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廃藩置県はいはんちけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
府県ふけん統合とうごうから転送てんそう
1872ねん明治めいじ4ねん12がつ)の地方ちほう行政ぎょうせい区画くかく冨山とやまぼうだい日本にっぽん読史どくし地図ちず』)

廃藩置県はいはんちけん(はいはんちけん、きゅう字体じたい廢藩置縣はいはんちけん)は、明治維新めいじいしん明治めいじ4ねん7がつ14にち1871ねん8がつ29にち)に、明治めいじ政府せいふがそれまでのはん廃止はいしして地方ちほう統治とうち中央ちゅうおう管下かんかけん一元化いちげんかした行政ぎょうせい改革かいかくである。ただし、沖縄おきなわけん近代きんだいにおいては、琉球りゅうきゅう処分しょぶん一環いっかんとして明治めいじ12ねん1879ねん)に琉球りゅうきゅうはんはいして沖縄おきなわけん設置せっちしたことを[1]#その異動いどう参照さんしょう)。

300じゃくはん廃止はいししてそのままこく直轄ちょっかつけんとし、そのけん統廃合とうはいごうされた。2ねんまえ版籍はんせき奉還ほうかんによってはんごととされていた大名だいみょうにははん収入しゅうにゅういちわり約束やくそくされ、東京とうきょう居住きょじゅう強制きょうせいされた。はんごとおよび藩士はんしへの俸給ほうきゅうくに直接ちょくせつ支払しはら義務ぎむい、のちに秩禄処分しょぶんにより削減さくげん廃止はいしされた。また、はん債務さいむくにいだ。

なおほんこうでは、廃藩置県はいはんちけんによって設置せっちされた「けん」の地理ちりてき規模きぼ合理ごうりするために、やく4カ月かげつと5ねんとの2かいにわたって実施じっしされた系統けいとうてき府県ふけん統合とうごうについてもべる。

背景はいけい

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慶応けいおう3ねん12月9にち1868ねん1がつ3にち)に勃発ぼっぱつした王政おうせい復古ふっこ政変せいへんは、事実じじつじょう中央ちゅうおう政府せいふ江戸えど幕府ばくふから朝廷ちょうていうつっただけにぎず、しん政府せいふ内部ないぶ中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめようとする勢力せいりょくにとっては各地かくちいまのこ大名だいみょうりょうはん)の存在そんざいをどうするかが問題もんだいであった。

明治めいじ2ねん6月17にち1869ねん7がつ25にち) 274大名だいみょうから版籍はんせき奉還ほうかんおこなわれ土地とち人民じんみん明治めいじ政府せいふ所轄しょかつするところとなったが、かく大名だいみょうはんごとはん知事ちじ)としてつづはんきゅう大名だいみょうりょう)の統治とうちたり、これはまくはん体制たいせい廃止はいしいちとなったものの現状げんじょうはほとんど江戸えど時代じだい同様どうようであった。版籍はんせき奉還ほうかん時点じてんで、一気いっきぐんけんせい統一とういつ国家こっか目指めざ勢力せいりょくしん政府せいふないにあったが政争せいそうやぶれた[2]

一方いっぽうきゅう天領てんりょう旗本はたもと支配しはいとう政府せいふ直轄ちょっかつとしてけんかれ中央ちゅうおう政府せいふから知事ちじごとけんごと)が派遣はけんされた。これを「はんけんさんせい」という。なお「はん」という呼称こしょう江戸えど時代じだいからあったが、制度せいどじょう呼称こしょうされたのはこの時期じきはじめてであり、江戸えど幕府ばくふでは正式せいしき制度せいどとして「はん」という呼称こしょうはなされなかった。したがって、公式こうしきに「はん」という制度せいど存在そんざいしたのは、明治めいじ2ねん(1869ねん)の版籍はんせき奉還ほうかんから明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけんまでの2年間ねんかんだけともいえる。

しん政府せいふ直轄ちょっかつけんわせて全国ぜんこくの4ぶんの1程度ていどぎず[3]、また一揆いっきなどによって収税しゅうぜい困難こんなんきわめたため[4]しん政府せいふ当初とうしょから財源ざいげん確保かくほくるしんだ。

当時とうじはん府県ふけん政府せいふ直轄ちょっかつ)の管轄かんかつ区域くいきんでおり、このはんけんさんせい効率こうりつであった。また軍隊ぐんたいかくはんから派遣はけんされたはんへい構成こうせいされており、統率とうそつせいいた。そしてかくはん薩長さっちょうしん政府せいふとの対立たいりつしん政府せいふないでの対立たいりつつづいていた。戊辰戦争ぼしんせんそう結果けっかしょはん債務さいむ平均へいきん年間ねんかん収入しゅうにゅうの3ばい程度ていどたっしていた[5]財政ざいせい事情じじょう悪化あっかしたため、また統一とういつ国家こっか目指めざすために、みずか政府せいふはいはんねがはんていた(鳥取とっとりはんあるじ池田いけだ慶徳けいとく名古屋なごやはんあるじ徳川とくがわ慶勝よしかつ熊本くまもとはんあるじ細川ほそかわまもるひさ盛岡もりおかはんあるじ南部なんぶとしきょうなど)[6]

明治めいじ3ねん12月19にち(1871ねん2がつ8にち)、大蔵おおくら大輔だいすけ大隈おおくま重信しげのぶが「全国ぜんこく一致いっち政体せいたい」の施行しこうもとめる建議けんぎ太政官だじょうかん提案ていあんしてみとめられた。これはしん国家こっか建設けんせつのためには「海陸かいりく警備けいびせい」(軍事ぐんじ)・「きょうれいりついくみち」(教育きょういく)・「審理しんり刑罰けいばつほう」(司法しほう)・「理財りざい会計かいけいほう」(財政ざいせい)の4つの確立かくりつ必要ひつようせいとなえ、その実現じつげんにははんけんさんせい効率こうりつさを指摘してきしてはんけん機構きこう同一どういつのものにする「三治さんじ一致いっち」を目指めざすものとした。3つの形態けいたいかれた機構きこう共通きょうつうにしようとすればすで中央ちゅうおう政府せいふから派遣はけんされた官吏かんりによって統治とうちされる形式けいしきられていた「」・「けん」とはちがい、はんこと藩士はんしによっておさめられた「はん」の異質いしつせい自主じしゅせいが「三治さんじ一致いっち」の最大さいだい障害しょうがいとなることはあきらかであった。

薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはんにおいてはふくがった軍事ぐんじ深刻しんこく問題もんだいとなっており、これに土佐とさはんくわえたさんはんからしん政府せいふ直属ちょくぞくおやへいすことで問題もんだい回避かいひするとともに、中央ちゅうおう集権しゅうけんはかられた[7]

なお、寺社じしゃもまたはん同様どうよう農民のうみん年貢ねんぐ領地りょうちっていたが、廃藩置県はいはんちけん先立さきだ明治めいじ4ねん1がつ5にちうえともれいにより境内けいだいのぞいてくに没収ぼっしゅうされた。

紀州きしゅうはん和歌山わかやまはん)の藩政はんせい改革かいかく

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明治めいじ元年がんねん11月(1868ねん12がつ)、紀州きしゅうはんだい14だい藩主はんしゅ徳川とくがわ茂承もちつぐより藩政はんせい改革かいかく全権ぜんけん委任いにんされた津田つだいずるは、陸奥むつ宗光むねみつい、こおりけん制度せいど版籍はんせき奉還ほうかん廃藩置県はいはんちけん)、徴兵ちょうへいれい構想こうそうつたえる。

明治めいじ2ねん7がつ(1869ねん8がつ)、陸奥むつ宗光むねみつ廃藩置県はいはんちけん意見いけんしょ提出ていしゅつするが、採用さいようされず下野げやし、津田つだいずるらとともに紀州きしゅうはん藩政はんせい改革かいかく参画さんかくする[8][9][10]紀州きしゅうはん藩政はんせい改革かいかくは、ぐんけんせい実施じっし無益むえきだか藩主はんしゅ藩士はんしはらいえろくを10ぶんの1に削減さくげん)を実施じっしカール・ケッペンらの指導しどうによりプロシアしき洋式ようしき軍隊ぐんたい創設そうせつし、四民しみん皆兵かいへい徴兵ちょうへい制度せいどととのえ、まん20さい以上いじょう男子だんしには徴兵ちょうへい検査けんさけさせた。また、藩主はんしゅした執政しっせいを1にんはん全体ぜんたい統轄とうかつさせた。執政しっせいした参政さんせいこうじんき、執政しっせい補佐ほさはん中央ちゅうおう政府せいふとの連絡れんらくおこなった。また政治せいじ公用こうようきょく軍務ぐんむきょく会計かいけいきょく刑法けいほうきょく民政みんせいきょくの5きょく教育きょういくてのひらところとして学習がくしゅうかん和歌山大学わかやまだいがく)を設置せっちした。それにくわえ、藩主はんしゅ家計かけい事務じむ一切いっさい藩政はんせいから分離ぶんりする「はんおさむ職制しょくせい」を新設しんせつし、設置せっちした。最低さいてい生活せいかつ保障ほしょうする給与きゅうよであるやくだかろくだかを10ぶんの1に減額げんがくされたが、それぞれの官職かんしょくについたものについては文武ぶんぶやくりょう追加ついかされ、人材じんざい抜擢ばってきおこなわれた。このさいやくだかのみのものたいしては、城下しろした以外いがいへの移住いじゅう副業ふくぎょう内職ないしょくのために農工のうこう商業しょうぎょういとなむことがゆるされ、紀州きしゅうはんでの封建ほうけん制度せいど崩壊ほうかいした。なお、長州ちょうしゅうはん鳥尾とりお小弥太こやたは、この改革かいかくつちのえ営副とく次席じせきとして参与さんよしている。この改革かいかく西郷さいごう従道つぐみち西郷さいごう隆盛たかもり代理だいり村田むらた新八しんぱち山田やまだあらわよし見学けんがくした。この改革かいかくが、日本にっぽん近代きんだい国家こっか建設けんせつのモデルケースとなり、明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけん明治めいじ6ねん1873ねん)の徴兵ちょうへいれい影響えいきょうあたえた。

実行じっこう前夜ぜんや

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おも軍事ぐんじめん財政ざいせいめんにおいて中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせいすすめる廃藩置県はいはんちけん必要ひつようせい次第しだい政府せいふない支持しじやしていた。一方いっぽう薩摩さつまはん島津しまつ久光ひさみつなどの近代きんだい中央ちゅうおう集権しゅうけん反対はんたいする勢力せいりょく存在そんざいかん維持いじし、これらにたいして大久保おおくぼ利通としみち木戸きど孝允たかよしなどのしん政府せいふ実力じつりょくしゃ漸進ぜんしんてき姿勢しせいをとらざるをなかった。とく圧倒的あっとうてき軍事ぐんじりょくかかえる薩摩さつまはん動向どうこうは、おおきな懸念けねん材料ざいりょうとなっており、薩摩さつまはん出身しゅっしん実力じつりょくしゃたちは慎重しんちょう姿勢しせいせていた。この現状げんじょう中間ちゅうかん官僚かんりょうたちは危機ききかんつよめた[11]

7がつ4にち8がつ19にち)、兵制へいせい統一とういつもとめていた山口やまぐちはん出身しゅっしん兵部ひょうぶしょう山縣やまがた有朋ありともした居合いあわせたどうはん出身しゅっしん鳥尾とりお小弥太こやた野村のむらやすし会話かいわのうちにこの状況じょうきょうたいする危機ききかんられ、山縣やまがたたいして廃藩置県はいはんちけん即時そくじ断行だんこう提議ていぎした。山縣やまがた即座そくざ賛成さんせいし、2人ふたりとともに有力ゆうりょくしゃ根回ねまわしにはしった[12]

翌日よくじつ2にんは、大蔵省おおくらしょうまわ財政ざいせい問題もんだいなや井上いのうえかおる味方みかた[3]7がつ6にち8がつ21にち)に、井上いのうえ木戸きど[13]山縣やまがた西郷さいごう隆盛たかもり説得せっとくした[14]西郷さいごう戊辰戦争ぼしんせんそう薩摩さつまはんにおける膨大ぼうだいかず士卒しそつ扶助ふじょ苦慮くりょし、はん体制たいせい限界げんかいかんじていた[15]薩摩さつまはんおおきな支持しじあつめる西郷さいごう同意どういて、中央ちゅうおう集権しゅうけんひそかに目指めざしていた大久保おおくぼ木戸きど賛成さんせいした。当初とうしょ廃藩置県はいはんちけんあん薩長さっちょうりょうはんあいだひそかにすすめられ、7がつ9にち8がつ24にち)、西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ西郷さいごう従道つぐみち大山おおやまいわお木戸きど井上いのうえ山縣やまがたの7めい薩長さっちょう要人ようじん木戸きどていあん作成さくせいした。そのに、公家くげ土佐とさはん佐賀さがはん出身しゅっしん実力じつりょくしゃである三条さんじょう実美みみ岩倉いわくら具視ともみ板垣いたがき退助たいすけ大隈おおくま重信しげのぶらの賛成さんせいた。

