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耕野こうや

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耕野こうや
きゅう丸森まるもり町立ちょうりつ耕野こうや小学校しょうがっこう
耕野の位置(宮城県内)
耕野
耕野こうや
耕野こうや位置いち
北緯ほくい3755ふん1.5びょう 東経とうけい14038ふん46.32びょう / 北緯ほくい37.917083 東経とうけい140.6462000 / 37.917083; 140.6462000
くに 日本の旗 日本にっぽん
都道府県とどうふけん 宮城みやぎけん
ぐん 伊具いぐぐん
市町村しちょうそん 丸森まるもりまち
人口じんこう
2023ねんれい5ねん3がつすえ現在げんざい[1]
 • 合計ごうけい 527にん
ひとしときおび UTC+9 (日本にっぽん標準時ひょうじゅんじ)
郵便ゆうびん番号ばんごう
981-2303
市外しがい局番きょくばん 0224[2]
ナンバープレート 宮城みやぎ
運輸うんゆきょく住所じゅうしょコード 04802-0135[3]

耕野こうや(こうや)は、宮城みやぎけん伊具いぐぐん丸森まるもりまち大字だいじ2015ねん10月1にち現在げんざい世帯せたいすうは242世帯せたい人口じんこうは671にん[1]郵便ゆうびん番号ばんごう981-2303。

地理ちり

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位置いち関係かんけい

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丸森まるもり北西ほくせい阿武隈川あぶくまがわ左岸さがんにあたる[4][5]

ひがし大字だいじだいちょう大蔵おおくら大字だいじ大張川張おおはりかわはりみなみ川原田かわはらだ水沢すいたく袖山そでやま川前かわまえ袖五郎そでごろう日照田ひでりた北原東きたはらひがし北原南きたはらみなみ大巻北おおまききた大巻南おおまきみなみおよび福島ふくしまけん伊達だて梁川やながわまち舟生ふにゅう西にし白石しらいし越河平こすごうたいら福島ふくしまけん伊達だて梁川やながわまち五十沢いさざわきた白石しらいし斎川さいかわ大鷹おおたかさわ三沢みさわせっする[4]

地形ちけい

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阿武隈高地あぶくまこうち山間さんかん位置いちし200〜300mの山々やまやま起伏きふくする谷間たにま集落しゅうらく発達はったつし、平地ひらちとぼしいため急斜面きゅうしゃめん石垣いしがききずいた棚田たなだられる[4][6]南部なんぶから東部とうぶにかけて阿武隈川あぶくまがわめんしており渓谷けいこくしている。

やま

  • 大桜おおざくらさん(390m)

白石しらいしとの境界きょうかいには大桜おおざくらさんそびえ、そこから東側ひがしがわ阿武隈川あぶくまがわかって3ほんささえりょうびている。

河川かせん

阿武隈川あぶくまがわのうち福島ふくしまけん宮城みやぎけんさかい付近ふきんきゅう川幅かわはばせまくなりがんした急流きゅうりゅうとなっていたためこの渓谷けいこくを「さるとべ(さるはね/さるぱね/さるっぱね)」とばれていた。その急流きゅうりゅう部分ぶぶんをそれぞれ上流じょうりゅうからりょうたきゆきたききのえたきかぶとたき)・大坊だいぼう木滝きたきさる羽根ばねたき野呂のろたき井戸尻いどじりたきばれていた[4]

阿武隈川あぶくまがわ年貢ねんぐまい輸送ゆそう利用りようされはんさかいであることから水運すいうん中継ちゅうけい地点ちてんとして重要じゅうよう施設しせつかれた。詳細しょうさい歴史れきし記載きさいする[4]

集落しゅうらく

集落しゅうらく大桜おおざくらさんから東側ひがしがわびるささえりょう沿って4つのさわがあり、阿武隈川あぶくまがわそそ上流じょうりゅうから芦沢あしざわ内越うてつさわ大和沢おおわさわ茗荷沢みょうがさわ沿って点在てんざいする[6]平坦へいたん土地とちすくなく、斜面しゃめんたがや田畑たはた開墾かいこんしたことから「耕野こうや」の地名ちめいがついたとされている[4][6]

インフラの概要がいよう

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交通こうつうかんする詳細しょうさい#交通こうつう参照さんしょう

