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しのぶげんくず

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しのぶげんくず
戦争せんそう戦国せんごく時代じだい
年月日ねんがっぴ弘治こうじ2ねん1556ねん)もしくはえいろく元年がんねん1558ねん
場所ばしょ石見いわみこくしのぶげん
結果けっか尼子あまごぐん勝利しょうりし、石見いわみ銀山ぎんざん掌握しょうあく
交戦こうせん勢力せいりょく
毛利もうりぐん 尼子あまこぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
毛利もうり元就もとなり
吉川よしかわ元春もとはる
宍戸ししどたかし
尼子あまこ晴久はるひさ
本城ほんじょう常光じょうこう
小笠原おがさわら長雄ながお
戦力せんりょく
やく7,000 やく25,000
毛利もうり元就もとなりたたか

しのぶげんくず(おしばらくずれ)は、弘治こうじ2ねん1556ねん)またはえいろく元年がんねん1558ねん)に毛利もうりしのぶげんげん島根しまねけん大田おおた川合かわいまち)で尼子あまこだい敗北はいぼくきっしたたたかいをす。地元じもと大田おおたでは新原しんはらくず(うしばらくずれ)ともばれている。

背景はいけい

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銀山ぎんざん争奪そうだつせん

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石見いわみこく石見いわみ銀山ぎんざんげん島根しまねけん大田おおた)はだいひさし6ねん1526ねん)より大内おおうち義興よしおき支配しはいもと本格ほんかくてき採掘さいくつはじまり、とおるろく3ねん1530ねん)、地元じもと豪族ごうぞくである小笠原おがさわらちょうたかし銀山ぎんざん占拠せんきょ嚆矢こうしとして争奪そうだつせん開始かいしされた。3ねん大内おおうち奪回だっかいするも天文てんもん6ねん1537ねん)には尼子あまこ経久つねひさ石見いわみこく侵攻しんこう銀山ぎんざん争奪そうだつせん介入かいにゅうはじめる。

天文てんもん22ねん1553ねん)4がつごろ当時とうじ銀山ぎんざん支配しはいしていた大内おおうちとげ長信ながのぶ銀山ぎんざんがわ山吹やまぶきじょうとしてにんじた[1]が、天文てんもん24ねん1555ねん)に大内おおうち家政かせい仕切しきっていたとう晴賢はるかた厳島いつくしまたたか毛利もうり元就もとなりぐんやぶれてはいしたためにその勢力せいりょく石見いわみこくから後退こうたいわって毛利もうり尼子あまことの石見いわみ銀山ぎんざん争奪そうだつせんはじめることとなった。

石見いわみ銀山ぎんざんしのぶげん

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石見いわみ銀山ぎんざん江戸えど幕府ばくふ天領てんりょうとするまでは商人しょうにん独自どくじ権益けんえきであり、毛利もうり尼子あまこなどのしょ大名だいみょうはそのさんする銀鉱ぎんこうせきにはぎんそのもの)を輸送ゆそうするりょう通行つうこうぜい)を徴収ちょうしゅうしていた。その権利けんり確保かくほするために銀山ぎんざんのすぐそばに大内おおうち山吹やまぶきじょうたきじょうきずいた(ぎんさんするやまほうりょうしろより標高ひょうこうたかいが鉱夫こうふやその家族かぞく殺傷さっしょうすることは不利益ふりえきになるので、大名だいみょうはこちらにはあまりしゅくわえなかったようである)。

石見いわみ銀山ぎんざん確保かくほするにあたり、おおきな焦点しょうてんになったのは山吹やまぶきじょうであった。急峻きゅうしゅん山頂さんちょうかまえられたけんじょうであるためちからしは到底とうてい不可能ふかのうであり落城らくじょうさせる手段しゅだんは2つにかぎられた。

