吉川よしかわけい

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吉川よしかわ けい
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん16ねん1547ねん
死没しぼつ 天正てんしょう9ねん10月25にち1581ねん11月21にち
改名かいめい せんくままる幼名ようみょう)→けい
別名べつめい 小太郎こたろう通称つうしょう
戒名かいみょう 平等院びょうどういん殿どのぜん吏部けん因幡いなば権守ごんもりさび輔空こころだい禅定ぜんじょうもん
墓所はかしょ 鳥取とっとりけん鳥取とっとり円護寺えんごじ
岩国いわくに横山よこやま吉川よしかわけいちょうたましい
官位かんい 式部しきぶしょう
主君しゅくん 毛利もうり元就もとなり輝元てるもと
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみ工藤くどうりゅう吉川よしかわ
父母ちちはは ちち吉川よしかわけいやすはは吉川よしかわ経典きょうてんおんな
兄弟きょうだい けいおんな久利ひさとしもりまさるしつ)、おんな小坂こさかけいどおりしつ
つま さかいけいてるさかい吉川よしかわおんな
けいいえしゅいえこのみ
あちゃこ(野家のやよりゆきしつのち武安たけやす十兵衛じゅうべえしつ)、
おんな粟屋あわや加賀かがまもるしつ)、おんな福富ふくとみはるかたしつ
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吉川よしかわ けい(きっかわ つねいえ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう毛利もうり家臣かしん吉川よしかわけいやす嫡男ちゃくなん本姓ほんせい藤原ふじわら石見いわみ吉川よしかわ当主とうしゅ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

毛利もうり石見いわみ支配しはい重鎮じゅうちん[編集へんしゅう]

天文てんもん16ねん1547ねん) 、毛利もうり家臣かしん石見いわみ吉川よしかわ当主とうしゅ吉川よしかわけいやす嫡男ちゃくなんとして誕生たんじょう

えいろく3ねん1560ねん)に元服げんぷく翌年よくねん尼子あまこ寝返ねがえった石見いわみ国人くにびと福屋ふくや隆兼たかかねらがひきいる5,000にん居城きょじょう福光ふくみつじょうめられたさいには、若年じゃくねんながらちちけいやすとともこれを迎撃げいげきした。その詳細しょうさい不明ふめいであるが、ちちとともに石見いわみこく重鎮じゅうちんとして国内こくない安定あんていつとめた。

天正てんしょう9ねん1581ねん)、織田おだ信長のぶながいのちけた羽柴はしば秀吉ひでよしひきいる中国ちゅうごく討伐とうばつぐん因幡いなばこくまで侵攻しんこうした。毛利もうり従属じゅうぞくしていた鳥取とっとりじょうおも山名やまな豊国ほうこく織田おだ降伏ごうぶくしようとしたため、家臣かしん森下もりしたみちほまれ中村なかむらはるつづけ追放ついほうされた。森下もりしたらは吉川よしかわ元春もとはる支援しえん要請ようせいした。もとはるはこの要請ようせいれ、家臣かしん牛尾うしおもとさだ派遣はけんするも戦闘せんとう負傷ふしょうしたため(討死うちじにせつもある)、吉川よしかわ一門いちもん文武両道ぶんぶりょうどうすぐれたけい鳥取とっとりじょう守備しゅびするよう命令めいれいくだした。このときけいみずからの首桶くびおけ用意よういしており、その決死けっし覚悟かくごうかがうことができる。

なお、異説いせつでは山名やまな豊国ほうこく吉川よしかわけい入城にゅうじょうしたときにもざいしろしており、吉川よしかわけい鳥取とっとりじょう情報じょうほう逐一ちくいち織田おだかた密告みっこくしており、それが毛利もうり発覚はっかくしたために逃亡とうぼうしたともいわれている。

鳥取とっとりじょう籠城ろうじょうせん[編集へんしゅう]

同年どうねん2がつけい鳥取とっとりじょう入城にゅうじょうする。鳥取とっとりじょう守備しゅびへい山名やまな配下はいかが1,000めい毛利もうり配下はいかが800にん近隣きんりん籠城ろうじょう志願しがん農民のうみんへいが2,000にんの、おおよそ4,000にんであった。けいはすぐさま防衛ぼうえいせん構築こうちくかり、籠城ろうじょう準備じゅんびすすめたが、兵糧ひょうろうたくわえがおおよそ平時へいじじょうへい3かげつぶんしかなかった。これは因幡いなば国内こくないべい秀吉ひでよし密命みつめいによって潜入せんにゅうした若狭わかさこく商人しょうにんによってすべ高値たかねあさられ、その高値たかねられた鳥取とっとりじょうしろへい備蓄びちくしていた兵糧ひょうろうまいはらったためであった。このままけば兵糧ひょうろうはひとがつつかどうかもあやしい状態じょうたいであった。

