹿しかじょうばれる出丸でまる占拠せんきょし、牛尾うしおひさきよしにも手傷てきずわせたものの、本丸ほんまるとすことはできなかった。また、元就もとなり石見いわみ銀山ぎんざんから鉱夫こうふすうひゃくにんせて、しろ鹿しかじょうみずつために坑道こうどうらせたが、毛利もうりすすめる坑道こうどう気付きづいた籠城ろうじょうぐん妨害ぼうがいした[9]。なお、このたたかいの最中さいちゅうには、矢文やぶみたたかいがあったとの逸話いつわのこされている[10]

9がつ下旬げじゅんになって、尼子あまこがわ義久よしひさおとうとである尼子あまこ倫久みちひさらが援軍えんぐん[11]しろ鹿しかじょうおくったが、毛利もうりぐん[12]包囲ほういもう突破とっぱすることはできなかった。後詰ごづめ敗退はいたいしたことでしろへい士気しきがり、10月に降伏ごうぶくした(しろ鹿しかじょうたたか)。

月山がっさん富田とみたじょう包囲ほういせん[編集へんしゅう]

しろ鹿しかじょう制圧せいあつした毛利もうり元就もとなりは、尼子あまこ拠点きょてん次々つぎつぎ制圧せいあつした。毛利もうり水軍すいぐんによって海上かいじょう封鎖ふうさし、福原ふくはらさだしゅん鉄砲てっぽうたいあたえて海岸かいがんせんまもりをかためており、えいろく8ねん(1565ねんはるごろには月山がっさん富田とみたじょうへの補給ほきゅうせんはほぼられていた[13]

4がつ17にち毛利もうりぐん月山がっさん富田とみたじょうへのそう攻撃こうげき[14]おこなった。月山がっさん富田とみたじょうには城内じょうないつうじるみちが3つあるため、正面しょうめん子守こもりこう(おこもりぐち)を元就もとなりひきいる軍勢ぐんぜい南側みなみがわしお谷口たにぐち(しおだにぐち)をもとはる軍勢ぐんぜい北側きたがわかん谷口たにぐち(すがたにぐち)を隆景たかかげ軍勢ぐんぜいめた。それにたいして尼子あまこぐんは、子守こもりこう尼子あまこ義久よしひさひきいる軍勢ぐんぜい塩谷しおやくち尼子あまこ倫久みちひさ山中やまなかみゆきもりらの軍勢ぐんぜいかん谷口たにぐち尼子あまこ秀久ひでひさらの軍勢ぐんぜいふせいだ。このときりゅうはじめ嫡子ちゃくし毛利もうり輝元てるもとと、元春もとはる嫡男ちゃくなん吉川よしかわ元長もとなが初陣ういじんとして参戦さんせんしている。しかし、士気しき旺盛おうせい尼子あまこぐん[15]善戦ぜんせんし、連日れんじつてる毛利もうりぐん城内きうち侵入しんにゅう阻止そしした。28にちそう攻撃こうげき中止ちゅうしした元就もとなりは、あらいごうじょう一時いちじ撤退てったいした。

同年どうねん9がつふたた毛利もうりぐん月山がっさん富田とみたしろ包囲ほういした。このとき飯梨川いいなしがわはさんで対峙たいじしていたりょうぐんなかで、山中やまなかみゆきもり鹿しかかい)が品川しながわすすむいんおおかみかい)をいちったとされる(山中やまなかみゆきもり品川しながわすすむいんいち)。しかし、毛利もうりぐんちからめをおこなわずに兵糧ひょうろうめをつづけたため、やがて城内きうち兵糧ひょうろう窮迫きゅうはくした。そのころには投降とうこうしゃはじめていたが、毛利もうりがわしろへい降伏ごうぶく一切いっさいみとめず、投降とうこうしたもの処刑しょけいされた。こうすることで、孤立こりつした城内きうちおおくのへいもることになり、補給ほきゅうのないなかしろ兵糧ひょうろうくさせる作戦さくせんであった。やがて、ふゆになり兵糧ひょうろうそこをつきはじめたところで降伏ごうぶくみとめる高札こうさつてたため、尼子あまこかた籠城ろうじょうへい集団しゅうだん投降とうこうするようになった。さらには、尼子あまこ譜代ふだい家臣かしんまでも投降とうこうはじめた。

一方いっぽう尼子あまごがわは、宇山うやまひさけん私財しざいをなげうって購入こうにゅうした兵糧ひょうろうひそかに間道かんどうから月山がっさん富田とみたじょうはこれつつ、奮闘ふんとうつづけていた。しかし、尼子あまこ義久よしひさ讒言ざんげんしんじて宇山うやまひさけんころしてしまうといういちけんがあり、士気しき沮喪そそうしていった。