道路どうろ
国道こくどう349ごう南端なんたん阿武隈川あぶくまがわ左岸さがん沿って通過つうか宮城みやぎけんどう105ごう越河こすごう角田つのだせん宮城みやぎけんどう106ごう川前かわまえ白石しらいしせんたてつらぬけている。
水道すいどう
耕野こうや地区ちくない上下水道じょうげすいどう整備せいびがされておらず、生活せいかつ用水ようすいには井戸水いどみず使用しようされている[4]

小字こあざ

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2024ねんれい6ねん)6がつ時点じてんにおける耕野こうや小字こあざ以下いかとおりである[3]

  • あし小田おだ
  • 芦沢あしざわ
  • 石畑いしはた
  • 板沢いたざわ
  • いれ
  • いれだい
  • いわ
  • 岩下いわした
  • うしせき
  • わらい
  • 大釜おおかま西にし
  • 大釜おおかまひがし
  • 大久保おおくぼ
  • だい高丸たかまる1ばんだい高丸たかまる9ばん
  • 大場おおば平上たいらかみ
  • 大場おおば平下ひらした
  • 大平おおひら
  • おこり
  • 風穴かざあな
  • あたま
  • 金井上かないかみ
  • 金井かない
  • 金井かないなか
  • 金山かなやま
  • 烏峠からすとうげ
  • きた
  • 北沢きたざわ
  • 北山きたやま
  • くわだい
  • 弘法ぐほう
  • 小田おだ
  • 小屋こやかん
  • 山下やました西にし
  • 山下やましたひがし
  • 菖蒲田しょうぶだ
  • はく五郎ごろう
  • 新田にった
  • 砂田すなだ
  • せんせき
  • 袖山そでやま
  • 高堂こうどう
  • 高原こうげん
  • 高平たかひら
  • 竹中たけなか
  • 立石たていし
  • 大黒だいこく
  • 力持ちからもち
  • まき
  • といじょう
  • のぼりはな西にし
  • のぼりはなひがし
  • 道場どうじょう
  • 百目木どうめき
  • 銅屋どうやじょう
  • 中ノ沢なかのさわ
  • 中丸なかまる
  • なべほり
  • 西にし一本松いっぽんまつ
  • 西前にしまえ
  • だんじょう
  • ぬま
  • 花立はなたて
  • はね
  • 羽根はねせき
  • 早坂はやさか
  • 羽山はやま
  • 石坂いしざか
  • ひがし一本松いっぽんまつ
  • 一ツ森ひとつもり西にし
  • ーツ森東もりひがし
  • めい
  • 日吉ひよし
  • 広田ひろた
  • 福田ふくだ
  • 藤坂ふじさか
  • 不動ふどう
  • きょくざか
  • 松林まつばやし
  • みや
  • 茗茄1ばん〜茗茄2ばん
  • 明神みょうじん
  • 物見ものみせき
  • もんうち
  • 屋敷やしきいれ
  • 吉倉よしくら
  • 旱魃かんばつ
  • 後藤ごとう
  • たけ

歴史れきし

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遺跡いせき

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とう地区ちくには小規模しょうきぼな26ヶ所かしょ遺跡いせきがあり、縄文じょうもん末期まっきから弥生やよい時代じだいにかけての土器どき石器せっき出土しゅつどしている[6]大半たいはん縄文じょうもん時代じだい末期まっきおもわれるもので立石たていしさかいのような特殊とくしゅなものも出土しゅつどしている[6]。ただし、多種たしゅ多様たよう形式けいしき土器どき出土しゅつどしており、規模きぼちいさいことからながきにわたって生活せいかついとなまれたものではなく、短期間たんきかんにわたってしょう人数にんずうでの生活せいかついとなまれていたのではないかと考察こうさつされている[4][6]

むら起源きげんについての口伝くでん

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むら発生はっせいについていくつかいいつたえがある。

平家へいけ落人おちうど伝説でんせつがいいつたえられている。うけたまわらん1180ねん)に屋島やしま壇ノ浦だんのうらひとしせんやぶれた平家へいけ人々ひとびとみなもとちをのがれてやまふかいこのいたとわれている。当時とうじつくられたというだいさくら溜池ためいけ武芸ぶげいてなかった馬場ばばなどの地名ちめいいまのこっていることが落人おちうど伝説でんせつ証拠しょうこであるとされている[4][5]

