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布部ぬのべさんたたか

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布部ぬのべさんたたか

遠景えんけいよりのぞ布部ぬのべ中山なかやま
戦争せんそう戦国せんごく時代じだい (日本にっぽん)
年月日ねんがっぴえいろく13ねん2がつ14にち1570ねん3がつ20日はつか
場所ばしょ布部ぬのべさん現在げんざい島根しまねけん安来やすぎ広瀬ひろせまち布部ぬのべ
結果けっか毛利もうりぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
毛利もうりぐん 尼子あまこ再興さいこうぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
毛利もうり輝元てるもと
吉川よしかわ元春もとはる
小早川こばやかわ隆景たかかげ
山中やまなかみゆきもり
立原たちはらひさつな
森脇もりわきひさ
戦力せんりょく
13,000(陰徳いんとく太平たいへい
20,000(くもぐん実記じっき
89,000(太平たいへい
6,000(かつら岌圓覚書おぼえがき
6,700(吉川よしかわ旧記きゅうき
7,000(くもぐん実記じっき陰徳いんとく太平たいへい
損害そんがい
112(くもぐん実記じっき 200(かつら岌圓覚書おぼえがき
285(くもぐん実記じっき
300(陰徳いんとく太平たいへい
毛利もうり元就もとなりたたか

布部ぬのべさんたたか(ふべやまのたたかい)は、えいろく13ねん2がつ14にち1570ねん3がつ20日はつか)に尼子あまこいえ再興さいこう目指めざ尼子あまこ再興さいこうぐんとそれを阻止そししようとする毛利もうりぐんとのあいだこった野戦やせんである。たたかいのあった場所ばしょぬの中山なかやま現在げんざい島根しまねけん安来やすぎ広瀬ひろせまち布部ぬのべ)であったことから布部ぬのべさんたたかいとばれる。軍記ぐんき資料しりょうには「尼子あまこ毛利もうりくにたたかいも今日きょう最後さいご」としるされる[1][2]激戦げきせんであった。

たたかいまでの経緯けいい

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尼子あまこ滅亡めつぼう

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毛利もうり元就もとなり安芸あきこく吉田よしだぐん山城やましろまれる。大内おおうち尼子あまこほろぼし、中国地方ちゅうごくちほう随一ずいいち戦国せんごく大名だいみょうとなった。

えいろく5ねん7がつ3にち1562ねん8がつ2にち)、毛利もうり当主とうしゅ毛利もうり元就もとなりは、尼子あまこほろぼすため出雲いずも進軍しんぐんする[3]元就もとなりひきいられた毛利もうりぐん出雲いずも入国にゅうこくすると、尼子あまこかた有力ゆうりょく国人くにびとらを次々つぎつぎ服従ふくじゅうさせつつじんすすめていき、えいろく5ねん12月(1563ねん1がつ)には島根しまね半島はんとうあらくまあらいあい)へ本陣ほんじんかま[4]尼子あまこ居城きょじょう月山がっさん富田とみたしろめを開始かいしする。

この毛利もうりぐん侵攻しんこうたいし、尼子あまこぐん各地かくちたたかいをひろげつつはげしく抵抗ていこうしていった。しかしながら、えいろく6ねん10がつ(1563ねん11月)に島根しまね半島はんとう位置いちする補給ほきゅう要衝ようしょうしろ鹿しかじょう毛利もうりぐんによってうばわれると[5]しろ鹿しかじょうたたか)、つづいてえいろく8ねん1565ねん初頭しょとうには西にし伯耆ほうきいちえん毛利もうりぐんによって支配しはいされ[6]尼子あまこ居城きょじょう月山がっさん富田とみたじょう完全かんぜん孤立こりつする。

こうして尼子あまごぐん補給ほきゅう経路けいろったうえで毛利もうりぐんは、えいろく8ねん4がつ(1565ねん5がつ)にあらいあいから星上山ほしかみやま現在げんざい島根しまねけん松江まつえ八雲やくもまち東岩坂ひがしいわさか)へ本陣ほんじんうつすと[7][注釈ちゅうしゃく 1]月山がっさん富田とみたじょうへの攻撃こうげき開始かいしする。毛利もうりぐん城下じょうかむぎおこなうとともに、同月どうげつ17にち(5がつ16にち)には月山がっさん富田とみたじょうそう攻撃こうげきおこなった[7][注釈ちゅうしゃく 2]だい月山がっさん富田とみたじょうたたか)。この攻撃こうげき尼子あまごぐん抵抗ていこうにより失敗しっぱいわるも、その毛利もうりぐん兵糧ひょうろうめの作戦さくせんえて月山がっさん富田とみたじょうへの圧力あつりょくつよめていった。

えいろく9ねん11月21にち1567ねん1がつ1にち)、居城きょじょうである月山がっさん富田とみたしろ毛利もうりぐんによって包囲ほういされていた尼子あまこ当主とうしゅ尼子あまこ義久よしひさは、これ以上いじょうたたかうことはできないと判断はんだん毛利もうり降伏ごうぶくする[10]同月どうげつ28にち(1がつ8にち)、義久よしひさしろわた[11]、ここに戦国せんごく大名だいみょう尼子あまこ一時いちじてきほろびることとなる。 居城きょじょうであった月山がっさん富田とみたしろおよ尼子あまこ所領しょりょう毛利もうり支配しはいかれることとなり、義久よしひさとその兄弟きょうだい3にん一部いちぶ従者じゅうしゃとも円明寺えんめいじ現在げんざい広島ひろしまけん安芸あき高田たかだ向原むかいのはるまち長田ながた)へ連行れんこうされ幽閉ゆうへいとなった[8][注釈ちゅうしゃく 3]。その尼子あまこ家臣かしんらは出雲いずもから追放ついほうされろうじんとなる[7]

毛利もうりぐん九州きゅうしゅう侵攻しんこうおよ尼子あまこ再興さいこうぐんくもしゅう侵攻しんこう

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尼子あまこほろぼし、中国ちゅうごく地方ちほうをほぼ手中しゅちゅうおさめた毛利もうりつぎなる目標もくひょうさだめたのは、きた九州きゅうしゅうおさめる大友おおとも討伐とうばつであった。 えいろく11ねん6がつ1568ねん7がつ)、元就もとなり伊予いよこく出兵しゅっぺいしていた吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげりょうぐん本国ほんごくである安芸あきこく帰還きかんさせると[12]毛利もうり伊予いよ出兵しゅっぺい)、同年どうねん8がつりょうしょう北九州きたきゅうしゅう派遣はけん大友おおとも討伐とうばつ開始かいしする[13]えいろく12ねん4がつ1569ねん5がつ)には、元就もとなり居城きょじょうである吉田よしだぐん山城やましろ長門ながとこくけて出陣しゅつじんする[14]。そして同年どうねん5がつちょうはいると、ここに本陣ほんじんかまえて大友おおとも討伐とうばつ拠点きょてんとした[15][16]多々良たたらはまたたか)。このとき、元就もとなり出陣しゅつじんにあわせ山陰さんいん地方ちほうおおくの国人くにびとたちにも九州きゅうしゅうへの出兵しゅっぺいめいじられており、山陰さんいん地方ちほう毛利もうりりょう警備けいび手薄てうすとなっていった[17]

