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熊谷元直 (戦国時代) - Wikipedia コンテンツにスキップ

熊谷くまがいもとじき (戦国せんごく時代じだい)

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熊谷くまがいもとじき
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 延徳えんとく2ねん1490ねん
死没しぼつ えいただし14ねん10月22にち1517ねん11月5にち
別名べつめい 通称つうしょう次郎じろう三郎さぶろう
法号ほうごうはなおきなせいはちす
墓所はかしょ 菩提所ぼだいしょ観音寺かんおんじあと広島ひろしま安佐北あさきた
主君しゅくん 大内おおうち義興よしおき武田たけだもとしげる
氏族しぞく 桓武かんむたいらくに香流かなれ熊谷くまがい
父母ちちはは ちち熊谷くまがいぜんじき
つま 正室せいしつみや光信みつのぶむすめ
しんじきちょくつづけ女子じょし武田たけだ光和みつかずしつ三須みすぼうきよししつ
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熊谷くまがい もとじき(くまがい もとなお)は、戦国せんごく時代じだい初期しょき武将ぶしょう安芸あきこく国人くにびと熊谷くまがい当主とうしゅ熊谷くまがいぜんじき[1]しんじき[2]ちょくつづけ[2]女子じょし武田たけだ光和みつかずしつ)。江戸えど時代じだいキリシタンとして殉教じゅんきょうした同名どうめい人物じんぶつ祖父そふにあたる。

生涯しょうがい

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安芸あき熊谷くまがいは、うけたまわ寿ことぶきひさしらんみなもとかた武将ぶしょうとして活躍かつやくした熊谷くまがい直実なおみ末裔まつえいであり、曾孫そうそん熊谷くまがいただしときだい安芸あき所領しょりょうたのがはじまりである。室町むろまち時代ときよにはぶんぐん守護しゅごである安芸あき武田たけだしたがっており、もとじき時代じだい同様どうようであった。えいただし3ねん1506ねん)、しょりょう武田たけだもとしげるからあたえられた。やがて中国ちゅうごく地方ちほう大内おおうち勢力せいりょく拡大かくだいし、安芸あき武田たけだもその麾下きかぞくするようになった。

えいただし4ねん1504ねん)に大内おおうち義興よしおき上洛じょうらくすると、それにしたがってもとじき安芸あき国人くにびとしゅ一人ひとりとして上洛じょうらくした。えいただし8ねん1511ねん)のふね岡山おかやま合戦かっせんにも参加さんかして善戦ぜんせんした。その武田たけだ尼子あまこ支援しえんした安芸あきでの実権じっけん回復かいふく目指めざ大内おおうち反旗はんきひるがえすと、武田たけだかた味方みかたした。

えいただし14ねん(1517ねん)、今田いまだしろった武田たけだもとしげるびかけにおうじ、だい内方ないほうである吉川よしかわ有田ありたじょう攻撃こうげき参戦さんせんした。しかし来援らいえんしただい内方ないほう毛利もうり元就もとなり吉川よしかわもとけいとの戦闘せんとう先陣せんじんつとめ、討死うちじにした。享年きょうねん28。嫡男ちゃくなんしんじきいだ。

逸話いつわ

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もとじき遺体いたい家臣かしんかえらなかったことに憤慨ふんがいしたもとじきつまは、おんな一人ひとり有田ありたまで出掛でかけ、おっと遺体いたいさがした。遺体いたい見付みつけたものの、女手おんなでかえるにはあまりにもおもく、右腕うわんのみを切断せつだんしてかえった。そのうで熊谷くまがい菩提寺ぼだいじである観音寺かんおんじ井戸いどあらわれて、埋葬まいそうされたと伝承でんしょうのこっている。

関連かんれん作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 今井いまいたかしほかへん日本にっぽん総覧そうらん』 3(中世ちゅうせい 2)、児玉こだまみゆき小西こにし四郎しろう竹内たけうちさん監修かんしゅう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1984ねん3がつASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:84023599 

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
熊谷くまがいぜんじき
安芸あき熊谷くまがい歴代れきだい当主とうしゅ
? - 1517ねん
次代じだい
熊谷くまがいしんただし