(Translated by https://www.hiragana.jp/)
宍戸氏 - Wikipedia コンテンツにスキップ

宍戸ししど

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

宍戸ししど(ししどし、ししどうじ)は、日本にっぽん氏族しぞくひとつ。

八田はったぞく宍戸ししど

[編集へんしゅう]
宍戸ししど
家紋
洲浜すはまもん
本姓ほんせい 藤原ふじわらきたみちけんりゅう八田はったぞく[1]
いえ 八田はったとも
宍戸ししどそうまさし[1][2]
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 常陸ひたちこく茨城いばらきぐん小鶴こづるそう[1]
常陸ひたちこく茨城いばらきぐん宍戸ししどしょう[1]
おも根拠地こんきょち 常陸ひたちこく友部ともべさん尾城おじろ[1]
支流しりゅう分家ぶんけ 山尾やまお[3]岩間いわま武家ぶけ
三田谷びただに武家ぶけ
安芸あき宍戸ししど武家ぶけ)など
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよにかけて活躍かつやくしたみなもと頼朝よりとも重臣じゅうしん八田はったともとし、小田おだ同族どうぞくである。この一族いちぞく中世ちゅうせい常陸ひたち勢力せいりょくきずき、佐竹さたけ秋田あきたうつりふうにともない、近世きんせい秋田あきたうつった。また南北なんぼくあさ時代じだい安芸あき下向げこうした一族いちぞくは、のちに毛利もうりむすんで安芸あきにも勢力せいりょく扶植ふしょくした。

出自しゅつじ

[編集へんしゅう]

宍戸ししど藤原ふじわらきたみちけんりゅう宇都宮うつのみやそうつな八田はったとも家伝かでんでは源義朝みなもとのよしともじゅうなんともいう)をとし、小田おだ同族どうぞくにあたる[2]平安へいあん時代じだい末期まっき常陸ひたちは、常陸ひたちたいらだいじょうしょく世襲せしゅうだいじょう名乗なのり、常陸ひたち南部なんぶ勢力せいりょくいていた。また常陸ひたち北部ほくぶには清和せいわはじめ佐竹さたけ勢力せいりょくほこっていた。

うけたまわ寿ことぶきひさしらん源平げんぺい合戦かっせん)のさいには、下野げや小山こやま下総しもうさ千葉ちばらははやくから頼朝よりともしたがったが、常陸ひたちたいらおおくや佐竹さたけらは消極しょうきょくてき姿勢しせい終始しゅうし、しかし次第しだい頼朝よりともへの臣従しんじゅう余儀よぎなくされる。頼朝よりとも常陸ひたちへのさえとして、寵臣ちょうしん八田はったともれ、常陸ひたちのほか下野げや美濃みのなどに所領しょりょうあたえられて常陸ひたちこく守護しゅごしょくとなり、その一族いちぞく小田おだほんむねとして常陸ひたち支配しはいしていく。[4][5][6][7][8]

八田はったともにはおおくのがあり、長子ちょうし知重ちえはじまる嫡流ちゃくりゅうは、筑波山つくばさんみなみうらら本拠ほんきょ小田おだしょうし、次男じなんゆう美濃みのこく伊自良いじらそうつてりょうして伊自良いじら三男さんなんもと下野げやこく茂木もきたもつゆずられて茂木もき、そしてよんなん家政かせい後年こうねん宍戸ししどそうともわたししょうされる小鶴こづるそうぎ、宍戸ししどしょうした。

小田おだほんむねはしばしば幕府ばくふ北条ほうじょう対立たいりつ、また小田おだ当主とうしゅ幼年ようねんなどにさいして、嫡流ちゃくりゅうわり宍戸ししど常陸ひたち守護しゅごつとめるなど、宍戸ししど重要じゅうよう一族いちぞくとなる[3]

宍戸ししど一貫いっかんして足利あしかが味方みかたして各地かくち戦功せんこうをあげ、南朝なんちょうくみして衰退すいたいした小田おだとは対照たいしょうてき姿すがたせる。またこの時期じき安芸あき下向げこうした一族いちぞくは、安芸あきこく高田たかだぐんない土着どちゃくし、のちに毛利もうりむすんでこの地方ちほうにも勢力せいりょくきずいた。

室町むろまち時代ときよ宍戸ししど鎌倉かまくら関東かんとう足利あしかがつかえ、しばしば京都きょうと幕府ばくふへの使者ししゃつとめるなど、一族いちぞくおおくが鎌倉かまくら中枢ちゅうすうにあっておもきをし、勢力せいりょく最大さいだいとなる。[9][10][11][12][13][14][15][16][17][18]

戦国せんごく時代じだいはいり、宍戸ししどはやがて戦国せんごく大名だいみょうとして台頭たいとうした佐竹さたけ常陸ひたち統一とういついきおいにこうれず、佐竹さたけ麾下きか武将ぶしょうとなった。

近世きんせい

[編集へんしゅう]