えいろく9ねん(1566ねん)11月21にち尼子あまこ降伏ごうぶく毛利もうりがわ義久よしひさ尼子あまご一族いちぞく生命せいめい保証ほしょうし、28にちしろ義久よしひさらは安芸あきこくられ幽閉ゆうへいされた。なお、和睦わぼく交渉こうしょうをしているあいだ逃亡とうぼうへい続出ぞくしゅつしていたため、開城かいじょうしろへいわずか300めい[16]だったとされる。また、熊野くまのしろなどのこっていた尼子あまこかたしろ月山がっさん富田とみたしろ陥落かんらく開城かいじょうした。

戦後せんご[編集へんしゅう]

大内おおうちつづいて尼子あまこほろぼした毛利もうりは、中国地方ちゅうごくちほう最大さいだい戦国せんごく大名だいみょうとなった。後方こうほううれいをった毛利もうりは、えいろく11ねん(1568ねん)に河野こうの支援しえんして伊予いよこく出兵しゅっぺいし、さらに翌年よくねんえいろく12ねん(1569ねん)には本格ほんかくてき大友おおともとのたたかいをはじめるなど、その勢力せいりょくをさらに拡大かくだいしていく。なお、開城かいじょうした月山がっさん富田とみたじょうには、当初とうしょ福原ふくはらさだしゅんくちどおりりょう城代しろだいとして入城にゅうじょうしたが、翌年よくねんには天野あまの隆重たかしげ城代じょうだいとなる。そして、隆重たかしげ要請ようせいにより元就もとなりなん毛利もうりもとあき城主じょうしゅとなった。

一方いっぽう尼子あまこ降伏ごうぶく不満ふまん山中さんちゅう鹿しかかいこと山中やまなかみゆきもりは、叔父おじである立原たちはらひさつならとともに尼子あまこ再興さいこう活動かつどう奔走ほんそうした。

尼子あまこ再興さいこうぐんによる包囲ほうい[編集へんしゅう]

月山がっさん富田とみたじょうたたか
戦争せんそう戦国せんごく時代じだい (日本にっぽん)
年月日ねんがっぴえいろく12ねん7がつ1569ねん8がつ
場所ばしょ月山がっさん富田とみたしろ
結果けっか尼子あまこ再興さいこうぐん撤退てったい
交戦こうせん勢力せいりょく
尼子あまこ再興さいこうぐん 毛利もうりぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
あきじょうそうしん
山中やまなかみゆきもり
立原たちはらひさつな
天野あまの隆重たかしげ
戦力せんりょく
1,000~2,000(陰徳いんとく太平たいへい
1,000(くもぐん実記じっき
300(陰徳いんとく太平たいへい
500(くもぐん実記じっき
損害そんがい
(1かい
17(陰徳いんとく太平たいへい
(2かい
14~15(陰徳いんとく太平たいへい
不明ふめい


毛利もうりぐん九州きゅうしゅう侵攻しんこうおよ尼子あまこ再興さいこうぐんくもしゅう侵攻しんこう[編集へんしゅう]

尼子あまこほろぼし、中国ちゅうごく地方ちほうをほぼ手中しゅちゅうおさめた毛利もうりつぎなる目標もくひょうさだめたのは、きた九州きゅうしゅうおさめる大友おおとも討伐とうばつであった。 えいろく11ねん6がつ1568ねん7がつ)、元就もとなり伊予いよこく出兵しゅっぺいしていた吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげりょうぐん本国ほんごくである安芸あきこく帰還きかんさせると[17]毛利もうり伊予いよ出兵しゅっぺい)、同年どうねん8がつりょうしょう北九州きたきゅうしゅう派遣はけん大友おおとも討伐とうばつ開始かいしする[18]えいろく12ねん4がつ1569ねん5がつ)には、元就もとなり居城きょじょうである吉田よしだぐん山城やましろ長門ながとこくけて出陣しゅつじんする[19]。そして同年どうねん5がつちょうはいると、ここに本陣ほんじんかまえて大友おおとも討伐とうばつ拠点きょてんとした[20][21]多々良たたらはまたたか)。このとき、元就もとなり出陣しゅつじんにあわせ山陰さんいん地方ちほうおおくの国人くにびといたるにも九州きゅうしゅうへの出兵しゅっぺいめいじられており、山陰さんいん地方ちほう毛利もうりりょう警備けいび手薄てうすとなっていった[22]

一方いっぽう滅亡めつぼうした尼子あまこであったが、尼子あまこしょろうじんなかには一族いちぞく再興さいこう目指めざものがいた。その中心ちゅうしんとなった人物じんぶつ山中やまなかみゆきもりである[22]えいろく11ねん(1568ねん)、こうもり各地かくち放浪ほうろうしたのちきょうのぼると、きょう東福寺とうふくじ[注釈ちゅうしゃく 2]そうとなっていた尼子あまこ一門いちもん尼子あまこまことひさ遺児いじ尼子あまこ勝久かつひさ還俗げんぞくさせ、尼子あまこ再興さいこうぐん大将たいしょうとして擁立ようりつする[24]。そして各地かくち尼子あまこ遺臣いしんらを集結しゅうけつさせると、ひそかに尼子あまご再興さいこうたたかいをくわだてていた。

