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小笠原おがさわら長雄ながお

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小笠原おがさわら長雄ながお
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん えいただし17ねん1520ねん
死没しぼつ もとかめ元年がんねん12月9にち1571ねん1がつ4にち
別名べつめい わたる治郎じろう通称つうしょう
戒名かいみょう なり大龍おおたつ居士こじ
官位かんい 弾正だんじょうしょう兵部ひょうぶ大輔だいすけ
主君しゅくん 大内おおうち義隆よしたか尼子あまこ晴久はるひさ毛利もうり元就もとなり
氏族しぞく 清和せいわはじめ義光よしみつりゅう石見いわみ小笠原おがさわら
父母ちちはは ちち小笠原おがさわらちょうとくはは福屋ふくや
兄弟きょうだい 長雄ながおりゅうあきら
つま 正室せいしつ吉川よしかわもとけいむすめ
ちょう元枝もとえ長秀ながひで
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小笠原おがさわら 長雄ながお(おがさわら ながかつ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう石見いわみこく邑智おうちぐん河本かわもとさと現在げんざい島根しまねけん邑智おうちぐん川本かわもとまち)の温湯ぬるゆじょう本拠地ほんきょちとする国人くにびと石見いわみ小笠原おがさわらだい14だい当主とうしゅ名前なまえみは「ながたか」とも。

生涯しょうがい

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えいただし17ねん1520ねん)、石見いわみ小笠原おがさわらだい13だい当主とうしゅ小笠原おがさわらちょうとくとしてまれる。はじめ大内おおうち義隆よしたか従属じゅうぞくし、のち尼子あまこ晴久はるひさ毛利もうり元就もとなりぞくする。

天文てんもん16ねん1547ねん)にちちちょういさお死去しきょしたことで家督かとくぎ、石見いわみ小笠原おがさわら当主とうしゅとなる。天文てんもん17ねん1548ねん)に石見いわみ銀山ぎんざん占領せんりょうし、天文てんもん20ねん1551ねん)のだいやすしてらへん大内おおうち義隆よしたか死去しきょすると尼子あまこ晴久はるひさぞくした。

えいろく元年がんねん1558ねん)、くだざかたたか毛利もうり元就もとなり攻撃こうげきけて温湯ぬるゆじょうめられる。このとき尼子あまこ晴久はるひさ援軍えんぐんけたが毛利もうり攻撃こうげきはなおもつづき、ついえいろく2ねん1559ねん)8がつ小早川こばやかわ隆景たかかげ仲介ちゅうかいけて毛利もうり元就もとなり降伏ごうぶくした。そのさい元就もとなり小笠原おがさわら所領しょりょうごうかわ北側きたがわうつし、温湯ぬるゆじょうのある川本かわもとをはじめとした小笠原おがさわら本領ほんりょう半分はんぶん吉川よしかわあたえられた。えいろく5ねん1562ねん)より長雄ながお甘南備かんなび峰山みねやまうつり、その毛利もうり尼子あまこめにしたが出雲いずもこく出陣しゅつじんする。

もとかめ元年がんねん1570ねん)に三原みはら丸山まるやましろきずき、同年どうねん死去しきょ享年きょうねん51。

参考さんこう文献ぶんけん

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先代せんだい
小笠原おがさわらちょうとく
石見いわみ小笠原おがさわら当主とうしゅ
1547ねん - 1570ねん
次代じだい
小笠原おがさわらちょう