高橋たかはし紹運

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高橋たかはし紹運 / 高橋たかはし鎮種
てん叟寺所蔵しょぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん17ねん9月24にち1548ねん10月25にち
死没しぼつ 天正てんしょう14ねん7がつ27にち1586ねん9がつ10日とおか
改名かいめい 千寿せんじゅまる幼名ようみょう)→よしひろしわたる七郎しちろう→鎮理、高橋たかはし鎮種→紹運(ごう
別名べつめい 通称つうしょうわたる七郎しちろう三河みかわ入道にゅうどう主膳しゅぜん兵衛ひょうえ主膳しゅぜん入道にゅうどう仮名かめい
渾名あだな乱世らんせいはな風神ふうじんせんしん化身けしん弓矢八幡ゆみやはちまん摩利まりささえてん化身けしん[1]
諡号しごう 紹運、紹雲
かみごう 三岩みついわ霊神れいじんせいうみ霊神れいじん
戒名かいみょう てん叟院殿どのせいうみ紹運だい居士こじ
墓所はかしょ 福岡ふくおかけん太宰府だざいふ西にしせいてら
岩屋いわやじょうまるあと高橋たかはし紹運
福岡ふくおかけん柳川やないごてん叟寺
福岡ふくおかけん大牟田おおむたの紹運てら
官位かんい 主膳しゅぜんただし
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
主君しゅくん 大友おおとも宗麟そうりん義統よしむね
氏族しぞく よしひろし高橋たかはし
父母ちちはは ちちよしひろしかんはは大友おおとも義鑑よしあきむすめさだぜんいんよしほまれせいおん[2]
兄弟きょうだい よしひろし鎮信紹運おんな戸次とつぎ鎮秀しつ)、みこと寿ことぶきいん大友おおとも義統よしむねしつ
つま 正室せいしつ斎藤さいとう鎮実いもうとそうくもいん[注釈ちゅうしゃく 1][注釈ちゅうしゃく 2]
側室そくしつ萩尾はぎお大学だいがくむすめ松尾まつお殿どの異説いせつ[3]
立花たちばな宗茂むねしげすべぞう市郎いちろうまるみつるじゅう異説いせつぼう異説いせつ[注釈ちゅうしゃく 3]
むすめ甲斐かい/しんかいいん立花たちばな成家なりいえしつ[4]むすめ・於せんだい/さかえちょういん小田部おたべみつるぼうしつ)、むすめ退すさしんいん[注釈ちゅうしゃく 4]大友おおともよしじょうしつ)、むすめよしみ也/慈光いん立花たちばなちかししつ細川ほそかわきょうもとしつ
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高橋たかはし 紹運(たかはし じょううん)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう豊後ぶんご大友おおとも家臣かしんよしひろしかんで、立花たちばな宗茂むねしげ実父じっぷにあたる。

紹運は法名ほうみょうであり、はじめはよしひろし 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友おおとも宗麟そうりん命令めいれい筑後ちくご高橋たかはし名跡みょうせきぎ、高橋たかはし 鎮種(たかはし しげたね)としょうした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

高橋たかはし相続そうぞく[編集へんしゅう]

天文てんもん17ねん1548ねん)、大友おおとも義鑑よしあき重臣じゅうしんよしひろしかん次男じなんとして豊後ぶんごこくかけいじょう[5]まれる。義鑑よしあき大友おおとも義鎮よししげ(のちの宗麟そうりん)とちちかんから1ずつたまわ鎮理名乗なのる。初陣ういじんは13さいえいろく4ねん1561ねん)のだいよん門司もじじょうたたかかんがえられている[6]えいろく10ねん1567ねん)、大友おおとも家臣かしんであった高橋たかはしあきらしゅ豊前ぶぜんこく筑前ちくぜんこく肥前ひぜんこく国人くにびと連携れんけいして謀反むほんこしたさいちちかんあによしひろし鎮信とも出陣しゅつじんして武功ぶこうげた。