一方いっぽう滅亡めつぼうした尼子あまこであったが、尼子あまこしょろうじんなかには一族いちぞく再興さいこう目指めざものがいた。その中心ちゅうしんとなった人物じんぶつ山中やまなかみゆきもりである[17]

えいろく11ねん(1568ねん)、こうもり各地かくち放浪ほうろうしたのちきょうのぼると、きょう東福寺とうふくじ[注釈ちゅうしゃく 4]そうとなっていた尼子あまこ一門いちもん尼子あまこまことひさ遺児いじ尼子あまこ勝久かつひさ還俗げんぞくさせ、尼子あまこ再興さいこうぐん大将たいしょうとして擁立ようりつする[19]。そして各地かくち尼子あまこ遺臣いしんらを集結しゅうけつさせると、ひそかに尼子あまご再興さいこうたたかいをくわだてていた。

えいろく12ねん6がつ23にち1569ねん8がつ6にち[20]毛利もうり大友おおとも攻撃こうげきするため北九州きたきゅうしゅうぐん派遣はけんすると[21]挙兵きょへい機会きかいをうかがっていたこう尼子あまこ再興さいこうぐん出雲いずもこく侵攻しんこう開始かいしする[22]尼子あまこ再興さいこうぐん但馬たじまこくからすうひゃくそうふねってうみわた島根しまね半島はんとう上陸じょうりくすると[23][注釈ちゅうしゃく 5]ちかくにあった忠山ちゅうやま(ちゅうやま)のとりで占拠せんきょする[25]勝久かつひさ尼子あまご再興さいこうぐんがここで再興さいこうげきばすと、国内こくない潜伏せんぷくしていた旧臣きゅうしんらが続々ぞくぞく集結しゅうけつし5にちうちに3,000あまりの軍勢ぐんぜいになったという[24][20]。そして同月どうげつ下旬げじゅんこう尼子あまこ再興さいこうぐん多賀たがもとりゅうもる新山しんやまじょう真山しんざんじょう)を攻略こうりゃくする[16]つづいて宍道湖しんじこ北岸ほくがん位置いちする末次すえつぐ島根しまねけん松江まつえ末次すえつぐまち現在げんざい松江城まつえじょう建設けんせつ。)にしろきずいて[26]ここを拠点きょてん末次すえつぐじょう)とすると[27]山陰さんいん地方ちほう各地かくち合戦かっせんひろげつつ勢力せいりょく拡大かくだいしていった(尼子あまこ再興さいこうぐんくもしゅう侵攻しんこう)。

毛利もうりぐん九州きゅうしゅう撤退てったい

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えいろく12ねんうるう5がつ3にち(1569ねん6がつ17にち)、毛利もうり大友おおともとのあらそいのすえ立花りっかじょう奪取だっしゅするも[28]つづだい友軍ゆうぐん立花りっかじょうまりつづけたためぐんうごかすことができないでいた[29][30]毛利もうり立場たちばきびしくなってくるのはこのころからである。

同年どうねん7がつ下旬げじゅん(9がつ中旬ちゅうじゅん)、出雲いずもにおいて「ざい所々ところどころ者共ものどものこところかれろうじん尼子あまこ再興さいこうぐん)に同意どういこう」と月山がっさん富田とみたじょう城主じょうしゅ天野あまの隆重たかしげ書状しょじょうつたえるように、出雲いずもこくいちえん尼子あまこ再興さいこうぐん支配しはいする状態じょうたいとなった[31]。さらに10がつ11にち(11月19にち)には、大友おおとも支援しえんけた大内おおうち輝弘てるひろうみわた[32]、その翌日よくじつには周防すおうこく大内おおうち屋敷やしきあと襲撃しゅうげきしてその一時いちじ占拠せんきょする事態じたい発生はっせいした[33]大内おおうち輝弘てるひろらん)。毛利もうり領国りょうごく支配しはい体制たいせい一転いってん最大さいだい危機ききむかえるのである。

ここにいたって毛利もうり当主とうしゅ毛利もうり元就もとなりは、北九州きたきゅうしゅうざいじんする毛利もうりぐん撤退てったい決定けっていする。10月15にち(11月23にち)、立花りっかじょうざいじんする毛利もうりぐんは、乃美のみ宗勝むねかつかつら元重もとしげ坂元さかもとゆうひとし[34]わずかなへいのこして撤退てったい開始かいし[35]、その北九州きたきゅうしゅうざいじんする毛利もうりぐん随時ずいじ撤退てったいしていった。11月21にち(12月28にち)にはしろのこっていた宗勝むねかつらも退却たいきゃく[36]毛利もうりぐん門司もじじょうのこして北九州きたきゅうしゅうからすべ撤退てったいした。

布部ぬのべさんたたか

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毛利もうりぐんくもしゅう侵攻しんこう

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布部ぬのべさんたたかいにおける毛利もうりぐん侵攻しんこうルート。

えいろく12ねん10がつ18にち(1569ねん11月26にち)、吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげ毛利もうりぐんは、九州きゅうしゅうからじん撤収てっしゅうしてちょう帰着きちゃくすると[32]、10月25にち(12月3にちごろ大内おおうち再興さいこうぐん反乱はんらん鎮圧ちんあつする[37]輝弘てるひろ富海とどみ自刃じじん[38]大内おおうち再興さいこうたたかいはわず半月はんつきらずで終結しゅうけつした(大内おおうち輝弘てるひろらん)。反乱はんらん鎮圧ちんあつした毛利もうりぐんは、12月23にち1570ねん1がつ29にち)にちょうにあったじんはらい、居城きょじょうである吉田よしだぐん山城やましろ帰還きかんした[19]

えいろく13ねん1がつ6にち(1570ねん2がつ10日とおか)、本国ほんごく帰還きかんした毛利もうり輝元てるもと吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげらは、やすむまもなく尼子あまこ再興さいこうぐん鎮圧ちんあつするため吉田よしだぐん山城やましろより出陣しゅつじんする[39]。その総数そうすうやく26,000[注釈ちゅうしゃく 6]とされる大軍たいぐんであった[41][42]輝元てるもとそう大将たいしょうとし、毛利もうり譜代ふだいしゅう6,000がこれにしたがい、元春もとはる石見いわみいきおいを、隆景たかかげ備後びんごいきおいを、宍戸ししどたかし備中びっちゅういきおい統率とうそつした。そのほか水軍すいぐん200そうがこれにしたがった。 毛利もうりぐんだいいち優先ゆうせんしたのは、尼子あまこ再興さいこうぐんにより包囲ほういされている月山がっさん富田とみたしろすくうことであった[43]。このころ月山がっさん富田とみた城内きうちでは尼子あまこ再興さいこうぐん攻撃こうげきけ、うまらい河本かわもと湯原ゆはららが投降とうこうするなど危険きけん状態じょうたいとなっていた[44]。また城内じょうない兵糧ひょうろう欠乏けつぼうしていたため[19]早期そうき尼子あまこ再興さいこうぐん包囲ほういもう突破とっぱ城内じょうない兵糧ひょうろう補給ほきゅうする必要ひつようがあった[45]

