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前橋まえばしはん

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前橋まえばしけんから転送てんそう

前橋まえばしはん(まえばしはん)は、上野うえのこく群馬ぐんまぐん厩橋うまやばしげん群馬ぐんまけん前橋まえばし)にかれたはん。はじめ厩橋うまやばしはん(うまやばし/まやばし はん)といい、はんちょう厩橋うまやばしじょうかれた。のち酒井さかいだい5だい藩主はんしゅ酒井さかいただしきょ時代じだい地名ちめいはんめいしろめい一括いっかつして前橋まえばし前橋まえばしはん前橋まえばしじょうあらためたとされる(『ちょくたい夜話やわ』を出典しゅってんとするが、4だい忠清ただきよ時代じだい文書ぶんしょはすべて「前橋まえばし」とあるため、忠清ただきよ時代じだいにはすでに「前橋まえばし」のほう一般いっぱんしていたとみられる。)[1]

はんふみ

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松平まつだいら時代じだい前橋まえばしじょう本丸ほんまる御殿ごてん明治維新めいじいしん群馬ぐんま県庁けんちょうしゃとして使つかわれた時期じき写真しゃしん

豊臣とよとみ政権せいけんした天正てんしょう18ねん1590ねん徳川とくがわ家康いえやす関東かんとうにゅうふうともな家臣かしん平岩ひらいわちかしきちうまやきょうに3まん3000せき(『徳川とくがわ実紀みき』『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』による。『はん翰譜』『前橋まえばし風土記ふどき』『家康いえやすおおやけ関東かんとう入国にゅうこく知行ちぎょうわり』によれば3まんせき)をもってふうぜられた。

江戸えど幕府ばくふ開府かいふ翌年よくねん慶長けいちょう6ねん1601ねん)に平岩ひらいわ甲府こうふはんてんふうとなり、おなじく譜代ふだい大名だいみょう重鎮じゅうちんであり徳川とくがわどうつたえられる酒井さかい武蔵むさし川越かわごえはんより3まん3000せきをもってにゅうふうした。2だい藩主はんしゅ忠世ただよ部屋住へやず時代じだい伊勢崎いせさき大胡おおごりょうし、忠世ただよ前橋まえばし藩主はんしゅとなるとこれらも前橋まえばしはんくわえられた。幕府ばくふ老中ろうじゅうつとめた忠世ただよはさらに上里見かみさとみ藤岡ふじおか玉村たまむら武蔵むさしこく榛沢はんざわぐんこれない加増かぞうされ、12まん2500せきあまりとなった。3だい藩主はんしゅ忠行ただゆき時代じだいにさらに板鼻いたはな大戸おおど三ノ倉さんのくら赤堀あかほり部屋住へやずみりょう3まんせきくわえ15まん2500せきあまりとなる。4だい藩主はんしゅ忠清ただきよ継承けいしょうしたのは10まんせきであり、部屋住へやずみりょう3まんせき返上へんじょう、2まん5000せきおとうと酒井さかい忠能ただやすあたえられ伊勢崎いせざきはんだてはんした。もっとも酒井さかい忠能ただやす小諸こもろはんうつりふうされたのちどうりょう前橋まえばしはんふくし、さらに上総かずさ久留里くるり加増かぞうされたため忠清ただきよ治世ちせい末期まっきには15まんせきとなった。忠清ただきよは4だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家綱いえつな大老たいろうとして幕政ばくせいにおいて影響えいきょうりょくっており、忠清ただきよ国元くにもと藩政はんせいたずさわることはなかったが、このころにはん政治せいじ経済けいざい確立かくりつされ、とくきぬ取引とりひきさかえた[よう出典しゅってん]。5だい藩主はんしゅ忠明ただあき(のちちゅうきょは13まんせき継承けいしょうし、2まんせきおとうと酒井さかい忠寛ただひろあたえられ伊勢崎いせざきはんだてはんちゅうきょ治世ちせい末期まっきには加増かぞうけ15まんせきふくする。6だい藩主はんしゅ忠相ただすけ家督かとくいでわずか3ヶ月かげつ死去しきょしたため、あといだ幼少ようしょうの7だい藩主はんしゅ親愛しんあい治世ちせい当初とうしょ祖父そふちゅうきょ執政しっせいとなった。親愛しんあい執政しっせいであったただしきょ宝永ほうえい7ねん1710ねん)、老中ろうじゅうてんふう請願せいがんしている。元禄げんろく12ねん1699ねん)の風水害ふうすいがい見舞みまわれて以来いらい前橋まえばし領内りょうない前橋まえばしじょうまでもが利根川とねがわ浸食しんしょくによって年々ねんねん損害そんがいけ、宝永ほうえい3ねん1706ねん)には利根川とねがわ氾濫はんらんにより本丸ほんまるさんそう倒壊とうかいするなど、はん財政ざいせい圧迫あっぱくしていたのである。寛延かんえい2ねん1749ねん)、9だい藩主はんしゅちゅうきょう老中ろうじゅう首座しゅざとなったのちにてんふう画策かくさくどう石高こくだかでも実入みいりがおおいとかんがえられた播磨はりま姫路ひめじはんてんふうとなった。なおうたてふう反対はんたいした国家老くにがろう川合かわいじょうつねはのちに刃傷にんじょう事件じけんこしている。