えいろく11ねん1568ねん)、立花たちばなあきら討伐とうばつとき、ある夜襲やしゅう作戦さくせん兵士へいしはげむために、自分じぶん握飯にぎりめしべて配下はいかたちにもあたべさせ、士気しきげたという[7]

えいろく12ねん1569ねん)に大友おおとも義鎮よししげ宗麟そうりん)のいのちにより高橋たかはし岩屋いわやじょうたからみつるじょうの2しろぎ、鎮種あらためた[8]以降いこう北九州きたきゅうしゅうぐんけんまかされていた立花たちばなみちゆきとも筑前ちくぜんこく支配しはいすることとなる[9]

北九州きたきゅうしゅう各地かくち転戦てんせん[編集へんしゅう]

天正てんしょう6ねん1578ねん耳川みみがわたたか大友おおとも薩摩さつまこく島津しまつ大敗たいはいきっする。この大敗たいはいによりあによしひろし鎮信義兄ぎけい斎藤さいとう鎮実大友おおとも重臣じゅうしんすみくませきむね佐伯さえきおもんみきょう田北たきた鎮周など多数たすう有力ゆうりょく武将ぶしょう戦死せんし肥前ひぜんこく龍造寺りゅうぞうじ筑後ちくごこく筑紫つくしひろもん筑前ちくぜんこく秋月あきづき種実たねざねらが大友おおともりょうへの侵攻しんこう開始かいしした。同年どうねん、鎮種は剃髮ていはつして紹運ごうしている。

その、紹運ふく大友おおとも筑前ちくぜん五城ごじょうはたみちゆき、紹運と鷲ヶ嶽わしがたけじょうおも大津留おおつる鎮正[注釈ちゅうしゃく 5]大津留おおつる鎮忠[注釈ちゅうしゃく 6]あら平城ひらじろ(安楽あんらく平城ひらじろ)おも小田部おたべ鎮元[注釈ちゅうしゃく 7]柑子岳こうしだけじょうしゅ先後せんご臼杵うすき鎮続づけかん)ととも筑前ちくぜんにおいてすう年間ねんかん秋月あきづき種実たねざね筑紫つくしひろもん原田はらだ隆種たかたね原田はらだあきらなお[注釈ちゅうしゃく 8]龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ宗像むねかた弾正だんじょう[注釈ちゅうしゃく 9]麻生あそう元重もとしげ[注釈ちゅうしゃく 10]すぎれんなみとい註所かんけいなど筑前ちくぜん筑後ちくご肥前ひぜんしょ勢力せいりょくたいして数々かずかずせんかえした。そのたたかいの一覧いちらん以下いかとおりである。

天正てんしょう9ねん1581ねん)、男子だんしのいないみちゆき度重たびかさなる要請ようせいにより、嫡男ちゃくなんみつるとらみちゆきむすめせんだい婿養子むこようしとした[141][142][143][144][145]。これにより高橋たかはし次男じなん高橋たかはしみつるぞうぐこととなる。

筑後ちくご遠征えんせい[編集へんしゅう]

