りょう川城かわしろ

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りょう川城かわしろ
福島ふくしまけん
梁川城本丸跡にある伊達市立梁川小学校の校庭に復元された中世庭園「心字の池」。中央奥の石垣は、本丸の物見櫓跡。発掘調査では、この小学校校庭の場所に本丸館があった。
りょう川城かわしろ本丸ほんまるあとにある伊達だて市立しりつ梁川やながわ小学校しょうがっこう校庭こうてい復元ふくげんされた中世ちゅうせい庭園ていえんこころいけ」。中央ちゅうおうおく石垣いしがきは、本丸ほんまる物見ものみあと発掘はっくつ調査ちょうさでは、この小学校しょうがっこう校庭こうてい場所ばしょ本丸ほんまるかんがあった。
別名べつめい つるじょう
城郭じょうかく構造こうぞう 平山ひらやましろ
天守てんしゅ構造こうぞう 建造けんぞうされず
築城ちくじょうぬし 伊達だて
築城ちくじょうねん おうひさし33ねん1426ねん以前いぜん(13世紀せいき推測すいそく
おも改修かいしゅうしゃ 須田すだ長義ながよし
おも城主じょうしゅ 伊達だて蒲生がもう上杉うえすぎ
はいじょうねん 寛文ひろふみ4ねん1664ねん
遺構いこう 石垣いしがき復元ふくげん庭園ていえんるいほり
指定してい文化財ぶんかざい くに史跡しせき
位置いち 北緯ほくい3751ふん18.68びょう 東経とうけい14036ふん40.72びょう / 北緯ほくい37.8551889 東経とうけい140.6113111 / 37.8551889; 140.6113111
地図ちず
梁川城の位置(福島県内)
梁川城
りょう川城かわしろ
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こころいけ」。うえ写真しゃしん右側みぎがわから左側ひだりがわ方向ほうこううつした写真しゃしん

りょう川城かわしろ(やながわじょう)は、福島ふくしまけん伊達だて梁川やながわまちつるおかにあった日本にっぽんしろ平山ひらやましろ)。くに史跡しせき指定していされている(指定してい名称めいしょうは「伊達だて梁川はしかわ遺跡いせきぐん」)[1][2]

概要がいよう[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき築城ちくじょうされた。づるじょうばれることもあるが、現在げんざいではこの呼称こしょうはほとんどられていない[3]

梁川はしかわ中心ちゅうしん市街地しがいち東側ひがしがわにある茶臼山ちゃうすやまから西北西せいほくせい方向ほうこうした高台たかだいうえきずかれており、城下町じょうかまちである平地ひらちとの標高ひょうこうは10すうメートルになる。梁川やながわじょう北側きたがわには曲輪くるわほりきずかれ(ちゅう井戸いど)、西側にしがわ段丘だんきゅう急斜面きゅうしゃめん南側みなみがわ広瀬川ひろせがわ広瀬川ひろせがわ浸食しんしょくによってつくられた断崖だんがい、そしてひがしには金沢かなざわほり茶臼山ちゃうすやまという天然てんねん要害ようがいとなっている。

前史ぜんし江戸えど幕府ばくふ以前いぜん[編集へんしゅう]

伊達だて時代じだい[編集へんしゅう]

一説いっせつには文治ぶんじ5ねん1189ねん)に伊達だて伊達だてぐんりとともに築城ちくじょうされたともいうが、文献ぶんけんじょう明確めいかくなのは室町むろまち時代ときよおうひさし33ねん1426ねん以降いこうである。一方いっぽう発掘はっくつ調査ちょうさ発掘はっくつされた遺物いぶつもっとふるいものは、伊達だて3だい伊達だて義広よしひろ1185ねん - 1256ねん)または4だい伊達だてまさし1227ねん - 1301ねん)のころと推定すいていされており、このころには築城ちくじょうされていたとかんがえられる。

伊達だてみなもと頼朝よりとも奥州おうしゅう征伐せいばつこうて、みなもと頼朝よりとも伊達だてぐんたまわった関東かんとう武士ぶしで、伊達だてぐん入植にゅうしょくして伊達だて名乗なのるようになった。伊達だてぐん鎌倉かまくら時代じだい以降いこう豊臣とよとみ秀吉ひでよしによって17だい伊達だてまさしむねうたてふうするまで伊達だて本拠地ほんきょちだった。梁川やながわじょうは、4だい伊達だてまさしのころから、天文てんもん元年がんねん1532ねん)に伊達だて稙宗桑折くわおり西山にしやましろうつるまで、300ねんじゃくにわたって伊達だて本城ほんじょうだったとかんがえられている[4]しろ北方ほっぽうには伊達だて氏神うじがみ梁川はしかわ八幡宮はちまんぐうがあり、また、近隣きんりんには京都きょうと五山ごさんならって伊達だてまさし創建そうけんしたとされる伊達だて五山ごさんしょうされる寺院じいんがあった[5]伊達だて伊達だてぐん地頭じとうしょくのちには奥州おうしゅう探題たんだいしょくなどをたことにより、伊達だてぐんのみならず、福島ふくしま盆地ぼんち全体ぜんたい伊達だてぐん信夫しのぶぐん)、あるいはみなみ奥州おうしゅうようとしてさかえた。