一方いっぽう平家へいけではなくみなもと頼朝よりとも軍勢ぐんぜいてられた藤原ふじわらやすしかた伊達だて大木戸おおきど残党ざんとうが、鹿屋かのやまつきのこのいたのが、平家ひらか自称じしょうしたことからあやまりともわれている[4][5]

また慶長けいちょう5ねん関ヶ原せきがはらたたかいの時代じだいには、上杉うえすぎかたぞくしていた白石しらいししろとすため、伊達だてまさし宗方むなかたいて参加さんかした野武士のぶし居住きょじゅうした村落そんらくともわれている。その証拠しょうこ村民そんみんしながえ百姓ひゃくしょうとして特権とっけん保障ほしょうされてきた記録きろくがある[4]

近世きんせい

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耕野こうや記録きろく天正てんしょう17ねんおこなわれた伊達だてまさしむねによる動向どうこう調査ちょうさ伊達だてたかしせい日記にっき」のうち「さと野臥のぶせり日記にっき」にて屋敷やしき百姓ひゃくしょう名前なまえがみえる[4]

江戸えど時代じだい伊具いぐぐん西根にしね地区ちく同様どうようおおくが仙台せんだいはんぞう入地いれじであった。仙台せんだいはん福島ふくしまはん境界きょうかい位置いちしており、境界きょうかい警備けいび阿武隈川あぶくまがわ水運すいうん管理かんりする施設しせつおおかれ、大坊だいぼう(おおぼうぎ)には天和てんわ3ねんさかい番所ばんしょ設置せっち[4]沼ノ上ぬまのうえ(ぬまのうえ)には信夫しのぶぐん大森おおもり代官だいかんしょ年貢ねんぐまい輸送ゆそう取扱とりあつかい陣屋じんや伊達だてぐん桑折くわおり代官だいかんしょ支配しはい年貢ねんぐまい輸送ゆそう取扱とりあつかい陣屋じんや二本松にほんまつはんあずか年貢ねんぐまい輸送ゆそう取扱とりあつかい陣屋じんやのち仙台せんだいはんじょうべいかた問屋とんや会所かいしょ)がそれぞれ1けんずつ設置せっちされた[4]。また仙台せんだいはんによりじょうべいかたためぞうかわ海上かいじょうおきて書札しょさつじょう設置せっちされた。ほかにも阿武隈川あぶくまがわ上流じょうりゅう伊達だて信夫しのぶ川俣かわまた浅川あさがわ幕府ばくふ代官だいかんようふね道具どうぐぞうがあった[4]

むら状況じょうきょう石高こくだかについて「元禄げんろくきょうぞう」では817せきあまり、「天保てんぽうきょうぞう」では971せきあまりとの記載きさいがある。またそれ以降いこうでは安永やすなが風土記ふどきにて安永やすなが年中ねんじゅうむら状況じょうきょう克明こくめい記録きろくされている。

安永やすなが年中ねんじゅうむら状況じょうきょう

むらだか:97かんあまり、うち田代たしろ68かんはたけだい28かん(うち茶畑ちゃばた1かんあまり[4]

のうち一部いちぶ五十沢いさざわむらとのろんしょになっていたため年貢ねんぐまい桑折くわおり代官だいかんしょおさめていた[4]

人頭じんとう:134にん(竿ざおこたえ:72にん代数だいすうゆう百姓ひゃくしょう:53にんしながえ百姓ひゃくしょう:6にん[4]

産物さんぶつ絹糸けんしきぬまゆかみくわなど[4]

てら曹洞宗そうとうしゅうこう竜山たつやまもも泉寺いずみでら

神社じんじゃ山王さんのうくつ春日かすがしゃ

近代きんだい

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耕野こうや製糸せいしじょう

明治めいじ初頭しょとう耕野こうやをはじめ周辺しゅうへん地域ちいき生糸きいと製造せいぞうさかんであり、村内むらうち大釜おおがまには宍戸ししどひろがかつて経営けいえいしていた耕野こうや製糸せいしじょうがあった。耕野こうや製糸せいしじょう村民そんみん80めい株主かぶぬしむらげて設立せつりつされたがわずか5ねん閉業へいぎょうした。