天正てんしょう12ねん1584ねん)の沖田おきたなわてたたか龍造寺りゅうぞうじ敗北はいぼくすると、大友おおとも失地しっち回復かいふく好機こうきて3がつ、3月、豊後ぶんごこくだい友軍ゆうぐん黒木くろき家永いえなが筑後ちくごねこ尾城おじろ攻撃こうげきしたが、しろかた奮戦ふんせん龍造寺りゅうぞうじかた援軍えんぐん土肥どい土肥どい出雲いずもまもる)をまえ戦線せんせん膠着こうちゃくした。8月18にちみちゆきと紹運は大友おおとも義統よしむね出兵しゅっぺい要請ようせいけ、両家りょうけわせておよそ5,000のへい出陣しゅつじんし、やま険難けんなんしょ[注釈ちゅうしゃく 11]鉄砲てっぽうたい埋伏まいふくしていた秋月あきづき筑紫つくし草野くさの星野ほしの連合れんごうぐんらし(田主丸たぬしまるまち片瀬かたせ恵利えり渡口とぐち石垣いしがきひょうたたかい)、1にち筑前ちくぜんから筑後ちくごまで15やく60キロ)の行程こうていはしって、8がつ19にち夕方ゆうがたねこ尾城おじろささえじょうこう牟礼むれ城下じょうか到着とうちゃくした。20日はつかみちゆきはさっそくじょうすすむ椿つばきげん調しらべりゃくし、24にちこう牟礼むれじょう開城かいじょう降服こうふくして、土肥どいしろから佐賀さがもどった[147][148]。つづいていぬ尾城おじろ川崎かわさき重高しげたか河崎かわさき鎮堯)もり、25にちには川崎かわさき大籠おおかごさんじんえしたが、筑後ちくご高良山こうらさん座主ざす丹波たんば良寛りょうかん大祝だいしゅくしんそうさきこうじき甘木あまぎ家長かちょういねいんやすもりらもだい友軍ゆうぐんくわわった[149][150][148][151]

28にち[注釈ちゅうしゃく 12]にはみちゆき一族いちぞく立花たちばな鎮実戸次とつぎみぎ衛門えもん大夫たいふ[注釈ちゅうしゃく 13]しょうとして800の別働隊べつどうたいひきいて坂東ばんどうてらはい城島じょうしましろめた。立花りっかぜいは鎮実以下いか竹迫たかばかんしゅ竹迫たかば日向ひなたもり)と安倍あべちかしつね安倍あべろく弥太やた[注釈ちゅうしゃく 14]勇戦ゆうせんしてすうにんってしろ外郭がいかくこわしたが、城主じょうしゅ西牟田にしむたひきいる300しろへいはげしい抵抗ていこうって100あまりの死傷ししょうしゃした[注釈ちゅうしゃく 15]みちゆきと紹運の本隊ほんたい酒見さかみ榎津えのきづ小保こぼなどの集落しゅうらくはらって、折地おりじ古島こじま水田すいでん柳川やながわ城下町じょうかまちいたった。城主じょうしゅ龍造寺りゅうぞうじはれ籠城ろうじょうてっしたことで[157]りょうしょう城下町じょうかまちいたのち軍勢ぐんぜいてんじて高良山こうらさんにいた大友おおともしょしょうぐんをひらいてねこ尾城おじろそう攻撃こうげきめて、9月1にち一説いっせつには5にち[158]落城らくじょうさせて黒木くろき家永いえなが自害じがいした[147][159][160][161]

9月8にちから11にちまで、蒲池かまち鎮運山下やましたじょう谷川たにがわしろあたり春城しゅんじょうけん松城まつしろ山崎やまざきじょうなど筑後ちくごしょしろ降伏ごうぶく攻落こうらくした。このあいだの9にち柳川やながわじょう周辺しゅうへん小競合こぜりあいがあり[162]10日とおか上瀬うわせだか下瀬したせだか鷹尾たかおむらはらった。そしてもう一度いちど坂東ばんどうてらじんり、豊後ぶんごだい友軍ゆうぐんそう大将たいしょう田原たはらちかしぐんして三潴みずまぐん西牟田にしむたむら酒見さかみむら榎津えのきづ近辺きんぺんすうひゃく民家みんかはらい、山門やまとぐんない龍造寺りゅうぞうじかたしょしろめて城主じょうしゅ田尻たじりあきらしゅ不在ふざいであった鷹尾たかおじょう占領せんりょうした。 つぎ筑後ちくご最大さいだいしょてん柳川やながわじょう攻略こうりゃくはじめようとしたが、このしろ九州きゅうしゅう有数ゆうすうなんおさむ水城みずきであり、そのささえじょう百武ももたけけんけんつまえんひさあま鎮守ちんじゅする蒲船津かまふなつ百武ももたけしろおな水路すいろはいりくみ沼地ぬまち自然しぜん要害ようがいとなっていたなんおさむしろ攻略こうりゃく進展しんてんができなかった。そのため、10月3にちには筑後ちくご高良山こうらさん座主ざす丹波たんば良寛りょうかんすすめもあって、高良山こうらさん引揚ひきあげ、10月4にちりょうぐん草野くさの鎮永[163]竹井たけいじょう進攻しんこうしこのしろ焼却しょうきゃくした。28にち発心ほっしんだけじょうんだ草野くさの追撃ついげきしたが、天険てんけん利用りようしてきずいたこのしろ容易たやすちることができないので、へいてんじて星野ほしのよしみのる鷹取たかとりじょう星野ほしのじょう(やま中城なかしろ)・福丸ふくまるじょう、そして11月14にちとい註所かんじゅん井上いのうえしろめて牽制けんせいする[164]、さらに秋月しゅうげつりょう甘木あまぎ甘水あもずあたりまでちしたのち、もう一度いちど三潴みずまぐんしょしろ掃討そうとうした。そのさい田原たはらちかし秋月しゅうげつぐんとのたたかいはやぶれたので、みちゆきと紹運は高良山こうらさんもどって朽網くさみかんやすし志賀しがちかしもりらと合流ごうりゅうし、高良山こうらさん中心ちゅうしん筑後川ちくごがわ沿ったやなぎざかから北野きたの布陣ふじんしたまま、としえをむかえる[165][166][167]