慶長けいちょう5ねん1600ねん関ヶ原せきがはらたたか中立ちゅうりつ維持いじした佐竹さたけは、げんふううえ秋田あきた国替くにがえをめいじられるが、宍戸ししど常陸ひたち時代じだい最後さいご当主とうしゅ宍戸ししど義長よしながはこれにしたがわず、常陸ひたちにとどまり、佐竹さたけ秋田あきたうつりふうには、佐竹さたけ義宣よしのぶいのちにより宍戸ししどみなもと左衛門さえもんしゅう随従ずいじゅうした。また一族いちぞくのうち宍戸ししど四郎しろう兵衛ひょうえひさたつもこれにしたがった。秋田あきたうつった宍戸ししどは、八田知家三男知基の嫡流ちゃくりゅう秋田あきたはん家老がろう茂木もきとともに、南部なんぶはんさかい要衝ようしょうじゅうしょはいされ、代々だいだい藩主はんしゅちょくしんとして佐竹さたけつかえた。[19][20][21][22][23][24][25]


人物じんぶつ

[編集へんしゅう]
宍戸ししど家政いえまさ
名前なまえそうまさしとも[2]八田はったともよんなん[26][3]文治ぶんじ4ねん1188ねん)にまれる[26]官位かんいしたがえ左衛門尉さえもんのじょう筑後ちくごまもる[26]通称つうしょう宍戸ししど四郎しろう[26]四郎しろう左衛門尉さえもんのじょう[3]鎌倉かまくらから常陸ひたちこく笠間かさまぐん宍戸ししどそうんだことからはじめて宍戸ししどしょうする[26][3]けん元年がんねん(1213ねん5月3にち和田わだ合戦かっせんでは北条ほうじょうがわ参戦さんせん鎌倉かまくら琵琶びわきょうにおいて和田わだ義盛よしもりかた武将ぶしょう朝比奈あさひな義秀よしひでいになりにする[26][3]法名ほうみょうさだおもね[26]
宍戸ししどしゅう
宍戸ししど家政いえまさ[26]兄弟きょうだいどき[26]いえむねいえがいる[26]うけたまわもと元年がんねん1207ねん)にまれる[26]官位かんいしたがえ[26]兵衞ひょうえじょう[3][26]壱岐いきもり[3][26]通称つうしょう四郎しろう[26]承久じょうきゅうらんでは鎌倉かまくら守護しゅごする[3]ひろしもと3ねん1245ねん)、小田おだやすしくなるが跡継あとつぎのどき幼少ようしょうのため、いえしゅう常陸ひたち守護しゅごとなる[3]ぶんなが5ねん(1268ねん8がつ21にち死去しきょ[26]享年きょうねん62[26]法名ほうみょう仏心ほとけごころ[26]
宍戸ししどむね
宍戸ししどしゅう兄弟きょうだいいえ家時いえときむねがいる[26][3]ぶんれき元年がんねん(1234ねん)にまれる[26]左衛門尉さえもんのじょう[3]弘安ひろやす7ねん(1284ねん2がつ4にち死去しきょ[26]享年きょうねん51[26]法名ほうみょう仏心ほとけごころまたはこころふつ[26]
宍戸ししど家時いえとき
宍戸ししどむね兄弟きょうだいむねいえがいる[26]せいよしみ2ねん(1258ねん)にまれる[26]官位かんいしたがえ左衛門尉さえもんのじょう[26]通称つうしょう五郎ごろう[26]宍戸ししどそう山野やまの宇に[26]せいおう5ねん(1292ねん11月18にち死去しきょ享年きょうねん35[26]法名ほうみょうみち[26]
宍戸ししどともとき
宍戸ししど家時いえとき兄弟きょうだいいえ朝家ちょうかがいる。弘安ひろやす3ねん(1280ねん)にまれる[26]官位かんいしたがえ[26]安芸あきまもる[26][3]通称つうしょうまごよんろう[26]弥四郎やしろう[3]元弘もとひろ3ねん1333ねん)にろく赤松あかまつ則村のりむらたたかう(『太平たいへい[3])。よしみれき3ねん(1328ねん1がつ9にち死去しきょ享年きょうねん49[26]法名ほうみょうせい[26]新田にった義貞よしさだ鎌倉かまくらめに参戦さんせん
宍戸ししどさと
朝里あさり朝家ちょうか)の曾孫そうそん[3]常陸ひたち国山くにやま尾城おじろ[3]嘉吉よしきち元年がんねん1441ねん)に佐竹さたけ義憲よしのりしたがって小栗ささぐりじょうめる[3]
宍戸ししど義長よしなが
もちさとの4せいまご[3]。 はじめ小田おだしたがい、のち佐竹さたけ義重よししげぞくする[3]ぶんろく年間ねんかん海老島えびじまうつ[3]

安芸あきこく宍戸ししど

[編集へんしゅう]
宍戸ししど
家紋
洲濱すはま(あしだすはま)
見聞けんぶんしょ家紋かもん』(ひかりきょう写本しゃほん)より[27]
本姓ほんせい 藤原ふじわらきたみちけんりゅう八田はったぞく[1]
いえ 宍戸ししど朝家ちょうか[3]
種別しゅべつ 武家ぶけ
士族しぞく
華族かぞく男爵だんしゃく
出身しゅっしん 常陸ひたちこく
おも根拠地こんきょち 安芸あきこく高田たかだぐん甲立こうたちそう[3]
長門ながとこくはぎ
周防すおうこくさんおか
山口やまぐちけん熊毛くまげぐんさんおかむら
山口やまぐちけん岩国いわくに川西かわにし
著名ちょめい人物じんぶつ 宍戸ししどたかし
宍戸ししどもとみなもと
つかさいんきょうせん
支流しりゅう分家ぶんけ 深瀬ふかせ武家ぶけ
宍戸ししどいえ子爵ししゃく
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく
安芸あき宍戸ししど根拠地こんきょち五龍ごりゅうじょう

