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大山おおやまつなりょう

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大山おおやま つなりょう
大山おおやまつなりょう
生年月日せいねんがっぴ 1825ねん12月15にち
出生しゅっしょう 薩摩さつまこく鹿児島かごしま
ぼつ年月日ねんがっぴ (1877-09-30) 1877ねん9月30にち(51さいぼつ
死没しぼつ 長崎ながさきけん長崎ながさき
ぜんしょく 薩摩さつま藩士はんし

在任ざいにん期間きかん 1871ねん11月14にち - 1877ねん3月21にち
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大山おおやま つなりょう(おおやま つなよし、文政ぶんせい8ねん11月6にち1825ねん12月15にち) - 明治めいじ10ねん1877ねん9月30にち)は、日本にっぽん武士ぶし薩摩さつまはん)、政治せいじ初代しょだい鹿児島かごしま県令けんれいつとめたが、西南せいなん戦争せんそうとき西郷さいごう隆盛たかもりかた援助えんじょしたため逮捕たいほされ、戦後せんご処刑しょけいされた。

略歴りゃくれき

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文政ぶんせい8ねん(1825ねん)、樺山かばやま善助ぜんすけ次男じなんとして鹿児島かごしままれる。幼名ようみょう熊次郎くまじろう

よしみひさし2ねん1849ねん)12月26にち大山おおやま四郎しろうすけ婿養子むこようしとなる。通称つうしょうせいえんすみみぎ衛門えもんかくすけ大山おおやま本姓ほんせい宇多うたはじめで、養子ようしさき家伝かでんでは佐々木ささきもりつな子孫しそんであるかんつな後裔こうえいしょうするが明確めいかくではない。

西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ利通としみちらとともにせいちゅうぐみ所属しょぞく島津しまつ久光ひさみつ上洛じょうらく随行ずいこうし、文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)の寺田てらだ騒動そうどうでは、奈良原ならはら喜八郎きはちろうらとともに過激かげき藩士はんし粛清しゅくせいくわわり、事件じけん中心ちゅうしんてき役割やくわりたした。とく寺田てらだ2かいには大山おおやまいわお西郷さいごう従道つぐみち三島みしま通庸みちつねらがいたが、みな説得せっとくおこなった結果けっか投降とうこうさせることに成功せいこうした。

明治めいじ元年がんねん1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそうでは、奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくしも参謀さんぼうになった(もう一人ひとりしも参謀さんぼう仙台せんだいはん処刑しょけいされた長州ちょうしゅう藩士はんし世良せら修蔵しゅうぞう)。大山おおやまひきいるしん政府せいふぐん秋田あきた戦争せんそうにおいて、庄内しょうないはん反撃はんげきにあい連戦れんせん連敗れんぱいきっするが、戦後せんごしん政府せいふからしょうてんろく800せきけた。

長州ちょうしゅうはんだいらく源太郎げんたろう反乱はんらんこして敗走はいそうし、再起さいきのために日田ひた県庁けんちょうおそったときにはしん政府せいふいのちけて討伐とうばつぐん司令しれいかんとして鹿児島かごしまから派遣はけんされながら現地げんち到着とうちゃく独断どくだんぐん解散かいさんめいじて木戸きど孝允たかよしらのいかりをい、西郷さいごう隆盛たかもりびるさわぎとなっている。

しん政府せいふでは廃藩置県はいはんちけんのち鹿児島かごしまけんだい参事さんじけんれい県令けんれい)となる。だが、これはきゅうはんしんけん関係かんけいつために、あたらしい府県ふけん幹部かんぶには他府県たふけん出身しゅっしんしゃをもっててるとした廃藩置県はいはんちけん原則げんそくはんする特例とくれい措置そちであった。大山おおやま島津しまつ久光ひさみつけて西郷さいごうらを批判ひはんした。

楊洲周延しゅうえん大山おおやまつなりょう糾問きゅうもん

明治めいじ6ねん1873ねん)にせいかんろんそうから発展はってんした政変せいへん西郷さいごうらがしん政府せいふ辞職じしょくして鹿児島かごしま帰郷ききょうすると、わたし学校がっこう設立せつりつなどを援助えんじょして西郷さいごうささえた。その大山おおやま県令けんれいつとめる鹿児島かごしまけんしん政府せいふ租税そぜいおさめず、その一方いっぽうわたし学校がっこうとうけん官吏かんりてて、鹿児島かごしまけんはあたかも独立どくりつ国家こっか様相ようそうていした。明治めいじ10ねん(1877ねん)に鹿児島かごしま西郷さいごうらが挙兵きょへいした西南せいなん戦争せんそうでは官金かんきん西郷さいごうぐん提供ていきょうし、そのつみわれて逮捕たいほされ東京とうきょう送還そうかんされる。西郷さいごうぐん敗北はいぼく長崎ながさき斬首ざんしゅされた。享年きょうねん53。