天正てんしょう13ねん1585ねん)2がつ上旬じょうじゅんから4がつ23にちまで龍造寺りゅうぞうじせい龍造寺りゅうぞうじはれ鍋島なべしまただししげる江上こうじょうしゅ後藤ごとう家信いえのぶ筑紫つくしひろもん波多はたちかし草野くさの鎮永・星野ほしのよしみのる秋月あきづき種実たねざねとい註所かんけい城井しろい鎮房長野ながの種信たねのぶせんなど肥前ひぜん筑前ちくぜん筑後ちくご豊前ぶぜん連合れんごうぐんおよそ30,000あまり大軍たいぐん小森野こもりの[168][169]じゅうさん[170]千本杉せんぼんすぎ祇園原ぎおんばらなど(そうじてつつかわ合戦かっせん久留くるべい合戦かっせん[171][172]数々かずかず激戦げきせんがあったが、みちゆきと紹運、かんやすし良寬りょうかんだい友軍ゆうぐんは9,800の劣勢れっせいながら、兵法ひょうほう戦術せんじゅつ兵器へいき陣形じんけい活用かつようしてしばしば局地きょくちせんてき大軍たいぐん撃破げきはし、った雑兵ぞうひょうすうひゃくおよ兜首かぶとくびけいやくよんひゃくななじゅう戦果せんかげたが、龍造寺りゅうぞうじがわ決定的けっていてき打撃だげきあたえることができなかった[173][174][175]

天正てんしょう13ねん1585ねん)9がつみちゆき病没びょうぼつ[176][177][178][179]。これを好機こうき筑紫つくしひろもんたからみつるじょう奪取だっしゅされたため、紹運は筑後ちくご遠征えんせい中止ちゅうししてたからみつるじょう奪回だっかいする[180][181]。のちにこうもん和睦わぼくし、こうもんむすめ袮を次男じなんすべぞう正室せいしつむかえた[182][183]

岩屋いわやじょうたたか[編集へんしゅう]

天正てんしょう14ねん1586ねん)、島津しまつ大友おおともほろぼすべく岩屋いわやじょう宝満山ほうまんざんじょうのある太宰府だざいふまで北上ほくじょう[184][185]。紹運は防御ぼうぎょうす岩屋いわやじょうにておよそ763めいとも迎撃げいげき島津しまつぐん降伏ごうぶく勧告かんこく拒絶きょぜつし、半月はんつきおよたたかい(岩屋いわやじょうたたか)のすえてきへい多数たすう道連みちづれにし玉砕ぎょくさい岩屋いわやじょう陥落かんらくした。享年きょうねん39[186][187][188][189][190][191]

