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与野よの

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
よのし
与野よの
与野公園
与野よのはた 与野よのあきら
廃止はいし 2001ねん5月1にち
廃止はいし理由りゆう 新設しんせつ合併がっぺい
与野よの浦和うらわ大宮おおみやさいたま
現在げんざい自治体じちたい さいたま
廃止はいし時点じてんのデータ
くに 日本の旗 日本にっぽん
地方ちほう 関東かんとう地方ちほう
都道府県とどうふけん 埼玉さいたまけん
市町村しちょうそんコード 11220-8
面積めんせき 8.29km2
そう人口じんこう 83,620ひと
推計すいけい人口じんこう、2001ねん4がつ1にち
隣接りんせつ自治体じちたい 浦和うらわ大宮おおみや
カヤ
はな サクラ
市民しみんはな バラ
与野よの市役所しやくしょ
所在地しょざいち 338-8686
埼玉さいたまけん与野よの下落合しもおちあい5丁目ちょうめ7ばん10ごう
外部がいぶリンク 与野よの(Internet Archive)
座標ざひょう 北緯ほくい3553ふん02びょう 東経とうけい13937ふん34びょう / 北緯ほくい35.88397 東経とうけい139.62617 / 35.88397; 139.62617座標ざひょう: 北緯ほくい3553ふん02びょう 東経とうけい13937ふん34びょう / 北緯ほくい35.88397 東経とうけい139.62617 / 35.88397; 139.62617
与野市の位置
ウィキプロジェクト

与野よの(よのし)は、埼玉さいたまけん南部なんぶ1958ねん昭和しょうわ33ねん7がつ15にちから2001ねん平成へいせい13ねん4がつ30にちまで存在そんざいした以降いこう市域しいきさいたまぞくしている。

2001ねん5月1にち浦和うらわ大宮おおみや新設しんせつ合併がっぺいおこない、さいたま誕生たんじょうしたことにより消滅しょうめつした。2003ねん平成へいせい15ねん4がつ1にち、さいたま政令せいれい指定してい都市としへの移行いこうともない、きゅう与野よの全域ぜんいき中央ちゅうおう中核ちゅうかくとなった。

市制しせい施行しこうまえ与野よのまちまでは北足立きたあだちぐんぞくした。与野よの時代じだい市民しみん通勤つうきんさきは、東京とうきょう特別とくべつへ35.3%、浦和うらわへ13.4%、大宮おおみやへ9.1%(いずれも平成へいせい12ねん国勢調査こくせいちょうさ)の比率ひりつだった。

地理ちり

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埼玉さいたまけん南東なんとう位置いちした市域しいきは、現在げんざいさいたま中央ちゅうおう区域くいきにほぼ一致いっちする。ただし、さいたま政令せいれい指定してい都市とし移行いこうにあたって行政ぎょうせい設定せっていする過程かていで、きゅう与野よの浦和うらわ大宮おおみやの3にまたがっていた「さいたま新都しんとこころ土地とち区画くかく整理せいり事業じぎょう区域くいき西側にしがわ地区ちくさいたま新都しんとこころのうち東北本線とうほくほんせん以西いせい地域ちいき)」を一体いったいてき中央ちゅうおう編入へんにゅうすることとなった経緯けいいから[1]きゅう与野よの市域しいき現在げんざい中央ちゅうおうの8.39 km2よりもわずかにせまい8.29 km2であった。

人口じんこう

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2001ねん4がつ1にち人口じんこう83,620にんであった。中央ちゅうおうになったのち漸増ぜんぞうし、2005ねんには9まんにんえ、2018ねんに10まんにん突破とっぱした。

歴史れきし

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与野よの」の地名ちめいは、鎌倉かまくら時代ときよすえ1314ねん正和しょうわ3ねん)に成立せいりつした「融通ゆうずう念仏ねんぶつ縁起えんぎ絵巻えまき」のせいよしみ疫癘えきれいだんに「武蔵むさしこく与野よのきょう」とあるのがはつとされる[2]