1・城主じょうしゅ有利ゆうり条件じょうけん提示ていじして降伏ごうぶくさせる。

2・兵糧ひょうろうにして降伏ごうぶくさせる。

1の方法ほうほう通用つうようしない場合ばあいは2の方法ほうほうめることとなり、この2の方法ほうほう石見いわみ銀山ぎんざんめぐあらそいの基本きほんとなった。石見いわみ銀山ぎんざんへと尼子あまこ進軍しんぐんするときに使つか主要しゅようどうげん国道こくどう9号線ごうせん)とTじょうまじわるみちげん国道こくどう375号線ごうせん)の途上とじょうしのぶげん位置いちしている。地元じもと資料しりょう[2]には合戦かっせんじょう当時とうじ亀谷かめたにしろ[3]亀谷かめたに城山しろやま)を中心ちゅうしんとして周囲しゅうい鍛冶屋かじや屋敷やしき武家ぶけ屋敷やしきようする交通こうつう要衝ようしょう(すなわち経済けいざい要衝ようしょう)であったとある。

しのぶげん尼子あまごがわ拠点きょてんである亀谷かめたにじょう落城らくじょうすると、山吹やまぶきじょう大田おおた大森おおもりまち)をめている尼子あまごぐんへの補給ほきゅう毛利もうりぐんによってたれるということ意味いみしていた(海路かいろ兵糧ひょうろうはこ場合ばあいは、しろ周囲しゅうい展開てんかいする毛利もうりぐん突破とっぱしなければならなかった。)。ぎゃくえば、しのぶげん亀谷かめたにじょう尼子あまごがわ確保かくほすれば、毛利もうりがわ補給ほきゅうおびやかすことなる。つまりは、石見いわみ銀山ぎんざん確保かくほするにはりょう者共ものどもにんばら戦略せんりゃくてきには重要じゅうよう価値かちっていたのである。

合戦かっせん時期じきについて

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1556ねん弘治こうじ2ねんせつ

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ぼうちょう経略けいりゃく最中さいちゅう須々まんぬまじょう攻略こうりゃくちゅう)である弘治こうじ2ねん(1556ねん[4])3がつ元就もとなり二男じなん吉川よしかわ元春もとはる宍戸ししどたかしくちどおりりょうらととも石見いわみ出陣しゅつじん[5][6]して山吹やまぶき城主じょうしゅとげ長信ながのぶを5月にくだし、毛利もうり石見いわみ銀山ぎんざん支配しはいいた[7]石見いわみ遠征えんせいぐん拠点きょてんとなったのはつうりょう居城きょじょう琵琶甲びわこうじょう邑南まち)とおもわれる[6]。なお、周防すおうこく長門ながとこく攻略こうりゃくがまだ完了かんりょうしていないこのときもとはる石見いわみつかわしたのは本格ほんかくてき石見いわみ攻略こうりゃくよりも石見いわみあま子方こかた勢力せいりょくおさえてスムーズにぼうちょう経略けいりゃくすすめるための布石ふせきともわれている[5]

これにたいし、経久つねひさ嫡孫ちゃくそんにあたる尼子あまこ晴久はるひさ備前びぜんこく浦上うらかみまさしむね支援しえんする遠征えんせい)から素早すばや撤兵てっぺいし、石見いわみ銀山ぎんざん奪取だっしゅのため軍勢ぐんぜいしたとされる。緒戦しょせん毛利もうりぐん尼子あまこぐん撃退げきたいするものの、再来さいらいした尼子あまこ小笠原おがさわら連合れんごうぐん毛利もうりぐんたたかいがにんばらしょうじた[5]

1558ねんえいろく元年がんねんせつ

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弘治こうじ2ねん5がつ山吹やまぶきじょう石見いわみ銀山ぎんざん支配しはいいていた毛利もうりは、ぼうちょう両国りょうこく平定へいていしたのちえいろく元年がんねん (1558ねん)5がつ下旬げじゅん小笠原おがさわらかたしょしろとし、6がつには温湯ぬるゆじょう川本かわもとまち)にせまった[5]晴久はるひさ本城ほんじょう常光じょうこうらととも温泉津ゆのつ大田おおた)に出陣しゅつじんする[5][8]が、豪雨ごうう影響えいきょうによるごうかわ増水ぞうすい対岸たいがん温湯ぬるゆじょうかうことはできず、かわはさんでりょうぐんにらいとなり、そのあいだ隆景たかかげ説得せっとくれた小笠原おがさわら長雄ながおは8がつ開城かいじょうした[6][9]

