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五龍ごりゅうじょう

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五龍ごりゅうじょう
広島ひろしまけん
五龍城跡
五龍ごりゅう城跡じょうせき
城郭じょうかく構造こうぞう れんくるわしき山城やましろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 宍戸ししど朝家ちょうか
築城ちくじょうねん 南北なんぼくあさ時代じだい
おも城主じょうしゅ 宍戸ししど
はいじょうねん 慶長けいちょう5ねん1600ねん
遺構いこう 曲輪くるわ石垣いしがきるい空堀からぼり
指定してい文化財ぶんかざい けん指定してい史跡しせき
位置いち 北緯ほくい3441ふん51びょう 東経とうけい13245ふん11びょう / 北緯ほくい34.69750 東経とうけい132.75306 / 34.69750; 132.75306
地図ちず
五龍城の位置(広島県内)
五龍城
五龍ごりゅうじょう
テンプレートを表示ひょうじ

五龍ごりゅうじょう(ごりゅうじょう)は、広島ひろしまけん安芸あき高田たかだ甲立こうたちにあった日本にっぽんしろ山城やましろ)。広島ひろしまけん指定してい史跡しせき[1]

概要がいよう

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五龍ごりゅうじょう可愛川えのかわ本村川ほむらがわ合流ごうりゅう地点ちてんしたような半島はんとうじょう丘陵きゅうりょうきずかれたしろで、尾根おね堀切ほりきりったれんくるわしき山城やましろである。ほんまる石垣いしがき現存げんそんしており、搦手からめてとなる西にしにはおおきくふか堀切ほりきりもうけ、背後はいごかためている。現在げんざいでも石垣いしがき井戸いどるいとう存在そんざいしており、標高ひょうこうたかくないため、中世ちゅうせい山城やましろとしては探索たんさくしやすい場所ばしょである。現在げんざい宍戸ししど神社じんじゃっており、その五龍ごりゅうじょう真下ました国道こくどう54ごうせん通過つうかしている。

沿革えんかく

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五龍ごりゅうじょう石垣いしがきあと

五龍ごりゅうじょう築城ちくじょうした宍戸ししどみなもと頼朝よりとも御家人ごけにんである八田はったとも子孫しそんである。八田はったとも鎌倉かまくら幕府ばくふ要職ようしょくつとめ、常陸ひたちこく下野げやこく安芸あきこく所領しょりょうた。その八田はったともよんなん八田はった家政いえまさ常陸ひたちこく宍戸ししど本拠ほんきょとしたため、宍戸ししど名字みょうじとする。

統治とうち初期しょき代官だいかんによる安芸あきこく支配しはいおこなっていたが、宍戸ししど朝家ちょうか鎌倉かまくら時代じだい末期まっき安芸あきこく甲立こうたちそう下向げこうして土着どちゃくし、ここに安芸あき宍戸ししどはじまった。安芸あき下向げこうした直後ちょくご近隣きんりんにあるやなぎじょう居城きょじょうとしていたが、南北なんぼくあさ時代じだい五龍ごりゅうじょうきずいてうつった。このときみず不足ふそくしたため、龍王りゅうおう勧請かんじょうして祈願きがんしたところ井戸水いどみずきだした。これをおおいによろこんだ宍戸ししど朝家ちょうかしろ五龍ごりゅうじょう名付なづけ、五龍ごりゅうじょう宍戸ししど居城きょじょうとなる。

戦国せんごく時代じだいになると近隣きんりんとの勢力せいりょくあらそいがこり、宍戸ししどはこのしろ中心ちゅうしん勢力せいりょく拡大かくだいしていった。やがて毛利もうりともあらそうようになったが、天文てんもん2ねん1533ねん)、当主とうしゅ宍戸ししどたかし毛利もうり元就もとなり和睦わぼくし、元就もとなり長女ちょうじょ五龍ごりゅうきょく)と結婚けっこんした。これ以後いご宍戸ししど毛利もうり重臣じゅうしんとして活躍かつやくし、毛利もうり勢力せいりょく拡大かくだい一助いちじょをなした。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかのち当主とうしゅ宍戸ししどもとつづけ毛利もうりぼうながうつりふうしたがい、はぎへとった。そして五龍ごりゅうじょうはいじょうとなり、安芸あき宍戸ししど五龍ごりゅうじょう歴史れきしわりをむかえた。

1971ねん昭和しょうわ46ねん)4がつ30にち広島ひろしまけん史跡しせきとなった[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 五龍ごりゅう城跡じょうせき甲田こうたまち)」安芸あき高田たかだ公式こうしきHP
  2. ^ 五龍ごりゅう城跡じょうせき広島ひろしまけん教育きょういく委員いいんかい公式こうしきHP

関連かんれん項目こうもく

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