激戦げきせん様子ようすについて、

  • 筑前ちくぜんぞく風土記ふどき』には「終日しゅうじつ終夜しゅうや鉄砲てっぽうおとやむときなく、士卒しそつのおめきさけこえ大地だいちもひびくばかりなり。城中じょうちゅうにはここを死場所しにばしょさだめたれば、ぐち一足ひとあし引退いんたいらず、いのちかぎりにふせたたかふ。こと鉄砲てっぽう上手じょうずかりければ、だてに遁れ、たけける者共ものどもころさることおびただし」
  • きたこえ戦記せんき』には「合戦かっせんすうおよびしかども、とうしろ究竟くっきょう要害ようがいといい、城主じょうしゅ無双むそう大将たいしょうといい、城中じょうちゅうわずかの小勢こぜいにてまんたいし、さら優劣ゆうれつなかりけり」
  • 西にしはん野史やし』には「紹運雄略ゆうりゃく絶倫ぜつりんへいをあげてし、薩軍やぶることすうかい殺傷さっしょうはなはおおし」

などとしるされている。

紹運は度々どど降伏ごうぶく勧告かんこく拒絶きょぜつ玉砕ぎょくさいしたというのが通説つうせつだが、当時とうじ島津しまつ記録きろくである『上井かみいさとしけん日記にっき天正てんしょう14ねん7がつ26にちじょうにおいて、紹運がかさじんまで出向でむ退城たいじょうしないことを条件じょうけん講和こうわちかけたとの記録きろく存在そんざいする。

墓所はかしょ死後しご[編集へんしゅう]

墓所はかしょ家臣かしんふじない重勝しげかつひらいた福岡ふくおかけん太宰府だざいふ西にしせいてら岩屋いわやじょうまるあと高橋たかはし紹運柳河やなかわはん初代しょだい藩主はんしゅ立花たちばな宗茂むねしげ建立こんりゅうした福岡ふくおかけん柳川やないごてん叟寺とまご三池みいけはん初代しょだい藩主はんしゅ立花たちばな種次たなつぎ建立こんりゅうした福岡ふくおかけん大牟田おおむたの紹運てら[192]

子孫しそん三池みいけはんろくだい藩主はんしゅ立花たちばなたねしゅうななだい藩主はんしゅ立花たちばなたねぜんは、文化ぶんかねん(1805ねん奥州おうしゅう伊達だてぐん下手渡しもてどむら福島ふくしまけん伊達だて)にうつりふうとなり、天保てんぽう6ねん(1835ねんたねぜん長男ちょうなん下手渡しもてどはんだい藩主はんしゅ立花たちばなたねあつしだいに紹運の義烈ぎれつ顕彰けんしょうすべく、7がつ5にちには紹運にせいうみ霊神れいじんかみごうおくかみされて神祇じんぎはくいて三笠みかさ神社じんじゃ創建そうけんされた。明治維新めいじいしんにより三池みいけふくふうとなり明治めいじ3ねん遷座せんざ明治めいじ4ねんけんしゃれっせられ明治めいじ16ねん火事かじにより明治めいじ29ねん8がつ現在地げんざいち遷座せんざされた。以後いごさんかさ神社じんじゃ郷土きょうど発展はってんとともに武勇ぶゆうかみをまつる神社じんじゃとしてひろ尊崇そんすうされている[193]