予想よそうされる抵抗ていこうたいしては、薩長さっちょうさんはん出身しゅっしんへいからなる強大きょうだいおやへいをもって鎮圧ちんあつすることが計画けいかくされた[16]

実行じっこう

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廃藩置県はいはんちけん

明治めいじ4ねん7がつ14にち(1871ねん8がつ29にち)14明治めいじ政府せいふざい東京とうきょうはんごと皇居こうきょあつめて廃藩置県はいはんちけんめいじた。

ちん󠄂おもんみフニさら󠄁はじめときぎわシ內以テ億兆おくちょう保安ほあんがい以テ萬國ばんこく對峙たいじセントよくセハよろし名實めいじつしょうふく政令せいれいいちセシムヘシちん曩ニしょ󠄀はん版籍はんせき奉還ほうかん󠄁ノ聽納ちょうのう󠄁シしんはんごといのちかく其職ヲたてまつセシムしかルニすうひゃくねん因襲いんしゅうひさあるハ其名アリテ其實きょラサルしゃ󠄁アリなにヲ以テ億兆おくちょう保安ほあん萬國ばんこく對峙たいじスルヲとくンヤちん󠄂ふかこれヲ慨󠄁ス仍テ今更いまさら󠄁ニはんはいけんためつとむテ冗ヲリ簡ニ就キ有名ゆうめい無實むじつへい󠄁ヲじょ政令せいれい多岐たきラシメントスなんじ群臣ぐんしん其レちん󠄂カ󠄁ヲからだセヨ

明治めいじよんねんなながつ󠄁じゅうよんにち

10鹿児島かごしまはん知事ちじ島津しまつ忠義ただよし山口やまぐちはん知事ちじ毛利もうりもととく佐賀さがはん知事ちじ鍋島なべしまただしだいおよび、高知こうちはん知事ちじ山内やまうちゆたかはん代理だいりつとめる板垣いたがきし、はいはん詔勅しょうちょく[17]げた。ついで名古屋なごやはん知事ちじ徳川とくがわ慶勝よしかつ熊本くまもとはん知事ちじ細川ほそかわまもるひさ鳥取とっとりはん知事ちじ池田いけだ慶徳けいとく徳島とくしまはん知事ちじ蜂須賀はちすかしげる詔勅しょうちょくせんせられた。午後ごごにはこれらはんごとくわ在京ざいきょうちゅうである56はんはんごと召集しょうしゅうされ、詔書しょうしょくだされた。

はんけんとなってはんごときゅう藩主はんしゅ)は失職しっしょくし、東京とうきょうへの移住いじゅうめいじられた。きゅう藩主はんしゅ収入しゅうにゅうには、旧藩きゅうはん収入しゅうにゅういちわりがあてられ、きゅう藩士はんしへのいえろく支給しきゅう義務ぎむおよびはん債務さいむから解放かいほうされた。かくけんにははんごとわってあらたに中央ちゅうおう政府せいふから県令けんれい派遣はけんされた。なお同日どうじつかくはん藩札はんさつ当日とうじつ相場そうば政府せいふ発行はっこう紙幣しへい交換こうかんされることがせんされた。

当初とうしょはんをそのままけんえたため現在げんざい都道府県とどうふけんよりもこまかくかれており、3302けんあった。また飛地とびちおおく、地域ちいきとしてのまとまりもけんくらべるとよわかった。そこで明治めいじ4ねん(1871ねん)10〜11月には372けん統合とうごうされた(だい1府県ふけん統合とうごう)。その12がつに、この府県ふけんれつじゅん序列じょれつ)が布告ふこくされている。最初さいしょ東京とうきょう京都きょうと大阪おおさかの3じゅんつぎ神奈川かながわ兵庫ひょうご長崎ながさき新潟にいがたの4けんさだめられた。これは明治めいじ政府せいふ開港かいこう重要じゅうようしていたためである[18]

そのけんかず明治めいじ5ねん1872ねん)369けん明治めいじ6ねん1873ねん)360けん明治めいじ8ねん1875ねん)359けん明治めいじ9ねん1876ねん)335けんだい2府県ふけん統合とうごう)と合併がっぺいすすんだ。しかし、今度こんどぎゃく面積めんせきおおぎるために地域ちいきあいだ対立たいりつ噴出ふんしゅつしたり事務じむりょう増加ぞうかするなどの問題もんだいてんた。そのため、つぎは(明治めいじ14ねん1881ねん)にさかいけん大阪おおさか合併がっぺいしたことをのぞいて)分割ぶんかつすすめられ、明治めいじ22ねん1889ねん)には342けん廃藩置県はいはんちけん対象たいしょうがいだった北海道ほっかいどう沖縄おきなわけんのぞく)となって最終さいしゅうてきいた。

統合とうごうによってできた府県境ふけんきょうは、れいせいこくのものとかさなる部分ぶぶんおおい。また、石高いしたかで30〜60まんせき程度ていどには90まんせきまでげられた)にして行財政ぎょうざいせい負担ふたんえうる規模きぼとすることをこころがけたとう。

また、あたらしい県令けんれいなどの上層じょうそうには旧藩きゅうはんとはえんのない人物じんぶつ任命にんめいするため、そのけん出身しゅっしんしゃ起用きようしない方針ほうしんった。しかし、いくつかの有力ゆうりょくしょはんではこの方針ほうしん貫徹かんてつできず(とはいえ、明治めいじ6ねん(1873ねん)までには大半たいはんどう県人けんじん県令けんれい廃止はいしされている)、鹿児島かごしま県令けんれい大山おおやまつなりょうのようにすうねんわたって県令けんれいつとめていちしゅ独立どくりつ政権せいけんのような行動こうどうをするものもいた。

一方いっぽう、そのなか山口やまぐちけんきゅう長州ちょうしゅうはん)だけはぎゃくにかつての「宿敵しゅくてき」であるきゅう幕臣ばくしん出身しゅっしん県令けんれい派遣はけんして成功せいこうおさめ、その地方ちほう行政ぎょうせいにおける長州ちょうしゅうばつ発言はつげんりょく確固かっこたるものとした。なお、この制限せいげん文官ぶんかん任用にんよう制度せいど確立かくりつした明治めいじ18ねん1885ねんごろまでつづいた。