えいろく12ねん6がつ23にち(1569ねん8がつ6にち[25]毛利もうり大友おおとも攻撃こうげきするため北九州きたきゅうしゅうぐん派遣はけんすると[26]挙兵きょへい機会きかいをうかがっていたこう尼子あまこ再興さいこうぐん出雲いずもこく侵攻しんこう開始かいしする[27]尼子あまこ再興さいこうぐん但馬たじまこくからすうひゃくそうふねってうみわた島根しまね半島はんとう上陸じょうりくすると[28][注釈ちゅうしゃく 3]ちかくにあった忠山ちゅうやま(ちゅうやま)のとりで占拠せんきょする[30]勝久かつひさ尼子あまご再興さいこうぐんがここで再興さいこうげきばすと、国内こくない潜伏せんぷくしていた旧臣きゅうしんらが続々ぞくぞく集結しゅうけつし5にちうちに3,000あまりの軍勢ぐんぜいになったという[29][25]

そして同月どうげつ下旬げじゅんこう尼子あまこ再興さいこうぐん多賀たがもとりゅうもる新山しんやまじょう真山しんざんじょう)を攻略こうりゃくする[21]と、つづいて宍道湖しんじこ北岸ほくがん位置いちする末次すえつぐ島根しまねけん松江まつえ末次すえつぐまち現在げんざい松江城まつえじょう建設けんせつ。)にしろきずいて[31]ここを拠点きょてん末次すえつぐじょう)とした[32]尼子あまこ再興さいこうぐんくもしゅう侵攻しんこう)。

月山がっさん富田とみたじょうたたか[編集へんしゅう]

末次すえつぐじょう本陣ほんじんうつした尼子あまこ再興さいこうぐんは、かつての尼子あまこ居城きょじょう月山がっさん富田とみたじょう攻略こうりゃくりかかる。宇波うなみ島根しまねけん安来やすぎ広瀬ひろせまち宇波うなみ)、やまどう町山まちやまたすく)、布部ぬのべ同町どうちょう布部ぬのべ)、丸瀬まるせなど月山がっさん富田とみたじょう周囲しゅういに10箇所かしょあまりのこうしろきずくとともに[29][25]毛利もうりかたしろを8箇所かしょ[注釈ちゅうしゃく 4]攻略こうりゃくして[29]月山がっさん富田とみたしろ孤立こりつさせた。 そしてえいろく12ねん7がつ中旬ちゅうじゅん(1569ねん8がつ下旬げじゅん)、尼子あまこ再興さいこうぐん月山がっさん富田とみたしろめを開始かいしする[33]。このとき、中国ちゅうごく地方ちほう毛利もうりぐん元就もとなりいのちによりおおくのもの九州きゅうしゅう出陣しゅつじんしていたため、月山がっさん富田とみたしろれいれず天野あまの隆重たかしげひきいるわずかのへい[注釈ちゅうしゃく 5]しかのこっていなかった。

このような不利ふり状況じょうきょう打開だかいするため、城主じょうしゅである隆重たかしげ一計いっけいあん尼子あまこ再興さいこうぐん書状しょじょうおくりつける。隆重たかしげより「月山がっさん富田とみたしろ開放かいほう降伏ごうぶくしたい」とする書状しょじょうおくられてきた尼子あまこ再興さいこうぐんは、その真意しんいはかりかねたため、あきじょうそうしんへいひきいさせ[注釈ちゅうしゃく 6]月山がっさん富田とみたじょうかわせる。 月山がっさん富田とみたじょう到着とうちゃくした尼子あまこ再興さいこうぐんは、隆重たかしげ書状しょじょうのとおりさしたる抵抗ていこうもなくしろ奥深おくふかくまですすむものの、七曲ななまがりの終点しゅうてん付近ふきんさんまるまえ)においてかまえていた毛利もうりぐんより急襲きゅうしゅうける。隆重たかしげ降伏ごうぶくうそだったのである。隆重たかしげ書状しょじょうしん攻撃こうげきいと油断ゆだんしていたそうしん[注釈ちゅうしゃく 7]毛利もうりぐんより鉄砲てっぽう弓矢ゆみやかけられ部隊ぶたい混乱こんらんし、反撃はんげきするあいだもなく多数たすう犠牲ぎせいしゃ負傷ふしょうしゃ末次すえつぐじょう撤退てったいした[34][35]

その[注釈ちゅうしゃく 8]尼子あまこ再興さいこうぐん山中やまなかみゆきもり立原たちはらひさつならに1,000のへいひきいさせふたた月山がっさん富田とみたしろめる。しかし攻略こうりゃくすることはできなかった(たたかいの内容ないよう史料しりょうによって異同いどうあり。詳細しょうさいせつ逸話いつわ参照さんしょう。)。退却たいきゃくするさい城内きうちより神代かみよ大炊おおいかいが70~80にんへいひきいて追撃ついげきしてきたが、牛尾うしお弾正だんじょうちゅう殿しんがりとなりその攻撃こうげきふせ無事ぶじ帰還きかんした[36][37]