わりに姫路ひめじより結城ゆうき松平まつへい松平まつだいらちょうのりが15まんせきをもってにゅうふうした。しかしにゅうふう時点じてん前橋まえばしじょう本丸ほんまる放棄ほうきしてさん曲輪くるわ移転いてんすることが決定けっていしているほど損害そんがいけており、これ以前いぜんじつに9てんふう経験けいけんしている松平まつだいらにとって、前橋まえばしじょう工事こうじはさらなる財政ざいせい負担ふたんとなった。その利根川とねがわによる前橋まえばしじょう被害ひがい拡大かくだいしたため、たかられき13ねん1763ねん)に幕府ばくふ実地じっち見分けんぶんて、明和めいわ4ねん1767ねん武蔵むさし川越かわごえしろ居城きょじょう移転いてんすることとなり、以降いこう川越かわごえはんび、前橋まえばし川越かわごえはんとなった。川越かわごし当時とうじ秋元あきもと領地りょうちであったが、松平まつだいらあたえられたのはそのうち3まんせきあまりで、所領しょりょう過半かはん依然いぜん上野うえの国内こくない存在そんざいした。前橋まえばしじょう明和めいわ5ねん1768ねん)にこわしの命令めいれいされはいじょうとなった。以降いこうながはいじょう状態じょうたいつづき、跡地あとちには川越かわごえはんぶんりょうとして前橋まえばし陣屋じんやかれ、その支配しはいをおよそ1世紀せいきあいだけることになった。

このあいだ前橋まえばしへのじょうこころみはおこなわれており、文化ぶんか14ねん1817ねん)には前橋まえばし領民りょうみんから川越かわごえ藩主はんしゅ松平まつだいらひとしてんじょうもとめる嘆願たんがんしょ提出ていしゅつされている。ひとしてんはん財政ざいせい改善かいぜん目的もくてき姫路ひめじ庄内しょうないへのてんふうねが人物じんぶつだが、天保てんぽう9ねん1838ねん)には前橋まえばしじょうへのじょうと2まんせき加増かぞうねがうち願書がんしょ幕府ばくふ提出ていしゅつしている。

文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)11月7にち前年ぜんねんから3にわたり前橋まえばしじょう再築さいちくない願書がんしょ幕府ばくふ提出ていしゅつしてきた川越かわごえ藩主はんしゅ松平まつだいらただしかつ念願ねんがん前橋まえばしじょう再築さいちくかえりじょうゆるされた。この背景はいけいには、幕府ばくふ文久ぶんきゅう改革かいかく一環いっかんである富国強兵ふこくきょうへい政策せいさく沿うこと(再築さいちくない願書がんしょには川越かわごえじょうせま軍事ぐんじ調練ちょうれんのための空地くうちもないことがげられている)、利根川とねがわ治水ちすい事業じぎょうすす危険きけんのぞかれたこと、横浜よこはま開港かいこうにより主要しゅよう輸出ゆしゅつ商品しょうひんとなった生糸きいと商人しょうにんたちによる再築さいちく資金しきん献金けんきんがあったことがげられる。領民りょうみんからは7まん7673りょうあまり献金けんきんがあったが、このすべてが再築さいちく資金しきんにあてられたわけではなく、家臣かしんへの下賜かしきんになるなど、窮乏きゅうぼうしていたはん財政ざいせいすくうことにもつながった。文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん以来いらい川越かわごえはんななふんさんなずらえさく(7わり借上かりあげ)という知行ちぎょうじょう実施じっしするほどはん財政ざいせい家臣かしん困窮こんきゅうしており、前橋まえばしじょう再築さいちく領民りょうみんによる献金けんきん前提ぜんていとしていた。3ねん8ヶ月かげつにおよぶだい規模きぼ築城ちくじょうて、慶応けいおう3ねん1867ねん)2がつ2にち前橋まえばしじょう再築さいちくり、川越かわごえはん石高こくだか17まんせきはそのままで居城きょじょう前橋まえばしじょう移転いてんした(このさい領国りょうごく再編さいへんされ、川越かわごえじょうには松平まつだいらやすしえいが8まん4,000せきにゅうふうする)。これによって以降いこう前橋まえばしはんばれるが、もなく大政奉還たいせいほうかん王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいとなる。戊辰戦争ぼしんせんそうはじまり、徳川とくがわ慶喜よしのぶ謹慎きんしんすると、前橋まえばしはんはいちはやしん政府せいふ恭順きょうじゅんしめしたが、りょう上総かずさ富津ふっつではぎゃく富津ふっつ陣屋じんやきゅう幕府ばくふぐんかこまれて家老がろう自刃じじんした挙句あげくのちになってしん政府せいふからは内通ないつううたがわれるという事件じけんきている(詳細しょうさいは「小河原おがわらひだりみや」のこう参照さんしょう)。