きゅう与野よの市域しいき中心ちゅうしんげん中央ちゅうおう本町東ほんまちひがし本町西ほんまちにしのそれぞれ一部いちぶ)は町村ちょうそんせい施行しこう以前いぜんからの与野よのまちであり、通称つうしょう与野本町よのほんまちばれる。この地区ちくふるくは鎌倉かまくら街道かいどう上道じょうとう中道ちゅうどうとをむす羽根はねくらみちうえ位置いち[注釈ちゅうしゃく 1]室町むろまち時代じだいから市場いちばまちとしてさかえた。江戸えど時代じだいには、甲州こうしゅう街道かいどうにち野宿のじゅく中山道なかせんどう奥州おうしゅう街道かいどうとをむすわき往還おうかん人馬じんば継立つぎたてじょうとして[注釈ちゅうしゃく 1]、また中山道なかせんどう浦和うらわ宿やど川越かわごえむす川越かわごえ浦和うらわどう経由けいゆとして江戸えど周辺しゅうへん地域ちいきからの商品しょうひん物資ぶっし集散しゅうさんとしての機能きのうゆうしていた[4]幕末ばくまつ文化ぶんか文政ぶんせい1804ねん1830ねん与野よの宿やどは、大宮おおみや宿やど浦和うらわ宿やどよりも家数やかずおおかったとされており、また1887ねん明治めいじ20ねん作成さくせい推定すいていされる記録きろくでも、浦和うらわまち人口じんこう3,524にん大宮おおみやまち人口じんこう2,860にんたいし、与野よのまち人口じんこうは3,877にんであり、これら2まち上回うわまわ人口じんこうゆうしていた[5]

浦和うらわ大宮おおみやとの関係かんけい

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近代きんだい初期しょきには与野よの宿やど近隣きんりん浦和うらわ宿やど大宮おおみや宿やどえる繁栄はんえいせ、当時とうじ大宮おおみや住人じゅうにんは「おおきなもの与野よのでする」などとわれた時代じだいもある[いつ?]。しかしのち県庁けんちょう所在地しょざいち文教ぶんきょう都市としとして発展はってんした浦和うらわまち(→浦和うらわ)や鉄道てつどう結節けっせつてんとして発展はってんした大宮おおみやまち(→大宮おおみや)が周囲しゅうい町村ちょうそん合併がっぺいしつつ拡大かくだいする一方いっぽうで、きゅう与野よの両市りょうしはさまれつつながらく単一たんいつ自治体じちたいとして独立どくりつたもったものの、きゅう浦和うらわきゅう大宮おおみやよりも面積めんせき人口じんこう経済けいざいりょくなどでおとっていたため、与野よの浦和うらわ大宮おおみやほどの知名度ちめいどはなかった。

それきゅう与野よの所在しょざいしながら「浦和うらわ」や「大宮おおみや」という地名ちめいしょうしていた機関きかんは、民間みんかん企業きぎょうだけではなく官公庁かんこうちょうふく存在そんざいしていた。具体ぐたいてきには、浦和うらわ西にし警察けいさつしょきゅう浦和うらわではなくきゅう与野よのにあり、きゅう大宮おおみや赤十字せきじゅうじ病院びょういんげんさいたま赤十字せきじゅうじ病院びょういん)はきゅう大宮おおみやではなくきゅう与野よのにあった。また京浜東北線けいひんとうほくせん与野よのえききゅう与野よのではなく、きゅう浦和うらわにあった。

そのような背景はいけいもあって、さいたま発足ほっそくまえ与野よの市役所しやくしょ庁舎ちょうしゃげん・さいたま中央ちゅうおう区役所くやくしょ庁舎ちょうしゃ壁面へきめんには、埼京線さいきょうせん車窓しゃそうからえるようにけられた「ここは与野よのです」というおおきな看板かんばんかかげられていた。