戦後せんご影響えいきょう[編集へんしゅう]

月山がっさん富田とみたしろ攻略こうりゃくすることはできなかった尼子あまこ再興さいこうぐんであったが、その出雲いずも国内こくないにおいて16のしろ攻略こうりゃく[36][注釈ちゅうしゃく 9]、その勢力せいりょくを6,000あまりにまで拡大かくだいさせた[36]。そして7がつ下旬げじゅん(9がつ中旬ちゅうじゅんごろには、出雲いずもにおいて「ざい所々ところどころ者共ものどものこところかれろうじん尼子あまこ再興さいこうぐん)に同意どういこう」と天野あまの隆重たかしげ書状しょじょうつたえるよう[39]出雲いずもこくいちえん尼子あまこ再興さいこうぐん支配しはいする状態じょうたいとなった。

出雲いずも国内こくない支配しはい着々ちゃくちゃくすすめる尼子あまこ再興さいこうぐんであったが、その拠点きょてんである月山がっさん富田とみたじょうについては、石見いわみからの毛利もうり救援きゅうえんぐんとのたたかい(はら合戦かっせん)や隠岐おきためきよし反乱はんらん美保関みほのせき合戦かっせん)などによって時間じかんをとられ攻略こうりゃくすることができないでいた。しかしながら、つづ月山がっさん富田とみたしろ包囲ほういして圧力あつりょくつよつづけていたため、城内きうちでは兵糧ひょうろう欠乏けつぼう[24]、また、うまらい河本かわもと湯原ゆはららが尼子あまこ再興さいこうぐん投降とうこうするなど[40]優位ゆうい情勢じょうせい月山がっさん富田とみたしろ攻略こうりゃくすすめていた。

一方いっぽう毛利もうりぐんだい友軍ゆうぐんとのあらそいのすえ立花りっかじょう奪取だっしゅするも[41]つづだい友軍ゆうぐん立花りっかじょうまりつづけたためぐんうごかすことができないでいた[42][43]。10月11にち(11月19にち)には、大友おおとも支援しえんけた大内おおうち輝弘てるひろうみわた[44]、その翌日よくじつには周防すおうこく大内おおうち屋敷やしきあと襲撃しゅうげきしてその一時いちじ占拠せんきょする事態じたい発生はっせいした[45]大内おおうち輝弘てるひろらん)。毛利もうり領国りょうごく支配しはい体制たいせい一転いってん最大さいだい危機ききむかえるのである。

ここにいたって毛利もうり当主とうしゅ毛利もうり元就もとなりは、北九州きたきゅうしゅうざいじんする毛利もうりぐん撤退てったい決定けっていする。10月15にち(11月23にち)、立花りっかじょうざいじんする毛利もうりぐんは、乃美のみ宗勝むねかつかつら元重もとしげ坂元さかもとゆうひとし[46]わずかなへいのこして撤退てったい開始かいし[47]、その北九州きたきゅうしゅうざいじんする毛利もうりぐん随時ずいじ撤退てったいしていった。11月21にち(12月28にち)にはしろのこっていた宗勝むねかつらも退却たいきゃく[48]毛利もうりぐん門司もじじょうのこして北九州きたきゅうしゅうからすべ撤退てったいした。

えいろく12ねん10がつ18にち(1569ねん11月26にち)、吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげ毛利もうりぐんは、九州きゅうしゅうからじん撤収てっしゅうしてちょう帰着きちゃくすると[44]、10月25にち(12月3にちごろ大内おおうち再興さいこうぐん反乱はんらん鎮圧ちんあつする[49]輝弘てるひろ富海とどみ自刃じじん[50]大内おおうち再興さいこうたたかいはわず半月はんつきらずで終結しゅうけつした(大内おおうち輝弘てるひろらん)。反乱はんらん鎮圧ちんあつした毛利もうりぐんは、12月23にち1570ねん1がつ29にち)にちょうにあったじんはらい、居城きょじょうである吉田よしだぐん山城やましろ帰還きかんした[24]

えいろく13ねん1がつ6にち(1570ねん2がつ10日とおか)、本国ほんごく帰還きかんした毛利もうり輝元てるもと吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげらは、やすむまもなく尼子あまこ再興さいこうぐん鎮圧ちんあつするため吉田よしだぐん山城やましろより大軍たいぐんひき出陣しゅつじんする[51]毛利もうりぐん北上ほくじょうして出雲いずもこく入国にゅうこくすると、尼子あまこかたしょしろ攻略こうりゃくしながら月山がっさん富田とみたじょうじんすすめていった。 そして2がつ14にち(3がつ20日はつか)、毛利もうりぐん尼子あまこ再興さいこうぐん布部ぬのべ現在げんざい島根しまねけん安来やすぎ広瀬ひろせまち布部ぬのべ)でたたか勝利しょうりする[52]布部ぬのべさんたたか)。翌日よくじつ2がつ15にち(3がつ21にち))には、城内きうち兵糧ひょうろうまったくなり[53][54]落城らくじょう寸前すんぜんであった月山がっさん富田とみたしろ尼子あまこ再興さいこうぐん包囲ほういから開放かいほう救援きゅうえん成功せいこうした[24]。これにより以後いご尼子あまこ再興さいこうぐん毛利もうりぐんとの攻守こうしゅおおきくわり、尼子あまこ再興さいこうぐん衰亡すいぼうしていくこととなった。