町村ちょうそんせい施行しこう

1889ねん明治めいじ22ねん4がつ1にち - 町村ちょうそんせい施行しこうにより、耕野こうやむら単独たんどく自治体じちたい形成けいせい[4]

満州まんしゅう耕野こうや分村ぶんそん

昭和しょうわ初期しょき、このむらやまがちな地形ちけいであり耕地こうち拡張かくちょうできず、そのわり人口じんこうおおむら経済けいざい発展はってんさまたげる要因よういんとなっていた[4]。その問題もんだい解決かいけつするため昭和しょうわ15ねんより満州まんしゅうこくひがしやすしょう勃利けんちょうきょう分村ぶんそんおこなわれた[4]

まずしょ問題もんだい解決かいけつのためむらでは耕野こうやむら振興しんこうかい設立せつりつされ、振興しんこうかい母体ぼたい成道じょうどう学校がっこう設立せつりつし、愛郷あいきょうしん運動うんどう展開てんかいした。あわせて農事のうじ実行じっこう組合くみあい設立せつりつされ農村のうそん更生こうせい積極せっきょくてきんだ。その活動かつどう昭和しょうわ9ねん宮城みやぎけんにより「経済けいざい構成こうせい特別とくべつ指導しどうむら」、昭和しょうわ12ねんには農林省のうりんしょうの「経済けいざい更生こうせい特別とくべつ助成じょせいむら」の指定していけ、農業のうぎょう経営けいえい合理ごうり集落しゅうらく団体だんたい充実じゅうじつ負債ふさい整理せいり生活せいかつ刷新さっしんなど農村のうそん更生こうせいによりちかられた。しかし土地とち人口じんこう均衡きんこう解消かいしょう現実げんじつてき不可能ふかのうとされ、解決かいけつさくとして満州まんしゅう移民いみんによる分村ぶんそん計画けいかく浮上ふじょうした[4]

昭和しょうわ13ねんけんの「満州まんしゅう移民いみん分村ぶんそん計画けいかく指導しどうむら」となり、よく14ねんには「満州まんしゅう開拓かいたくみん分村ぶんそん計画けいかく」が樹立じゅりつされた。実行じっこう方針ほうしん下記かきのとおりであった。

  1. 経済けいざい更生こうせい計画けいかくもとづき、釣果ちょうか農家のうか戸数こすう集合しゅうごう開拓かいたく農民のうみんとして、満州まんしゅうこく奉天ほうてんしょうしんみんけんながれかわ地域ちいき(のちひがしやすしょう勃利けんちょうきょう変更へんこう)に入植にゅうしょくさせ耕野こうやむら建設けんせつするとともにははむら以後いご耕野こうやむらははむらしるす)の中農ちゅうのう断行だんこうする[4]
  2. 耕野こうやむらにおける標準ひょうじゅん農家のうか規模きぼは、いちまち八反はったんとする[4]
  3. 超過ちょうか戸数こすう選出せんしゅつは、昭和しょうわ15年度ねんどよりさんヶ年かねんにおいて実施じっしする[4]
  4. 分家ぶんけによる村内むらうち農家のうか戸数こすう増加ぞうか抑制よくせいするため、つとめて青少年せいしょうねん義勇軍ぎゆうぐん送出そうしゅつおこな[4]
  5. 移住いじゅうしゃ送出そうしゅつならびに資産しさん負債ふさい耕地こうち整理せいり残留ざんりゅう家族かぞくきょう援は一切いっさいむら責任せきにんにおいて処理しょりをする[4]

上記じょうきもとづき送出そうしゅつ個数こすうは150とし、昭和しょうわ15ねん6がつには先発せんぱつたいとして20にんおくされ、そのなんかにわたり、開拓かいたくだんいんとその家族かぞくわたりみたした。広大こうだい草原そうげんきずかれた開拓かいたくむら本部ほんぶ集落しゅうらく中心ちゅうしんとして5つの集落しゅうらく形成けいせいした。昭和しょうわ20ねんには339にん人口じんこうかかえ、ははむら凌駕りょうがするほどの生活せいかつ水準すいじゅんにまで成長せいちょうした[4]