人物じんぶつ逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • 度量どりょう寛大かんだいにして、高義たかよし真実しんじつなり、此人こそ英雄えいゆうなるべし[194]
  • 文武ぶんぶつうとく智謀ちぼうたっし、諸人もろびと情深なさけぶかちゅうしょう時宜じぎおう私欲しよくく、古今ここんまれなる名将めいしょうであり」、すうひゃくにんさむらい岩屋いわやじょうとも戦死せんしした理由りゆうがそこにあるとしるし、また紹運のひととなりをき「義兵ぎへいもっんだ。家中いえじゅういさみ仁義じんぎいさみである。」、「けんとくあいりて、しゅうことなる。器量きりょうじんにてましませば」[195]
  • 立花たちばなみちゆきならんで、風神ふうじん雷神らいじんしょうされる(風神ふうじん高橋たかはし紹運、雷神らいじん立花たちばなみちゆき)。
  • 「紹運 平生へいぜい情深なさけぶかかりしゆえ 且は忠義ちゅうぎ感化かんかせしゆえ 一人ひとり節義せつぎうしなわざるべし」[196]評価ひょうかされる。
  • ルイス・フロイス本国ほんごくあて報告ほうこくしょで、紹運を「希代きたい名将めいしょう」と絶賛ぜっさんした。
  • 斎藤さいとう鎮実のいもうと一説いっせつにはむすめともいわれる)・そうくもいんとの結婚けっこんまっていたが、度重たびかさなるせん婚儀こんぎび、そのあいだに鎮実のいもうと疱瘡ほうそうかかい、容貌ようぼうわるくなってしまった。鎮実は破談はだんもうたが、紹運は「わたし彼女かのじょ容姿ようしれて婚約こんやくめたのではない、しんやさしさなど内面ないめんかれて婚約こんやくめたのだから、容姿ようしわろうとも問題もんだいはない」と、そのまま正妻せいさいとしてむかえ、二男じなんよんじょもうけた[197]。紹運の菩提寺ぼだいじである柳川やないごてん叟寺にまつられている紹運の位牌いはい現在げんざいそうくもいんとの比翼ひよく位牌いはいとなっており、墓所はかしょ夫婦ふうふごうそうされている。
  • 長男ちょうなんみつるとら婿入むこいりのさい、紹運はすべとらたいし「みちせつ殿どのちちおもってしたうように」といいきかせた。また、備前びぜん長光ながみつ[198][199]あたえ「みちせつ殿どのとわしがあらそうことになったならこれでわしをて」と訓戒くんかいしたといわれている[200][201]
  • 愛用あいよう太刀たち仁王におう三郎さぶろう清綱きよつな、のちに次子じしすべぞうゆずった[202]
  • 耳川みみがわたたかでの大敗たいはいに、ぜん当主とうしゅ高橋たかはしあきらしゅころからの筆頭ひっとう家老がろう北原きたはら鎮久は紹運に大友おおとも見限みかぎるよう説得せっとくしたが、紹運はそれを拒絶きょぜつした。秋月あきづき種実たねざねはこれにをつけ鎮久を籠絡ろうらくし、主君しゅくん・紹運を放逐ほうちくさせるよう画策かくさくしたが、たくらみは紹運に露見ろけん失敗しっぱい。鎮久は岩屋いわやじょう登城とじょうするところを誅殺ちゅうさつされた[50]。その紹運は、経緯けいいらない鎮久の北原きたはらたねきょう誅殺ちゅうさつ仔細しさい説明せつめいし、たねきょう不問ふもんしてのこりょうぐことをみとめた。一方いっぽう秋月あきづき種実たねざねは鎮久の内応ないおう確約かくやくり、内田うちだ彦五ろうめい岩屋いわやじょううばうべく300めいほどの軍勢ぐんぜい派遣はけんするが、この内応ないおう確約かくやくは紹運としめしあわせたたねきょう策略さくりゃくであり、紹運ひきいる軍勢ぐんぜいせされて内田うちだ戦死せんし軍勢ぐんぜいきてかえれたのは30めいほどだったとわれる(りゅうじょう夜襲やしゅうせんふう奈須なすよしじん[72][73][74][203]汚名おめいそそいだ北原きたはらたねきょうはその高橋たかはし重臣じゅうしんとしてもちいられることとなった。