せつ逸話いつわ[編集へんしゅう]

2かいたたかいで尼子あまこ再興さいこうぐんじんいたとされるきよし安寺あてらしろ安寺あてら)。現在げんざい月山がっさん富田とみたじょうふもとにあるが、当時とうじ富田川とんだがわ飯梨川いいなしがわ)をはさんで月山がっさん富田とみたじょう対岸たいがんにあった(現在げんざい安来やすぎ地域ちいき包括ほうかつ支援しえんセンターの位置いち)。
  • あきじょうそうしん天野あまの隆重たかしげから「降伏ごうぶくする」とのにせ書状しょじょうったさい対応たいおうについて史料しりょうにより異同いどうがある。『くもぐん実記じっき』では、山中やまなか鹿之助しかのすけ山中やまなかみゆきもり)がそうしんに「隆重たかしげ毛利もうり忠臣ちゅうしんであるため月山がっさん富田とみたしろまかせられている。その隆重たかしげいちせんもせずに降参こうさんするとは理解りかいしがたい。よって、無勢ぶぜい籠城ろうじょうするのはむずかしいとかんがえてのうそ降参こうさんであり、しん目的もくてき合戦かっせん長引ながびかせ、そのすきのこった毛利もうりかたしょ勢力せいりょく糾合きゅうごうしつつ本国ほんごくからの加勢かせい作戦さくせんである」と油断ゆだんしないよう忠告ちゅうこくしたが、そうしんは「隆重たかしげほどの義士ぎしいつわりの降参こうさんはない」とってしんじなかったためやぶれたとする[34]一方いっぽう、『陰徳いんとく太平たいへい』などの毛利もうりかた史料しりょうでは、こうもりをはじめ尼子あまこ再興さいこうぐんしょうは、隆重たかしげしたうそ書状しょじょう見破みやぶることができずおおいによろこいさんだが、そうしん敗北はいぼくしたことではじめていつわりの降伏ごうぶくであったことをくやしがったとする[35]
  • くもぐん実記じっき』によれば、あきじょうそうしんひきいる尼子あまこ再興さいこうぐん天野あまの隆重たかしげ毛利もうりぐん攻撃こうげきけて退却たいきゃくするさい、200めい裏切うらぎものぐん被害ひがい増大ぞうだいしたとする[34]
  • 尼子あまこ再興さいこうぐん山中やまなかみゆきもり立原たちはらひさつならが再度さいど月山がっさん富田とみたしろ攻撃こうげきしたさいたたかいについても史料しりょうにより異同いどうがある。『くもぐん実記じっき』では、尼子あまこ再興さいこうぐんきよし安寺あてらじんき、伏兵ふくへいをもって月山がっさん富田とみたじょうもる毛利もうりぐんをおびきせる作戦さくせんったため、そのさく見破みやぶことができなかった隆重たかしげ城下じょうかまでさそされて合戦かっせんとなる。たたかいは尼子あまこ再興さいこうぐん圧倒あっとうし、隆重たかしげ毛利もうりぐん多数たすう死傷ししょうしゃして城内じょうない退却たいきゃくするのにあわせ、尼子あまこ再興さいこうぐん城内じょうないもうとしたところ、石見いわみ毛利もうりぐん来襲らいしゅう急報きゅうほう退却たいきゃくしたとする[36]一方いっぽうの『陰徳いんとく太平たいへい』などの毛利もうりかた史料しりょうでは、尼子あまこ再興さいこうぐんきよし安寺あてらじん伏兵ふくへいをもってしろへいをおびきせる作戦さくせん隆重たかしげ看破かんぱしており、弓矢ゆみや鉄砲てっぽうかけ尼子あまこ再興さいこうぐん勝利しょうりしたとする[37]

たたかいに参戦さんせんした武将ぶしょう[編集へんしゅう]

1かい[編集へんしゅう]

尼子あまこ再興さいこうぐん[編集へんしゅう]
  • あきじょうそうしん
  • 牛尾うしお作兵衛さくべえ
  • 三刀屋みとや惣五郎そうごろう討死うちじに
  • 池田いけだ【※2】
  • きしひだりうますすむ
  • まつ阿弥あみ【※1】
  • ほり九八郎くはちろう討死うちじに
  • 有村ありむら【※2】
  • 相良さがらまごろく
  • とく阿弥あみ
  • 三浦みうらそうはち討死うちじに
  • すすむそう兵衛ひょうえ
  • きしあずか九郎くろう討死うちじに
  • 匹田ひきた【※2】
  • 宇山うやま久太郎きゅうたろう
  • 相良さがら新三郎しんざぶろう討死うちじに
  • 遠藤えんどう【※2】