墓所はかしょ鹿児島かごしまけん鹿児島かごしまみなみしゅう墓地ぼち

人物じんぶつ

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けん達人たつじん

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  • 大山おおやま薬丸やくまる兼武かねたけおよ兼義かねよし薬丸やくまるあらわりゅう剣術けんじゅつまなんだ。薬丸やくまる門下もんか高弟こうていちゅう高弟こうていであり、奥伝おくでんである小太刀こだちきわめ、飛鳥ひちょうのようにびかかって相手あいてたおしたという。藩中はんちゅう随一ずいいち使つかといわれた。
  • 江戸えどにてかたなもちいた大道芸だいどうげいじん見物けんぶつしていたところ、大山おおやま手練しゅれんであることを見抜みぬいた直心ひたごころかげりゅう長沼ながぬまえみ兵衛ひょうえまこときょう道場どうじょうまねかれた。長沼ながぬま要請ようせい大山おおやま師範代しはんだいうことになった。防具ぼうぐをつけた師範代しはんだいたいし、大山おおやま素面しらふもと小手こて木刀ぼくとう一本いっぽんって立会たちあいにのぞみ、がるやいないちげきたおした。さらに薬丸やくまるりゅうわざであるまわりをせると、長沼ながぬま大変たいへん感激かんげきしたという
  • 西郷さいごう隆盛たかもりとともに藤田ふじた東湖とうこったときのこと。西郷さいごう大山おおやまけん達人たつじんであると紹介しょうかいした。神道しんとう無念むねんりゅう門下もんかであった藤田ふじた斡旋あっせん斎藤さいとうわたる九郎くろう道場どうじょう塾頭じゅくとう試合しあいをすることになった。大山おおやまれいによって素面しらふもと小手こて小太刀こだちいちほんったのみであった。たいして塾頭じゅくとう防具ぼうぐ竹刀しないのぞむ。大山おおやまがるやいな塾頭じゅくとうんだ。そこで塾頭じゅくとうはあまりみがはやいのでもう一度いちど試合しあいをしてくれとったが、大山おおやまはこの道場どうじょうでは亡者もうじゃ試合しあいをするのかとあざわらった。
  • 槍術そうじゅつ達人たつじんといわれた有村ありむら俊斎しゅんさい鹿児島かごしま城下じょうか次々つぎつぎ道場破どうじょうやぶりをおこない、最後さいご薬丸やくまるにやってきた。薬丸やくまるわって大山おおやま試合しあいおうじ、大山おおやま勝利しょうり有村ありむら再戦さいせん甲突川こうつきがわみずなかやりとっきの修行しゅぎょうをし、3ねんふたたびやってきた。再度さいど大山おおやま立会たちあうが、やはり大山おおやま勝利しょうりわった。有村ありむら観念かんねん薬丸やくまる入門にゅうもん。しかし有村ありむら海江田かいえだ信義のぶよし回顧かいこでは薬丸やくまるなかば左衛門さえもん兼義かねよし)に入門にゅうもんしたのは15さいときとなっている。
  • どう時代じだい薩摩さつまはん太刀たちりゅう剣術けんじゅつ師範しはん大山おおやまかくみぎ衛門えもんとは別人べつじんである。また、大山おおやまいわおとも血縁けつえん関係かんけいはない。『元帥げんすい公爵こうしゃく大山おおやまいわお』では明治めいじ大山おおやま成美まさみ混同こんどうされ、つなりょういわおあにであるというあやませつながれたといい、同書どうしょでこのせつ否定ひていしている。

大山おおやまつなりょうあたえた影響えいきょう

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つなりょう県令けんれいときに、県庁けんちょう保存ほぞんされていた薩摩さつまはん時代じだい公文書こうぶんしょを「旧弊きゅうへいけないから」との理由りゆう焼却しょうきゃくしてしまう。この事件じけん江戸えど時代じだい火事かじ西南せいなん戦争せんそうとともに薩摩さつまはん歴史れきし研究けんきゅう弊害へいがいあたえたことが「鹿児島かごしまけん史料しりょう 島津しまつひとしせんひとしきょうこう史料しりょうしゅう」の序章じょしょうべられている。

評価ひょうか

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  • 大隈おおくま重信しげのぶ温和おんわ人物じんぶつで、度量どりょうひろく、よくひとれること出来できた。それだから破壊はかいてきことこのまず、明治めいじきゅうねんすえまでもただ平和へいわ時局じきょくおさめようとのみかってたんであったが、西郷さいごうらんときおりしく鹿児島かごしまけんれいたばかりに、とうとう徒党ととうなかまれて非命ひめい最期さいごげたのは、如何いかにも残念ざんねんことだった。薩摩さつまでは余程よほど傑出けっしゅつした人物じんぶつだった」[1]

親族しんぞく家族かぞく

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  • 実父じっぷ樺山かばやま善助ぜんすけけん 
  • 実母じつぼ山下やましたむすめ
  • 兄弟きょうだい樺山かばやま弥兵衛やへえとみげん鹿児島かごしま上之園うえのそのまち13ばんがい)、あね3にん
  • 養父ようふ大山おおやま四郎しろうすけいみなおよ両親りょうしんしょう安政あんせい4ねん3がつ26にち死去しきょ
  • 養母ようぼ図師ずしさき良助りょうすけ大島おおしま代官だいかん松山郷まつやまごう地頭じとうつとめる)のむすめ
  • つまさわ大山おおやま四郎しろうすけ長女ちょうじょ
  • 子女しじょ:2なん4じょ
    • 長女ちょうじょ樺山かばやま志奈しな大正たいしょう13ねん7がつ22にち死去しきょ 享年きょうねん74)
    • 次女じじょ:ふき
    • 長男ちょうなん彦太郎ひこたろう〈3さい夭折ようせつ
    • さんじょ:とめ
    • よんじょ:よし
    • 次男じなんかくすけ

官位かんいおよ栄典えいてん履歴りれき

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関連かんれん作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 早稲田わせだきよしばなし』P277
  2. ^ 百官ひゃっかん履歴りれき上巻じょうかん修史しゅうしきょくへん日本にっぽん史籍しせき協会きょうかい、1927-1928
  3. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.40

参考さんこう文献ぶんけん

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  • かおるそくせい鹿児島かごしま史話しわ
  • 樺山かばやま墓碑ぼひ
  • しおまん郁夫いくお友野ともの春久はるひさ へん鹿児島かごしま城下じょうか絵図えず散歩さんぽ高城たかぎ書房しょぼう、2004ねん12月1にち初版しょはん