一方いっぽう温湯ぬるゆじょう救援きゅうえん失敗しっぱいした晴久はるひさ軍勢ぐんぜいてんじて山吹やまぶきじょうめたためににんばらたたかいがおこなわれることとなった[9][10]温湯ぬるゆじょう陥落かんらくしなかった異説いせつ[8])。

かくせつ資料しりょう以下いかのとおり。
  1. 山本やまもと浩樹ひろき戦争せんそう日本にっぽん12 西国さいこく戦国せんごく合戦かっせん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねん)p126 - 弘治こうじ2ねん7がつ
  2. 歴史れきしぐんぞうシリーズ9 毛利もうり元就もとなり(1988ねん 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ)p71、p167 - えいろく元年がんねん
  3. 戦国せんごく合戦かっせん事典じてんちょ小和田こわだやすしけい 2010ねん しん紀元きげんしゃ)p126 - えいろく元年がんねん
  4. 毛利もうり元就もとなり猛悪もうあく無道むどう」とばれたおとこちょ吉田よしだ龍司りゅうじ 2010ねん しん紀元きげんしゃ)p184〜186 - えいろく元年がんねん7がつ下旬げじゅん
  5. 山吹やまぶき城跡じょうせき(やまぶきじょうあと) - 大田おおた紹介しょうかい:ひろしま観光かんこうナビ(広島ひろしまけん観光かんこう連盟れんめい) - えいろく元年がんねん
  6. 鉱山こうざんまち街道かいどうみなと。すべては銀山ぎんざんによって形成けいせいされた - 島根しまねけんPR情報じょうほうシマネスク 2007ねん No.64 特集とくしゅう記事きじ島根しまねけんこう広報こうほう) - 尼子あまこ晴久はるひさについて「1558ねん毛利もうりぐんやぶ石見いわみ銀山ぎんざん領有りょうゆう」と解説かいせつしている。
  7. 世界せかい遺産いさん 石見いわみ銀山ぎんざんのすべて 戦国せんごく群雄ぐんゆう争奪そうだつせん - 屋根やね学校がっこういししゅうかわら工業こうぎょう組合くみあい) - 大田おおた新原しんはらのでのたたかいについて「えいろく元年がんねん」と解説かいせつしている。
  8. 大田おおた川合町忍原かわいちょうおしはらにある案内あんないばん名勝めいしょう にんげんかい案内あんない」 - えいろく元年がんねん

合戦かっせん経過けいか

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尼子あまこぐん25,000山吹やまぶきじょうめると、毛利もうりぐん宍戸ししどたかしひきいる7,000かわせた。尼子あまごぐん本城ほんじょう常光じょうこう手始てはじめとして山吹やまぶきじょう兵糧ひょうろうどう封鎖ふうさ商人しょうにんたちにも山吹やまぶきじょうへの商品しょうひん輸送ゆそうきんじた。その晴久はるひさ本隊ほんたい合流ごうりゅう山吹やまぶきじょう包囲ほういした。元就もとなり山吹やまぶき救援きゅうえんためたかし援軍えんぐんとして出撃しゅつげきさせた。これにづいた晴久はるひさにんばら出陣しゅつじんした。