安芸あきこく宍戸ししどは、八田はったぞく宍戸ししど安芸あきこくうつんだことにはじまる。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだい初期しょき宍戸ししど当主とうしゅ宍戸ししどちょうさとであった[注釈ちゅうしゃく 1]朝里あさり足利尊氏あしかがたかうじとともに上洛じょうらく[3]元弘もとひろ3ねん1333ねん)、ろく探題たんだいとして、そのこうによりしたがえじょうじょせられた[26]よくたてたけし元年がんねん1334ねん)には、安芸あきまもるにんぜられ[26][3]甲立こうたちしょうたまわり、朝家ちょうかあらためた。

たてたけし2ねん1335ねん)、新田にった義貞よしさだぐんやぶって京都きょうとのぼったたかししたがって、宍戸ししど朝家ちょうか上洛じょうらく以後いごたかし窮地きゅうちおちいってもつねしたがい、たてたけし3ねん1336ねん)の多々良たたらはまたたかでは菊池きくち武敏たけとし大将たいしょうとする九州きゅうしゅう宮方みやかたたたかい、勝利しょうりおさめている(西にしげん院本いんぽん太平たいへい[3])。

安芸あきこく移住いじゅうした朝家ちょうかは、やなぎじょうきずいて居城きょじょうとした[26]。しかし要害ようがいではなかったため、あらたに居城きょじょうかまえる必要ひつようせまられた。そのため可愛川えのかわかいの元木もときさん築城ちくじょう計画けいかくし、龍王りゅうおう勧請かんじょうしてみずいのり、みずて、ここにしろきずいた[26]。これが宍戸ししど260ねん居城きょじょうとなる五龍ごりゅうじょうである。これを根拠地こんきょちとして、安芸あき宍戸ししど安芸あきこく勢力せいりょくきずいていくのである。

安芸あき宍戸ししど中興ちゅうこうである宍戸ししどもといえは、元々もともと常陸ひたち宍戸ししどだしであったとされる(もといえこう参照さんしょう)。そのである宍戸ししどもとみなもと勇将ゆうしょうられ、安芸あき国人くにびと盟主めいしゅかく毛利もうりとたびたび抗争こうそうしこれをくるしめたが、毛利もうり元就もとなりだいになると和解わかいし、まごである宍戸ししどたかしつま元就もとなりむすめ五龍ごりゅうきょくむかえ、以後いご宍戸ししど毛利もうり協力きょうりょく関係かんけいとなり、天文てんもん9ねん1540ねん)の吉田よしだぐん山城やましろたたかでは出雲いずもこく尼子あまこかいひさし尼子あまこ晴久はるひさ)を撃退げきたいするのに協力きょうりょくした。

毛利もうり天文てんもん24ねん1555ねん)の厳島いつくしまたたかとう晴賢はるかたたお西国さいごく覇者はしゃとなったのちは、宍戸ししど毛利もうり一門いちもんしゅとして毛利もうり両川りょうかわ待遇たいぐうけ、大名だいみょうである河野こうの姻戚いんせき関係かんけいむすび、小早川こばやかわとともに南海なんかいどう四国しこく伊予いよこくへのおおきな影響えいきょうりょく発揮はっきした。また山陽さんようどうでは備後びんごこく方面ほうめん攻略こうりゃく担当たんとうした。

慶長けいちょう5ねん1600ねん関ヶ原せきがはらたたか毛利もうりげんふうされぼうちょううつったさいはこれに同行どうこうし、長州ちょうしゅうはん一門いちもんとして代々だいだい家老がろうつと[28]周防すおう国三くにぞうおか1まん1000せきりょうした[29]

幕末ばくまつ維新いしん当主とうしゅ宍戸ししどちかしもと国事こくじつくして勲功くんこうがあった[30]維新いしんははじめ士族しぞくとなった。明治めいじ17ねん(1884ねん)に華族かぞく爵制になったさいさだめられた『叙爵じょしゃく内規ないき』のまえあんである『爵位しゃくい発行はっこう順序じゅんじょ所収しょしゅうの『華族かぞくれいあん内規ないき明治めいじ11ねん・12ねんごろ作成さくせい)や『授爵じゅしゃく規則きそく』(明治めいじ12ねん以降いこう16ねんごろ作成さくせい)ではきゅうまんせき以上いじょう陪臣ばいしん男爵だんしゃくふくまれており、宍戸ししど男爵だんしゃく候補こうほげられているが、最終さいしゅうてきな『叙爵じょしゃく内規ないき』ではきゅうまんせき以上いじょう陪臣ばいしん授爵じゅしゃく対象たいしょうがいとなったためこの時点じてんでは宍戸ししど士族しぞくのままだった[31]

明治めいじ15ねん・16ねんごろ作成さくせいおもわれる『三条さんじょう文書ぶんしょ所収しょしゅう旧藩きゅうはんいちまんせき以上いじょう家臣かしん家産かさん職業しょくぎょう貧富ひんぷ取調とりしらべしょ』は、宍戸ししどちかしもとについてきゅうろくだかを1まん1000せき所有しょゆう財産ざいさんおよび貧富ひんぷ景況けいきょう空欄くうらん職業しょくぎょう無職むしょくしるしている[32]