どう県人けんじん知事ちじ起用きよう

つづ改革かいかく

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廃藩置県はいはんちけん平安へいあん時代じだい後期こうき以来いらいつづいてきた特定とくてい領主りょうしゅがその領地りょうち所領しょりょう支配しはいするという土地とち支配しはいのありかた根本こんぽんてき否定ひてい変革へんかくするものであり、「明治維新めいじいしんにおける最大さいだい改革かいかく」とえるものであった。

だが、大隈おおくま建議けんぎした「全国ぜんこく一致いっち政体せいたい」の確立かくりつまでにはまだおおくの法制ほうせい整備せいび必要ひつようであった。その事業じぎょうは、同年どうねん11がつ12にち(12月23にち)から明治めいじ6ねん1873ねん)9がつ13にちまで岩倉いわくら使節しせつだん外遊がいゆうちゅう明治めいじ政府せいふひきいた留守るす政府せいふたくされた。留守るす政府せいふもと徴兵ちょうへいれい海陸かいりく警備けいびせい)・学制がくせいきょうれいりついくみち)・司法しほう改革かいかく審理しんり刑罰けいばつほう)・地租ちそ改正かいせい理財りざい会計かいけいほう)といったあたらしい制度せいどおこなわれていくことになった。

廃藩置県はいはんちけん急速きゅうそくおこなわれたもっと重大じゅうだい理由りゆう軍制ぐんせい統一とういつおよび財政ざいせい健全けんぜんであった。このうち軍制ぐんせいについては、はん軍事ぐんじ組織そしき解体かいたいし、徴兵ちょうへいれいによってぐんさい編成へんせいすることによって統一とういつはかられた。財政ざいせいめんでは、廃藩置県はいはんちけん直後ちょくごしん政府せいふ歳出さいしゅつのうち、37%がはな士族しぞくへの秩禄であった[19]。そのだい部分ぶぶんめる士族しぞくかんしては徴兵ちょうへいれいによっていえろく根拠こんきょうしなわせ、さらに秩禄処分しょぶんによってはな士族しぞくの秩禄を完全かんぜん廃止はいしすることで財政ざいせい改善かいぜんはかられた。

士族しぞくだい部分ぶぶん近代きんだい統一とういつ国家こっか建設けんせつ支持しじしていたこと、きゅう藩主はんしゅ階級かいきゅう身分みぶんてきかつ経済けいざいてき厚遇こうぐう東京とうきょう移住いじゅうさせて藩士はんしたちとはなしたことで、改革かいかくへの抵抗ていこうおさえられた。版籍はんせき奉還ほうかん直後ちょくごきゅう藩主はんしゅであるはんごといえろく旧藩きゅうはん全体ぜんたい収入しゅうにゅうの10ぶんの1とされ、かつ華族かぞくとされていた。また、版籍はんせき奉還ほうかんにより、きゅう藩主はんしゅはん知事ちじ任命にんめいけん自発じはつてき天皇てんのう奉還ほうかんしていたことも、論理ろんりてき藩主はんしゅ抵抗ていこうむずかしくしていた[20]

旧藩きゅうはん債務さいむ問題もんだい

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廃藩置県はいはんちけんにより、旧藩きゅうはん債務さいむおよびいえろくすべしん政府せいふ責任せきにんとなった。

すで江戸えど時代じだい中期ちゅうきごろからかくはんともに深刻しんこく財政難ざいせいなんかかえており、大坂おおさかなどの有力ゆうりょく商人しょうにんからいわゆる「大名だいみょうかし」をけたり領民りょうみんから用金ようきん徴収ちょうしゅうするなどしてかろうじてしのいでいた。かくはんとも藩政はんせい改革かいかく推進すいしんしてその打開だかいはかったが、黒船くろふね来航らいこう以来いらい政治せいじてき緊張きんちょう戊辰戦争ぼしんせんそうへの出兵しゅっぺいによって多額たがく財政ざいせい出費しゅっぴ余儀よぎなくされて、廃藩置県はいはんちけんまえみずか領土りょうど返上へんじょうもう実際じっさい解体かいたいされるはん狭山さやまはん大溝おおみぞはん鞠山まるやまはん吉井よしいはん盛岡もりおかはん長岡ながおかはん福本ふくもとはん高須たかすはんなど続出ぞくしゅつする状況じょうきょうであった[21]。また、幕末ばくまつ維新いしんにはおおくのはん貨幣かへい贋造がんぞうおこなわれ、外交がいこう問題もんだい発展はってんしていた[22]

これにくわえて、かくはんしていた藩札はんさつ回収かいしゅう処理しょりおこなって全国ぜんこくいちりつ貨幣かへい制度せいど実現じつげんする必要ひつようせいもあった[注釈ちゅうしゃく 1]

藩札はんさつ合計ごうけいは3909まんえん、(藩札はんさつのぞく)はんさい合計ごうけい当時とうじ歳入さいにゅうばい相当そうとうする7413まんえん(=りょう)にもたっしていた[23]

しん政府せいふはんさいを3種類しゅるい分割ぶんかつした。すなわち、

  1. 明治めいじ元年がんねん(1868ねん以後いご債務さいむについては公債こうさい交付こうふしその元金がんきんを3年間ねんかんいたうえとし4%の利息りそくけて25ねんにてしん政府せいふ責任せきにんをもって返済へんさいする(しん公債こうさい
  2. ひろし年間ねんかん1844ねん1847ねん以後いご債務さいむ無利息むりそく公債こうさい交付こうふして50ねん返済へんさいする(きゅう公債こうさい
  3. そして天保てんぽう年間ねんかん以前いぜん債務さいむについては江戸えど幕府ばくふ天保てんぽう14ねん1843ねん)に棄捐れい利子りし年賦ねんぷ返済へんさいれい)を発令はつれいしたことを口実こうじつ一切いっさいこれを継承けいしょうせずに無効むこうとする(事実じじつじょう徳政令とくせいれい

というものであった。

藩札はんさつは、はいはん時価じかによって政府せいふ紙幣しへい交換こうかんされた。はんさいのうち外交がいこう問題もんだいになりえる外債がいさいは、元利がんり償却しょうきゃくぶんのぞいてすべ現金げんきん償還しょうかんされた。はん以外いがい旗本はたもと御家人ごけにんなどの個人こじん債務さいむ償還しょうかん対象たいしょうがいとされた。朝敵ちょうてきとなった江戸えど幕府ばくふによる債務さいむ発生はっせい時期じきわずに、外国がいこくさいぶんのぞいてすべ無効むこうとされた。また、維新いしん新立しんだてあるいはさいだてみとめられた朝敵ちょうてきはん負債ふさい新立しんだてさいだて以後いご負債ふさいのみががれ、それ以前いぜんのものは無効むこうとされた[24]

