吉川よしかわもとけい

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吉川よしかわもとけい
時代じだい 室町むろまち時代ときよ - 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 長禄ちょうろく3ねん[1]1459ねん
死没しぼつ だいひさし2ねん3月6にち[1][2]1522ねん4がつ2にち
別名べつめい 次郎じろう三郎さぶろう[2]通称つうしょう
戒名かいみょう もういん義仲よしなかちょんいさむ[1]
墓所はかしょ ばん山洞やまほらせんてら広島ひろしまけん山県やまがたぐん北広島きたひろしままち
官位かんい 伊予いよもり[2]治部じぶしょう[1][2]
主君しゅくん 大内おおうち義興よしおき尼子あまこ経久つねひさ
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみ工藤くどうりゅう吉川よしかわ
父母ちちはは ちち吉川よしかわこくけい[2]ははしょう
兄弟きょうだい もとけい大塚おおつかけいちょう[3]経世けいせい[3]
おんな福屋ふくや隆兼たかかねしつ)、みょう毛利もうり元就もとなり正室せいしつ
つま 正室せいしつ毛利もうりひろしもとむすめ
いえけいきょうけい[2][3]おんな武田たけだ光和みつかずしつ)、
おんな山県やまがたひかりよりゆきしつ)、おんな小笠原おがさわら長雄ながおしつ
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吉川よしかわ もとけい(きっかわ もとつね)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう安芸あきこく国人くにびと吉川よしかわ13だい当主とうしゅ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

長禄ちょうろく3ねん[1]1459ねん)、安芸あきこく国人くにびと吉川よしかわこくけい長男ちょうなんとしてまれる。

えいただし8ねん1511ねん)のふね岡山おかやま合戦かっせんにはちちともまいりじん[1]えいただし14ねん1517ねん)、安芸あき武田たけだ当主とうしゅ武田たけだもとしげる吉川よしかわりょう有田ありたじょう攻撃こうげきすると、祖父そふ吉川よしかわけいおとうとにあたる宮庄みやのしょうけいとも[4]派遣はけんし、毛利もうり元就もとなりとの共同きょうどう作戦さくせんによって武田たけだもとしげる熊谷くまがいもとじきらをった(有田ありた中井なかいしゅたたか)。

その方針ほうしん転換てんかんし、山陰さんいんゆう尼子あまこ経久つねひさ傘下さんかはいる。もとけいつま毛利もうりひろしもとむすめであり、いもうと毛利もうり元就もとなりつまであった。そのため吉川よしかわ尼子あまこ傘下さんかになると、毛利もうりたいしても尼子あまこ従属じゅうぞくするように勧誘かんゆうした[1]

家督かとくいであいだもないだいなが2ねん1522ねん3月6にちちちくにけい先立さきだって死去しきょ[1]きょうけいあといだ。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]