伊達だて居城きょじょう桑折くわおり西山にしやましろ、さらには米沢よねざわしろうつったのち梁川はしかわじょう領内りょうない重要じゅうよう拠点きょてんとして機能きのうし、一族いちぞく有力ゆうりょく家臣かしん城主じょうしゅとなっていた。

なお伊達だてまさしむね初陣ういじん伊具いぐぐん宮城みやぎけん丸森まるもりまち)での相馬そうまとのたたかいであったが、そのとき伊達だてぐん拠点きょてんとなったのが梁川はしかわじょうで、せいむね梁川はしかわ八幡宮はちまんぐう戦勝せんしょう祈願きがんをしたといわれている。また、そのせいむね田村たむらぐん田村たむらからあいひめ(めごひめ)を正室せいしつとしてむかえたとき、花嫁はなよめわたしがおこなわれたのも梁川はしかわだった。

蒲生がもう時代じだいから関ヶ原せきがはら[編集へんしゅう]

奥州おうしゅう仕置しおきによって伊達だて岩出いわで山城やましろうつると、梁川はしかわじょう蒲生がもうきょう領地りょうちとなり、きょう死後しごは、上杉うえすぎ景勝かげかつ領地りょうちとなって、梁川はしかわじょうには須田すだ長義ながよしかれた。現在げんざい梁川やながわじょう遺構いこう基本きほんてきにこの時代じだい城主じょうしゅ蒲生がもうきょう家臣かしん蒲生がもう喜内きない上杉うえすぎ景勝かげかつ家臣かしん須田すだ長義ながよし)によるものとかんがえられる。本丸ほんまる物見ものみあと石垣いしがき穴太あのうせきで、るい中世ちゅうせいつくられたいけ導水どうすいめていることから、蒲生がもう上杉うえすぎ時代じだいにはかなりおおきな改修かいしゅうがあったと推測すいそくできる。きたさんまるたかるいひろほりなどもこの時代じだい増築ぞうちくかんがえられる。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかからんで、徳川とくがわかた伊達だてまさしむね石田いしだかた上杉うえすぎ景勝かげかつたたかいが現在げんざい福島ふくしま盆地ぼんちおこなわれた(10がつ6にち松川まつかわたたかなど)。10月7にち伊達だてぐん大枝おおえだしろ伊達だて梁川やながわまち東大枝ひがしおおえだ)にじんいて阿武隈川あぶくまがわ対岸たいがん梁川やながわじょうめたが、梁川はしかわじょう抵抗ていこうつよく、横田よこた大学だいがく内通ないつう発覚はっかくしたため、伊達だてぐん攻撃こうげき中止ちゅうしして北目きためじょうかえった。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

上杉うえすぎ時代じだい[編集へんしゅう]

江戸えど幕府ばくふ成立せいりつ伊達だてぐんつづ上杉うえすぎりょうとなり、梁川はしかわじょうには上杉うえすぎ家臣かしん須田すだなど)がかれた。

りょう川城かわしろおよ信夫しのぶぐん福島ふくしまじょう)のしたには、奉行ぶぎょうとして佐藤さとう小笠原おがさわら古川ふるかわなどがかれ[6]上杉うえすぎ定勝さだかつかれらを肝煎きもいりとして、福島ふくしま盆地ぼんち西根にしねせき(にしねぜき)水路すいろ完成かんせいさせ、耕地こうち面積めんせき飛躍ひやくてき拡大かくだいした[7]

天領てんりょうおよび梁川やながわはん時代じだい[編集へんしゅう]

寛文ひろふみ4ねん1664ねん)、上杉うえすぎつなかち後継こうけいしゃめぬまま急死きゅうしし、本来ほんらいならば改易かいえきになるところを吉良きら義央よしなか長男ちょうなんつなけん養子ようしむかえることによって上杉うえすぎ存続そんぞくみとめられるという騒動そうどうさいに、上杉うえすぎりょうは30まんせきから15まんせきとなり、梁川はしかわしろふく伊達だてぐん(および信夫しのぶぐん置賜おきたまぐん屋代やしろ)は没収ぼっしゅうされ、天領てんりょうやく20まんせき[8])となった。このとき梁川はしかわじょうはいじょうとなった。しかし、本丸ほんまるきたさんまるおよび城主じょうしゅかんをふくめ、しろ一部いちぶはその梁川はしかわはん松平まつだいらなどの陣屋じんやとして使用しようされている[9]

