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入間いるまけん

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川越かわごえけんから転送てんそう

入間いるまけん(いるまけん)は、廃藩置県はいはんちけん府県ふけんせい整備せいび過程かていにおいて武蔵むさしこく北西ほくせい領域りょういきとして設置せっちされたけんである。1871ねん明治めいじ4ねん旧暦きゅうれき11月に設置せっちされ、1873ねん明治めいじ6ねん)6がつ群馬ぐんまけん統合とうごうされて熊谷くまがやけんとなり、廃止はいしされた。おおむね、現在げんざい埼玉さいたまけん西部せいぶ該当がいとうする。

概要がいよう

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江戸城えどじょう開城かいじょうにより明治めいじ政府せいふ権力けんりょく基盤きばん確立かくりつされるなかで、はんけんさんせい成立せいりつし、いで1871ねん明治めいじ4ねん旧暦きゅうれき4がつ廃藩置県はいはんちけんおこなわれると、現在げんざい埼玉さいたま県域けんいきには、21のけん存在そんざいすることとなった。その日本にっぽん全国ぜんこくけん統合とうごうすすむのにわせ、同年どうねん4がつには現在げんざい埼玉さいたま県域けんいきには入間いるまけん埼玉さいたまけんの2けん誕生たんじょうした。入間いるまけん県庁けんちょうは、川越かわごえにおかれた。

そのけん統廃合とうはいごう再編さいへんすすめられるなかで、やく1ねんはん1873ねん明治めいじ6ねん)6がつ入間いるまけん群馬ぐんまけん統合とうごうして熊谷くまがやけんとなり、きゅう入間いるま県内けんない熊谷くまがい県庁けんちょうかれた。さらにやく3ねん1876ねん明治めいじ9ねん)8がつには、熊谷くまがやけんのうちきゅう入間いるまけん領域りょういき埼玉さいたまけん統合とうごうされ、現在げんざい埼玉さいたまけん誕生たんじょうした[1]

入間いるまけんと(きゅう埼玉さいたまけん

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入間いるまけんと(きゅう埼玉さいたまけん並立へいりつしていた1872ねん~1873ねんごろにおいて、埼玉さいたまけん町村ちょうそんすう974、戸数こすう78,512、人口じんこう430,379にたいし、入間いるまけん町村ちょうそんすう1,019、戸数こすう81,853、人口じんこう410,952であり[2]、また石高いしたかではそれぞれ埼玉さいたまけん48まんせき入間いるまけん40まんせき[3]と、入間いるま埼玉さいたまりょうけんはほぼどう程度ていど規模きぼゆうしていた。その一方いっぽう面積めんせき入間いるまけんほうおおきく、だいせい導入どうにゅうされるときゅう埼玉さいたまけんの24(のちに25)にたいして、入間いるまけんには11だい94しょう設置せっちされた。

きゅう入間いるまけん埼玉さいたまけん編入へんにゅうされたのち1884ねん明治めいじ17ねん)、秩父ちちぶ事件じけんきると、事件じけん発生はっせいから県庁けんちょうのある浦和うらわまちとおかったことが対応たいおうおくれの一因いちいんであるとして、1887ねん明治めいじ20ねん3がつ10日とおか埼玉さいたま県知事けんちじ前年ぜんねん県令けんれいから名称めいしょう変更へんこう)は内務ないむ大臣だいじん熊谷くまがいへの県庁けんちょう移転いてん内申ないしんした。12月には県庁けんちょう移転いてんもとめる運動うんどう熊谷くまがいなどきゅう入間いるまけん発生はっせいしたが、1890ねん明治めいじ23ねん9月25にちみことのりれいによって、浦和うらわまち正式せいしき県庁けんちょう所在地しょざいちとされた。

しかし7ねん1897ねん明治めいじ30ねん)、府県ふけんせい実施じっしうつされ自治体じちたいとしての埼玉さいたまけん確立かくりつし、はつ埼玉さいたまけん会議かいぎいん選挙せんきょおこなわれることとなると、だい規模きぼ県庁けんちょう移転いてん運動うんどう再燃さいねんする。そして12月25にち県庁けんちょうきゅう入間いるまけん熊谷くまがい移転いてんする建議けんぎけんかい可決かけつされる。しかし、これは内務省ないむしょうに「不可ふか」として却下きゃっかされた。