毛利もうりぐんはまず、児玉こだま就久らに200そう[41]ふねひきいさせて瀬戸内海せとないかいから石見いわみこく温泉津ゆのつ出港しゅっこうさせると、この石見いわみ毛利もうりかた国人くにびと招集しょうしゅうし、尼子あまこ再興さいこうぐん牽制けんせいするため出雲いずも杵築きつきうら稲佐いなさはま)へかわせた[46]つぎ輝元てるもとひきいる本隊ほんたい陸路りくろにより月山がっさん富田とみたしろ目指めざし、北上ほくじょうして石見いわみこく山南さんなん現在げんざい島根しまねけん邑智おうちぐん美郷みさとまち村之郷むらのごう)にはいると[47][注釈ちゅうしゃく 7]、ここでへい招集しょうしゅうして部隊ぶたい増強ぞうきょうした[49][注釈ちゅうしゃく 8]毛利もうりぐんはここから進路しんろ北西ほくせいすす出雲いずもこく入国にゅうこくすると、同月どうげつ16にち(2がつ20日はつか)にはあかあな現在げんざい島根しまねけん飯石いいしぐん飯南いいなんまち)に着陣ちゃくじんする[50][注釈ちゅうしゃく 9]あかあなじょうおもあかあなひさしきよしむかれられた毛利もうりぐん進路しんろきたえて進軍しんぐんし、同月どうげつ28にち(3がつ4にち)には中郡なかぐん現在げんざい島根しまねけん雲南うんなん大原おおはらぐん)をえ、よく2がつ7にち(3がつ13にち)には三沢みさわ現在げんざい島根しまねけん飯石いいしぐん奥出雲おくいずもまち仁多にた)・横田よこた同町どうちょう横田よこた)へぐんすすめる[51][注釈ちゅうしゃく 10]。こうして毛利もうりぐん月山がっさん富田とみたじょう着実ちゃくじつじんすすめていき、その途上とじょうにあるあま子方こかたしょしろ攻略こうりゃくされていった。

尼子あまこ再興さいこうぐん出撃しゅつげき

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尼子あまこ再興さいこうぐんしょう多久和たくわ大和やまともりもりたたかった多久和たくわじょう
社日しゃにち神社じんじゃ跡地あとち布部ぬのべさんたたかいのとき、この付近ふきん尼子あまこ再興さいこうぐん本陣ほんじんいたとつたわる。

一方いっぽう尼子あまこ再興さいこうぐんは、はらぐんたたか隠岐おきためきよし反乱はんらん美保関みほのせき合戦かっせん)などによって時間じかんをとられ、出雲いずもこく拠点きょてんである月山がっさん富田とみたしろ攻略こうりゃくすることができないでいた。1月28にち(3がつ4にち)には、多久和たくわ大和やまともりらがまも多久和たくわじょう現在げんざい雲南うんなん三刀屋みとやまち多久たくかず)が毛利もうりぐん攻撃こうげきけ、その救援きゅうえんのための援軍えんぐんすもわずか1にちによってとさた[52][注釈ちゅうしゃく 11]尼子あまこ再興さいこうぐんは、毛利もうりぐん侵攻しんこうめることはおろか時間じかんかせぐことすらできないでいた。こう尼子あまこ再興さいこうぐんは、布部ぬのべ現在げんざい島根しまねけん安来やすぎ広瀬ひろせまち布部ぬのべ)の中山なかやま毛利もうりぐん侵攻しんこうふせ最終さいしゅう防衛ぼうえいとらえ、各地かくちらばる尼子あまこ再興さいこうぐん集結しゅうけつさせ決戦けっせんそなえようとした[27]

このぬの中山なかやま布部ぬのべさん)のは、月山がっさん富田とみたじょうから南方なんぽうへ12kmすすんだところにあり、三刀屋みとやから三沢みさわ横田よこた月山がっさん富田とみたじょうすす場合ばあいにはかならとお必要ひつようがある要衝ようしょうであった。また、このから月山がっさん富田とみたじょうすすみち布部ぬのべさん尾根おねづたいにつうじており、一度いちど布部ぬのべさんふもとから山頂さんちょうまでのぼ必要ひつようがあった。まわりは険峻けんしゅんやまかこまれ、尾根おねどうのぼるには西側にしがわ水谷みずたにこう東側ひがしがわ中山口なかやまぐちのどちらをとお必要ひつようがあった[54]。つまり、三沢みさわ横田よこた方面ほうめんから月山がっさん富田とみたじょうすすむには、水谷みずたにこう中山口なかやまぐち、2つの谷口たにぐちのどちらかをとお必要ひつようがあったため、この2つの谷口たにぐちおさえておけば毛利もうりぐん進軍しんぐん阻止そしすることができた。

山中やまなかみゆきもり立原たちはらひさつな大将たいしょうである尼子あまこ勝久かつひさ居城きょじょうである末次すえつぐじょうのこすと[27]少数しょうすう軍勢ぐんぜいひきいて出陣しゅつじんする。末次すえつぐじょうには大勢おおぜいもっているようにせるため、また毛利もうりかたに「少数しょうすう出陣しゅつじんしてきたのははかりごとではないか」とうたがいをたせて時間じかんかせぎ、そのすき味方みかた軍勢ぐんぜい集結しゅうけつする策謀さくぼうであった[1]。 このさくこうそうしたのか[注釈ちゅうしゃく 12]こうもりらは各地かくち尼子あまこ再興さいこうぐん招集しょうしゅうし、毛利もうりぐん来襲らいしゅうまえ2がつ11にち(3がつ17にち)には布部ぬのべさんじんることに成功せいこうする[27][注釈ちゅうしゃく 13]明日あした12にちには毛利もうりぐん布部ぬのべさん南方なんぽう12kmに位置いちするでん現在げんざい島根しまねけん安来やすぎ広瀬ひろせまち西比田にしひだ)までせまってきており[48]、まさにギリギリの行軍こうぐんであった。こうもりぐん半数はんすうずつ2けると、水谷みずたにくち中山口なかやまぐち中腹ちゅうふくにそれぞれ配置はいちし、本陣ほんじん布部ぬのべさん山頂さんちょう付近ふきんいた(主要しゅよう参戦さんせん武将ぶしょうは、#たたかいに参戦さんせんした武将ぶしょう参照さんしょう)。

要害ようがい山城やましろ陥落かんらくおよ毛利もうりぐん着陣ちゃくじん

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布部ぬのべ要害ようがい山城やましろ尼子あまこ再興さいこうぐんしょう森脇もりわきひさ仍がまもっていたが、毛利もうりぐん来襲らいしゅうまえしろわたした。