その結果けっか届出とどけでがく半額はんがく以上いじょう無効むこう宣言せんげんされて総額そうがくで3486まんえん(うち、しん公債こうさい1282まんえんきゅう公債こうさい1122まんえん少額しょうがく債務さいむなどを理由りゆう現金げんきん支払しはらいとう処理しょりされたものが1082まんえん)がしん政府せいふによって返済へんさいされることになった(はんさい処分しょぶん)。しん公債こうさいは、西南せいなん戦争せんそうとしのぞけば毎年まいとし償還しょうかんされ、1896ねんまでに予定よていどお全額ぜんがく償還しょうかんされた。きゅう公債こうさいも、予定よていどおり1921ねん償還しょうかん完了かんりょうした[25]

はんさい大半たいはん天保てんぽう以前いぜんからの大名だいみょうしがべられてたものであり、ことごとく無効むこうとされた。たとえば有名ゆうめい薩摩さつまはん調しらべしょ広郷ひろさとによる「利子りし250ねん分割払ぶんかつばらい」は35年間ねんかん支払しはらいを以って無効むこうとされた。

一般いっぱん江戸えど時代じだい金利きんりたかく、たとえば薩摩さつまはんの250ねん分割ぶんかつ以前いぜん平均へいきん金利きんりは16%にたっしていた。商人しょうにんたちかられば大名だいみょうかし元金がんきん返済へんさい見込みこみはうす一種いっしゅ不良ふりょう債権さいけんであったが、名目めいもくじょう資産しさんとしてみとめられ、金利きんり収入しゅうにゅうおおきく、社会しゃかいてき地位ちいともなりえたが、この処分しょぶんによってそのすべてがだお状態じょうたいになり商人しょうにんなかにはそのまま破産はさんまれるもの続出ぞくしゅつした。幕臣ばくしん相手あいて債権さいけん所有しょゆうしていた札差ふださし瓦解がかいした。

江戸えどよりも幕府ばくふによる制約せいやくすくないだいさか資金しきん調達ちょうたつさきもとめられていたため大名だいみょうかし商人しょうにん江戸えどよりおおくいた大坂おおさか経済けいざいてきだい打撃だげきけることとなった。また、日本にっぽん経済けいざい中心ちゅうしんであった大坂おおさか中心ちゅうしんてき地位ちいから転落てんらくする要因よういんとなった。ただし、大坂おおさか商人しょうにん苦境くきょうには、幕末ばくまつ以来いらいぎん価値かち低下ていかにより、銀本位ぎんほんいせいかたむいていた大坂おおさかにおけるぎん資産しさん価値かち低下ていか影響えいきょうしている。

一方いっぽうで、きゅう藩主はんしゅやその家臣かしんすべての債務さいむ免責めんせきされたうえなかにははいはん直前ちょくぜん藩札はんさつ増刷ぞうさつ債務さいむとしてとど私腹しふくやしたものもいたとわれている。

廃藩置県はいはんちけん当初とうしょ設置せっちされたけん

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明治めいじ4ねん7がつ14にち(1871ねん8がつ29にち)に廃藩置県はいはんちけん実施じっしされた当初とうしょ府県ふけんめい都市とし府県ふけんちょう所在地しょざいち)をけたものであるがとくきゅう幕府ばくふはた本領ほんりょうきゅう中小ちゅうしょうはんいだけんでは府県ふけんちょう所在地しょざいち周辺しゅうへんよりもおおくの飛地とびち遠隔えんかくところすくなくない。以下いか地方ちほう区分くぶんは、府県ふけんちょう所在地しょざいちによるものである。太字ふとじ廃藩置県はいはんちけん以前いぜんから存在そんざいした府県ふけん

北海道ほっかいどう地方ちほう

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東北とうほく地方ちほう

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関東かんとう地方ちほう(首都しゅとけんのうち甲斐かいのぞく)

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北信越ほくしんえつ東海とうかい地方ちほう

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近畿きんき地方ちほう(関西かんさい地方ちほう)

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中国ちゅうごく地方ちほう

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四国しこく地方ちほう

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九州きゅうしゅう地方ちほう

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だい1府県ふけん統合とうごう

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明治めいじ4ねん10月28にち(1871ねん12月10にち)から11月22にち(1872ねん1がつ2にち)におこなわれただい1府県ふけん統合とうごうによって、かく府県ふけん管轄かんかつ区域くいきくにぐん単位たんいとする一円いちえんてき領域りょういき再編さいへんされた。

以下いか、9月に先行せんこうして実施じっしされた統合とうごうのぞいて、法令ほうれい全書ぜんしょ所収しょしゅう太政官だじょうかん布告ふこくにより明治めいじ4ねん(1871ねんまつ段階だんかい府県ふけんとそのエリアをしめす(布告ふこく旧暦きゅうれき)。ただし太政官だじょうかん布告ふこく記載きさいされたエリアと実際じっさいのエリアには若干じゃっかん異同いどうがあり、飛地とびちりょう管轄かんかつたいする指示しじ日付ひづけ前後ぜんごしている部分ぶぶんがある。また合併がっぺい期日きじつも、資料しりょうによってはこれとことなるものもある。

先行せんこうする統合とうごう

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廃藩置県はいはんちけんからだい1府県ふけん統合とうごうまでのやく4箇月かげつあいだにも、一部いちぶ統合とうごうすすめられている。

群馬ぐんまけん

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明治めいじ4ねん10がつ28にち(1871ねん12月10にち布告ふこく[26]

姫路ひめじけん豊岡とよおかけん

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明治めいじ4ねん11月2にち(1871ねん12月13にち布告ふこく[27]

北海ほっかい東北とうほく地方ちほう

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明治めいじ4ねん11月2にち(1871ねん12月13にち布告ふこく[28]

関東かんとう地方ちほう伊豆いず

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明治めいじ4ねん11月14にち(1871ねん12月25にち布告ふこく[29]。すでにけん設置せっちえている群馬ぐんまけんのぞく。

九州きゅうしゅう地方ちほう

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明治めいじ4ねん11月14にち(1871ねん12月25にち布告ふこく[30]

四国しこく地方ちほう

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明治めいじ4ねん11月15にち(1871ねん12月26にち布告ふこく[31]

中国ちゅうごく地方ちほう

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明治めいじ4ねん11月15にち(1871ねん12月26にち布告ふこく[32]

東海とうかい地方ちほう東部とうぶ

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明治めいじ4ねん11月15にち(1871ねん12月26にち布告ふこく[33]

