(Translated by https://www.hiragana.jp/)
土一揆 - Wikipedia コンテンツにスキップ

一揆いっき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

一揆いっき(つちいっき/どいっき)とは、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうきから後期こうきにかけて発生はっせいした民衆みんしゅう政治せいじてき要求ようきゅう活動かつどうをいう。

概要がいよう[編集へんしゅう]

室町むろまち中期ちゅうきごろ、商品しょうひん経済けいざい発達はったつ農業のうぎょう生産せいさん向上こうじょうそう結合けつごう強化きょうかなどにともな社会しゃかい情勢じょうせい変化へんかにより、当時とうじ先進せんしん地域ちいきだった畿内きないにおいて、民衆みんしゅう連帯れんたい組織そしき一揆いっき形成けいせいして、支配しはいしゃ幕府ばくふ守護しゅごなど)へ政治せいじてき要求ようきゅうおこなうようになった。これを一揆いっきという。このころには、そうむら形成けいせいられるように、百姓ひゃくしょうらの自治じち連帯れんたい意識いしきたかまっており、そうしたながれのなかで、百姓ひゃくしょうさむらい馬借ばしゃくらが広域こういきてき連合れんごうする一揆いっき発生はっせいしたとかんがえられている。一揆いっきの「」とは当時とうじ農民のうみん百姓ひゃくしょうのことを「土民どみん」としょうしたことにちなむ。

一揆いっきのほとんどは、徳政とくせい実施じっし要求ようきゅうした。そのため、一揆いっき徳政とくせい一揆いっきということもある。当時とうじ動産どうさん不動産ふどうさん所有しょゆうけんは、売買ばいばいなどがおこなわれたとしても、本来ほんらいもと所有しょゆうしゃ保持ほじしているのがあるべき姿すがただとする観念かんねん存在そんざいしており、あるべきにもどすことこそ、徳政とくせいであるという思想しそうひろ浸透しんとうしていた。百姓ひゃくしょうらにとって、そうした徳政とくせい要求ようきゅうすることは当然とうぜん権利けんりだと認識にんしきされており、経済けいざいてき困窮こんきゅう一揆いっきしゅ要因よういんだったとはえない。天皇てんのう将軍しょうぐん代替だいがわりには徳政とくせいおこなうべき機会きかいとして、一揆いっき発生はっせいすることがおおかった。次第しだい頻発ひんぱつしていき、毎年まいとしのようにられるようになった。

こうした一揆いっき頻発ひんぱつは、幕府ばくふ権力けんりょく弱体じゃくたいをもたらしていったが、幕府ばくふ対応たいおうにぶさら実際じっさい鎮圧ちんあつにあたった守護しゅご大名だいみょう配下はいか武士ぶしなかにも長年ながねん京都きょうと滞在たいざいともな生活せいかつ逼迫ひっぱくからたような状況じょうきょうかれた農民のうみんたち同情どうじょうてきものおお一揆いっきがわ寝返ねがえものあらわれる始末しまつで、幕府ばくふ度々たびたびしょ大名だいみょう配下はいか徹底てってい管理かんりめいじている。また、応仁おうにんらん直前ちょくぜんには集結しゅうけつした兵士へいしによって土倉つちくらなどがらされて「わたし徳政とくせい」としょうした事件じけん発生はっせいしている。室町むろまち幕府ばくふ本来ほんらい土倉つちくらから土倉つちくらやく酒屋さかやから酒屋さかややく徴収ちょうしゅうしていたが、徳政令とくせいれい発布はっぷすると、土倉つちくら収益しゅうえきうしなうために土倉つちくらやく免除めんじょしなければならない規定きていがあり、当初とうしょは「徳政とくせい禁止きんし」の命令めいれいした。だが、一揆いっきはますます増加ぞうかするようになり、ては幕府ばくふ自体じたい財政難ざいせいなんすくうためにあえて一揆いっき黙認もくにんして「ぶんいち徳政令とくせいれい」(紛争ふんそうとなった債権さいけんがくいちわり幕府ばくふ納付のうふした紛争ふんそう当事とうじしゃ自由じゆう処理しょりできるとした徳政令とくせいれい)をすにいたった。このため、土倉つちくら寺院じいんった一揆いっき標的ひょうてきとなりそうなものたちみずか自衛じえいのための兵士へいしやとってこれをふせほかなかった。

1428ねんせいちょう一揆いっき1441ねん嘉吉よしきち徳政とくせい一揆いっき1457ねん長禄ちょうろく一揆いっき1462ねんひろしせい一揆いっき1478ねんおよび1480ねん山城やましろ一揆いっきなどがられる。

これにたいして国人くにびと勢力せいりょく中心ちゅうしんとなって波及はきゅうしたものをくに一揆いっきという。

一揆いっき評価ひょうか[編集へんしゅう]

一揆いっき理念りねんについて、そうむら基盤きばんとした農民のうみん闘争とうそう一環いっかんとして評価ひょうかする研究けんきゅう主流しゅりゅうめつつある[1]

一方いっぽう稲垣いながき泰彦やすひこは『日本にっぽん中世ちゅうせい社会しゃかい史論しろん』のなかで、個別こべつ荘園しょうえんレベルでの訴訟そしょう離散りさん闘争とうそう中世ちゅうせい基本きほんてき農民のうみん闘争とうそう形態けいたいであり、広域こういきてき徳政とくせい一揆いっき農民のうみん闘争とうそうではないと主張しゅちょうした。実態じったいとして、国人くにびと一揆いっき農民のうみん一揆いっきられる一味いちみ神水じんずいによってつくられる強固きょうこ組織そしきくらべて、雑多ざった社会しゃかい階層かいそうから一揆いっきには全体ぜんたい統括とうかつする組織そしき存在そんざいしない。個々人ここじんとしての農民のうみん参加さんかはあるにせよ、むらぐるみでの一揆いっきへの集団しゅうだんてき参加さんかおもわれているよりもすくなく[1]外部がいぶからの参加さんか要請ようせいにも情勢じょうせい判断はんだんもとづいて慎重しんちょう判断はんだんされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 坂田さかた 2006, pp. 2–42.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 坂田さかたさとし福田ふくだアジオへん)、2006、「一揆いっき一味いちみ同心どうしん」、『ゆいしゅ結社けっしゃ日本にっぽん』1、山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ結社けっしゃ世界せかい〉 ISBN 4634444100

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]