2がつ7にち(3がつ13にち)、三沢みさわ横田よこたざいじんする毛利もうりぐん掛合かけあわせ現在げんざい島根しまねけん雲南うんなん掛合かけやまち)と馬木うまき現在げんざい島根しまねけん仁多にたぐん奥出雲おくいずもまち大馬木おおまき)にさえとしてへいのこすと[55]、2がつ12にち(3がつ18にち)にけてよく13にち布部ぬのべじんすすめる。同日どうじつ布部ぬのべにある尼子あまこ再興さいこうぐん要害山ようがいさんじょう攻略こうりゃくする[56]。この要害ようがい山城やましろは、尼子あまこ再興さいこうぐんしょう森脇もりわきひさもるしろであったが、へいすうが300あまりとすくなくまた小城おぎであったため、毛利もうりぐん来襲らいしゅうまえこうもりらの説得せっとくによりひさ仍は退却たいきゃく空城そらじょうとなっていた[48]要害山ようがいさんじょう攻略こうりゃくした毛利もうりぐんは、布部ぬのべさん尼子あまこ再興さいこうぐんじんるとおなじく2ぐん[1][2][注釈ちゅうしゃく 14]大将たいしょうである輝元てるもとはその後方こうほうじんいた(主要しゅよう参戦さんせん武将ぶしょうは、#たたかいに参戦さんせんした武将ぶしょう参照さんしょう)。

布部ぬのべさんたたか

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布部ぬのべさんたたかいにおけるりょうぐん布陣ふじん

がつ14にち((3がつ20にち午前ごぜん7ごろ)[57]毛利もうりぐん布部ぬのべさん布陣ふじんする尼子あまこ再興さいこうぐんたいして攻撃こうげき開始かいしする[58]

たたかいは当初とうしょまさ尼子あまこ再興さいこうぐん優勢ゆうせいであった[57][19]尼子あまこ再興さいこうぐんは、やまふもとからがってくる毛利もうりぐんたいして上方かみがたから鉄砲てっぽう弓矢ゆみやにより攻撃こうげきおこない、毛利もうりぐんへい多数たすうたおした。さら水谷みずたにこうでは毛利もうりぐんしょう熊谷くまがいしんただし嫡子ちゃくしであるほそさこ左京さきょうあきら森脇もりわきひさ仍部たいが、中山口なかやまぐちでは毛利もうりぐんしょうもんみぎ衛門えもんじょう粟屋あわやまた左衛門さえもん尼子あまこ再興さいこうぐんしょう横道よこみちけんまこと横道よこみちげんかいがそれぞれるなどかずすくない尼子あまこ再興さいこうぐん毛利もうりぐん圧倒あっとうしていた[48][1][2]

しかしながら、毛利もうりぐん吉川よしかわ元春もとはる地元じもと豪族ごうぞく買収ばいしゅうして布部ぬのべさん山頂さんちょうへとつづ間道かんどうをききだし、別働隊べつどうたいひきいてその間道かんどうから布部ぬのべさん頂上ちょうじょうのぼって尼子あまごぐん本陣ほんじん強襲きょうしゅうする[59]状況じょうきょう一変いっぺんする。本陣ほんじんとされたとった尼子あまこ再興さいこうぐんへい足立あしだち、毛利もうりぐん攻勢こうせいもあって尼子あまこ再興さいこうぐん総崩そうくずれとなった。

これによってたたかいの趨勢すうせい決定けっていし、尼子あまこ再興さいこうぐん敗北はいぼくそう退却たいきゃくとなった[注釈ちゅうしゃく 15]退却たいきゃくさい毛利もうりぐん追撃ついげきけた尼子あまこ再興さいこうぐんは、横道よこみちしゅうつな目黒めぐろ左近さこんみぎ衛門えもんられるなど多数たすう将兵しょうへい犠牲ぎせいとなった[1][2]。ただし、殿しんがりとして最後さいごまでのこってたたかった山中やまなかみゆきもり立原たちはらひさつなは、無事ぶじ居城きょじょうである末次すえつぐじょう帰還きかんしている[1][2]

合戦かっせん情勢じょうせい

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このたたかいに勝利しょうりした毛利もうりぐんは、翌日よくじつ2がつ15にち(3がつ21にち[19]尼子あまこ再興さいこうぐん包囲ほういされていた月山がっさん富田とみたしろ開放かいほう兵糧ひょうろうれることに成功せいこうする[43]。このとき城内じょうないでは兵糧ひょうろうまったくなっており[60][61]落城らくじょう寸前すんぜん危険きけん状態じょうたいであった。輝元てるもと毛利もうりぐん籠城ろうじょうしていた将兵しょうへいらをしょうする[62]ともぐんをここで再編さいへんすると、同月どうげつ下旬げじゅんごろ尼子あまこ再興さいこうぐん居城きょじょう末次すえつぐじょう攻撃こうげきするためやく7,000[注釈ちゅうしゃく 16]へいひきいて出陣しゅつじんする[27][注釈ちゅうしゃく 17]。これにたい尼子あまこ再興さいこうぐんは、末次すえつぐじょう平城ひらじろであるため籠城ろうじょうかないと判断はんだん[1][63]しろてて新山しんやまじょうへと退却たいきゃくした[27]

その毛利もうりぐん尼子あまこ再興さいこうぐん山陰やまかげ各地かくちはげしいたたかいをひろげていくこととなる。毛利もうり元就もとなり居城きょじょうである吉田よしだぐん山城やましろ容態ようだい悪化あっかもとはるぐんのこして毛利もうりぐん帰還きかんしたときには[64]一時いちじてき尼子あまこ再興さいこうぐん勢力せいりょくかえしたこともあったが[注釈ちゅうしゃく 18]、すぐさま元就もとなり直属ちょくぞく水軍すいぐん部隊ぶたい派遣はけんしたため[67]兵力へいりょくまさ毛利もうりぐん次第しだい尼子あまこ再興さいこうぐん圧倒あっとうしていった。そしてこのたたかいからやく1ねん6ヶ月かげつもとかめ2ねん8がつ20日はつか1571ねん9月8にちごろには、出雲いずも最後さいご拠点きょてんである真山まやまじょう毛利もうりぐん攻撃こうげき落城らくじょうする[68]しろもっていた勝久かつひさ隠岐おき脱出だっしゅつ[69]尼子あまこ再興さいこうぐん出雲いずもこくより一掃いっそうされることとなった。

せつ逸話いつわ

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布部ぬのべさんたたかいのとき尼子あまこ再興さいこうぐん本陣ほんじんいたところ水源すいげんとする名水めいすいだい旱魃かんばつでもれることなく、あんべい神社じんじゃ神水じんずいとして雨乞あまごいの神事しんじにも使つかわれたとつたわる。
  • 尼子あまこ再興さいこうぐん多久和たくわ島根しまねけん雲南うんなん三刀屋みとやまち多久和たくわ)へ小屋こやじょうきずくと、あきじょう伊織いおりすけあきじょうそうしん)、福山ふくやま次郎左衛門じろうざえもん遠藤えんどう九郎くろう川副かわそえみぎかい大将たいしょうとして500ばかりでそのしろまもらせていた。そこへ毛利もうりぐんが20,000ばかりでめてきたため、そうしんらはたたかわずしてきずいていたとりで小屋こや々々をいて逃亡とうぼうした。逃亡とうぼうするさい毛利もうりぐん追撃ついげきけ177にんにした。毛利もうりぐん村上むらかみまた左衛門さえもんをはじめ23にんにした。このせんのち街道かいどうにはつぎ狂歌きょうかかれた高札こうさつった[1]
しろけ 落葉らくようころは 道理どうりなり いかに伊織いおりを はるきにする