毛利もうりぐん[編集へんしゅう]
  • 天野あまの隆重たかしげ

2かい[編集へんしゅう]

尼子あまこ再興さいこうぐん[編集へんしゅう]
  • 山中やまなかみゆきもり
  • 立原たちはらひさつな
  • 牛尾うしお弾正だんじょうただし
  • あきじょうそうしん【※2】
毛利もうりぐん[編集へんしゅう]
  • 天野あまの隆重たかしげ
  • 神代かみよ大炊おおいかい

【※1】『くもぐん実記じっき』のみ記載きさいあり。

【※2】『陰徳いんとく太平たいへい』のみ記載きさいあり。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 大内おおうち義隆よしたか異本いほん、『房顕ふさあき』、『中国ちゅうごく治乱ちらん』は「出雲いずもうら」。『大内おおうち系図けいず』は「八杉やすぎうら」とする。
  2. ^ 太閤たいこう』では泉州せんしゅうさかい[23]
  3. ^ くもぐん実記じっき』や『陰徳いんとく太平たいへい』によれば、但馬たじまこくから海賊かいぞく・奈佐日本にっぽんかいりて隠岐おきこくわたり、隠岐おき国人くにびと隠岐おきためきよし協力きょうりょく島根半島しまねはんとう上陸じょうりくしたとする[29][25]
  4. ^ 陰徳いんとく太平たいへい』では6・7箇所かしょ[25]
  5. ^ くもぐん実記じっき』では500[34]。『陰徳いんとく太平たいへい』では300[35]
  6. ^ くもぐん実記じっき』では1,000[34]。『陰徳いんとく太平たいへい』では2,000[35]
  7. ^ 太刀たちさやはずさず、火縄銃ひなわじゅう火縄ひなわわたさずという状態じょうたいであった[34]
  8. ^ くもぐん実記じっき』『陰徳いんとく太平たいへい』によれば7がつ17にち[36][37]
  9. ^ 陰徳いんとく太平たいへい』では15しろ[38]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 陰徳いんとく太平たいへい』『くもぐん実記じっき』によればやく40,000のへいめたと記載きさい
  2. ^ くもぐん実記じっき』によればだい友軍ゆうぐんやく45,000のへいめたと記載きさいたいする尼子あまごぐんやく15,000へいむかったと記載きさい(『陰徳いんとく太平たいへい』による)。
  3. ^ 大内おおうち義隆よしたか
  4. ^ 大内おおうち義隆よしたか異本いほん
  5. ^ かれらが戦死せんしした場所ばしょが、現在げんざい島根しまねけん大田おおた温泉津ゆのつまち小浜おばまななざかといわれる。
  6. ^ 11月初旬しょじゅんには宍道しんじまでへいすすめていたが、このとき元就もとなりは、本城ほんじょう常光じょうこうとその一族いちぞく誅殺ちゅうさつするように吉川よしかわ元春もとはるめいじた(理由りゆうについては、本城ほんじょう常光じょうこうこう参照さんしょう)。しかし、このことをったもと尼子あまごがわしょしょうらがふたた毛利もうりから尼子あまこがわへと寝返ねがえったため、あらいあい本陣ほんじんえるのが12月になった。
  7. ^ 陰徳いんとく太平たいへい』はやく2,500、『くもぐん実記じっき』はやく2,000のへい記載きさい
  8. ^ 陰徳いんとく太平たいへい』はやく15,000のへい記載きさい
  9. ^ 守備しゅびへい城内じょうないからもそとけてあなはじめ、鉢合はちあわせした地下道ちかどうなかたたかったものの、最後さいごには籠城ろうじょうがわあないだとされる。
  10. ^ くもぐん実記じっき」によれば、籠城ろうじょうがわよりもとはるじん最初さいしょ矢文やぶみられ、交互こうごつぎとおりやりとりされたという。 「元就もとなりが 白髪はくはつしろ鹿しか)のいとに つながれて くにかれず るにられず」「としれば しろ鹿しかいとも やぶはてて 毛利もうり(もり)の木陰こかげの ちなん」「安芸あき毛利もうり 枝葉えだはちて 木枯こがらしの なか松田まつだぞ(城主じょうしゅ松田まつだあらわす) いろしける」(たかしもと風刺ふうししている)「あまの いのちたのむ 白髪はくはついと いまぞる 安芸あき元就もとなり
  11. ^ 陰徳いんとく太平たいへい』『くもぐん実記じっき』ともにやく13,000のへい記載きさい
  12. ^ くもぐん実記じっき』はやく20,000のへい記載きさい
  13. ^ ただし、伯耆ほうきこくこうよしじょうやまづたいの間道かんどうもちいた補給ほきゅうせんっており、これが攻略こうりゃくされたのはそう攻撃こうげきの8がつである。
  14. ^ 陰徳いんとく太平たいへい』はやく30,000のへい記載きさい。『くもぐん実記じっき』はやく35,000のへい記載きさい