6がつけい予測よそくよりはや羽柴はしば秀吉ひでよしひきいる2まん軍勢ぐんぜい因幡いなば侵攻しんこうし、7がつ鳥取とっとりじょう包囲ほうい攻撃こうげき開始かいしした。秀吉ひでよし無闇むやみさず、黒田くろだ孝高よしたか献策けんさくにより包囲ほういもう維持いじつづけた。鳥取とっとりじょう包囲ほういもうにより糧道りょうどうたれ、陸路りくろおよび海路かいろ使つかった兵糧ひょうろう搬入はんにゅう作戦さくせん失敗しっぱい兵糧ひょうろうき、2ヶ月かげつには城内じょうない家畜かちく植物しょくぶつくし、3ヶ月かげつにはもりじょうへい餓死がししゃ続出ぞくしゅつはじめる。城内きうちは「餓死がししたひとにくった。おやしょくし、おとうとあにくえした」という地獄じごく絵図えずとなった[1]。それでも4ヶ月かげつ籠城ろうじょうえたが、10月、けい森下もりしたみちほまれ中村なかむらはるつづけ相談そうだんし、ここにいたってしろへい助命じょめい条件じょうけんとし、降伏ごうぶくすることとなった。

秀吉ひでよしけい奮戦ふんせんとなえ、責任せきにんって自害じがいするのは森下もりしたみちほまれ中村なかむらはるつづけだけでよく、けい帰還きかんさせるとの意思いしつたえた。しかしけいはそれを拒否きょひし、責任せきにんって自害じがいするとの意志いしえなかった。困惑こんわくした秀吉ひでよし信長のぶなが確認かくにんをとり、信長のぶながけい自害じがい許可きょかした。

10月25にち早朝そうちょうけい家臣かしんひまいのさかずきわし、具足ぐそくひつこしけて、脇差わきざしかみちゅうきにすると、それを見守みまも家臣かしん座中ざちゅうをやって、大声おおごえで「うちうち稽古けいこもできなかったから、調法ちょうほうりようになろう」とってから切腹せっぷくした[2]介錯かいしゃく家臣かしん静間しずま源兵衛げんべえつとめた[2][3]。そして家臣かしん福光ふくみつ小太郎こたろう若鶴わかづる甚右衛門えもん坂口さかぐち孫次まごじろうらが殉死じゅんしした。

自害じがい先立さきだってちち子供こどもらに遺書いしょのこし、自分じぶん心情しんじょうしるしている(その遺言ゆいごんじょうは5つうちゅう3つう現存げんそんしている)。また、自害じがいさいには小姓こしょう山県やまがたちょうしげるしたがっており、その自害じがい模様もよう詳細しょうさい記述きじゅつして、後世こうせいつたえている。

辞世じせいは「武士ぶし(もののふ)の つたえたる梓弓あずさゆみ かえるやもとの 栖(すみか)なるらん 」。

自害じがい、そのくび秀吉ひでよししたとどけられた。秀吉ひでよしくびるなり「あわれなる義士ぎしかな」とって男泣おとこなきしたとつたわる[2]。その安土あづち織田おだ信長のぶながのもとにおくられ、信長のぶながによって丁重ていちょうほうむられた。

墓所はかしょ城内じょうない青木あおききょくばれる場所ばしょてられたが、慶長けいちょう6ねん1601ねん)に池田いけだ長吉ちょうきち入城にゅうじょうしてしろ改修かいしゅうしたさいに、しろがい円護寺えんごじ五反田ごたんだうつされた。平成へいせい5ねん1993ねん)、鳥取とっとりじょう正面しょうめん入口いりくちけい銅像どうぞう建立こんりゅうされた。

遺書いしょ[編集へんしゅう]

吉川よしかわけいごとこういえあて[編集へんしゅう]

わがとう鳥取とっとり御用ごようやめたてこう ない覚悟かくごぜんこうじょう いた忘却ぼうきゃくこう 日本にっぽん貮ツ弓矢ゆみや於堺
及切腹せっぷくこうごと 末代まつだいため名誉めいよそんこう 累年るいねんべつ而御芳情ほうじょうだん もち其期失念しつねんさるこうそん
ほどとくさるこう ずいたてまつあずかこう長光ながみつがたな いき亀寿かめじゅしょこううずたかしたこう 恐惶きょうこう謹言きんげん
じゅうがつじゅうよんにち
式部しきぶしょう輔経 花押かおう
けいごとさま さんじん御中おんちゅう