またべつせつとして、多久和たくわじょうまもっていた尼子あまこ再興さいこうぐんしょうあきたくあんすけ(あきやけいおりのすけ)とゆう道理どうりすけ(もっともどうりのすけ)であったが、おなじく毛利もうりぐん大軍たいぐんおどろいちせんもせずにしろをかけてびたため、つぎ狂歌きょうかかれた高札こうさつった[40]

あきやけて 落(おつる)は ゆう道理どうりすけ 如何いかあんを はるやけにする
  • 山中さんちゅう鹿しかすけ山中やまなかみゆきもり)は布部ぬのべ峰々みねみねたに々にそら陣屋じんやおおつくり、余所目よそめには10,000ぐん陣取じんどるようにせた。このさくてきられないよう内通ないつうしゃつけし3にんくびを刎ねたが、吉川よしかわ元春もとはる先年せんねんより富田とみた近辺きんぺんざい処々ところどころ一揆いっきもの賄賂わいろおくって味方みかたにつけていたので内通ないつうしゃおおく、このさく見破みやぶられてしまった[2]
  • たたかいがはじまったさい床几しょうぎ(しょうぎ)こしかけていた毛利もうり輝元てるもとうしろのやまより、30にんりょくでもうごかせないような大岩おおいわおおきなおとててころがりちてきた。このような事態じたい輝元てるもとすこしもあわてず「いま大岩おおいわうしろよりほうられたということは、てんちからわせて敵陣てきじんやぶれということをしめしたものだ。さもなくば、てん合戦かっせんはやめよとげたもの。すすめやみなもの」とって将兵しょうへい勇気ゆうきづけた[2]
  • 毛利もうりぐん吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげは、尼子あまこ再興さいこうぐん陣立じんだてを調しらべるため80あまりの斥候せっこうしたが、それを阻止そししようと山中やまなか鹿之助しかのすけ山中やまなかみゆきもり)が100あまりをひきいて出陣しゅつじんしてくるとたたかわずして退却たいきゃくした。退却たいきゃくするさい毛利もうりぐん遠藤えんどう五郎ごろう三郎さぶろうもとさだはただいちもどこうもりやりとっいどんだが、こうもりがそのやりながしてもとさだうまやりれたため、うまあばれてたにそこち、乗馬じょうばしていたげんさだやぶちてうんよくたすかった。命拾いのちびろいしたげんさだたいしてこうもりは「やりわせんとするこころざしは、でありいさむである。そのため今回こんかい天運てんうんたすけられた。これからも武運ぶうんまっとうし、はやがって味方みかたじんかえられよ」とってっていった[40]
  • 山中やまなか鹿之助しかのすけ山中やまなかみゆきもり)がみずかてきぐんもうとしたさい寺本てらもと生死せいしすけこうもりはたり「ぐん大将たいしょう軽々かるがるしい行動こうどうをすべきではありません。わたしってたいとおもいますので、ねがいわくば、その鹿角かつの前立まえだてのかぶとをおりしたい」と進言しんげんした。それをいておこったこうもりであったが、ちかくにいたゆう道理どうりすけやぶちゅう荊助、植田うえだ稲葉いなばすけ今川いまがわあゆすけ五月ごがつ早苗さなえすけしたため、いかりをおさ生死せいしすけかぶとすことをゆるした。生死せいしすけよろこび30あまりをひきいててきぐんむと、兒玉こだまわたる七郎しちろう就重、もんみぎ衛門えもんじょう就正をって戦功せんこうげた[40]
  • 尼子あまこ再興さいこうぐん横道よこみち兵庫ひょうごかい横道よこみちしゅうつな)が深手ふかでってみちかたわらでやすんでいると、むかうからめいむこである中井なかい善左衛門ぜんざえもん近寄ちかよってきた。しゅうつなめいむこであったので油断ゆだんして「やあ中井なかい殿どの深手ふかでったぞ」とはなしかけたところ、善左衛門ぜんざえもん返答へんとうもせずやりせてしゅうつなくびってしまった。この善左衛門ぜんざえもん10日とおかほどまえ毛利もうりぐん尼子あまご再興さいこうぐんてきとなっていたが、したしさに油断ゆだんしたしゅうつな不意ふいった行為こういに、てき味方みかたも「善左衛門ぜんざえもんおこないは人面獣心じんめんじゅうしんのものである」とってにくまないものはいなかった[1][2]
  • 尼子あまこ再興さいこうぐん目黒めぐろ左近さこんみぎ衛門えもんは、きず退却たいきゃくすることがむずかしかったため、ごろよりしたしくしていた民家みんかはいかくまってしいとその主人しゅじんたのんだ。その主人しゅじん了解りょうかいひつなか左近さこんみぎ衛門えもんれてかくまっていたが、左近さこんみぎ衛門えもんをつけられていたため、毛利もうりぐんがその民家みんかはいってきた。これによりもうげられないとさとった左近さこんみぎ衛門えもんは「てきめをされるのは口惜くやしい」とおもい、ひつからみずかはらって自害じがいしてしまった[2]
  • 尼子あまこ再興さいこうぐん山中さんちゅう鹿しかすけ山中やまなかみゆきもり)は退却たいきゃくするさいぎん草摺くさずり(くさずり)装備そうびした目立めだ存在そんざいであったため、毛利もうりぐん小坂こさかえつちゅうもりに1ばかりいかけられたが、あし達者たっしゃであったため逃亡とうぼうすることに成功せいこうした[2]

たたかいに参戦さんせんした武将ぶしょう

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毛利もうりぐん

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水谷みずたにくち

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だい1じん

だい2じん

だい3じん

じん不明ふめい

  • さかいまたひらめ井筒いづつおんなすけ
  • ほそさこ左京さきょうあきら討死うちじに
  • 山縣やまがた宗右衛門そうえもん
  • さかいななろうみぎ衛門えもん
  • 小坂こさかえつちゅうもり

中山口なかやまぐち

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だい1じん

  • 吉田よしだぜい
  • 児玉こだま就久
  • 粟屋あわやもとしん

だい2じん

  • 楢崎ならさきちょうけい
  • 木梨きなし

じん不明ふめい

  • もんみぎ衛門えもんじょう討死うちじに
  • 江田えだ七郎しちろうみぎ衛門えもん
  • 中井なかい善左衛門ぜんざえもん
  • 浅原あさはら助六すけろく
  • 飯田いいだ小三郎こさぶろう

後陣ごじん本陣ほんじん

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ゆうぐん

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尼子あまこ再興さいこうぐん

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水谷みずたにくち

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だいじん

  • 真木まき与市よいち討死うちじに
  • 中井なかい平蔵へいぞう

だいじん

  • 隠岐おき三郎さぶろう五郎ごろう討死うちじに
  • ひがしふじはち討死うちじに
  • 加藤かとう彦四郎ひこしろう  

だい3じん

  • 力石りきいし九郎兵衛くろべえ
  • 高尾たかおみぎうままこと
  • 高尾たかおそう兵衛ひょうえ
  • くろただし

じん不明ふめい

  • うまらいあずか三右衛門さんえもん
  • 目加田めかだだんみぎ衛門えもん
  • でん十郎太じゅうろうたろう
  • すすむひだり吉兵衛きちべえ
  • 池田いけだ与三郎よさぶろう
  • 真野まの
  • 馬田まだ平左衛門へいざえもん 
  • 相良さがら助九郎すけくろう