  15. ^ 陰徳いんとく太平たいへい』『くもぐん実記じっき』ともにやく10,000のへい記載きさい
  16. ^ 陰徳いんとく太平たいへい』による。
  17. ^ えいろく11ねん)6がつ2にち 内藤ないとう越後えちごもり て 毛利もうり元就もとなりどうてるもと連署れんしょ書状しょじょうばつ閲録125』ほか。
  18. ^ えいろく11ねん)8がつ23にち あかあなみぎきょうあきら 陣所じんしょ 毛利もうり元就もとなりどうてるもと連署れんしょ書状しょじょうばつ閲録37』。
  19. ^ えいろく12ねん)4がつ16にち 毛利もうり輝元てるもと 御返事おへんじ 毛利もうり元就もとなり自筆じひつ書状しょじょう毛利もうり文書ぶんしょ549』ほか。
  20. ^ えいろく12)5がつ1にち 内藤ないとうしんみぎ衛門えもんどう越後えちごもり て 毛利もうり輝元てるもと書状しょじょうばつ閲録125』。
  21. ^ a b 森脇もりわき覚書おぼえがき』「九州きゅうしゅうじんこと」。
  22. ^ a b 尼子あまこ戦国せんごく時代じだい鳥取とっとり 2010, p. 80.
  23. ^ 太閤たいこうまきじゅうきゅう鹿しかすけ尼子あまご貴族きぞくもとめ」。
  24. ^ a b c d かつら岌圓覚書おぼえがき』。
  25. ^ a b c d e 陰徳いんとく太平たいへいまきだいよんじゅうさん尼子あまこ勝久かつひさくもしゅういり づけ 松永まつながしもだいごと」。
  26. ^ えいろく12ねん)4がつ28にち 赤名あかな右京うきょうあきら て 毛利もうり輝元てるもと書状しょじょうばつ閲録37』。
  27. ^ もとかめ2ねん卯月うづき5にち 三沢みさわ左京さきょうあきら て 吉川よしかわ元春もとはる起請文きしょうもん三沢みさわ文書ぶんしょ』。
  28. ^ えいろく12ねん9がつ15にち 日御碕ひのみさき検校けんぎょう て 尼子あまこ家臣かしん連署れんしょ奉書ほうしょ日御碕ひのみさき神社じんじゃ文書ぶんしょ』。
  29. ^ a b c d くもぐん実記じっきだいよんかん尼子あまこ勝久かつひさくもしゅうり、ならびに旧交きゅうこうはせあつまりてきじょうとすこと」。
  30. ^ えいろく12ねん9がつ15にち 日御碕ひのみさき検校けんぎょう て 尼子あまこ勝久かつひさ寄進きしんじょう日御碕ひのみさき神社じんじゃ文書ぶんしょ』。
  31. ^ えいろく12ねん)7がつ20日はつか 湯原ゆはらみぎきょうすすむ て 小早川こばやかわ隆景たかかげ書状しょじょうばつ閲録115ノ3』。
  32. ^ 吉川よしかわ旧記きゅうき』。
  33. ^ えいろく12ねん7がつ19にち 野村のむら信濃しなの入道にゅうどう て 毛利もうり元就もとなり書状しょじょうばつ閲録123』ほか。
  34. ^ a b c d e f くもぐん実記じっきだいよんかんあきじょう伊織いおりかい富田とみた敗軍はいぐん ならびに山中やまなか鹿之助しかのすけ異見いけんこと」。
  35. ^ a b c d 陰徳いんとく太平たいへいまきだいよんじゅうさん天野あまの隆重たかしげ方便ほうべんてきごと」。
  36. ^ a b c d e くもぐん実記じっきだいよんかん所々しょしょ尼子あまご蜂起ほうきならびに富田とみた合戦かっせんこと」。
  37. ^ a b c 陰徳いんとく太平たいへいまきだいよんじゅうさんくもしゅう富田とみたふもと合戦かっせんごと」。
  38. ^ 陰徳いんとく太平たいへいまきよんじゅうさん諸国しょこく毛利もうりそむづけ 立花りっかしろわたこと
  39. ^ えいろく12ねん7がつ28にち 天野あまの隆重たかしげ新藤しんどう就勝連署れんしょあずかじょう折紙おりがみ竹矢ちくや文書ぶんしょ』。
  40. ^ えいろく12ねん9がつ27にち 儀太郎ぎたろうみぎ衛門えもんじょう て 天野あまの隆重たかしげ書状しょじょうばつ閲録160』ほか。
  41. ^ えいろく12ねんみずのえ5がつ5にち 南方みなかた宮内みやうちしょう輔 て しょう十郎じゅうろうもとあき書状しょじょうばつ閲録47』ほか。
  42. ^ えいろく12ねん)6がつ7にち 湯原ゆはら平次へいじ て 小早川こばやかわ隆景たかかげ書状しょじょうばつ閲録115-1』ほか。
  43. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 560.
  44. ^ a b えいろく12ねん)10がつ28にち 立花たちばな勤番きんばんかく御中おんちゅう陣所じんしょ て よしひろし左近さこん太夫たゆうかん書状しょじょううつし無尽むじんしゅう』。