  • 静岡しずおかけん - 駿河するがこくいちえん
  • 浜松はままつけん - 遠江とおとうみこくいちえん
  • 額田ぬかたけん - 三河みかわこくいちえん尾張おわりこくのうち知多ちたぐん
    • もと挙母ころもけん管轄かんかつ美作みさく国久くにひさべい北条ほうじょうぐん元西もとにし大平おおひらけん管轄かんかつあい摸国高座こうざぐんもと西端にしばたけん管轄かんかつ上総かずさ国武くにたけしゃぐんどう下総しもふさこく匝瑳そうさぐん香取かとりぐんどう伊豆いずこく田方たがたぐん加茂かもぐんどう上野うえのこく新田にったぐん邑楽おうらぐんどう下野げやこく安蘇あそぐんどう武蔵むさしこく多摩たまぐんもと西尾にしおけん管轄かんかつ越前えちぜんこく丹生にゅうぐん南条なんじょうぐん阪井さかいぐんどう安房あわこくたいらぐんもと半原はばらけん管轄かんかつ武蔵むさしこく榛沢はんざわぐんどう摂津せっつこく豊島としまぐん川辺かわべぐん能勢のせぐん有馬ありまぐんどう上野うえのこく新田にったぐんどう丹波たんばこくなん鹿しかぐんもと豊橋とよはしけん管轄かんかつ近江おうみこく浅井あさいぐん伊香いかぐん高島たかしまぐんどう上総かずさこくもち陀郡の飛地とびちりょう当面とうめんあいだ管轄かんかつ

北陸ほくりく甲信越こうしんえつ地方ちほう

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明治めいじ4ねん11がつ20日はつか(1871ねん12月31にち布告ふこく[34]

大阪おおさか兵庫ひょうごけん

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明治めいじ4ねん11がつ20日はつか(1871ねん12月31にち布告ふこく[35]

東海とうかい地方ちほう西部せいぶ近畿きんき地方ちほう大阪おおさか兵庫ひょうごのぞく)

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明治めいじ4ねん11月22にち(1872ねん1がつ2にち布告ふこく[36]

府県ふけん配列はいれつ

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明治めいじ4ねん12月27にち(1872ねん2がつ14にちづけ太政官だじょうかん布告ふこくによる府県ふけん配列はいれつは、以下いかとおりである。

  • 1 - 7(さん大都市だいとし開港かいこう):東京とうきょう京都きょうと大阪おおさか神奈川かながわけん兵庫ひょうごけん長崎ながさきけん新潟にいがたけん
  • 8 - 17(関東かんとう地方ちほう):埼玉さいたまけん入間いるまけん足柄あしがらけん木更津きさらづけん印旛いんばけん新治しんじけん茨城いばらきけん群馬ぐんまけんとち栃木とちぎけん宇都宮うつのみやけん
  • 18 - 21(近畿きんき地方ちほう):奈良ならけんさかいけん安濃あのうけん度会わたらいけん
  • 22 - 31(東海とうかい甲信こうしん地方ちほう):名古屋なごやけん額田ぬかたけん浜松はままつけん静岡しずおかけん山梨やまなしけん大津おおつけん長浜ながはまけん岐阜ぎふけん筑摩つかまけん長野ながのけん
  • 32 - 42(東北とうほく地方ちほう):仙台せんだいけん福島ふくしまけんいわぜんけん若松わかまつけん一関いちのせきけん盛岡もりおかけん青森あおもりけん山形やまがたけん置賜おきたまけん酒田さかたけん秋田あきたけん
  • 43 - 49(北陸ほくりく地方ちほう):敦賀つるがけん福井ふくいけん金沢かなざわけん七尾ななおけん新川しんかわけん柏崎かしわざきけん相川あいかわけん
  • 50 - 53 (山陰さんいん地方ちほう):豊岡とよおかけん鳥取とっとりけん島根しまねけん浜田はまだけん
  • 54 - 59 (山陽さんよう地方ちほう):飾磨しかまけん北条ほうじょうけん岡山おかやまけん深津ふかづけん広島ひろしまけん山口やまぐちけん
  • 60 - 65 (和歌山わかやま四国しこく地方ちほう):和歌山わかやまけん名東めいとうけん香川かがわけん松山まつやまけん宇和島うわじまけん高知こうちけん
  • 66 - 75 (九州きゅうしゅう地方ちほう):福岡ふくおかけん三潴みずまけん小倉こくらけん大分おおいたけん伊万里いまりけん熊本くまもとけん八代やしろけん都城みやこのじょうけん美々津みみつけん鹿児島かごしまけん

だい1府県ふけん統合とうごうからだい2府県ふけん統合とうごうまでの異動いどう

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以下いかふしではカッコないあたらしいけん名称めいしょうしめす。

県庁けんちょう移転いてんともなわない改称かいしょう

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都市としめい命名めいめいされていた旧藩きゅうはんめいからぐんめいとうへの改称かいしょうだい1府県ふけん統合とうごう当初とうしょから統合とうごうまえけんめい旧藩きゅうはんめい)を継承けいしょうしなかったれいあわせて、賞罰しょうばつてきけんめいせつ論拠ろんきょとなっている。改称かいしょう経緯けいいあきらかになっているいくつかの事例じれいでは、「人心じんしん一新いっしん」などをもとめるけんがわから太政官だじょうかんへの上申じょうしんもとづく処置しょちである。

県庁けんちょう移転いてんともな改称かいしょう

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改称かいしょう移転いてん先行せんこうしていたり、移転いてん予定よてい実現じつげんしなかったりしたれいもある。なお、だい1府県ふけん統合とうごうやく2箇月かげつまえ合併がっぺいした弘前ひろさきけんにおける県庁けんちょう移転いてんも、便宜べんぎてきにここへ記載きさいする。

統合とうごう

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愛媛えひめけんのみいしてつけん県庁けんちょう継承けいしょう編入へんにゅう同時どうじ改称かいしょうしたとかんがえることも可能かのう)、あらたな県庁けんちょう移転いてん

編入へんにゅう

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分割ぶんかつ編入へんにゅう

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  • 明治めいじ5ねん9月27にち(1872ねん10月29にち) - 七尾ななおけんのうち能登のとこく石川いしかわけん)、えつ中国ちゅうごく新川しんかわけん
  • 明治めいじ8ねん(1875ねん5月7にち - 新治しんじけんのうち下総しもふさこく千葉ちばけん)、常陸ひたちこく茨城いばらきけん