中山口なかやまぐち

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だいじん

  • 牛尾うしお弾正だんじょうただし
  • 馬田まだ入道にゅうどう
  • 横道よこみちげんかい
  • 金尾かなお半四郎はんしろう討死うちじに
  • 横道よこみちけんすすむ
  • 飛石とびいし孫太夫まごだゆう討死うちじに
  • 遠藤えんどう九郎くろう
  • 由利ゆり甚七討死うちじに

だい2じん

  • 羽倉はねくらまご兵衛ひょうえ 
  • 熊野くまの治郎じろう

じん不明ふめい

  • 疋田ひきた右近うこん
  • 福山ふくやま次郎左衛門じろうざえもん
  • 浅山あさやま太郎たろう次郎じろう
  • 目黒めぐろ左近さこんみぎ衛門えもん自害じがい
  • 石塚いしづか与一よいち
  • 疋田ひきたみぎ衛門えもんじょう
  • 吉田よしだ三郎さぶろう左衛門さえもん
  • 日野ひのかいろく
  • 熊谷くまがい
  • きし孫右衛門まごえもん
  • 吉田よしだ八郎はちろう左衛門さえもん
  • 牛尾うしおだい炊之すけ
  • はら
  • 古志こししん十郎じゅうろう
  • 長森ながもり吉内きちない
  • 足立あだち治郎じろう左衛門さえもん
  • 吉岡よしおか