きゅうまんせき以上いじょう陪臣ばいしん叙爵じょしゃくおこなわれていた時期じきである明治めいじ33ねん5がつ5にちきゅうまんせき以上いじょう陪臣ばいしんにして、華族かぞく体面たいめん維持いじできる財産ざいさん所持しょじしていることからおやもとやしなえまご宍戸ししど乙彦おとひこ毛利もうりちかしかい)が華族かぞく男爵だんしゃくじょせられた[33]昭和しょうわ前期ぜんき宍戸ししど男爵だんしゃく住居じゅうきょ山口やまぐちけん熊毛くまげぐんさんおかむらにあった[30]達彦たつひこだい平成へいせい前期ぜんき住居じゅうきょ山口やまぐちけん岩国いわくに川西かわにしにあった[34]

また幕末ばくまつ宍戸ししどちかしもと息子むすことくひろし幼少ようしょうだったためおやもと養子ようしとして長州ちょうしゅう藩政はんせい参画さんかくした宍戸ししどは、のち分家ぶんけして宍戸ししど別家べっけこし、司法しほう大輔だいすけきょう大輔だいすけちゅう清国きよくに特命とくめい全権ぜんけん公使こうし参事さんじ院議いんぎかん元老げんろう院議いんぎかんなどを歴任れきにんし、その勲功くんこうにより明治めいじ20ねん5がつ華族かぞく子爵ししゃくじょせられている[35]。その養子ようし功男いさおもう利之としゆきひろし五男いつお)のだい昭和しょうわ前期ぜんき宍戸ししど子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう荒川あらかわ日暮里にっぽりまちにあった[36]こうけいだい平成へいせい前期ぜんきには同家どうけ住居じゅうきょ東京とうきょうみなと高輪たかなわにあった[35]

人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

歴代れきだい当主とうしゅ

[編集へんしゅう]
  1. 宍戸ししど朝家ちょうか朝里あさり宍戸ししどとももとむね朝治あさじがいる。徳治とくじ元年がんねん(1306ねん)にまれる[26]官位かんい安芸あきまもる(『安芸あき宍戸ししど系図けいず』、『鹿島かしま文書ぶんしょ[3])。安芸あき四郎しろう[3]西にしげん院本いんぽん太平たいへい』、『鶴岡つるおか社務しゃむ[3])。貞治さだはる2ねん1363ねん)5がつ20日はつか死去しきょ享年きょうねん58[26]法名ほうみょうおもね[26]
  2. 宍戸ししどはじめ宍戸ししどちょういえ[26]兄弟きょうだいむね朝治あさじ[37]いえしゅう熊谷くまがい但馬たじままもるそうただししつむすめがいる[37]よしみれき2ねん(1327ねん)にまれる[26]官位かんいしたがえ遠江とおとうみまもる[26]おうなが3ねん(1396ねん7がつ8にち死去しきょ享年きょうねん70[26]
  3. 宍戸ししどしげる宍戸ししどはじめいえ兄弟きょうだい熊谷くまがい但馬たじままもるそうただししつ女子じょし持朝もちともがいる[37]かんおう2ねん(1351ねん)にまれる[37]官位かんいしたがえ安芸あきまもる[37]えいとおる元年がんねん(1429ねん4がつ11にち死去しきょ享年きょうねん79[37]
  4. 宍戸ししど持朝もちとも宍戸ししどしゅうきょうがいる[37]えいいさお2ねん(1382ねん)にまれる[37]官位かんいしたがえじょう備前びぜんもり[37]通称つうしょう弥三郎やさぶろう[37]。はじめ“いえちゅう”と名乗なの[37]長禄ちょうろく3ねん(1459ねん9月5にち死去しきょ享年きょうねん78[37]法名ほうみょういちそらさとし[37]
  5. 宍戸ししどきょう宍戸ししど持朝もちともどき九郎くろう五郎ごろう[37]養子ようしもといえがいる[37]おうなが34ねん(1427ねん)にまれる[37]官位かんいしたがえ安芸あきまもる[37]宍戸ししどもといえ家督かとくゆずる。
  6. 宍戸ししどもといえ常陸ひたち宍戸ししど一族いちぞく後期こうき安芸あき宍戸ししど初代しょだい
  7. 宍戸ししどもとみなもと
  8. 宍戸ししどたかし
  9. 宍戸ししどもとつづけ毛利もうりぼうちょううつりふうしたがったため、安芸あきこく領主りょうしゅとしての宍戸ししど終焉しゅうえん(しゅうえん)した。

その

[編集へんしゅう]

陸奥むつ宍戸ししど

[編集へんしゅう]

現在げんざい福島ふくしまけん宮城みやぎけんおお宍戸ししどせい来歴らいれきについては、現在げんざいまでたしかな文献ぶんけんつかっておらずさだかでないが時代じだいごと移住いじゅうしたとおもわれ複数ふくすう系統けいとうる。

