(Translated by https://www.hiragana.jp/)
品川将員 - Wikipedia コンテンツにスキップ

品川しながわすすむいん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
品川しながわすすむいん
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん13ねん1544ねん
死没しぼつ えいろく8ねん9がつ20日はつか1565ねん10月13にち
別名べつめい 品川しながわ大膳だいぜんかちもり勝森かつもりおおかみかい
墓所はかしょ 島根しまねけん安来やすぎ広瀬ひろせまち広瀬ひろせ
主君しゅくん 益田ますだ藤兼ふじかね
氏族しぞく きの庶流品川しながわ
父母ちちはは ちち品川しながわいんひさし
かつさだ赤雁あかがり如竹しつ
テンプレートを表示ひょうじ

品川しながわ すすむいん(しながわ まさかず)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう石見いわみこく国人くにびと領主りょうしゅ益田ますだ藤兼ふじかね家臣かしん久城くじょうひろしがつ城主じょうしゅ品川しながわ 大膳だいぜん(しながわ だいぜん)、あるいは棫木 おおかみかい(たらぎ おおかみのすけ)や品川しながわ いのししかい(しながわ ししのすけ)のられる。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

天文てんもん13ねん1544ねん)、品川しながわいんひさしとして誕生たんじょうちちいんひさし親類しんるい品川しながわすすむいん大膳だいぜんとは別人べつじん)をたよって石見いわみ益田ますだ仕官しかんし、大膳だいぜん親族しんぞくしょういんいだと推測すいそくされている。

石見いわみゆみ名手めいしゅとしてられ、腕力わんりょくつよく、益田ますだ主力しゅりょくとしてたたかった。勇将ゆうしょうとして有名ゆうめいだった尼子あまこ家臣かしん山中さんちゅう鹿しかかい対抗たいこうして棫木おおかみかいおおかみかい)(いのししかいともいわれる)と名乗なのったという。えいろく8ねん1565ねん)、だい月山がっさん富田とみたじょうたたか参加さんかし、そのさい出雲いずもこく広瀬川ひろせがわ中州なかす山中さんちゅう鹿しかかいいちおよぶもやぶられた。

勝負しょうぶ内容ないようについては諸説しょせつあり、毛利もうりがわ記録きろくでは、大膳だいぜん有利ゆうり勝負しょうぶすすめたが、乱入らんにゅうしてきたあきじょうそうしん邪魔じゃまをされて鹿しかかいられたとされ、尼子あまこがわ記録きろくでは、大膳だいぜんゆみしたが、あきじょうそうしんがそれを非難ひなん弓弦ゆづるるという妙技みょうぎせたため、あきらめて尋常じんじょう勝負しょうぶのぞみ、鹿しかかいにそのくびられたとされる(山中やまなかみゆきもり品川しながわすすむいんいち)。

墓所はかしょ島根しまねけん安来やすぎにある。そのはか荒廃こうはいしたが、大正たいしょう7ねん1917ねん)に子孫しそん品川しながわとも太郎たろうによって題字だいじ山県やまがた有朋ありとも撰文せんぶん平田東ひらたひがしすけ石碑せきひてられた。また益田ますだ上郷かみごう品川しながわ墓所はかしょにも存在そんざいする。

はぎじょう五郎太ごろたせき事件じけん益田ますだもとさち普請ふしんかた肝煎きもいりとして対応たいおうにあたった栗山くりやま三郎さぶろうみぎ衛門えもんけんなり大膳だいぜん外孫そとまご

関連かんれん作品さくひん

[編集へんしゅう]