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徳川とくがわ慶勝よしかつ

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德川とくがわ けいじょ/慶勝よしかつ
徳川とくがわ 慶勝よしかつ
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき - 明治めいじ時代じだい初期しょき
生誕せいたん 文政ぶんせい7ねん3月15にち1824ねん4がつ14にち
死没しぼつ 明治めいじ16ねん1883ねん8がつ1にち
享年きょうねん60(まん59さいぼつ
改名かいめい 松平まつだいら秀之助ひでのすけ幼名ようみょう)→松平まつだいらよしじょ徳川とくがわけいじょ慶勝よしかつ
別名べつめい つきどうごう
墓所はかしょ 東京とうきょう新宿しんじゅく 西光さいこうあん
官位かんい したがえよん侍従じじゅうけん中務なかつかさ大輔だいすけ掃部あたましたがえさん参議さんぎけんひだり近衛このえけん中将ちゅうじょうけん中納言ちゅうなごんしたがえけん大納言だいなごんせい議定ぎていしたがえいち
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ長州ちょうしゅう征討せいとうぐん総督そうとく
主君しゅくん 徳川とくがわ家定いえさだ家茂いえもち慶喜よしのぶ
はん 尾張おわりはん14だい藩主はんしゅ
氏族しぞく 高須たかす松平まつへい尾張おわり徳川とくがわ
父母ちちはは ちち松平まつだいらよしけんははぶんまわしひめ徳川とくがわ治紀はるとしむすめあかしいん
養父ようふ徳川とくがわ慶臧よしつぐ
兄弟きょうだい 源之助げんのすけ慶勝よしかつ松平まつだいらたけしげるせい三郎さぶろう徳川とくがわ茂徳しげのり松平まつだいら容保かたもり松平まつだいらじょうけい、鐡丸、松平まつだいら義勇よしたけおんな上杉うえすぎ茂憲もちのり正室せいしつ
つま 正室せいしつ丹羽たんば長富ながとみむすめのりひめ(かねひめ)
側室そくしつ:4めい
義宜よしのりじょみちひめ松平まつだいら義生よしお正室せいしつ)、登代とよひめ徳川とくがわよしれい正室せいしつ)、りょうひめ徳川とくがわよしれい継室けいしつ)、とみひめ毛利もうり元昭もとあき正室せいしつのち戸田とだかんやすしつぎしつ
養子ようし茂徳しげのりれい
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徳川とくがわ 慶勝よしかつ(とくがわ よしかつ)は、日本にっぽん幕末ばくまつから明治めいじ初期しょきにかけての大名だいみょう政治せいじ華族かぞく尾張おわり徳川とくがわ尾張おわりはんだい14だいだい17だい当主とうしゅ明治維新めいじいしん議定ぎてい名古屋なごやはん知事ちじ尾張おわりはんささえはん連枝れんし)であった美濃みの高須たかすはんおも松平まつだいらよしけん次男じなん

系譜けいふ名前なまえ

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おとうとに15だい藩主はんしゅ徳川とくがわ茂徳しげのり会津あいづはんおも松平まつだいら容保かたもり桑名くわなはんおも松平まつだいらじょうけいなどがあり、慶勝よしかつふくめて高須たかすよん兄弟きょうだい併称へいしょうされる。

幼名ようみょう秀之助ひでのすけ元服げんぷく高須たかす松平まつへい時代じだい)は松平まつだいらよしじょ(まつだいら よしくみ)を名乗なのる。尾張おわり徳川とくがわ相続そうぞく将軍しょうぐん徳川とくがわ家慶いえよしよりへんいみな授与じゅよけて、はじめは徳川とくがわけいじょ(よしくみ)、のち慶勝よしかつ改名かいめいした。なお、ほんこうではすべて慶勝よしかつ統一とういつする。

生涯しょうがい

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藩主はんしゅ就任しゅうにんまで

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江戸えど四谷よつや高須たかす藩邸はんていまれる。はは正室せいしつぶんまわしひめ徳川とくがわ治紀はるとしむすめ)で、徳川とくがわ斉昭なりあき母方ははかた叔父おじに、斉昭なりあき徳川とくがわ慶篤よしあつ徳川とくがわ慶喜よしのぶ従弟じゅうていにあたる。