大石おおいし宍戸ししど

子孫しそん所持しょじする家系かけい[注釈ちゅうしゃく 2]によれば、天文てんもんらんほろびたかかわれている高松たかまつきん江守えもりじょうたかし正中せいちゅう2ねん1325ねん)に信夫しのぶぐん岡本おかもと現在げんざい福島ふくしま岡島おかじま古屋ふるやかん)に在住ざいじゅうしたさいに、はじめてその家老がろうとしてつかえ、たてたけし2ねん1335ねん)にていたかししろ伊達だてぐんかかうつしたさいていたかし下知げじにより霊山りょうぜんふもと大石おおいしきょうに12かんを押領して、以後いご大石おおいし拠点きょてんとした(大石おおいし宍戸ししど)。福島ふくしま岡島おかしまには高松たかまつ近江おうみもり居城きょじょうあとつたえる城郭じょうかくあとつかっており、また『霊山りょうぜんまち』によれば、大石おおいし地区ちくにも霊山りょうぜん神社じんじゃ周辺しゅうへんをはじめ複数ふくすう中世ちゅうせい山城やましろあと確認かくにんされている[38][注釈ちゅうしゃく 3]

このように大石おおいし宍戸ししどは、北畠きたばたけ顕家あきいえ与力よりきであった高松たかまつじょうたかし家臣かしんとなったが、大石おおいし宍戸ししど初代しょだいとなった宍戸ししど義秀よしひでちち宍戸ししどとされており、いえちち常陸ひたち宍戸ししど当主とうしゅ宍戸ししど家時いえとき推測すいそくされる[よう出典しゅってん]

南北なんぼくあさ以後いご大石おおいし宍戸ししど大石おおいしきょうより宇多うだぐん本郷ほんごう(所在地しょざいち不明ふめい)のち伊具いぐぐんうつり、えい享年きょうねんあいだ(1430年代ねんだい)より丸亀まるがめじょう所在しょざい不明ふめい丸森まるもりじょう同一どういつ[よう出典しゅってん])のろうやくとして代々だいだい丸森まるもり袖五郎そでごろう屋敷やしき居住きょじゅうした[39]福島ふくしまから丸森まるもりいた阿武隈川あぶくまがわ河畔かはん水沢すいたく隣接りんせつして袖五郎そでごろう地名ちめい、および屋敷やしき現存げんそん)。

伊達だて稙宗隠居いんきょ家老がろうやくとして丸森まるもりじょう出仕しゅっしした大石おおいし宍戸ししどは、稙宗の死後しごやく御免ごめんとなり、以後いご丸森まるもり土着どちゃく(堀畑ほりはた屋敷やしき、のち漆原うるしばら屋敷やしき)。子孫しそん江戸えどつうじてだいきもいれかんいれやくつと[注釈ちゅうしゃく 4]明治めいじいたっている。江戸えどには、かんいれやくとして代々だいだい宇多うたみぎ衛門えもん」をしょうしていたのが、とおる年間ねんかん伊達だて吉村よしむら伊具いぐぐん検分けんぶんさい宍戸ししど当主とうしゅ伊具いぐぐんかんいれであるにもかかわらず「宇多うたみぎ衛門えもん」をしょうしていては、宇多うだぐんかんいれ間違まちがえるので以後いご伊具いぐみぎ衛門えもん」としょうすべしと下知げじされ、以後いご伊具いぐみぎ衛門えもん」に改称かいしょうしたという逸話いつわなどものこっている(風土記ふどき御用ごようしょ出丸でまる森村もりむら代數だいすうゆう百姓ひゃくしょうしょろくだい相続そうぞく堀畑ほりはた屋敷やしき栄吉えいきちこう記載きさい丸森まるもりまち資料しりょうへん195にも転記てんき[よう出典しゅってん][よう出典しゅってん]

子孫しそん明治めいじ一時期いちじき丸森まるもりまち助役じょやくなどをつとめた(宍戸ししど利蔵りぞう明治めいじ37ねん~42ねん丸森まるもりまち[よう出典しゅってん]宍戸ししど歴代れきだいはかは、丸森まるもりまち西円寺さいえんじ近年きんねんまでかろうじてのこっていたが、東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいによる墓石はかいし倒壊とうかいにより、すでに整理せいりされて現存げんそんしない(平成へいせい24ねん墓石はかいし整理せいり。「天保てんぽう12ねんかんみぎもん」「たかられき12ねんかん戸屋とや伝三郎でんざぶろう」「かん戸茂ともきちとうこくめい墓石はかいし複数ふくすうあり)[よう出典しゅってん]。また、伊達だて稙宗がおどろ出仕しゅっしうたとわれる霊山りょうぜん国司くにじ(北畠きたばたけ顕家あきいえ)の家来けらい家筋いえすじしめ伝来でんらい武具ぶぐ甲冑かっちゅうるいも、安政あんせい4ねん1854ねん)、放火ほうかにより家屋かおく全焼ぜんしょう焼失しょうしつして現存げんそんしない(宍戸ししどはじめはれ所有しょゆう宍戸ししど系図けいずびかえ)[よう出典しゅってん]

伊達だて稙宗の時代じだいに稙宗につかえて数々かずかずちゅうくんがあり、天文てんもん11ねん稙宗次男じなんじつもと上杉うえすぎにゅう嗣のさい随行ずいこう精鋭せいえい100なかくわわり(九郎くろう左衛門さえもん宍戸ししど下野げやもりわらび宍戸ししど文書ぶんしょ伊達だてしげるじつ家臣かしんだんこう)、天文てんもんらんかかしゅんむねとともに稙宗がわくみしたためいえあと断絶だんぜつとなった宍戸ししど一族いちぞくはれはじめおおやけさい下賜かしろく240&248、伊達だてはれはじめ知行ちぎょうたかし行状ぎょうじょう伊達だて文書ぶんしょ1-29」とう)との関係かんけい不明ふめい