現代げんだいやくでは「毛利もうり織田おだ激突げきとつした日本にっぽんふたつの弓矢ゆみや境目さかいめ切腹せっぷくできることは末代まつだいまでの名誉めいよぞんじまする」となる。

家臣かしんあて[編集へんしゅう]

今度こんどすうがつ籠城ろうじょうかく辛労しんろうだんなんさるこう わがとう以一身諸人無差相助申候 此上しゃ異議いぎやめこう 謹言きんげん

じゅうがつじゅうよんにち
しきしょうけい 花押かおう
輿こしいち兵衛ひょうえ殿どの はちめい

子供こどもあて[編集へんしゅう]

とつとりのこと よるひるひやく こらえこう
ひゃう(ろう)つきはてこうまま われ一人ひとりようにたち
おのおのをたすけもうし 一門いちもんをあげこう
そのしあわせものがたり
おきゝあるべくこう    かしこ
   天正てんしょうきゅうねんじゅうがつじゅうにち    つね 花押かおう
 あちやこ もうきゅうへ   かめしゆ まいる   かめ   とく
      

原文げんぶんは、どもたちがめるようにと仮名書かながきが目立めだつが、「ひゃうろう(兵糧ひょうろう)」とくべきところに脱字だつじがある。まえにしたけい心境しんきょう生々なまなましくつたえる。現代げんだいやくでは「鳥取とっとりこと夜昼よるひるひゃくにち、こらえたが兵糧ひょうろうてた。そこでわれ一人ひとりがごようち、みんなをたすけて、吉川よしかわ一門いちもんをあげた。そのしあわせな物語ものがたりいてほしい」となる。

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 首桶くびおけ」(小説しょうせつたん編集へんしゅう西国さいごく城主じょうしゅ」に収録しゅうろく野中のなか信二しんじちょ
  • 「ものがたり、ききあるべくこう」(小説しょうせつたん編集へんしゅうほろびのしょう」に収録しゅうろく羽山はやま信樹のぶきちょ

子孫しそん[編集へんしゅう]

けいの3なんいえこのみ(いえよし)はのち鳥取とっとりはん藩主はんしゅ池田いけだ家臣かしんとなり、またいえこのみ子孫しそん代目だいめ三遊亭圓楽さんゆうていえんらく本名ほんみょう吉河よしこひろしうみ)がいる。

圓楽えんらく鳥取とっとりおとずれたさい地元じもと図書館としょかんちょうおしえてくれたところによると、はん翰譜圓楽えんらく祖父そふにあたる人物じんぶつ安政あんせい7ねん切腹せっぷくしたとある。その息子むすこ圓楽えんらく祖父そふ)・ひろしみやびは、当時とうじ7さいちち立会たちあい、「さむらいというものはかくも悲惨ひさんなものか、もういやだ」とおもいつめて武士ぶしめ、徳川とくがわ所縁しょえん増上寺ぞうじょうじはいり、僧侶そうりょとなったという[4]明治めいじはいってひろしみやび苗字みょうじを「吉川よしかわ」から「吉河よしこ(よしかわ)」にあらためた[5]

けい肖像しょうぞうは、現在げんざいのところ発見はっけんされていない。そのため、1993ねん平成へいせい5ねん)に鳥取とっとり銅像どうぞう建立こんりゅうされたさいには、子孫しそんかお参考さんこうにした[6]代目だいめ三遊亭圓楽さんゆうていえんらく参考さんこうにした一人ひとりであるという。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ゆたかきょう
  2. ^ a b c くすのき義昭よしあき戦国せんごく武将ぶしょう名言めいげんろく』P407
  3. ^ 静間しずまきょうげん島根しまねけん大田おおた)を根拠こんきょとする国人くにびと領主りょうしゅ一族いちぞくのち毛利もうりつかえ、子孫しそん長州ちょうしゅう藩士はんしとなった。
  4. ^ 三遊亭圓楽さんゆうていえんらく独演どくえんかい全集ぜんしゅうだいしゅうEMIミュージックジャパン本人ほんにん(5代目だいめ)による解説かいせつ目黒めぐろのさんまこう
  5. ^ 落語らくごかそう法然ほうねんりゅう 圓楽えんらく一代記いちだいき」1、『浄土宗じょうどしゅう新聞しんぶん1990ねん平成へいせい2ねん5月1にちづけより
  6. ^ 吉川よしかわけいおおやけ銅像どうぞう - ひょいといんただし観光かんこうナビ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]