尾張おわりはんでは10代藩主はんしゅ斉朝なりとも、11だい藩主はんしゅ斉温なりはる、12だい藩主はんしゅ斉荘なりたか、13だい藩主はんしゅ慶臧よしつぐと4だいつづいて将軍家しょうぐんけ周辺しゅうへんからの養子ようしつづいた。また11だい藩主はんしゅ斉温なりはるがその在世ざいせいちゅういち尾張おわり入国にゅうこくせず江戸えどらしをするなど、藩士はんし士気しきとす出来事できごとつづき、下級かきゅう藩士はんし母体ぼたいとする金鉄きんてつとうなどが慶勝よしかつ藩主はんしゅ継承けいしょう渇望かつぼうしていた。慶勝よしかつ擁立ようりつは12だい・13だい沙汰ざたされたが実現じつげんせず、よしみひさし2ねん1849ねん)に慶臧よしつぐ死去しきょすると、慶勝よしかつの14だい藩主はんしゅ就任しゅうにん実現じつげんする。

ちゅう下級かきゅう藩士はんしそうからは藩主はんしゅ就任しゅうにん待望たいぼうされたとされる慶勝よしかつであったが、これまでの当主とうしゅことなり、将軍家しょうぐんけとの血縁けつえんうすいこともあって、まくかく尾張おわり年寄としよりしゅからはそれまでの当主とうしゅよりも一段いちだんひくられていた。そのため、慶勝よしかつ当主とうしゅとして主導しゅどうせい発揮はっきするためには、重臣じゅうしんとの合意ごうい形成けいせい不可欠ふかけつであった[1]

安政あんせい大獄たいごく

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藩主はんしゅ就任しゅうにん慶勝よしかつは、内政ないせいでは倹約けんやく政策せいさくおもとした藩政はんせい改革かいかくおこなう。他方たほう外国がいこくせん来航らいこう相次あいつ情勢じょうせいにあって、徳川とくがわ斉昭なりあき薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまつ斉彬なりあきら宇和島うわじま藩主はんしゅ伊達だて宗城むねなりらの感化かんかもあり、対外たいがい強硬きょうこうろん幕府ばくふかえ主張しゅちょうして、老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろらの不興ふきょううことにもなった[2]。ただし、慶勝よしかつにおいては御三家ごさんけ筆頭ひっとうとしての責任せきにんかんつよく、幕政ばくせい批判ひはん幕府ばくふつばさする意識いしき裏返うらがえしでもあった[1]

安政あんせい5ねん1858ねん)の日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく調印ちょういんさいしては、慶勝よしかつ徳川とくがわ斉昭なりあき慶篤よしあつ父子ふしとも江戸城えどじょう不時ふじ登城とじょうし、大老たいろう井伊いい直弼なおすけ抗議こうぎした。この行為こういとがめられ、井伊いい政権せいけんによる反対はんたい弾圧だんあつ安政あんせい大獄たいごく)により隠居いんきょ謹慎きんしんめいじられ、わっておとうと茂徳しげのりが15だい藩主はんしゅとなる。

このころから、欧米おうべいから伝来でんらいした写真しゃしんじゅつ興味きょうみち、写真しゃしん撮影さつえいしている(当時とうじすべてのプロセスを自分じぶんおこなわなければならなかった)。撮影さつえいした写真しゃしんなかには明治めいじ3ねん1870ねん)にこわされた名古屋なごやじょうまる御殿ごてん幕末ばくまつ広島ひろしまじょうした江戸えど尾張おわりはん下屋敷しもやしきなどの写真しゃしんが1,000てんちかのこされており、歴史れきしてき史料しりょう価値かちたか写真しゃしん数多かずおおい。

復権ふっけん幕末ばくまつ政局せいきょくへの関与かんよ

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安政あんせい7ねん1860ねん)に井伊いい直弼なおすけ桜田さくらだ門外もんがいへん暗殺あんさつされると、文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)に「悉皆しっかいなだめもと(しっかいごゆうきょ=ことごとくゆるされる)」のとなった。そのとし上洛じょうらくし、将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち補佐ほさめいじられる。

文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)、茂徳しげのり隠居いんきょして実子じっしもと千代ちよ義宜よしのり)が16だい藩主はんしゅ就任しゅうにんすることとなり、家老がろう成瀬なるせただしこえや、田宮たみや如雲尊王そんのう攘夷じょういからの支持しじ背景はいけいに、慶勝よしかつはその後見こうけんとして復権ふっけんする。他方たほう慶勝よしかつ批判ひはんてき家老がろう竹腰たけこし正富まさとみらに擁立ようりつされていた茂徳しげのり家中いえじゅう影響えいきょうりょく保持ほじしたため、文久ぶんきゅう以降いこう尾張おわり慶勝よしかつ茂徳しげのりとう体制たいせい様相ようそうていし、対立たいりつこうそうひろげることとなる[3]