ひろし寛延かんえい年間ねんかんにかけて伊具いぐぐんだいきもいれやくつとめた宍戸ししど伊具いぐみぎ衛門えもんはじ宇多うたみぎ衛門えもん、「代數だいすうゆう百姓ひゃくしょうしょろくだい相続そうぞく栄吉えいきちこうだい3だい)には長子ちょうしただみぎ衛門えもんひろし元年がんねんのべとおる2ねんきもいれやく)のほかむすめ金津かなづむらだいきもいれやく宍戸ししどへいないつまへいない伊具いぐみぎ衛門えもん養子ようしとして分家ぶんけ。「角田つのだ3、地形ちけいぶんへりくだねがい2および3」)およ次男じなんそう上地じょうちり。

風土記ふどき御用ごようしょ出丸でまる森村もりむら代数だいすうゆう百姓ひゃくしょうしょ」のなかに「ろくだい相続そうぞく堀畑ほりはた屋敷やしき栄吉えいきち」ととも記載きさいの「七代相続水澤屋敷御外人守仲蔵」とある宍戸ししどについても、水沢すいたく袖五郎そでごろう隣接りんせつしていること、とおる15ねん伊達だて吉村よしむら検分けんぶんさい逸話いつわ記載きさいがこちらにもあること、水澤みずさわ屋敷やしき当主とうしゅ代々だいだいでん十郎じゅうろう名乗なのり、西園寺さいおんじにあったはか一部いちぶに「宍戸ししど伝三郎でんざぶろう」のめいがあったことなどから判断はんだんして堀畑ほりはた屋敷やしき宍戸ししどとは同族どうぞくであろうと推測すいそくされる。なお、「水澤みずさわ屋敷やしき宍戸ししど」は、江戸えどつうじて米沢よねざわから仙台せんだいいた阿武隈あぶくま水運すいうん中継ちゅうけい水沢すいたくしろまい問屋とんやとして代々だいだいこのはんきもいれつとめ、この地域ちいき物流ぶつりゅう重要じゅうよう役割やくわりになった。

五十沢いさざわ宍戸ししど

[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいには幾度いくどとなく名主なぬしをつとめ、また本家ほんけ[だれ?]同格どうかく名字みょうじ帯刀たいとうしていた。なお、五十沢いさざわむら西にし上村うえむらひがし下村しもむらに2ふんしてそれぞれに名主なぬしがあり、宍戸ししど上村うえむら名主なぬしつとめた。 江戸えど時代じだい宍戸ししど宗治むねはる襲名しゅうめいしているが、19世紀せいきはじめの3代目だいめ宗治むねはるは、養蚕ようさんぎょうさかえた伊達だてぐん蚕糸さんしり、江戸えど三井みつい提携ていけいして蚕糸さんし販売はんばいとみきずいた。そのざいまずしいものひそかに支援しえんしたり、きむ華山かざん黄金おうごん神社じんじゃ財政ざいせい破綻はたんおりには多額たがく寄進きしんをしたり、桑折くわおり陣屋じんや焼失しょうしつにはかね50りょう江戸城えどじょう西丸にしまる焼失しょうしつさいにはかね100りょう献金けんきんするなどの事業じぎょうおこなっている。また和歌わかにもすぐれていたという。

幕末ばくまつの4代目だいめ宗治むねはるは、幕臣ばくしんとして、貧民ひんみん救済きゅうさいすうひゃくりょう西根にしねせき改修かいしゅうすうひゃくりょう供出きょうしゅつし、江戸城えどじょう本丸ほんまる焼失しょうしつ普請ふしんきん1,000りょう海防かいぼう500りょう将軍しょうぐん進発しんぱつ用金ようきん1,500りょう、さらに桑折くわおり陣屋じんや人夫にんぷとう巨額きょがく献金けんきんをした。これより江戸えど幕府ばくふから子孫しそん永代えいたいわた名字みょうじ帯刀たいとう上級じょうきゅう武士ぶし同等どうとう正門せいもん建築けんちくゆるされた。

また明治めいじ2ねん1868ねん)、戊辰戦争ぼしんせんそう末期まっき東北とうほく戦争せんそうでは同族どうぞく仙台せんだいはん宍戸ししど大番組おおばんぐみ50にんあずかり、金品きんぴんさけなどを供出きょうしゅつした。

明治めいじ以降いこう五十沢いさざわむら村長そんちょう学校がっこう校長こうちょうすなど、地域ちいき重鎮じゅうちんとして活躍かつやくした。

現在げんざい直系ちょっけい宍戸ししど七郎しちろう屋号やごうち、五十沢いさざわ宍戸ししどは20すうある。なお、阿武隈川あぶくまがわはさんで五十沢いさざわ対岸たいがんになる伊達だてぐん舟生ふにゅうげん伊達だて梁川やながわまち富野とみの)にもおおくの宍戸ししどせいがあるがかならずしも五十沢いさざわ宍戸ししど同族どうぞくではない[よう出典しゅってん]