江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう梁川はしかわ天領てんりょうとなったり、2にわたって梁川はしかわはん松平まつだいら松前まさき)となったり、あるいは会津あいづはん磐城いわきひらはん松前まさきはんとなったり、めまぐるしい。そのため、梁川はしかわかんする江戸えど時代じだい資料しりょうはんのこされているものもおおい。 また、かつて梁川はしかわじょう統治とうちした伊達だてぐんのうち11むら刈谷かりやはん土井どい)の領地りょうちとなり、幕末ばくまつまで湯野ゆの陣屋じんやかれた。

現状げんじょう[編集へんしゅう]

りょう川城かわしろ趾には本丸ほんまるあと平成へいせい27ねん3がつまで梁川はしかわ小学校しょうがっこうがあった。本丸ほんまるきたひがしみなみかこまるのうち、ひがしまるあと浅間あさま神社じんじゃ伊達だて市立しりつ梁川やながわ幼稚園ようちえん伊達だて市立しりつ梁川やながわ中学校ちゅうがっこうみなみまるあと福島ふくしま県立けんりつ梁川やながわ高等こうとう学校がっこうがある。本丸ほんまるひがしからまるきたまでをかこさんまる江戸えど時代じだい陣屋じんやなどに使つかわれたが、現在げんざい住宅じゅうたくとなり、個人こじんたく市営しえい住宅じゅうたくならぶ。現在げんざい梁川はしかわ小学校しょうがっこう正門せいもん西側にしがわからきゅう本丸ほんまるあと小学校しょうがっこう校庭こうてい進入しんにゅうするクランクがたさか)は、江戸えど時代じだいまでの現存げんそんする図面ずめんには存在そんざいせず、比較的ひかくてきあたらしいみちおもわれる。梁川やながわじょう当時とうじ大手おおてもんは、現在げんざい梁川はしかわ小学校しょうがっこう裏門うらもんとなっている北側きたがわさんまるがわ)にある清水しみずまちからの登坂とさかであった。

りょう川城かわしろ趾および周囲しゅういにはるいほりあと城下町じょうかまちならではの見通みとおしのわるいクランクがたみちなどものこっているが、宅地たくち造成ぞうせいさい開発かいはつ急速きゅうそくうしなわれつつある。一方いっぽうで、地名ちめいには見附みつけ(みつけ)、元陣内もとじんない(もとじんない)、右城うしろまち(うしろまち)、大町おおまち中町なかまちうちまち町裏まちうらなど、城下町じょうかまち名残なごりとなる地名ちめいおおい。

1978ねん昭和しょうわ53ねん)から1981ねん昭和しょうわ56ねん)にかけてきゅう本丸ほんまるあとである梁川はしかわ小学校しょうがっこう校庭こうてい発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっしした。校庭こうてい一角いっかく中世ちゅうせい庭園ていえんこころいけ」を復元ふくげんし、校庭こうていもどした。伊達だて室町むろまち幕府ばくふむすびつきをつよめていた時代じだいのもので、一説いっせつによると東日本ひがしにっぽん唯一ゆいいつ中世ちゅうせい庭園ていえんわれる。また、福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつ福島ふくしま県立けんりつ博物館はくぶつかんには梁川やながわじょう復元ふくげん模型もけい収蔵しゅうぞうされている。

ひがしまるあとにあった梁川はしかわ中学校ちゅうがっこうは、1998ねん平成へいせい10ねん)7がつからまるひがしとなり茶臼山ちゃうすやま山麓さんろくしん校舎こうしゃ建築けんちくはじまり、2000ねん平成へいせい12ねん)1がつしん校舎こうしゃ移転いてんした。まるあときゅう校舎こうしゃ解体かいたいされ、現在げんざいもどして中学校ちゅうがっこうグラウンドとなっている。この校舎こうしゃ改築かいちくにあたっては、調査ちょうさ工事こうじちゅう梁川はしかわじょう遺跡いせき発見はっけんされて校舎こうしゃ改築かいちく計画けいかくおおきく影響えいきょうした。

