三沢みさわ

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三沢みさわ
三澤みさわ
まるみっつ引まるにみつひき
本姓ほんせい 清和せいわはじめ
いえ しょう
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 信濃しなのこく伊那いなぐん飯嶋いいじまさと
おも根拠地こんきょち 出雲いずもこく仁多にたぐん三沢みさわそう[1]
三沢みさわじょう
支流しりゅう分家ぶんけ 陸奥むつ三沢みさわ武家ぶけ
因幡いなば三沢みさわ武家ぶけ
三沢みさわりゅう三刀屋みとや[2]武家ぶけ
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

三沢みさわ(みざわし、みざわうじ)は、信濃しなのこく伊那いなぐん飯嶋いいじまさと地頭じとう信濃しなのはじめ飯嶋いいじま分家ぶんけである。甲斐かいこく八代やしろぐん三澤みさわむら三沢みさわ(みさわし)はべつ系統けいとうとされる。

出自しゅつじ家系かけい[編集へんしゅう]

出雲いずもこく国人くにびと領主りょうしゅであった三沢みさわ出自しゅつじは、清和せいわはじめ木曾きそ義仲よしなかとする木曾きそけいおなじく清和せいわみなもと氏満うじみつかいりゅう飯嶋いいじまけいわれている。木曾きそけいせつ木曾きそ義仲よしなかまご木曾きそためなか三沢みさわとしている。それにたいして、ちょうはんつかえた三沢みさわつたわる史料しりょうでは、おなみなもとでも、みなもとみつるかいながれを信濃しなのこく伊那いなぐん飯嶋いいじま本領ほんりょうとしたかたきりりゅう飯嶋いいじま為国ためくに飯嶋いいじま)をとしている。

出雲いずも三沢みさわ[編集へんしゅう]

三沢みさわじょう本丸ほんまる

うけたまわひさし3ねん1221ねん)の承久じょうきゅうらん戦功せんこうげた飯嶋いいじまためこうは、しん地頭じとうとして出雲いずもこく三沢みさわそう一般いっぱんてきには三沢みさわはみさわとしょうされるが、三沢みさわ発祥はっしょうである三沢みさわそうみざわ発音はつおんし、三沢みさわ正式せいしき発音はつおんはみざわである)[3]あたえられた。その1302ねん三沢みさわためちょうためなか)が、因幡いなばこく鹿野かの往来おうらいし、この良質りょうしつ砂鉄さてつ採取さいしゅして踏鞴製鉄せいてつ山野やまの開拓かいたくによりちからをつけ、よしみもと3ねん1305ねん)、仁多にたぐんうちをはじめ島根しまね半島はんとうまでも一望いちぼうできる要衝ようしょう鴨倉かもくらさんとうしろ要害山ようがいさん三沢みさわじょう築城ちくじょうし、同時どうじ信濃しなのから当地とうちうつり、以後いご名字みょうじ三沢みさわあらためた。これが出雲いずも三沢みさわはじまりである。また、木曾きそけい出自しゅつじとすると、三沢みさわためなか三沢みさわはいって三沢みさわしょうしたのがはじまりとされる。

室町むろまち時代ときよには出雲いずもこく支配しはいしていた山名やまな傘下さんかはいり、1391ねんには出雲いずも守護しゅご山名やまな満幸みつゆきしたがって明徳めいとくらん出陣しゅつじん当主とうしゅ三沢みさわためちゅう討死うちじにしている。室町むろまち時代ときよ末期まっきには、しん守護しゅご京極きょうごくしたがい、出雲いずもこく有力ゆうりょく国人くにびととして成長せいちょうげている。

戦国せんごく時代じだいになると守護しゅご京極きょうごく所領しょりょううばった尼子あまことは対立たいりつ関係かんけいとなり、尼子あまこ経久つねひさ追放ついほう中心ちゅうしんとして活躍かつやくした。しかし1488ねん三沢みさわ為国ためくに尼子あまこ経久つねひさたたかってやぶれ、その傘下さんかはいった。しかし、経久つねひさ三男さんなんきょうひさしひきいるはん尼子あまこ同盟どうめいくわわり、きょうひさ反乱はんらん加担かたんしたため、1531ねん尼子あまこ経久つねひさふじじょう再度さいど攻撃こうげきけ、三沢みさわ為国ためくにらは捕虜ほりょとなる事態じたいきた。これは当主とうしゅ三沢みさわためこう手引てびきによる行動こうどうで、独立どくりつしたうごきをあにおとうとふうめるさくであった。三沢みさわためこうはその尼子あまこしたがい、1540ねん吉田よしだぐん山城やましろたたか出陣しゅつじんし、青山あおやま土取場つちとりばたたか討死うちじにげている。