耕野こうや宍戸ししど

[編集へんしゅう]

五十沢いさざわから宍戸ししど大和やまといずみ陸奥みちのくこく伊具いぐぐん西根にしね耕野こうや(こうや:現在げんざい宮城みやぎけん伊具いぐぐん丸森まるもりまち耕野こうや)に分家ぶんけし、慶長けいちょう5ねん1600ねん)、伊達だてまさしむね白石しらいししろ攻略こうりゃくおり伊達だてまさしむねしたがって功績こうせきをあげた。宍戸ししど大和やまといずみ分家ぶんけすじ伊達だてまさしむねから宍戸ししどせい名乗なのることをゆるされ現在げんざいまで血脈けちみゃくたもっている[よう出典しゅってん]

伊達だて白石しらいししろ攻略こうりゃく耕野こうや最前線さいぜんせん位置いちづけられ、はんのうはん耕野こうや住民じゅうみん加勢かせい要請ようせいしたものとおもわれる[よう出典しゅってん]

宍戸ししど大和やまといずみ初代しょだいとする耕野こうや宍戸ししど以後いご名前なまえ一部いちぶに「和泉いずみ」「駿河するが」をすうだいかえす。耕野こうや伊達だてまさしむね支配しはいになってからは伊達だて直轄ちょっかつとなり、耕野こうやだいはり主要しゅようじゅう一家いっか基盤きばん馬上まけじゅういちやり鉄砲てっぽうひゃくじゅう人組にんぐみ組織そしきされ、そこに住人じゅうにんは「わずかなかねすう兵役へいえきをもって年貢ねんぐとする」という厚遇こうぐうけ、国境こっきょう警備けいび担当たんとう相馬そうまとのたたかいでもまた功績こうせきをあげたという。宍戸ししど大和やまといずみ家系かけい馬上もうえじゅういち構成こうせいするじゅう一家いっかひとつである。

丸森まるもりまち[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]なか監修かんしゅうされている文献ぶんけん[40]や「耕野こうやうつまえから庄屋しょうやだった」との言伝いいつたえから五十沢いさざわ 宍戸ししど屋号やごう 庄屋しょうや)からの分家ぶんけうつんだせつ有力ゆうりょくである[よう出典しゅってん]耕野こうや宍戸ししどかんする記述きじゅつ以前いぜん家屋かおく火災かさい家系かけいその文献ぶんけん焼失しょうしつしているため直系ちょっけい子孫しそんつたわる言伝いいつたえと『丸森まるもりまち[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう][41]をもとに編集へんしゅうしている[注釈ちゅうしゃく 5]

耕野こうやにはほかにも宍戸ししどせい家系かけいがありおなじく五十沢いさざわから移住いじゅうしたものとおもわれる[よう出典しゅってん]現在げんざい宮城みやぎけん白石しらいし宍戸ししどせい伊具いぐぐん西根にしね耕野こうやかく宍戸ししどながれをむものおお[よう出典しゅってん]

五十沢いさざわ有力ゆうりょくしゃであった小野おの刑部おさかべは、上杉うえすぎ景勝かげかつ家臣かしんりょう川城かわしろおもとなった須田すだ長義ながよしつかえ、伊達だてまさしむね伊達だてぐん侵攻しんこう撃退げきたいしたせんでのこうみとめられている。この小野おの刑部おさかべ自筆じひつ大盤振おおばんぶいの座敷ざしきりに宍戸ししどひだりすすむがある。この座敷ざしきりには宍戸ししど以外いがい岡崎おかざき引地ひきち曳地ひきち)、佐藤さとう遠藤えんどうがある。江戸えど時代じだいつうじてなん領主りょうしゅ代官だいかんわったにもかかわらず、いずれも現代げんだいいたるまで五十沢いさざわ主要しゅよう家系かけいとして血脈けちみゃくをたもち、明治めいじ以降いこう五十沢いさざわむら村長そんちょう校長こうちょうなどを輩出はいしゅつしている[よう出典しゅってん][注釈ちゅうしゃく 6]

そのきゅう伊達だて領地りょうち仙台せんだい青葉あおばじょう以南いなん亘理わたり角田つのだ川崎かわさきには伊達だて一門いちもん知行ちぎょうがあり、そこにも宍戸ししどせいがあることから伊達だてとのつながりがうかがわれる[よう出典しゅってん][注釈ちゅうしゃく 7]