敗戦はいせん満州まんしゅうからのげをせざるをなくなり、ははむら目指めざすこととなった。さいわははむらげができたものたちは親類しんるい縁者えんじゃ援助えんじょらしていたが、あたらしい自活じかつみちひらくことはきわめて困難こんなんであった[4]

こうえい開拓かいたく

引揚しゃ状態じょうたい憂慮ゆうりょした八島やじまこう げん村長そんちょうは引揚しゃ居場所いばしょ確保かくほ尽力じんりょくした。まず自分じぶん土地とちに引揚しゃ一部いちぶ入植にゅうしょくさせ、のこる引揚しゃ栗駒くりごま山麓さんろく入植にゅうしょくさせるべくこま温泉おんせん菅原すがわら兵三ひょうぞうろう協力きょうりょくこうえい開拓かいたくむら現在げんざい栗原くりはらこうえい)の建設けんせつかった。昭和しょうわ23ねんには栗駒くりごま山麓さんろくへの入植にゅうしょくみとめられた。しかしきびしい自然しぜん環境かんきょうえられずたがやせえい開拓かいたくむらるものが続出ぞくしゅついち残留ざんりゅうしゃが7にんにまで減少げんしょうした。その政府せいふはたらきかけにより栗原くりはらぐん登米とよねぐんからの移住いじゅうしゃむら生活せいかつ安定あんていかった[4]

耕野こうやむら沿革えんかく

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産業さんぎょう

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農作物のうさくもつ

太陽光たいようこう発電はつでんしょ

2事業じぎょうしゃ現在げんざい太陽光たいようこう発電はつでんしょ建設けんせつ計画けいかくすすめ、2022ねん6がつ着工ちゃっこうした。環境かんきょうアセスメントを回避かいひするため2事業じぎょうしゃ申請しんせい住民じゅうみん合意ごうい不十分ふじゅうぶんなか着工ちゃっこう通知つうちするなどし住民じゅうみんとのあいだみぞふかまっている。

防災ぼうさい

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  • 耕野こうやむら消防しょうぼうだん
    • 組織そしき体制たいせい)2ふんだん4はん構成こうせい
    • 団員だんいんすう)73めい
    • 装備そうび当時とうじ[いつ?]装備そうびうでよう消防しょうぼうポンプ4だいであった。

交通こうつう

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  • 丸森まるもり町民ちょうみんバス
    • だいこうせん
      • 丸森まるもり病院びょういん丸森まるもりまち役場やくば - 耕野こうや公民館こうみんかんまえ - だいちょう公民館こうみんかんまえ - 丸森まるもり病院びょういん丸森まるもりまち役場やくば
  • 白石しらいし市民しみんバス

道路どうろ

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国道こくどう349号線ごうせん狭隘きょうあい区間くかんとなっており、ボトルネックとなっている。

2019ねん台風たいふう19ごうにより被災ひさいし、げんみちでの復旧ふっきゅう困難こんなんとなったため、現在げんざい2024ねん完成かんせい目指めざして新道しんどう建設けんせつすすめられている。

道路どうろ

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耕野こうや周辺しゅうへん地区ちく明治めいじ初期しょき地租ちそ改正かいせいおこなわれてもなお水運すいうんおとろえることなく利用りようされ阿武隈川あぶくまがわ沿いのみち人馬じんば十分じゅうぶんとおれるようなものではなかった。しかし明治めいじ10年代ねんだいになると政府せいふによる殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさくにより水運すいうんすた陸路りくろ重大じゅうだいせいし、旧来きゅうらい街道かいどう改修かいしゅう新道しんどう建設けんせついそがれた。この情勢じょうせい変化へんかもっ松平まつだいら正直まさなお県令けんれい指示しじのもと阿武隈川あぶくまがわ沿いに梁川はしかわ街道かいどう(国道こくどう349号線ごうせん)の整備せいびおこなわれることとなった。建設けんせつ沿線えんせんむらから3ねんわた徴収ちょうしゅう工面くめん明治めいじ14ねん10がつ着工ちゃっこうした。耕野こうや地区ちく岩盤がんばんはすのため開削かいさくにはおおくの時間じかんようした。また工事こうじちゅうには洪水こうずい発生はっせい難渋なんじゅうきわめるだい工事こうじであったが、明治めいじ16ねん11月に一応いちおう完成かんせいした。