分立ぶんりつ

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境界きょうかい変更へんこう

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  • 明治めいじ4ねん12月17にち(1872ねん1がつ26にち) - 島根しまねけんのうち隠岐おきこく鳥取とっとりけん
  • 明治めいじ5ねん(1872ねん
    • 5月15にち6がつ20日はつか) - 都城みやこのじょうけんのうち大隅おおすみこく菱刈ひしかりぐん姶良あいらぐんおよび桑原くわはらぐん栗野くりのきょう横川よこがわきょう鹿児島かごしまけん)、美々津みみつけんのうち日向ひなたこくしょけんぐん須木すききょう野尻のじりきょうおよび小林こばやしさとのうち東方とうほうむら都城みやこのじょうけん
    • 8がつ17にち9月19にち) - 佐賀さがけんのうち対馬つしまこく長崎ながさきけん
    • 9がつ20日はつか10月22にち) - 青森あおもりけんのうち渡島ととうこく開拓かいたく使
  • 明治めいじ6ねん(1873ねん)1がつ15にち - 都城みやこのじょうけんのうち大隅おおすみこく鹿児島かごしまけん
  • 明治めいじ8ねん(1875ねん)5がつ7にち - 千葉ちばけんのうち下総しもふさこく結城ゆうきぐん猿島さしまぐん岡田おかだぐん豊田とよだぐんおよび相馬そうまぐん葛飾かつしかぐんかく一部いちぶ[注釈ちゅうしゃく 2]茨城いばらきけん

だい2府県ふけん統合とうごう

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すべて明治めいじ9ねん1876ねん)。この統合とうごう発足ほっそくしたけんなかには、のち分立ぶんりつしたれいおおいほか(次節じせつ参照さんしょう)、現在げんざいでも地域ちいきあいだ対立たいりつ地理ちりてき要件ようけん不一致ふいっちなどの問題もんだいはら地域ちいきすくなくない。

編入へんにゅう

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  • 4がつ18にち - 相川あいかわけん新潟にいがたけん)、新川しんかわけん石川いしかわけん)、度会わたらいけん三重みえけん)、奈良ならけんさかいけん)、浜田はまだけん島根しまねけん)、北条ほうじょうけん岡山おかやまけん)、小倉こくらけん福岡ふくおかけん)、佐賀さがけん三潴みずまけん
  • 8がつ21にち - 若松わかまつけん福島ふくしまけん)、置賜おきたまけん鶴岡つるおかけん山形やまがたけん)、熊谷くまがやけん埼玉さいたまけん)、浜松はままつけん静岡しずおかけん)、飾磨しかまけん兵庫ひょうごけん)、鳥取とっとりけん島根しまねけん)、香川かがわけん愛媛えひめけん)、名東めいとうけん高知こうちけん)、宮崎みやざきけん鹿児島かごしまけん

分割ぶんかつ編入へんにゅう

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  • 4がつ18にち
    • 磐井いわいけんのうちりく中国ちゅうごく岩手いわてけん)、陸前りくぜんこく宮城みやぎけん
    • 足柄あしがらけんのうち相模さがみこく神奈川かながわけん)、伊豆いずこく静岡しずおかけん
  • 8がつ21にち
    • いわぜんけんのうち磐城いわきこく刈田かりたぐん伊具いぐぐん亘理わたりぐん宮城みやぎけん)、残部ざんぶ福島ふくしまけん
    • 筑摩つかまけんのうち信濃しなのこく長野ながのけん)、飛騨ひだこく岐阜ぎふけん
    • 敦賀つるがけんのうち若狭わかさこくおよび越前えちぜんこく敦賀つるがぐん滋賀しがけん)、残部ざんぶ石川いしかわけん
    • 豊岡とよおかけんのうち丹後たんごこくおよび丹波たんばこく天田あまだぐん京都きょうと)、但馬たじまこくおよび丹波たんばこく氷上ひかみぐん多紀たきぐん兵庫ひょうごけん
    • 三潴みずまけんのうち筑後ちくごこく福岡ふくおかけん)、肥前ひぜんこく長崎ながさきけん

分立ぶんりつ

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  • 8がつ21にち - 熊谷くまがやけんのうち上野うえのこく群馬ぐんまけん

境界きょうかい変更へんこう

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  • 4がつ18にち - 宮城みやぎけんのうち磐城いわきこくいわぜんけん)、岡山おかやまけんのうち備後びんごこく広島ひろしまけん
  • 5月24にち - 三潴みずまけんのうち肥前ひぜんこく杵島きしまぐんおよび松浦まつうらぐん一部いちぶ[注釈ちゅうしゃく 3]長崎ながさきけん
  • 5月25にち - 青森あおもりけんのうち陸奥みちのくこく二戸ふたどぐん宮城みやぎけんのうち陸前りくぜんこく気仙けせんぐん岩手いわてけん
  • 6月21にち - 三潴みずまけんのうち肥前ひぜんこく藤津ふじつぐん長崎ながさきけん
  • 8がつ21にち - 栃木とちぎけんのうち上野うえのこく群馬ぐんまけん)、千葉ちばけんのうち下総しもふさこく葛飾かつしかぐん一部いちぶ[注釈ちゅうしゃく 4]埼玉さいたまけん)、名東めいとうけんのうち淡路あわじこく兵庫ひょうごけん)、福岡ふくおかけんのうち豊前ぶぜんこく下毛しもげぐん中津なかつぐん大分おおいたけん

だい2府県ふけん統合とうごう以降いこう異動いどう

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徳島とくしまはん越前えちぜんはん鳥取とっとりはん佐賀さがはん高松たかまつはんなど、けん編入へんにゅうされた旧藩きゅうはん領地りょうちでの独立どくりつ運動うんどうによる分立ぶんりつ、また大阪おおさか奈良ならけん石川いしかわけん富山とやまけんなど道路どうろ建設けんせつ水害すいがい対策たいさくのいずれに予算よさん優先ゆうせんてき配分はいぶんするかをめぐっての対立たいりつによる分立ぶんりつおおい。

編入へんにゅう

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  • 明治めいじ14ねん(1881ねん)2がつ7にち - さかいけん大阪おおさか