埼玉さいたまけん県庁けんちょう所在地しょざいちである浦和うらわは、江戸えど時代じだいには中山道なかせんどう宿場しゅくばまちの1つであるが比較的ひかくてき小規模しょうきぼであったこともあり、昭和しょうわ初期しょきまでは、もと城下町じょうかまちであった川越かわごし熊谷くまがやけん県庁けんちょう所在地しょざいちであった熊谷くまがいなどのきゅう入間いるま県内けんない都市としが、埼玉さいたま県内けんないでは人口じんこうおお都市としであり、埼玉さいたま県内けんない最初さいしょ市制しせい施行しこうされたのは川越かわごしであった。しかし、関東大震災かんとうだいしんさいにて東京とうきょう甚大じんだい被害ひがいけたことや、東北本線とうほくほんせん電車でんしゃせん開通かいつうなどを契機けいきとして、鋳物いもの工業こうぎょう集積しゅうせきすすんだ川口かわぐちや、東京とうきょうベッドタウンとして人口じんこう流入りゅうにゅうけた浦和うらわ大宮おおみやなど、きゅう埼玉さいたまけん南部なんぶ都市とし拡大かくだい本格ほんかくすると、やがてこれらの都市とし人口じんこう川越かわごし熊谷くまがい上回うわまわるようになり、戦後せんご高度こうど経済けいざい成長せいちょうにはそのがさらに拡大かくだいした。なお、浦和うらわ大宮おおみや与野よの2001ねん平成へいせい13ねん)に合併がっぺい県内けんない唯一ゆいいつ100まん都市としであるさいたまとなり、川口かわぐち人口じんこう50まんにん突破とっぱしたのち2011ねん平成へいせい23ねん)に鳩ヶ谷はとがや合併がっぺいしている。これにたいし、きゅう入間いるま県域けんいきには川越かわごし秩父ちちぶにかつての栄華えいがしのばせる町並まちなみや祭事さいじなど有形ゆうけい無形むけい文化ぶんか遺産いさんおおのこり、埼玉さいたまけん代表だいひょうする主要しゅよう観光かんこうとなっている。

終戦しゅうせん直後ちょくご1948ねん昭和しょうわ23ねん10月25にち県庁けんちょう職員しょくいん放火ほうかにより浦和うらわけん庁舎ちょうしゃだい部分ぶぶん焼失しょうしつすると、その3にちのうちに大宮おおみや熊谷くまがい県庁けんちょう誘致ゆうちはげしい誘致ゆうち合戦かっせんこった。とく大宮おおみや1950ねん昭和しょうわ25ねん)の「県庁けんちょう復興ふっこう対策たいさく特別とくべつ委員いいんかい」の決選けっせん投票とうひょうまで浦和うらわあらそった。 明治めいじ4ねん太政官だじょうかんたち正式せいしき県庁けんちょうとされた岩槻いわつきは、2005ねん平成へいせい17ねん4がつ1にちにさいたま編入へんにゅうされるまで、いち県庁けんちょう所在地しょざいちになることはなかった。

純粋じゅんすい公選こうせんとなった戦後せんご埼玉さいたま県知事けんちじでも、大沢おおさわ雄一ゆういち葛飾かつしかぐん)、栗原くりはらひろし埼玉さいたまぐん)、はたかず埼玉さいたまぐん)、土屋つちや義彦よしひこ埼玉さいたまぐん)とつづき、上田うえだ清司せいじ志木しき)を唯一ゆいいつ例外れいがいとして、東部とうぶきゅう埼玉さいたまけん生地きじ居住きょじゅうとする知事ちじつづいた。

荒川あらかわさかい埼玉さいたまけん東西とうざいでは文化ぶんかけんことなり、鉄道てつどうという公共こうきょう交通こうつうという観点かんてんからみても、きゅう入間いるま県域けんいき私鉄してつ東武とうぶ東上とうじょうせん西武せいぶ池袋いけぶくろせん、ならびに西武新宿線せいぶしんじゅくせん沿線えんせん中心ちゅうしんであり、JR京浜東北線けいひんとうほくせん埼京線さいきょうせん沿線えんせんきゅう埼玉さいたま県域けんいきとはかなりおもむきことなっている。

沿革えんかく

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後年作成された1872年(明治4年)旧12月の行政区画地図における入間県
後年こうねん作成さくせいされた1872ねん明治めいじ4ねんきゅう12がつ行政ぎょうせい区画くかく地図ちずにおける入間いるまけん

管轄かんかつ地域ちいき

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歴代れきだい知事ちじ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 県民けんみん100ねん11 埼玉さいたまけんひゃくねん』19~20ぺーじ
  2. ^ 県民けんみん100ねん11 埼玉さいたまけんひゃくねん』19ぺーじ
  3. ^ 埼玉さいたまけん歴史れきし』257ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 小山こやま博也ひろや池田いけだしん高崎たかさき譲治じょうじ根岸ねぎしさとし栗田くりた尚弥なおや県民けんみん100ねん11 埼玉さいたまけんひゃくねん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1990ねん
  • 田代たしろおさむ塩野しおのひろし重田しげた正夫まさお森田もりたたけし埼玉さいたまけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1999ねん

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
川越かわごえけんなど
行政ぎょうせい変遷へんせん
1871ねん - 1873ねん
次代じだい
熊谷くまがやけん
神奈川かながわけん多摩たまぐん