明治めいじ4ねん1871ねん廃藩置県はいはんちけんにより前橋まえばしけんとなり、その群馬ぐんまけん編入へんにゅうされた。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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酒井さかい

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譜代ふだい 3まん3せんせき→5まん2せんせき→12まん2せんせき→15まん2せんせき→15まんせき→13まんせき→15まんせき (1601ねん - 1749ねん

  1. 重忠しげただ(しげただ)〔したがえ河内かわうちまもる
  2. 忠世ただよ(ただよ)〔したがえよん雅楽ががくあたま侍従じじゅう 大老たいろう牧野まきの旧領きゅうりょう大胡おおご)をくわえ5まん2せんせき加増かぞうにより12まん2せんせき
  3. 忠行ただゆき(ただゆき)〔したがえよん阿波あわもり忠行ただゆき部屋住へやずみ時代じだい領地りょうち3まんせきくわえ15まん2せんせき
  4. 忠清ただきよ(ただきよ)〔したがえよん雅楽ががくあたまひだり近衛このえ少将しょうしょう 大老たいろうぶんとうにより15まんせき
  5. ちゅうきょ(ただたか)〔したがえよん雅楽ががくあたまぶんにより13まんせき加増かぞうにより15まんせき
  6. 忠相ただすけ(ただみ)〔したがえよん雅楽ががくあたま
  7. 親愛しんあい(ちかよし)〔したがえよん雅楽ががくあたま
  8. しんほん(ちかもと)〔したがえよん雅楽ががくあたま侍従じじゅう
  9. ちゅうきょう(ただずみ)〔したがえよん雅楽ががくあたまひだり近衛このえ少将しょうしょう 老中ろうじゅう首座しゅざ

結城ゆうき松平まつへい

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親藩しんぱん 15まんせき (1749ねん - 1767ねん

  1. あさのり(とものり)〔したがえよん大和やまとまもる〕→川越かわごえはん

結城ゆうき松平まつへいさい

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川越かわごえはんより移転いてん 17まんせき (1867ねん - 1871ねん

  1. ちょくかつ(なおかつ)〔したがえよんじょう大和やまとまもる少将しょうしょう侍従じじゅう 政事せいじ総裁そうさいしょく
  2. 直方のうがた(なおかた)〔前橋まえばしはん知事ちじ前橋まえばし県知事けんちじ

藩校はんこう

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酒井さかい時代じだい

  • 好古こうこどう - 元禄げんろく4ねん(1691ねん前橋まえばしじょうさん曲輪くるわ創設そうせつ
  • もとめどう - 元禄げんろく13ねん(1700ねん大胡おおご創設そうせつ

松平まつだいら時代じだい

  • ひろしたとえどう - 文政ぶんせい10ねん(1827ねん川越かわごし開設かいせつされたこうがくしょ慶応けいおう2ねん(1866ねん前橋まえばし移転いてん

幕末ばくまつ領地りょうち

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きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょうデータベース』では、581むら・21まん555せきあまり

明治維新めいじいしんのち高麗こうらいぐん5むらきゅう幕府ばくふりょう)、入間いるまぐん2むらきゅう幕府ばくふりょう)、榛沢はんざわぐん2むらきゅうはた本領ほんりょう)、大里おおさとぐん1むらきゅう幕府ばくふりょう)、河内かわちぐん2むらきゅう幕府ばくふりょう)、群馬ぐんまぐん77むらきゅう幕府ばくふりょう47むらきゅうはた本領ほんりょう23むらきゅう高崎たかさきはんりょう18むら)、勢多せたぐん43むらきゅう幕府ばくふりょう39むらきゅうはた本領ほんりょう4むら)、碓氷うすいぐん10むらきゅう幕府ばくふりょう9むらきゅうはた本領ほんりょう1むら)、那波なばぐん2むらきゅうはた本領ほんりょう)がくわわった。なおあいきゅうもあるためむらすう合計ごうけい一致いっちしない。

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 前橋まえばしだい2かん(1973ねん前橋まえばし)6-15ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
上野うえのこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1867ねん - 1871ねん 前橋まえばしはん前橋まえばしけん
次代じだい
群馬ぐんまけんだい1