分立ぶんりつ

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  • 明治めいじ13ねん1880ねん3月2にち - 高知こうちけんのうち阿波あわこく徳島とくしまけん
  • 明治めいじ14ねん1881ねん
    • 2がつ7にち - 石川いしかわけんのうち越前えちぜんこく福井ふくいけん
    • 9月12にち - 島根しまねけんのうち因幡いなばこく伯耆ほうきこく鳥取とっとりけん
  • 明治めいじ16ねん1883ねん5月9にち - 石川いしかわけんのうちえつ中国ちゅうごく富山とやまけん)、長崎ながさきけんのうち肥前ひぜんこく藤津ふじつぐん杵島きしまぐん佐賀さがぐん神埼かんざきぐん三根みつねぐん養父やぶぐんもと肄郡および松浦まつうらぐん一部いちぶ[注釈ちゅうしゃく 3]佐賀さがけん)、鹿児島かごしまけんのうち日向ひなたこく[注釈ちゅうしゃく 5]宮崎みやざきけん
  • 明治めいじ20ねん1887ねん11月4にち - 大阪おおさかのうち大和やまとこく奈良ならけん)※大和やまとこく明治めいじ14ねんさかいけんから編入へんにゅう
  • 明治めいじ21ねん1888ねん12月3にち - 愛媛えひめけんのうち讃岐さぬきこく香川かがわけん

境界きょうかい変更へんこう

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その異動いどう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 藩札はんさつ最終さいしゅうてきには発行はっこうもとはんがその支払しはらいを保証ほしょうしたものであるから、そのはん債務さいむあつかいとなる。
  2. ^ 北相馬きたそうまぐん西にし葛飾かつしかぐん
  3. ^ a b 東松浦ひがしまつうらぐん西松浦にしまつうらぐん
  4. ^ ちゅう葛飾かつしかぐん
  5. ^ 一部いちぶみなみしょけんぐん)が鹿児島かごしまけんのこ

出典しゅってん

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  1. ^ 廃藩置県はいはんちけん”. 琉球りゅうきゅう文化ぶんかアーカイブ. 沖縄おきなわ県立けんりつ総合そうごう教育きょういくセンター. 2022ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  2. ^ 松尾まつお正人まさと、「廃藩置県はいはんちけん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p47
  3. ^ a b 松尾まつお正人まさと、「廃藩置県はいはんちけん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p152
  4. ^ 松尾まつお正人まさと、「廃藩置県はいはんちけん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p65
  5. ^ 勝田かつた政治せいじ、「廃藩置県はいはんちけん」、講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、p86
  6. ^ 松尾まつお正人まさと、「廃藩置県はいはんちけん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p143
  7. ^ 勝田かつた政治せいじ、「廃藩置県はいはんちけん」、講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、p133
  8. ^ 知事ちじ対談たいだん明治めいじささえた歴史れきしかたる。-紀州きしゅうじんのDNA-”. かず(nagomi). 和歌山わかやま県知事けんちじしつ広報こうほう. 2019ねん3がつ29にち閲覧えつらん
  9. ^ くに先人せんじんたち 政治せいじ 津田つだ いずる”. 和歌山わかやまけんふるさとアーカイブ. 和歌山わかやま文化ぶんか情報じょうほうアーカイブ事業じぎょう. 2019ねん3がつ29にち閲覧えつらん
  10. ^ 木村きむら時夫ときお、「明治めいじ初年しょねんにおける和歌山わかやまはん兵制へいせい改革かいかくについて」『早稻田わせだ人文じんぶん自然しぜん科學かがく研究けんきゅう』 1969ねん 4かん p.1-60, hdl:2065/10122, 早稲田大学わせだだいがく社会しゃかい科学かがく学会がっかい
  11. ^ 松尾まつお正人まさと、「廃藩置県はいはんちけん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p150
  12. ^ 松尾まつお正人まさと、「廃藩置県はいはんちけん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p151
  13. ^ 松尾まつお正人まさと、「廃藩置県はいはんちけん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p153
  14. ^ 松尾まつお正人まさと、「廃藩置県はいはんちけん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p155
  15. ^ 松尾まつお正人まさと、「廃藩置県はいはんちけん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p154
  16. ^ 勝田かつた政治せいじ、「廃藩置県はいはんちけん」、講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、p157
  17. ^ 中村なかむら定吉さだきち へん、「廢藩置縣はいはんちけんみことのり」『明治めいじ詔勅しょうちょく輯』、p18、1893ねん中村なかむら定吉さだきち[1]
  18. ^ 勝田かつた政治せいじ廃藩置県はいはんちけん 近代きんだい国家こっか誕生たんじょう舞台裏ぶたいうら角川かどかわソフィア文庫ぶんこ [I-123-1] ISBN 978-4044092153、10-11p
  19. ^ 落合おちあい弘樹ひろき、「秩禄処分しょぶん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p74
  20. ^ 勝田かつた政治せいじ、「廃藩置県はいはんちけん」、講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、p165
  21. ^ 松尾まつお正人まさと、「廃藩置県はいはんちけん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p82
  22. ^ 落合おちあい弘樹ひろき、「秩禄処分しょぶん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p55
  23. ^ 富田とみたしゅんもと、「国債こくさい歴史れきし」、東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ、p211
  24. ^ 落合おちあい弘樹ひろき、「秩禄処分しょぶん」、中公新書ちゅうこうしんしょ、p71
  25. ^ 富田とみたしゅんもと、「国債こくさい歴史れきし」、東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ、p212
  26. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ通番つうばん 明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこく だい559
  27. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ通番つうばん 明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこく だい565
  28. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ通番つうばん 明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこく だい566
  29. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ通番つうばん 明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこく だい594
  30. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ通番つうばん 明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこく だい595
  31. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ通番つうばん 明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこく だい600
  32. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ通番つうばん 明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこく だい601
  33. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ通番つうばん 明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこく だい602
  34. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ通番つうばん 明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこく だい608
  35. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ通番つうばん 明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこく だい609
  36. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ通番つうばん 明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこく だい614
  37. ^ 1879ねん3がつ27にち沖縄おきなわけん」の設置せっち”. あの沖縄おきなわ. 沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん. 2022ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  38. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ明治めいじ12ねん 太政官だじょうかん布告ふこくだい14ごう

参考さんこう文献ぶんけん関連かんれん書籍しょせき

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  • 勝田かつた政治せいじ廃藩置県はいはんちけん 近代きんだい国家こっか誕生たんじょう舞台裏ぶたいうら』( 角川かどかわソフィア文庫ぶんこ、2014ねんISBN 978-4044092153
  • 松尾まつお正人まさと廃藩置県はいはんちけん近代きんだい統一とういつ国家こっかへの苦悶くもん―』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1986ねんISBN 978-4121008053
  • 丹羽にわ邦男くにお地租ちそ改正かいせいほう起源きげん開明かいめい官僚かんりょう形成けいせい』(ミネルみねるァ書房ぁしょぼう1995ねんISBN 4623025101
  • 福地ふくちあつし明治めいじしん政権せいけん権力けんりょく構造こうぞう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん1996ねんISBN 4642036628
  • 石井いしいたかし明治維新めいじいしん自由じゆう民権みんけん』(有隣堂ゆうりんどう1993ねんISBN 4896601157

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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