あといだ三沢みさわためきよし大内おおうち従属じゅうぞくしたが、月山がっさん富田とみたじょうたたか吉川よしかわらととも尼子あまこ寝返ねがえり、大内おおうちぐん敗退はいたい一因いちいんつくった。しかし三沢みさわ独立どくりつせいたかく、尼子あまこ軍役ぐんえき拒否きょひして尼子あまことのたたかいにおよんだ場合ばあいもあった。こういった反抗はんこうてき態度たいどってきた三沢みさわたいして尼子あまこ晴久はるひさ横田よこたそう三沢みさわ領地りょうち砂鉄さてつ産地さんち・たたら製鉄せいてつじょう直轄ちょっかつするなど、経久つねひさくらべて強硬きょうこうてき姿勢しせい三沢みさわ統治とうちしている。

しかし、晴久はるひさ急死きゅうしからすで三沢みさわ不穏ふおんうごきをせていたこともあり、義久よしひさちちげた横田よこたそう返還へんかんしたうえみずからのいもうと輿入こしいれするひとして懐柔かいじゅうしようとした。

1561ねん大内おおうちりょうであった周防すおうこく長門ながとこく完全かんぜん制圧せいあつした毛利もうり元就もとなり出雲いずもへの本格ほんかくてき侵攻しんこう開始かいしすると、あかあな三刀屋みとやとともに三沢みさわ毛利もうり降伏ごうぶくした。その出雲いずも侵攻しんこうには毛利もうりぐん主力しゅりょくとして活動かつどうした。尼子あまこ滅亡めつぼうに、山中やまなかみゆきもり尼子あまこ勝久かつひさ尼子あまこ再興さいこうぐんとして出雲いずもへの侵攻しんこうはかり、きゅう尼子あまご家臣かしんだんにも動揺どうようはしり、再興さいこうぐんくわわる国人くにびと豪族ごうぞく続出ぞくしゅつした。そのなか三沢みさわためきよし一貫いっかんして毛利もうりしたがい、尼子あまこ再興さいこうぐん撃退げきたい活躍かつやくした。

ためきよ死後しご1589ねん息子むすこ三沢みさわためとら毛利もうり輝元てるもとはかられ、幽閉ゆうへいとなった。その解放かいほうされて長門ながとこく厚狭あさぐんいにしえちょうに10000せきりょうするとなった。この幽閉ゆうへいげきは、毛利もうりによるきゅう尼子あまこ家臣かしんだんへのけと出雲いずもこく支配しはい強化きょうかねらいであり、三沢みさわ同様どうようきゅう尼子あまこ家臣かしんだんでもあった三刀屋みとやひさ追放ついほうにあっている。三沢みさわためとらはその能力のうりょくわれており、追放ついほうされなかっただけ三刀屋みとやよりはましであったかもしれない。

ためとら翌年よくねん豊臣とよとみ秀吉ひでよし小田原おだわら征伐せいばつにも参加さんかし、文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきでも毛利もうりぐん一員いちいんとして活躍かつやくした。

1600ねん関ヶ原せきがはらたたかではあかあいだせき守備しゅび敗戦はいせんのち三沢みさわためとらちょうはん家老がろうしょくとなり、三沢みさわ江戸えど時代じだいちょう藩士はんしとしてつづいた。

陸奥むつ三沢みさわ[編集へんしゅう]

三沢みさわためとら息子むすこ三沢みさわためもとちょうはん出奔しゅっぽんして、仙台せんだいはん伊達だてつかえた。ためもと息子むすこ三沢みさわきよしちょうむすめ初子はつね藩主はんしゅ伊達だてつなむね側室そくしつ伊達だて綱村つなむら生母せいぼつなむねには正室せいしつがいなかった) となったことから重臣じゅうしん待遇たいぐうけた。伊達だて綱村つなむら伊達だてむら伊達だてはじめは、伊達だてつなむね三沢みさわ初子はつことのあいだまれたである。

三沢みさわ亀田かめだはん岩城いわき宇和島うわじまはん伊達だて熊本くまもとはん細川ほそかわなどにもながれており、出雲いずも三沢みさわ女系じょけい子孫しそん奥州おうしゅうでも繁栄はんえいした。

因幡いなば三沢みさわ[編集へんしゅう]

三沢みさわためとら息子むすこ三沢みさわ為朝ためとも鳥取とっとりはん池田いけだつかえて因幡いなば三沢みさわとなった。

系図けいず[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]