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 二宮にのみや佐渡さど覚書おぼえがき』では星上山ほしかみやまでなく京羅木山きょうらぎさん[8]
  2. ^ くもぐん実記じっき』では4がつ18にち。4月17にち凶日きょうじつなので1にちばした[9]
  3. ^ 義久よしひさらが円明寺えんめいじ到着とうちゃくしたのはえいろく9ねん12月14にち
  4. ^ 太閤たいこう』では泉州せんしゅうさかい[18]
  5. ^ くもぐん実記じっき』や『陰徳いんとく太平たいへい』によれば、但馬たじまこくから海賊かいぞく・奈佐日本にっぽんかいりて隠岐おきこくわたり、隠岐おき国人くにびと隠岐おきためきよし協力きょうりょく島根半島しまねはんとう上陸じょうりくしたとする[24][20]
  6. ^ 諸説しょせつあり。『陰徳いんとく太平たいへい』は13,000[2]。『くもぐん実記じっき』は35,000[1]。『太平たいへい』では89,000[40]
  7. ^ 森脇もりわき覚書おぼえがき』によれば都賀つが現在げんざい島根しまねけん邑智おうちぐん美郷みさとまち都賀つが[48]
  8. ^ この書状しょじょうにより元春もとはるいししゅうしゅう佐波さわ周布すふ益田ますだ)に招集しょうしゅう依頼いらいしていることがうかがえる。
  9. ^ 森脇もりわき覚書おぼえがき』によればもとはる先陣せんじんとしてさきあかめい着陣ちゃくじん[48]
  10. ^ 森脇もりわき覚書おぼえがき』によれば毛利もうりぐん三沢みさわ鎌倉山かまくらやまじん[48]
  11. ^ このたたかいにより多久和たくわ大和やまともりほかすうひゃくにんられた。また、このたたかいの影響えいきょうにより、かわふく久盛ひさもり領有りょうゆうするがかごう現在げんざい島根しまねけん雲南うんなん掛合かけやまち)のこおり上城かみしろ禅定寺ぜんじょうじじょうが、さらに中郡なかぐんにおいてもおもねよう要害ようがい福富ふくとみ要害ようがい陥落かんらくした[53]
  12. ^ がつ7にち時点じてん三沢みさわ横田よこたざいじんする毛利もうりぐん予定よていでは、明日あした(2がつ8にち)に布部ぬのべえる予定よていであった[53]
  13. ^ 尼子あまこ再興さいこうぐんへい多勢たぜいせるため、布部ぬのべさんほう多数たすう陣屋じんや設置せっちしていた[53]
  14. ^ 吉川よしかわ祖先そせん勲功くんこう覚書おぼえがきじょう』、『かつら岌圓覚書おぼえがき』によれば3かれる。『吉川よしかわ祖先そせん勲功くんこう覚書おぼえがきじょう』では、東口ひがしぐち中山口なかやまぐち)には輝元てるもと譜代ふだいしゅう西口にしぐち水谷みずたにくち)に吉川よしかわしゅう、さらにその西にし小早川こばやかわしゅう[57]。『かつら岌圓覚書おぼえがき』では、東口ひがしぐち中山口なかやまぐち)には輝元てるもと譜代ふだいしゅう西口にしぐち水谷みずたにくち)に宍戸ししどしゅう、さらにその西にし吉川よしかわしゅう[19]
  15. ^ 吉川よしかわ祖先そせん勲功くんこう覚書おぼえがきじょう』によればはち午後ごご1ごろ)にたたかいは終了しゅうりょう[57]
  16. ^ くもぐん実記じっき』『陰徳いんとく太平たいへい』ではやく7,500[1][63]
  17. ^ くもぐん実記じっき』『陰徳いんとく太平たいへい』によれば、毛利もうりぐんは2がつ24にち(3がつ30にち)に乃木のぎ島根しまねけん松江まつえ大橋川おおはしがわ南岸なんがん)のあたりにしつらえじん[1][63]
  18. ^ 中海なこみにおける海運かいうん重要じゅうよう拠点きょてんである十神山とがみやまじょう末吉すえきちじょうなど、出雲いずも伯耆ほうき国境こっきょうにあるしろ次々つぎつぎ奪還だっかんするとともに[65]一時いちじ清水山しみずやま要害ようがい攻略こうりゃくしてふたた月山がっさん富田とみたじょうせま[66]などふたたびその勢力せいりょく島根半島しまねはんとう全域ぜんいきにまで拡大かくだいした。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l くもぐん実記じっきだいかん毛利もうりかた大勢おおぜいのぼ多久和たくわじょうわたし ならびに布部ぬのべだい合戦かっせんこと」。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 陰徳いんとく太平たいへいまきだいよんじゅうろくくもしゅう布部ぬのべさん合戦かっせんこと」。
  3. ^ えいろく5ねん)7がつ29にち こころ東堂とうどう て 三吉みよしたかしあきら書状しょじょううつし閲覧えつらんろく遺漏いろう4-1』『きよし泉寺いずみでら文書ぶんしょ』。
  4. ^ えいろく5ねん12がつ兼重かねしげ五郎ごろう兵衛ひょうえ て 毛利もうり元就もとなり書状しょじょううつしばつ閲録52』ほか。
  5. ^ えいろく6ねん)10がつ17にち  たなもりひだり近衛このえ将監しょうげん 返報へんぽう  吉川よしかわ元春もとはる巻数かんすう并供まい返事へんじ切紙きりかみ厳島いつくしま野坂のさか文書ぶんしょ』。
  6. ^ えいろく8ねんカ)正月しょうがつ28にち たなもりひだり近衛このえ将監しょうげん 宿所しゅくしょ 毛利もうり元就もとなり書状しょじょう切紙きりかみ厳島いつくしま野坂のさか文書ぶんしょ』。
  7. ^ a b c 森脇もりわき覚書おぼえがき』「くもしゅう弓矢ゆみや最初さいしょこと」。
  8. ^ a b 二宮にのみや佐渡さど覚書おぼえがき』「出雲いずも富田とみた開城かいじょう」。
  9. ^ くもぐん実記じっきだいさんかん富田とみたそうさんしょ合戦かっせん ならびに毛利もうりぜいあらくま帰陣きじんこと」。
  10. ^ えいろく9ねん11月21にち 毛利もうり元就もとなり3めいれんちょ血判けっぱんじょううつし佐々木ささききゅうぞう文書ぶんしょ』『閲覧えつらんろく29』。
  11. ^ えいろく9ねん11月28にち 冷泉れいせんよんろう 返報へんぽう 小早川こばやかわ隆景たかかげ書状しょじょう冷泉れいせん文書ぶんしょ』『ばつ閲禄102』。
  12. ^ えいろく11ねん)6がつ2にち 内藤ないとう越後えちごもり て 毛利もうり元就もとなりどうてるもと連署れんしょ書状しょじょうばつ閲録125』ほか。
  13. ^ えいろく11ねん)8がつ23にち あかあなみぎきょうあきら 陣所じんしょ 毛利もうり元就もとなりどうてるもと連署れんしょ書状しょじょうばつ閲録37』。
  14. ^ えいろく12ねん)4がつ16にち 毛利もうり輝元てるもと 御返事おへんじ 毛利もうり元就もとなり自筆じひつ書状しょじょう毛利もうり文書ぶんしょ549』ほか。
  15. ^ えいろく12)5がつ1にち 内藤ないとうしんみぎ衛門えもんどう越後えちごもり て 毛利もうり輝元てるもと書状しょじょうばつ閲録125』。
  16. ^ a b 森脇もりわき覚書おぼえがき』「九州きゅうしゅうじんこと」。
  17. ^ a b 尼子あまこ戦国せんごく時代じだい鳥取とっとり 2010, p. 80.
  18. ^ 太閤たいこうまきじゅうきゅう鹿しかすけ尼子あまご貴族きぞくもとめ」。
  19. ^ a b c d e f かつら岌圓覚書おぼえがき』。
  20. ^ a b c 陰徳いんとく太平たいへいまきだいよんじゅうさん尼子あまこ勝久かつひさくもしゅういり づけ 松永まつながしもだいごと」。
  21. ^ えいろく12ねん)4がつ28にち 赤名あかな右京うきょうあきら て 毛利もうり輝元てるもと書状しょじょうばつ閲録37』。
  22. ^ もとかめ2ねん卯月うづき5にち 三沢みさわ左京さきょうあきら て 吉川よしかわ元春もとはる起請文きしょうもん三沢みさわ文書ぶんしょ』。
  23. ^ えいろく12ねん9がつ15にち 日御碕ひのみさき検校けんぎょう て 尼子あまこ家臣かしん連署れんしょ奉書ほうしょ日御碕ひのみさき神社じんじゃ文書ぶんしょ』。
  24. ^ a b くもぐん実記じっきだいよんかん尼子あまこ勝久かつひさくもしゅうり、ならびに旧交きゅうこうはせあつまりてきじょうとすこと」。
  25. ^ えいろく12ねん9がつ15にち 日御碕ひのみさき検校けんぎょう て 尼子あまこ勝久かつひさ寄進きしんじょう日御碕ひのみさき神社じんじゃ文書ぶんしょ』。
  26. ^ えいろく12ねん)7がつ20日はつか 湯原ゆはらみぎきょうすすむ て 小早川こばやかわ隆景たかかげ書状しょじょうばつ閲録115ノ3』。
  27. ^ a b c d e f 吉川よしかわ旧記きゅうき』。
  28. ^ えいろく12ねんみずのえ5がつ5にち 南方みなかた宮内みやうちしょう輔 て しょう十郎じゅうろうもとあき書状しょじょうばつ閲録47』ほか。
  29. ^ えいろく12ねん)6がつ7にち 湯原ゆはら平次へいじ て 小早川こばやかわ隆景たかかげ書状しょじょうばつ閲録115-1』ほか。
  30. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 560.
  31. ^ えいろく12ねん7がつ28にち 天野あまの隆重たかしげ新藤しんどう就勝連署れんしょあずかじょう折紙おりがみ竹矢ちくや文書ぶんしょ』。