復権ふっけん慶勝よしかつはたびたび上洛じょうらくして京都きょうと政局せいきょく関与かんよする。その京都きょうとでは文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)に会津あいづはん薩摩さつまはん結託けったくしてはちがつじゅうはちにち政変せいへんこり、きょうから長州ちょうしゅうはんおよび尊攘そんじょう公卿くぎょうら(ななきょう)が追放ついほうされた。よく元治もとはる元年がんねん1864ねん)に慶勝よしかつは、雄藩ゆうはん最高さいこう権力けんりょくしゃからなるさんあずか会議かいぎへの参加さんかめいじられるが辞退じたいした。

そのとし長州ちょうしゅうはん京都きょうと軍事ぐんじてき奪回だっかいはかるため禁門きんもんへんこすが、撃退げきたいされた長州ちょうしゅうはん朝敵ちょうてきとなり、幕府ばくふだいいち長州ちょうしゅう征討せいとうおこなうこととなる。征討せいとうぐん総督そうとくにははじ紀州きしゅうはんおも徳川とくがわ茂承もちつぐにんじられたが慶勝よしかつ変更へんこうされ、慶勝よしかつ薩摩さつま藩士はんし西郷さいごう吉之助よしのすけだい参謀さんぼうとして出征しゅっせいした。この長州ちょうしゅう征伐せいばつでは長州ちょうしゅうはん恭順きょうじゅんしたため、慶勝よしかつ寛大かんだい措置そちってきょう凱旋がいせんした。しかしその長州ちょうしゅうはんふたた勤王きんのう主導しゅどうけんにぎったため、だい長州ちょうしゅう征討せいとう決定けっていする。慶勝よしかつさいせい反対はんたいし、茂徳しげのりせいちょう総督そうとく就任しゅうにん拒否きょひさせ、上洛じょうらくして御所ごしょ警衛けいえいにんいた。長州ちょうしゅうはん秘密裏ひみつり薩摩さつまはん同盟どうめいむすんでおり(薩長さっちょう同盟どうめい)、幕府ばくふぐんはんさかい各地かくちやぶった。

王政おうせい復古ふっこ政変せいへん

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慶応けいおう2ねん12月、慶勝よしかつ対立たいりつ関係かんけいにあった茂徳しげのりいちきょう相続そうぞく決定けっていしたことにより、茂徳しげのりとその支持しじ藩政はんせいから放逐ほうちくされ、家中いえじゅう対立たいりつ一応いちおう決着けっちゃくいた。これを契機けいきとして藩政はんせい改革かいかく機運きうんたかまり、慶応けいおう3ねん以降いこう藩校はんこう明倫めいりんどう関係かんけいしゃらの藩中はんちゅうくるるへの進出しんしゅつすすみ、かれらが王政おうせい復古ふっこけて藩政はんせい主導しゅどうしていくこととなる。

慶応けいおう3ねん10月14にち1867ねん11月9にち)には15だい将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶによって大政奉還たいせいほうかんおこなわれた。慶勝よしかつ上洛じょうらくして、薩摩さつまはん土佐とさはんらとともに王政おうせい復古ふっこ政変せいへん参加さんかしん政府せいふ議定ぎていにんぜられる。12月9にち1868ねん1がつ3にち)のしょう御所ごしょ会議かいぎにおいて慶喜よしのぶかん納地のうち催告さいこくすることが決定けってい慶勝よしかつ通告つうこくやくとなる。この時期じきにおいても、慶勝よしかつ徳川とくがわ宗家そうけつばさする意識いしきつよ保持ほじしており、大政奉還たいせいほうかん官位かんいくだだつ願書がんしょ朝廷ちょうてい提出ていしゅつしたほか、しょう御所ごしょ会議かいぎでは慶喜よしのぶ出席しゅっせき主張しゅちょう議定ぎていしょく辞職じしょくねがい提出ていしゅつし、かん納地のうちさいしては尾張おわりはんりょう宗家そうけ返還へんかんする意向いこうまで表明ひょうめいしている[4]

