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平賀ひらがたかし

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平賀ひらが たかし
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 1531ねんまたは1532ねん
死没しぼつ 天文てんもん20ねん(1551ねん
改名かいめい 小早川こばやかわ亀寿かめじゅまる幼名ようみょう)→平賀ひらがたかし
主君しゅくん 大内おおうち義隆よしたか
氏族しぞく 桓武かんむたいら良文よしふみりゅう小早川こばやかわふじせい平賀ひらが
父母ちちはは ちち船木ふなきつねたいらははしょう
養父ようふ平賀ひらがたかしむね
つま しょう
しょう
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平賀ひらが たかし(ひらが たかやす)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう安芸あき国人くにびと領主りょうしゅ大内おおうち家臣かしん沼田ぬまた小早川こばやかわ一族いちぞくで、のち安芸あき平賀ひらが家督かとく相続そうぞくした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

安芸あき国人くにびと領主りょうしゅ船木ふなきつねたいら小早川こばやかわ扶平三男さんなん)の次男じなんとして誕生たんじょう幼名ようみょう亀寿かめじゅまる従兄じゅうけい小早川こばやかわ正平しょうへいがいる。

ちちつねたいら周防すおう長門ながとこく戦国せんごく大名だいみょう沼田ぬまた本家ほんけ当主とうしゅあにきょうたいらしたが尼子あまこかたについていたが、やがてきょうへいだい内方ないほう寝返ねがえったさい尼子あまごのこったとされ、結果けっかてき本家ほんけたもとかつことになり、大内おおうち尼子あまごあらそいの最中さいちゅう天文てんもん10ねん1541ねん)にきょうたいらのちいでいた沼田ぬまた当主とうしゅ正平しょうへいによりめられ自刃じじんしたためりゅうたもつ大内おおうち義隆よしたか庇護ひごされ兄弟きょうだいとも山口やまぐちおくられ、人質ひとじちでありながら義隆よしたかちょうわらわとなった。このとき、9さいまたは10さいであったとされる[1]天文てんもん18ねん1549ねん)にだい内方ないほう安芸あき国人くにびと領主りょうしゅ平賀ひらがたかしむね備後びんご神辺かんべしろ攻撃こうげきちゅう死去しきょすると、りゅうはじめ祖父そふ平賀ひらがひろしは、りゅうはじめおとうと新九郎しんくろう平賀ひらがひろしょう)への家督かとく相続そうぞくねがったが、義隆よしたかはそのねがいをききいれず、ちょうわらわであった亀寿かめじゅまる平賀ひらが当主とうしゅえた。平賀ひらが一族いちぞくはこれを不満ふまんおもっていたが、表立おもてだった抵抗ていこうはできなかった。平賀ひらが当主とうしゅとなった亀寿かめじゅまるもなく義隆よしたかよりへんいみなけて元服げんぷくし、りゅうたもつ名乗なのる。

しかし、その義隆よしたか天文てんもん20ねん1551ねん)にとう隆房たかふさ謀反むほん殺害さつがいされると(だいやすしてらへん)、毛利もうり元就もとなり隆房たかふさ意向いこうもありりゅうたもつ頭崎つむりざきじょう攻撃こうげきし、りゅうたもつ西条さいじょう盆地ぼんち大内おおうち拠点きょてんづち山城やましろ逃亡とうぼうする。そして、づち山城やましろ最後さいご抵抗ていこうこころみるが元就もとなり攻撃こうげきによって落城らくじょう自刃じじんした。平賀ひらが家督かとく新九郎しんくろう平賀ひらがひろしょう)がいだ。生年せいねん不明ふめいであるが、山口やまぐちおくられたとき年齢ねんれいもと逆算ぎゃくさんすると1531ねんあるいは1532ねんとなる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]