  • 秋月あきづき筑紫つくし原田はらだ周辺しゅうへんはん大友おおとも勢力せいりょくつねかずうえでは劣勢れっせいとなるたたかいをいられたが、敵陣てきじん援軍えんぐん到着とうちゃく虚報きょほうながし、退路たいろせかけの援軍えんぐんはたたせて混乱こんらんさそうなど、武勇ぶゆうだけではなく、智将ちしょうとしての活躍かつやくつたえられている(柴田しばたがわたたか[15][16][17][18]ふう奈須なすよしじん[81][74])。
  • 岩屋いわやじょうたたかいの最中さいちゅう島津しまつかた武将ぶしょうしんおさめちゅうもとしろかためをい「なぜ仏法ぶっぽうかるんじ、キリストきょうくる人心じんしんまどわす非道ひどう大友おおともくされるのか。貴殿きでん武功ぶこう十分じゅうぶん証明しょうめいされました。降伏ごうぶくされたし」といかけたとき、紹運はちゅううえから「主家しゅか隆盛りゅうせいしているときは忠勤ちゅうきんはげみ、功名こうみょうきそものあろうとも、主家しゅかおとろえたときには一命いちめいけてくそうとするものまれである。貴方あなた自身じしん島津しまついえ衰退すいたいしたとき主家しゅかてていのちしむのか。武家ぶけまれたものとしておん仁義じんぎわすれるものは鳥獣ちょうじゅう以下いかである」とこたえ、てき味方みかた双方そうほうから感嘆かんたんこえがあがったとわれている[204][205][206][207][208]
  • 岩屋いわやじょうたたかいにおいて、紹運以下いか全員ぜんいん玉砕ぎょくさいすることになるが、島津しまつぐんにも戦死せんし傷者しょうしゃ3,000にんともわれる甚大じんだい被害ひがいあたえた。島津しまづぐん軍備ぐんびなおしのため時間じかんがかかり、豊臣とよとみぐん九州きゅうしゅう上陸じょうりくゆるしてしまう。紹運らのいのちした徹底てってい抗戦こうせん結果けっかてき島津しまづぐん九州きゅうしゅう制覇せいはちくことになった。
高橋たかはし紹運のはかみぎ)と岩屋いわやじょうたたか戦没せんぼつしゃ慰霊いれいひだりおく)[岩屋いわやじょうまるあと
  • 岩屋いわやじょう落城らくじょう般若はんにゃざか高台たかだいにて紹運以下いか首実検くびじっけんおこなわれた。しゅそう大将たいしょう島津しまつ忠長ただなが床几しょうぎはな正座せいざし、「我々われわれるいまれなる名将めいしょうころしてしまったものだ。紹運殿どのたたかえしん化身けしんのようであった。その戦功せんこう武勲ぶくんいま日本にっぽんるいはないだろう。かれともになれたのであれば最高さいこうともになれただろうに」としょしょうとともになみだながしゅわせたとつたわっている。
  • 天正てんしょう15ねん(1587ねん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよし薩摩さつまこくはい島津しまつ降伏ごうぶくさせる。帰途きと太宰府だざいふ観世音寺かんぜおんじ山王さんのうしゃ)に立花たちばなみつるとらび、ちち高橋たかはし紹運のちゅう節義せつぎを「このみだれた下克上げこくじょう乱世らんせいで、紹運ほどの忠勇ちゅうゆう鎮西ちんぜい九州きゅうしゅう)にいたとはおもわなかった。紹運こそこの乱世らんせいいたはな乱世らんせいはな)である」とそのしんだとつたわっている。
  • 岩屋いわやじょうかぶとまるあとには、家臣かしん子孫しそんによって建立こんりゅうされた「嗚呼ああ壮烈そうれつ岩屋いわや城址じょうし」のいしぶみがある。
  • 岩屋いわや城下じょうかいしきずかれたづかがある。このづか島津しまつぐんかねやとわれ、みずみちびいた老婆ろうば落城らくじょう、紹運をした領民りょうみんめられ、めにされたとつたわっている。
  • 紹運以下いか高橋たかはし家臣かしんだん命日めいにち7がつ27にちには、現在げんざいでも縁者えんじゃによる岩屋いわやじょうせん犠牲ぎせいしゃ追悼ついとう法要ほうようおこなわれている。