その明治めいじ20年代ねんだいになると「公共こうきょう道路どうろ修繕しゅうぜんれい」「街路がいろ新設しんせつ条例じょうれい」が制定せいていされて県内けんないでは県道けんどうなどの改修かいしゅうすすむようになった。しかし耕野こうや地区ちくふく丸森まるもり地方ちほうではほぼおこなわれず、依然いぜんとしてむらないみちははぜん時代じだいてき状態じょうたいつづいた。

昭和しょうわ49ねんには阿武隈あぶくまはちみぞりょう山系さんけいだい規模きぼ農業のうぎょう改革かいかくともない、宮城みやぎ福島ふくしまりょうけんまじえて「阿武隈あぶくま山系さんけい縦貫じゅうかん国道こくどう建設けんせつ期成きせいかい」が発足ほっそく、その国道こくどう昇格しょうかく運動うんどうにより耕野こうや地区ちくとおまちどう国道こくどう349号線ごうせん昇格しょうかくした。その狭隘きょうあい区間くかん改良かいりょう促進そくしん重点じゅうてん箇所かしょとして早期そうき実現じつげん運動うんどうおこなわれるもなかなか改良かいりょう工事こうじおこなわれなかった。

鉄道てつどう

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地区ちくには鉄道てつどう敷設ふせつされていない。

阿武隈川あぶくまがわわたり、阿武隈急行線あぶくまきゅうこうせんあぶくまえきかぶとえき利用りようすることが可能かのう

新幹線しんかんせん白石蔵王しろいしざおうえき福島ふくしまえきへアクセスすることができる。

教育きょういく

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施設しせつ

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  • 川向かわむかい集会しゅうかいしょ
  • 生活せいかつ改善かいぜんセンター
  • 八雲神社やくもじんじゃ
  • 曹洞宗そうとうしゅうこう竜山たつやまもも泉寺いずみでら

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 平成へいせい27ねん国勢調査こくせいちょうさ調査ちょうさ結果けっか(e-Stat)”. 総務そうむしょう統計とうけいきょく (2017ねん5がつ30にち). 2017ねん6がつ17にち閲覧えつらん
  2. ^ 市外しがい局番きょくばん一覧いちらん”. 総務そうむしょう. 2017ねん5がつ29にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 自動車じどうしゃ登録とうろく関係かんけいコード検索けんさくシステム”. 国土こくど交通こうつうしょう. 2024ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 丸森まるもりまち丸森まるもりまち』1984
  5. ^ a b c 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 4 宮城みやぎけん
  6. ^ a b c d e f 東北大学とうほくだいがく地域ちいき社会しゃかい研究けんきゅうかい宮城みやぎけん地理ちり歴史れきし II - 斎藤さいとう良治よしはる宮城みやぎけん伊具いぐぐん丸森まるもりまち耕野こうやきゅう耕野こうやむら)の考古学こうこがく遺跡いせきについて』1982
  7. ^ 丸森まるもりまちきゅうこう野村のむらさん「たけのこ」の出荷しゅっか制限せいげん解除かいじょについて(宮城みやぎけん林業りんぎょう振興しんこうホームページ)2012ねん5がつ1にち(2014ねん4がつ26にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 4 宮城みやぎけん
  2. 丸森まるもりまち』1984
  3. 宮城みやぎけん地名じなこう』1970
  4. きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょうデータベース
  5. 越後えちご國士こくしぞく一等いっとうこうおんな』(おもねしま雄二ゆうじ、1975)
  6. 河北かわきた新報しんぽう宮城みやぎ丸森まるもりのメガソーラー計画けいかく 事業じぎょうしゃ、27にち着工ちゃっこう住民じゅうみん通知つうち』(2023ねん閲覧えつらん
  7. 東北大学とうほくだいがく地域ちいき社会しゃかい研究けんきゅうかい宮城みやぎけん地理ちり歴史れきし II - 斎藤さいとう良治よしはる宮城みやぎけん伊具いぐぐん丸森まるもりまち耕野こうやきゅう耕野こうやむら)の考古学こうこがく遺跡いせきについて』1982

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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