沿革えんかく

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本社ほんしゃおも企業きぎょう

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行政ぎょうせい

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歴代れきだい首長しゅちょう与野よの町長ちょうちょう

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だい 氏名しめい 就任しゅうにん年月日ねんがっぴ 退任たいにん年月日ねんがっぴ 備考びこう
はつ 福島ふくしまきむ英太郎えいたろう 1899ねん6がつ20日はつか 1910ねん3がつ31にち 1
2 井原いはら弥四郎やしろう 1910ねん5がつ25にち 1914ねん5がつ22にち 1
3 井原いはら義助よしすけ 1914ねん11月9にち 1920ねん3がつ16にち 1
4 井原いはらさだあきら 1920ねん4がつ12にち 1924ねん4がつ11にち 1
5 井原いはら義助よしすけ 1924ねん12月24にち 1928ねん12月23にち 1通算つうさん2
6 渡辺わたなべつな 1929ねん4がつ6にち 1933ねん4がつ15にち 1
7 井原いはらさだあきら 1933ねん5がつ30にち 1937ねん5がつ29にち 1通算つうさん2
8 渡辺わたなべつな 1937ねん5がつ30にち 1939ねん1がつ28にち 1通算つうさん2
9 井原いはら義助よしすけ 1939ねん4がつ26にち 1944ねん4がつ23にち 1通算つうさん3
10 井原いはら和一かずいち 1944ねん5がつ1にち 1946ねん11月6にち 1
11 茂木もき喜之よしゆき 1947ねん4がつ15にち 1951ねん3がつ30にち 1当代とうだい以降いこう公選こうせんせい選出せんしゅつ
12 中村なかむら弥太郎やたろう 1951ねん4がつ23にち 1953ねん6がつ23にち 1
13 かしわ房吉ふさきち 1953ねん8がつ3にち 1955ねん4がつ30にち 1
14 茂木もき喜之よしゆき 1955ねん5がつ1にち 1958ねん7がつ14にち 1通算つうさん2)・1958ねん7がつ15にち-1959ねん4がつ30にちまで与野よの市長しちょうとして1在任ざいにん通算つうさん3

歴代れきだい首長しゅちょう与野よの市長しちょう

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だい 氏名しめい 就任しゅうにん年月日ねんがっぴ 退任たいにん年月日ねんがっぴ 備考びこう
はつ 茂木もき喜之よしゆき 1958ねん7がつ15にち 1959ねん4がつ30にち 1・1947ねん4がつ15にち-1951ねん3がつ30にち
および1955ねん5がつ1にち-1958ねん7がつ14にちまで通算つうさん2与野よの町長ちょうちょうとして在任ざいにん通算つうさん3
2 白鳥しらとり三郎さぶろう 1959ねん5月1にち 1963ねん4がつ30にち 1
3 1963ねん5がつ1にち 1967ねん4がつ30にち 2
4 1967ねん5がつ1にち 1971ねん4がつ30にち 3
5 1971ねん5がつ1にち 1975ねん4がつ30にち 4
6 1975ねん5がつ1にち 1979ねん4がつ30にち 5
7 1979ねん5がつ1にち 1983ねん4がつ30にち 6
8 井原いはらいさむ 1983ねん5がつ1にち 1987ねん4がつ30にち 1
9 1987ねん5がつ1にち 1991ねん4がつ30にち 2
10 1991ねん5がつ1にち 1995ねん4がつ30にち 3
11 1995ねん5がつ1にち 1999ねん4がつ30にち 4
12 1999ねん5がつ1にち 2001ねん4がつ30にち 5合併がっぺいによるさいたま設置せっちともな失職しっしょく
2001ねん5がつ1にち-2001ねん5がつ26にちまでさいたま市長しちょう職務しょくむ執行しっこうしゃとして在任ざいにん

交通こうつう

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おも学校がっこう

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提携ていけい都市とし

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出身しゅっしん著名ちょめいじん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ a b 當所とうしょ相模さがみ甲斐がいこくヨリ陸奥みちのくこくヘノ往來おうらいニシテ人馬じんば宿やどつとむム此道ハいにしえ鎌倉かまくら海道かいどうナリトうん」『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう[3]

出典しゅってん

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  1. ^ さいたま行政ぎょうせい区画くかく審議しんぎかい答申とうしん行政ぎょうせい区画くかく編成へんせいおよ区役所くやくしょ位置いち Archived 2012ねん7がつ22にち, at Archive.is
  2. ^ 与野よの 通史つうしへん上巻じょうかん」p245.
  3. ^ 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう 與野よのまち.
  4. ^ 与野よの 通史つうしへん上巻じょうかん」p507.
  5. ^ 地図ちずるさいたま変遷へんせん」pp20-21.
  6. ^ 地図ちずるさいたま変遷へんせん」p20.
  7. ^ a b c d e f g 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 11 埼玉さいたまけん892-894ぺーじ
  8. ^ 与野よの 通史つうしへん上巻じょうかん」pp469-471.
  9. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 11 埼玉さいたまけん1162ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 与野よの総務そうむへんさんしつ与野よの 通史つうしへん上巻じょうかん』 1987ねん
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 11 埼玉さいたまけん角川書店かどかわしょてん、1980ねん7がつ8にちISBN 4040011104 
  • 與野よのまち」『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こうまきノ155足立あだちぐんノ21、内務省ないむしょう地理ちりきょく、1884ねん6がつNDLJP:764001/4 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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