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ はじめのいみなを“あさじゅう”と表記ひょうきする文献ぶんけんもある[26]
  2. ^ (宮城みやぎけん姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい 1994, だい2姓氏せいしへん」、§. 宍戸ししど)のこうの6番目ばんめ伊具いぐぐん丸森まるもりむら堀畑ほりはた屋敷やしき宍戸ししど」(出典しゅってん江戸えど安永やすなが年間ねんかん仙台せんだいはん編纂へんさんした「安永やすなが風土記ふどき」による)に記載きさい
  3. ^ かかについては江戸えど時代じだいからつたわる『かか』を参照さんしょう
  4. ^ このあいだ宍戸ししどが『安永やすなが風土記ふどき』に記載きさいされた丸森まるもりむら堀畑ほりはた屋敷やしき宍戸ししどである。なお、『安永やすなが風土記ふどき記載きさいの「丸森まるもり水沢すいたく屋敷やしき宍戸ししど」((宮城みやぎけん姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい 1994, だい2姓氏せいしへん」、§. 宍戸ししど)5番目ばんめ)も、とおる15ねん宇多うたみぎ衛門えもんから伊具いぐみぎ衛門えもんへの改名かいめいのいわれをしるしたくだりに「水沢みずさわ問屋とんや宍戸ししどでん十郎じゅうろう」の記載きさいがあることや、丸森まるもり西円寺さいえんじにあった宍戸ししど墓石はかいし一部いちぶに「宍戸ししど伝三郎でんざぶろう」ときざまれた墓石はかいしがあったことなどから、堀畑ほりはた屋敷やしき宍戸ししど同族どうぞくであったろうとおもわれる。
  5. ^ 関ヶ原せきがはらせんおりみなみ奥州おうしゅうでは伊達だてまさしむね最上もがみ義光よしみつ上杉うえすぎ景勝かげかつせんがあった。このとき、伊具いぐぐん耕野こうや宍戸ししど伊達だてまさしむねしたがったが、わずかかずkmしかはなれていない伊達だてぐん五十沢いさざわ宍戸ししど上杉うえすぎ景勝かげかつしたがった可能かのうせいがある。伊達だてぐんやく400ねんにわたって伊達だて本拠地ほんきょちであったが、その豊臣とよとみ秀吉ひでよし奥州おうしゅう仕置しおきによって蒲生がもうきょうつぎ上杉うえすぎ景勝かげかつ支配しはいとなりこのとき時代じだい背景はいけいのち一族いちぞく二分にぶんしたと推測すいそくされる[よう出典しゅってん]
  6. ^ 俳優はいゆう宍戸ししどじょう戦時せんじちゅう疎開そかいした宮城みやぎけん白石しらいし五十沢いさざわ耕野こうや隣接りんせつし、この地域ちいき親戚しんせきもいることから、宍戸ししどじょうもこの宍戸ししど一族いちぞく家系かけいおもわれる[よう出典しゅってん]
  7. ^ ただし、角田つのだ花島はなしま宍戸ししど伊達だて武将ぶしょう石川いしかわ陸奥みちのくこく石川いしかわぐん支配しはいしていたときからつかえており、奥州おうしゅう仕置しおきにより領地りょうちうしなった石川いしかわ昭光あきみつ伊達だてつかえたさい伊達だて領内りょうないうつみ、昭光あきみつ伊具いぐぐん角田つのだ1まんせき領主りょうしゅとなると、それにしたが角田つのだうつったといつたえられている[よう出典しゅってん]。・亘理わたりわらび宍戸ししどには常陸ひたち宍戸ししどだしとのはなしつたわっている[よう出典しゅってん]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f 太田おおた 1934, p. 2748.
  2. ^ a b c ほらいん 1903, p. 116.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 太田おおた 1934, p. 2749.
  4. ^ ぐんしょ系図けいずしゅう
  5. ^ 太田おおた 1963, p. [ようページ番号ばんごう].
  6. ^ 近藤こんどう 1989, p. [ようページ番号ばんごう].
  7. ^ 網野あみの 1980, §. 小田おだ.
  8. ^ つつみ 1993, §. 宍戸ししど.
  9. ^ 吾妻あづまきょう
  10. ^ 太平たいへい
  11. ^ 中山なかやましんめいへん、『新編しんぺん常陸ひたちこく
  12. ^ 茨城いばらきけん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  13. ^ 茨城いばらきけん史料しりょう[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  14. ^ 水戸みと[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  15. ^ 筑波つくばまち[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  16. ^ 友部ともべまちへんさん委員いいんかい 1990, p. [ようページ番号ばんごう].
  17. ^ 友部ともべまち教育きょういく委員いいんかい 2003, p. [ようページ番号ばんごう].
  18. ^ 山田やまだ 1995, p. [ようページ番号ばんごう].
  19. ^ 秋田あきたはん採集さいしゅう古文書こもんじょ[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  20. ^ 橋本はしもと宗彦むねひこへん、『秋田あきた沿革えんかく大成たいせい
  21. ^ 秋田あきたけん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  22. ^ 秋田あきたけん資料しりょう[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  23. ^ 大館おおだて[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  24. ^ 達子たつこ 1974, p. [ようページ番号ばんごう].
  25. ^ 水沢すいたく 1993, p. [ようページ番号ばんごう].
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av 田村たむら 1980, p. 58.
  27. ^ 太田おおた 1934, p. 2750.
  28. ^ 太田おおた 1934, p. 2751.
  29. ^ かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかい 1996, p. 710.
  30. ^ a b 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 481.
  31. ^ 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 53.
  32. ^ 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 348.
  33. ^ 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 347.
  34. ^ かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかい 1996, p. 709.
  35. ^ a b かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかい 1996, p. 708.
  36. ^ 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 226.
  37. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 田村たむら 1980, p. 59.
  38. ^ 霊山りょうぜんまち編纂へんさん委員いいんかい, p. [ようページ番号ばんごう].
  39. ^ 宮城みやぎけん姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい 1994, p. [ようページ番号ばんごう].
  40. ^ 丸森まるもりまちへんさん委員いいんかい, p. [ようページ番号ばんごう].
  41. ^ 丸森まるもりまちへんさん委員いいんかい.

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
系譜けいふ参考さんこう

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]