  45. ^ えいろく12ねん)12月25にち 山縣やまがた備後びんごもり て 毛利もうり輝元てるもと感状かんじょううつしばつ閲録遺漏いろう2の4』。
  46. ^ えいろく12ねん)11月18にち 天野あまの隆重たかしげ て 小早川こばやかわ隆景たかかげ書状しょじょう稲田いなだ文書ぶんしょ』ほか。
  47. ^ もとかめ4ねん10がつ2にち 井上いのうえ又右衛門またえもん て 小早川こばやかわ隆景たかかげ感状かんじょううつしばつ閲録11ノ2』ほか。
  48. ^ えいろく12ねん)11月21にち 秋月しゅうげつ毛利もうり兵部ひょうぶしょう輔 て 田北たきたあきらえき書状しょじょう無尽むじんしゅう』。
  49. ^ えいろく12ねん10がつ25にち 舟越ふなこし淡路あわじまもる て 毛利もうり輝元てるもと書状しょじょうばつ閲録159』。
  50. ^ 寛永かんえい12ねん1がつ11にち 新屋あたらしやさん三郎さぶろう て 毛利もうりしげる就加冠状かんじょうばつ閲録85』。
  51. ^ えいろく13ねん)1がつ5にち 毛利もうり輝元てるもと て 吉川よしかわ元春もとはる自筆じひつ書状しょじょう毛利もうり文書ぶんしょ』。
  52. ^ えいろく13ねん)2がつ18にち 赤名あかな右京うきょうあきらあて 毛利もうり元就もとなり書状しょじょううつしばつ閲録37』ほか。
  53. ^ こたえしょ』。
  54. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 597.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 山口やまぐちけん文書ぶんしょかん 編修へんしゅうはぎ藩閥はんばつ閲禄 だいいちかんだいよんかん別巻べっかん遺漏いろう』(マツノ書店しょてん 1995ねん
  • 三坂みさかけい こうちゅう戦国せんごく 毛利もうり史料しりょうせん 』(マツノ書店しょてん 1987ねんちゅうに『かつら岌圓覚書おぼえがき』をふくむ)
  • べいはら正義まさよし こうちゅう戦国せんごく 中国ちゅうごく史料しりょうせん』(マツノ書店しょてん 1987ねんちゅうに『二宮にのみや佐渡さど覚書おぼえがき』『森脇もりわき覚書おぼえがき』をふくむ)
  • 河本かわもとたかしせい尼子あまこ毛利もうり合戦かっせん くもぐん実記じっき勝田かつた勝年かつとし こうちゅう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 1978ねん
  • 香川かがわけいままし陰徳いんとく太平たいへい ぜん6さつべいはら正義まさよし こうちゅう東洋とうよう書院しょいん 1980ねんISBN 4-88594-252-7
  • 小瀬こせはじめあん太閤たいこう-しん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけい60』檜谷ひのきだに昭彦あきひこ江本えもとひろし こうちゅう岩波書店いわなみしょてん 1996ねんISBN 4-00-240060-3
  • 広瀬ひろせまち教育きょういく委員いいんかい 編集へんしゅう出雲いずも尼子あまご史料しりょうしゅう上巻じょうかん)(下巻げかん)』(広瀬ひろせまち教育きょういく委員いいんかい 2003ねん
  • 松江まつえ松江まつえ-史料しりょうへん4中世ちゅうせいⅡ』松江まつえ編集へんしゅう委員いいんかい 編集へんしゅう松江まつえ 2014ねん
  • 編集へんしゅう 鳥取とっとりけん公立こうりつ文書ぶんしょかん けんへんさんしつ へん尼子あまこ戦国せんごく時代じだい鳥取とっとり鳥取とっとりけん鳥取とっとりけんブックレット4〉、2010ねん 
  • 編修へんしゅう さんきょうでん編纂へんさんしょ監修かんしゅう 渡辺わたなべゆう へん毛利もうり元就もとなりきょうでん』マツノ書店しょてん、1984ねん 
  • 大分おおいたけん教育庁きょういくちょう文化ぶんか 編修へんしゅう大友おおとも宗麟そうりん 資料集しりょうしゅう だいさんかんだいよんかん大分おおいたけん先哲せんてつ叢書そうしょ-』(大分おおいたけん教育きょういく委員いいんかい 1994ねん
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  • 歴史れきしぐんぞうシリーズ9 毛利もうり元就もとなり(1988ねん 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ
  • 歴史れきしぐんぞうシリーズ49 毛利もうり戦記せんき(1997ねん 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]