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吉川よしかわけいあき

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吉川よしかわけいあき
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき - 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 弘和ひろかず3ねん/えいいさお3ねん12月4にち1383ねん12月28にち
改名かいめい けいあき道心どうしん法名ほうみょう
別名べつめい 五郎ごろう次郎じろう五郎ごろう二郎じろう[1]けいあきら
官位かんい 駿河するがもり[1]
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ土佐とさこくぶんぐん守護しゅごしょく
主君しゅくん 足利尊氏あしかがたかうじ
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみ工藤くどうりゅう吉川よしかわ
父母ちちはは ちち吉川よしかわけいもり[1]
つま しょう駿河するが入道にゅうどうおんな
わたるとく吉川よしかわけいしつ[1]
婿養子むこようしけい吉川よしかわけいけん
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吉川よしかわ けいあき(きっかわ つねあき)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから南北なんぼくあさ時代じだいにかけての武士ぶし安芸あきこく国人くにびと吉川よしかわ7だい当主とうしゅ駿河するがまるじょうおも

生涯しょうがい

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正平しょうへい5ねん/貞和さだかず6ねんかんおう元年がんねん1350ねん)、ちち吉川よしかわけいもりから家督かとくぎ、吉川よしかわ当主とうしゅとなる。吉川よしかわ安芸あきぶんぐん守護しゅごしょく武田たけだしんじしたが足利尊氏あしかがたかうじがわ行動こうどうしている。しかし分家ぶんけすじ石見いわみ吉川よしかわ足利あしかが直冬ただふゆがわくみし、直冬ただふゆ南朝なんちょう帰順きじゅんすると、同様どうよう南朝なんちょうしたがった。

けいあきはこの時期じき吉川よしかわまとめることができず、石見いわみ吉川よしかわ吉川よしかわけいけんけい父子ふし南朝なんちょうかたとして活躍かつやく勢力せいりょくばした。結局けっきょくけいあきには男子だんしがいなかったこともあり、むすめわたるとく石見いわみ吉川よしかわけいとつがせ、婿養子むこようしとしてあとがせた。

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 今井いまいたかしほかへん日本にっぽん総覧そうらん』 3(中世ちゅうせい 2)、児玉こだまみゆき小西こにし四郎しろう竹内たけうちさん監修かんしゅう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1984ねん3がつASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:84023599 
  • 岡部おかべ忠夫ただお編著へんちょはぎはん諸家しょか系譜けいふ琵琶びわ書房しょぼう、1983ねん8がつASIN B000J785PQNCID BN01905560全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:84027305 
  • 北広島きたひろしままち
  • はぎ藩閥はんばつ閲録