本丸ほんまるあとには明治めいじ以降いこう梁川はしかわ小学校しょうがっこうがあったが、2011ねん平成へいせい23ねん)の東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい校舎こうしゃ損壊そんかいし、使用しようできなくなった。梁川はしかわ小学校しょうがっこう梁川はしかわ中学校ちゅうがっこう梁川はしかわ高等こうとう学校がっこう施設しせつ間借まがりしたり、300mほどはなれた梁川はしかわ中学校ちゅうがっこうとなり敷地しきちにプレハブ仮設かせつ校舎こうしゃててしのいでいたが、2015ねん平成へいせい27ねん3がつ)、1kmほどはなれた梁川やながわまち北本きたもとまちしん校舎こうしゃ完成かんせいし、梁川はしかわ小学校しょうがっこう移転いてんした。梁川はしかわ小学校しょうがっこう跡地あとちである本丸ほんまるあとには、伊達だて歴史れきし資料しりょうかん建築けんちく検討けんとうちゅうである。

ささえじょう[編集へんしゅう]

  • 大枝おおえだしろ陸奥みちのくこく信夫しのぶぐん) - そでさきじょうともばれる[10]伊達だて一族いちぞくであった大枝おおえだによってきずかれた。三ノ丸さんのまる北側きたがわにはほりがあり、本丸ほんまるへの案内あんないばんっており、りょうわきどおしの通路つうろ本丸ほんまる南北なんぼく細長ほそながくるわで、20m×100mほどの規模きぼがある[11]先端せんたん阿武隈川あぶくまがわ方面ほうめんした位置いちにあるので、非常ひじょう眺望ちょうぼういている。ここからりょう川城かわしろ城址じょうし)や市街地しがいちがよくえる。

考古こうこ資料しりょう[編集へんしゅう]

遺構いこう[編集へんしゅう]

  • 本丸ほんまるあと本丸ほんまる物見ものみあと石垣いしがききたさんまるたかるいなど、上杉うえすぎ(もしくは蒲生がもう統治とうち時代じだい遺構いこうのこる)
  • 庭園ていえんこころいけ」(復元ふくげん
  • 福島ふくしま県立けんりつ博物館はくぶつかん会津若松あいづわかまつ)に梁川やながわじょう復元ふくげん模型もけい所蔵しょぞう

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ れい元年がんねん10がつ16にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい77ごう
  2. ^ 史跡しせきとう指定していとうについて文化庁ぶんかちょう報道ほうどう発表はっぴょう、2019ねん6がつ21にち)。
  3. ^ 福島ふくしまけんでは一般いっぱんてきに、つるじょうといえば会津若松あいづわかまつ若松わかまつしろ意味いみする。
  4. ^ ただし文書ぶんしょじょう明確めいかくなのは11だいもちむね - 14だい稙宗。
  5. ^ 現在げんざい福島ふくしまけん伊達だてぐん桑折こおりまち伊達だてにあった。伊達だて本拠地ほんきょちうつすと米沢よねざわ会津あいづ岩出山いわでやまへと一緒いっしょ移転いてんされ、現在げんざい仙台せんだい北山きたやま五山ごさんへとつながる。
  6. ^ 佐藤さとうちゅう福島ふくしまほんぬきとするさむらい信夫しのぶ佐藤さとう18代目だいめ)。古川ふるかわ重吉しげよし信濃しなのしゅう更級さらしなぐん塩崎しおがさき城主じょうしゅ小笠原おがさわら出身しゅっしん)で不仲ふなかせつもあるが、現在げんざい西根にしね神社じんじゃに、信達しんだちそう鎮守ちんじゅとしてともまつられている。
  7. ^ 西根にしねせき福島ふくしま北部ほくぶから伊達だてぐん桑折こおりまち伊達だてぐん国見くにみまち伊達だていた農業のうぎょう用水路ようすいろ。21世紀せいき現在げんざい維持いじ管理かんりされている。したせき(したぜき)と上堰かみぜき(うわぜき)の2つの水路すいろがあり、灌漑かんがい面積めんせきやく1,400ha。
  8. ^ 当時とうじ米沢よねざわはんだかは51まんせきあまり増加ぞうかしている。
  9. ^ 尾張おわりはん連枝れんしより以前いぜん天領てんりょう期間きかんちゅうやぶ却され、松平まつだいら家老がろうあらたに陣屋じんやてた」というせつもあるが、御三家ごさんけ筆頭ひっとう連枝れんしをいきなりしろ大名だいみょうにはしにくいてん少将しょうしょうのぼ伺候しこうせき大広間おおひろまであり、松平まつだいらとおるはるのように尾張おわりはん場合ばあいもある)、伊達だてぐん仙台せんだい伊達だてほんぬきであり警戒けいかい必要ひつようであるてんから異論いろんもある。
  10. ^ 本丸ほんまるにはおおきな城址じょうし雷神らいじんほこらがある。城址じょうしには「大篠おおささ居城きょじょう つづりあさもり そでさき城址じょうし」ときざまれている
  11. ^ 日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい』の大枝おえだじょう)を参照さんしょう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]