しのぶげんにて宍戸ししどぐん尼子あまごぐん激戦げきせんとされる「いちわたり」「わたり」は山間さんかん谷川たにがわながれる狭隘きょうあい地形ちけいで、かずおと宍戸ししどぐん陣取じんどるには当然とうぜん箇所かしょであるとおもわれた。さらに亀谷かめたにしろ尼子あまごぐん分断ぶんだんする地点ちてんでもあり、ただ1つのてんのぞけば理想りそうてき場所ばしょであった。地元じもと資料しりょうによると尼子あまごぐん急峻きゅうしゅんやまのぼっていしおとし、宍戸ししどぐん両側りょうがわから挟撃きょうげきしたという内容ないようれる。宍戸ししどぐんとしては予測よそくしていない方面ほうめんからの攻撃こうげきであり、さらに亀谷かめたにじょうしろへい呼応こおうした攻撃こうげきけたとおもわれる。これによりうしなった宍戸ししどぐん統制とうせいれなくなり自壊じかいし、死者ししゃすうひゃくめいして敗走はいそうした。

宍戸ししどぐん撃退げきたいした晴久はるひさはそのけつけてきた元就もとなりもとはるりょうぐん対峙たいじしたもののそのあいだにも山吹やまぶきじょう包囲ほういつづけ、さらには銀山ぎんざんにまで攻撃こうげきくわえたため毛利もうりぐん混乱こんらん守将しゅしょうとげ長信ながのぶ自害じがいにより9がつ3にち山吹やまぶきじょう陥落かんらくさせた[6][9][8]

結果けっか

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この合戦かっせんにより、晴久はるひさ石見いわみ銀山ぎんざん山吹やまぶきじょう奪取だっしゅした。山吹やまぶきじょうにはおおきな戦功せんこうがあったこうじょう出雲いずも[11]城主じょうしゅ常光じょうこう城代しろだいとしていた[9][8]。また、尼子あまこはこの石見いわみ銀山ぎんざん手中しゅちゅうおさめることを確実かくじつにするため在地ざいち豪族ごうぞく温泉おんせんえいひさし尼子あまこちょくしんである多胡たごたつけい牛尾うしおひさきよしとの連絡れんらくもう構築こうちくする。

その毛利もうり石見いわみ銀山ぎんざん奪取だっしゅなんくわだてるも敗北はいぼくし(くだざかたたかなど)、晴久はるひさ存命ぞんめいちゅうにこれをくだこと出来できなかった。結局けっきょく毛利もうり石見いわみ銀山ぎんざんかえすのはくもげい和議わぎ調しらべりゃくえいろく5ねん1562ねん)となった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 天文てんもん22ねん4がつ5にちづけ大内おおうち義長よしなが知行ちぎょうあて行状ぎょうじょう」より
  2. ^ 大田おおた川合町忍原かわいちょうおしはらにある案内あんないばん名勝めいしょう にんげんかい案内あんない」より
  3. ^ 亀谷かめたに城跡じょうせき - 島根しまねけん遺跡いせきデータベース(島根大学しまねだいがく地域ちいき貢献こうけん推進すいしん協議きょうぎかい遺跡いせきデータベース分科ぶんかかい
  4. ^ 1555ねん11月7にち改元かいげんして弘治こうじ元年がんねんとなった。
  5. ^ a b c d e 山本やまもと浩樹ひろき戦争せんそう日本にっぽん12 西国さいこく戦国せんごく合戦かっせん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねん
  6. ^ a b c d 歴史れきしぐんぞうシリーズ9 毛利もうり元就もとなり(1988ねん 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ
  7. ^ 山吹やまぶき城跡じょうせき(やまぶきじょうあと) - 大田おおた紹介しょうかい:ひろしま観光かんこうナビ(広島ひろしまけん観光かんこう連盟れんめい
  8. ^ a b c d 毛利もうり元就もとなり猛悪もうあく無道むどう」とばれたおとこちょ吉田よしだ龍司りゅうじ 2010ねん しん紀元きげんしゃ
  9. ^ a b c d 戦国せんごく合戦かっせん事典じてんちょ小和田こわだやすしけい 2010ねん しん紀元きげんしゃ
  10. ^ 武家ぶけ家伝かでん 本城ほんじょう - 風雲ふううん戦国せんごく播磨屋はりまや.com)
  11. ^ こう矢倉やぐらじょうまた高屋たかやくらしろとも表記ひょうきされる。