  32. ^ a b えいろく12ねん)10がつ28にち 立花たちばな勤番きんばんかく御中おんちゅう陣所じんしょ て よしひろし左近さこん太夫たゆうかん書状しょじょううつし無尽むじんしゅう』。
  33. ^ えいろく12ねん)12月25にち 山縣やまがた備後びんごもり て 毛利もうり輝元てるもと感状かんじょううつしばつ閲録遺漏いろう2の4』。
  34. ^ えいろく12ねん)11月18にち 天野あまの隆重たかしげ て 小早川こばやかわ隆景たかかげ書状しょじょう稲田いなだ文書ぶんしょ』ほか。
  35. ^ もとかめ4ねん10がつ2にち 井上いのうえ又右衛門またえもん て 小早川こばやかわ隆景たかかげ感状かんじょううつしばつ閲録11ノ2』ほか。
  36. ^ えいろく12ねん)11月21にち 秋月しゅうげつ毛利もうり兵部ひょうぶしょう輔 て 田北たきたあきらえき書状しょじょう無尽むじんしゅう』。
  37. ^ えいろく12ねん10がつ25にち 舟越ふなこし淡路あわじまもる て 毛利もうり輝元てるもと書状しょじょうばつ閲録159』。
  38. ^ 寛永かんえい12ねん1がつ11にち 新屋あたらしやさん三郎さぶろう て 毛利もうりしげる就加冠状かんじょうばつ閲録85』。
  39. ^ えいろく13ねん)1がつ5にち 毛利もうり輝元てるもと て 吉川よしかわ元春もとはる自筆じひつ書状しょじょう毛利もうり文書ぶんしょ』。
  40. ^ a b c d 太平たいへいまきだいよんじゅうくもしゅう多久和たくわじょう退しりぞこと なみ 月山がっさんしろがここと」。
  41. ^ a b 長屋ながや覚書おぼえがき』。
  42. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 593.
  43. ^ a b えいろく13ねん)2がつ廿にじゅう 毛利もうり輝元てるもと て 吉川よしかわ元春もとはる自筆じひつ書状しょじょう毛利もうり文書ぶんしょ791』。
  44. ^ えいろく12ねん9がつ27にち 儀太郎ぎたろうみぎ衛門えもんじょう て 天野あまの隆重たかしげ書状しょじょうばつ閲録160』ほか。
  45. ^ えいろく13ねん)2がつ7にち 国司こくしもとたけ て くち道良みちよし書状しょじょう毛利もうり文書ぶんしょ853』ほか。
  46. ^ えいろく13ねんもとかめ2ねんヵ)〕1がつ19にち 吉川よしかわ元春もとはる て 毛利もうり元就もとなり書状しょじょうばつ閲録5』。
  47. ^ えいろく13ねん正月しょうがつ5にち) 毛利もうり輝元てるもと て 吉川よしかわ元春もとはる自筆じひつ書状しょじょう毛利もうり文書ぶんしょ788』。
  48. ^ a b c d e f 森脇もりわき覚書おぼえがき』「くもしゅう弓矢ゆみや最終さいしゅうこと」。
  49. ^ えいろく13ねん正月しょうがつ5にち) 吉川よしかわ元春もとはる自筆じひつ書状しょじょう毛利もうり文書ぶんしょ789』。
  50. ^ えいろく13ねん正月しょうがつ15にち) 粟屋あわや元種もとだね て 小早川こばやかわ隆景たかかげ書状しょじょう毛利もうり文書ぶんしょ821』。
  51. ^ えいろく13ねん2がつ7にち) 湯原ゆはら平次へいじ て 小早川こばやかわ隆景たかかげ書状しょじょううつしばつ閲録115』。
  52. ^ えいろく13ねん2がつ4にち) たなもりひだり近衛このえ将監しょうげん て 毛利もうり元就もとなり書状しょじょう切紙きりかみ厳島いつくしま野坂のさか文書ぶんしょ」。
  53. ^ a b c えいろく13ねん2がつ7にち) 湯原ゆはら平次へいじ て 小早川こばやかわ隆景たかかげ書状しょじょううつしばつ閲録115」。
  54. ^ 出雲いずも富田とみたしろ 1978, p. 218.
  55. ^ えいろく13ねん)2がつ7にち 国司こくしもとたけ て くち道良みちよし書状しょじょう毛利もうり文書ぶんしょ853』。
  56. ^ えいろく13ねん)2がつ17にち 武安たけやす木工もっこうまこと児玉こだま美濃みのまもる て 毛利もうり元就もとなり書状しょじょう折紙おりがみ』。
  57. ^ a b c d 吉川よしかわ祖先そせん勲功くんこう覚書おぼえがきじょう』。
  58. ^ えいろく13ねん)2がつ15にち 福原ふくはらさだしゅん て 赤名あかなひさ清書せいしょじょううつしばつ閲録50』。
  59. ^ 出雲いずも富田とみたしろ 1978, p. 222.
  60. ^ こたえしょ』。
  61. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 597.
  62. ^ えいろく13ねん3がつ16にち 宇山うやまよし五郎ごろう て 吉川よしかわ元春もとはるがいさんめい連署れんしょ書状しょじょううつしばつ閲録88』ほか。
  63. ^ a b c 陰徳いんとく太平たいへいまきだいよんじゅうろく末次すえつぐ土井どいあきら退すさこと」。
  64. ^ もとかめ元年がんねん)9がつ5にち 渡辺わたなべ左衛門さえもん太夫たゆうほか3めい て 毛利もうり輝元てるもと小早川こばやかわ隆景たかかげ連署れんしょ書状しょじょううつしばつ閲録55』。
  65. ^ もとかめ元年がんねん)9がつ25にち 湯原ゆはらみぎきょうすすむ て 毛利もうり輝元てるもと毛利もうり元就もとなり小早川こばやかわ隆景たかかげ連署れんしょ書状しょじょううつしばつ閲録115』ほか。
  66. ^ もとかめ元年がんねん)10がつ14にち 国司こくし雅楽ががくまこと て 毛利もうり元就もとなり書状しょじょううつしばつ閲録55』。
  67. ^ もとかめ元年がんねん)10がつ6にち 児玉こだま与八よはち て 毛利もうり元就もとなり書状しょじょううつしばつ閲録100』。
  68. ^ もとかめ2ねん)8がつ24にち 野村のむら信濃しなのまもる て 毛利もうり輝元てるもと書状しょじょう野村のむら文書ぶんしょ』。
  69. ^ もとかめ3ねん)6がつ20日はつか まき兵庫ひょうごすけ て 志賀しがあきら信書しんしょじょう切紙きりかみ石見いわみまき文書ぶんしょ』。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 三坂みさかけい こうちゅう戦国せんごく 毛利もうり史料しりょうせん 』(マツノ書店しょてん、1987ねんちゅうに『かつら岌圓覚書おぼえがき』をふく
  • べいはら正義まさよし こうちゅう戦国せんごく 中国ちゅうごく史料しりょうせん』(マツノ書店しょてん、1987ねんちゅうに『二宮にのみや佐渡さど覚書おぼえがき』『森脇もりわき覚書おぼえがき』をふく
  • 香川かがわけいままし陰徳いんとく太平たいへい ぜん6さつべいはら正義まさよし こうちゅう東洋とうよう書院しょいん、1980ねんISBN 4-88594-252-7
  • 河本かわもとたかしせい尼子あまこ毛利もうり合戦かっせん くもぐん実記じっき勝田かつた勝年かつとし こうちゅう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1978ねん
  • 小瀬こせはじめあん太閤たいこう-しん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけい60』檜谷ひのきだに昭彦あきひこ江本えもとひろし こうちゅう岩波書店いわなみしょてん、 1996ねんISBN 4-00-240060-3
  • 広瀬ひろせまち教育きょういく委員いいんかい 編集へんしゅう出雲いずも尼子あまご史料しりょうしゅう上巻じょうかん)(下巻げかん)』(広瀬ひろせまち教育きょういく委員いいんかい、2003ねん
  • 松江まつえ松江まつえ-史料しりょうへん4中世ちゅうせいⅡ』松江まつえ編集へんしゅう委員いいんかい 編集へんしゅう松江まつえ、2014ねん
  • 編集へんしゅう 鳥取とっとりけん公立こうりつ文書ぶんしょかん けんへんさんしつ へん尼子あまこ戦国せんごく時代じだい鳥取とっとり鳥取とっとりけん鳥取とっとりけんブックレット4〉、2010ねん 
  • 編修へんしゅう さんきょうでん編纂へんさんしょ監修かんしゅう 渡辺わたなべゆう へん毛利もうり元就もとなりきょうでん』マツノ書店しょてん、1984ねん 
  • 著者ちょしゃ 妹尾せのお豊三郎とよさぶろう へん出雲いずも富田とみたしろ山中さんちゅう鹿しかかいこうもりこう顕彰けんしょうかい、1978ねん 
  • 大分おおいたけん教育庁きょういくちょう文化ぶんか 編修へんしゅう大友おおとも宗麟そうりん 資料集しりょうしゅう だいさんかんだいよんかん大分おおいたけん先哲せんてつ叢書そうしょ-』(大分おおいたけん教育きょういく委員いいんかい、1994ねん
  • 福岡ふくおか編修へんしゅう委員いいんかい 編修へんしゅう福岡ふくおか 資料しりょうへん 中世ちゅうせい①・②』(福岡ふくおか、2010ねん・2014ねん

関連かんれん作品さくひん

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ボードゲーム
  • Fubeyama(『RAN』収録しゅうろくGMT Games、2007ねん英語えいご