よく慶応けいおう4ねん1がつ3にち1がつ27にち)に京都きょうときゅう幕府ばくふぐん薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはんへい衝突しょうとつして鳥羽とば伏見ふしみたたかこり、慶喜よしのぶ軍艦ぐんかん大坂おおさかから江戸えど逃亡とうぼうしたのち謹慎きんしんする。1月15にち慶勝よしかつたいし、はんないの「かん誅戮ちゅうりく」のため帰国きこくめいずる朝命ちょうめいはっせられる。1がつ20日はつか2がつ13にち)、慶勝よしかつ尾張おわりもどり、家老がろう渡辺わたなべ新左衛門しんざえもん佐幕さばく家臣かしん粛清しゅくせい断行だんこうする(あお松葉まつば事件じけん)。つづいて朝命ちょうめいしたがい、尾張おわりはん東海道とうかいどう中山道なかせんどう沿道えんどう大名だいみょうはた本領ほんりょう派遣はけんし、しん政府せいふ恭順きょうじゅん証拠しょうことして、「勤王きんのう証書しょうしょ」を提出ていしゅつさせる活動かつどうひろげた。この活動かつどうにより仁和寺にんなじみやよしみあきら小松こまつみやあきらひとし親王しんのうひきいる東征とうせいぐんおおきな戦闘せんとう経験けいけんすることなく江戸えどけて進軍しんぐんすることが出来できたといわれる。あお松葉まつば事件じけんとそれにつづ勤王きんのう誘引ゆういん活動かつどうについては、慶勝よしかつ自身じしん意向いこうというより、岩倉いわくら具視ともみ結託けったくした藩校はんこう明倫めいりんどう関係かんけいしゃ影響えいきょうりょく指摘してきされる[4]

慶勝よしかつは、上記じょうきのような活動かつどうおこな一方いっぽうで、茂徳しげのり協力きょうりょくして容保かたもりていけい助命じょめい嘆願たんがんおこなった。

うるう4がつ21にち6月11にち)に議定ぎていめんぜられ、その政界せいかいつことはなくなった。

明治維新めいじいしん

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明治めいじ8ねん1875ねん)、義宜よしのり病死びょうしけて当主とうしゅさいうけたまわした。明治めいじ11ねん1878ねん)からはじまったきゅう尾張おわり藩士はんしによる北海道ほっかいどう八雲やくもまち開拓かいたく指導しどうした。明治めいじ13ねん1880ねん家督かとく養子ようしれいゆず隠居いんきょした。明治めいじ16ねん(1883ねん)に死去しきょ享年きょうねん60。

かんれき

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高須たかすよん兄弟きょうだい明治めいじ11ねん9がつ撮影さつえい
ひだりから松平まつだいらじょうけい松平まつだいら容保かたもり徳川とくがわ茂徳しげのり慶勝よしかつ

家系かけい

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ほか養子ようし

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 藤田ふじた(2019), pp.126。
  2. ^ 藤田ふじた(2017)、p119。
  3. ^ 藤田ふじた(2016)、pp.68。
  4. ^ a b 藤田ふじた(2018)、pp.144。

関連かんれん書籍しょせき

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  • 写真しゃしんしゅう 尾張おわり徳川とくがわ幕末ばくまつ維新いしん 徳川とくがわ林政りんせい研究所けんきゅうじょ所蔵しょぞう写真しゃしん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2014ねんISBN 978-4-642-03827-0 写真しゃしん大名だいみょうとして徳川とくがわ慶勝よしかつ撮影さつえいしたアルバム。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 藤田ふじた英昭ひであき慶応けいおうさんねんにおける尾張おわり徳川とくがわ政治せいじ動向どうこう」、徳川とくがわ林政りんせい研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう紀要きようだい43ごう所収しょしゅう、2016ねん3がつ
  • 藤田ふじた英昭ひであきよしみひさし安政あんせいにおける徳川とくがわ慶勝よしかつ人脈じんみゃく政治せいじ動向どうこう」、徳川とくがわ林政りんせい研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう紀要きようだい44ごう所収しょしゅう、2017ねん3がつ
  • 藤田ふじた英昭ひであき慶応けいおうよんねん前後ぜんこうにおける尾張おわり徳川とくがわ内情ないじょう政治せいじ動向どうこう」、徳川とくがわ林政りんせい研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう紀要きようだい52ごう所収しょしゅう、2018ねん3がつ
  • 藤田ふじた英昭ひであき文久ぶんきゅうもとにおける徳川とくがわ慶勝よしかつ動向どうこう政治せいじてき立場たちば」、徳川とくがわ林政りんせい研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう紀要きようだい53ごう所収しょしゅう、2019ねん3がつ

関連かんれん項目こうもく

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テレビドラマ
小説しょうせつ

外部がいぶリンク

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