家臣かしんだん[編集へんしゅう]

高橋たかはし紹運を題材だいざいとした作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ つづけぐんしょ類従るいじゅうまきだいろくひゃくよんじゅうなな 高橋たかはし』の紹運こう緣邊えんぺんことでは「鎮実いもうと」としている。
  2. ^ 下記かき寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』によると鎮実のおんな記載きさいされたが、それは鎮実のちちちょうみのるかいくずしへん歿後ぼつご家主やぬしとなった鎮実がいもうと養女ようじょとしてあつかうのだとされる。
  3. ^ 萩尾はぎお大学だいがくむすめ松尾まつお殿どのんだという男児だんじ庶子しょし)。新宮しんぐう高橋たかはし[3]
  4. ^ 大友おおとも松野まつのよしひろし関係かんけいりゃく系図けいずによればじょうしつは紹運おんなそうしげるいもうと退すさしんいん殿どの梅月うめつき春光しゅんこうたる人物じんぶつとされて大友おおとも義政よしまさ大友おおとも義親よしちかはは明記めいきし、義政よしまさ改名かいめい貞勝さだかつ記載きさいされている。
  5. ^ 大鶴おおつる九郎くろう上総かずさかい式部しきぶしょう輔鎮しゅん相模さがみもり鎮正、小田部おたべ上総かずさ入道にゅうどうむねくもきよしけいとも。小田おだ部民ぶみんしょう輔鎮けい松浦まつうら隼人はやと鎮隆)の大津留おおつる大鶴おおつるひだり馬頭めずちょうきよしあとぐ。[10]
  6. ^ 大鶴おおつるわたるじょかんなお式部しきぶしょう輔鎮ちゅう弾正だんじょう入道にゅうどうむねあき山城やましろ入道にゅうどうそうあまね安芸あき入道にゅうどう右京うきょう入道にゅうどうそうしげるとも。大津留おおつる鎮正の三男さんなんちちから鷲ヶ嶽わしがたけじょう城主じょうしゅしょく継承けいしょうする。父子ふしとも式部しきぶしょう輔としょうしたことがあり、活躍かつやく年代ねんだいかさなるのでよくどう一人物いちじんぶつしるされている。[11]
  7. ^ 大鶴おおつる九郎くろう俊之としゆきみんしょう輔鑑長門ながとまもる鎮通、鎮道、鎮元、みちさきがけ、紹叱とも。大津留おおつる鎮正の次男じなん祖父そふ小田おだ部民ぶみんしょう輔鎮けい松浦まつうら隼人はやと鎮隆)のあとぐ。[12]
  8. ^ もと大津留おおつる大鶴おおつる弾正だんじょうかんひさしじつ大津留おおつる式部しきぶ鎮忠の伯父おじおいおなじ「かんひさし」と「弾正だんじょう」の使用しようしていたのでよく混同こんどうされている。大友おおともから原田はらだ寝返ねがえると推測すいそくされる。[13]
  9. ^ 宗像むねかたさだ受領じゅりょうめい官位かんいからみると「弾正だんじょう」を使用しようすることはなかったと確認かくにんされた。一族いちぞく他人たにんもしくは宗像むなかたたまものせいける家臣かしん推測すいそくされる。[13][14]では許斐このみ城主じょうしゅ宗像むねかた弾正だんじょうちゅう記述きじゅつされた。
  10. ^ 麻生あそうみんすすむ大友おおとも命令めいれいしたがって宗像むなかたぐん津屋崎つやざき上松あげまつ城主じょうしゅとなったが、のち秋月しゅうげつ寝返ねがえった。[13]
  11. ^ いさましい強行きょうこうぐん態勢たいせいてき領地りょうち筑後川ちくごがわみみおさめ連山れんざん高峰こうほう九十九折つづらおりそして道路どうろ整備せいび鷹取山たかつとやまなどをえた[146]
  12. ^ 天正てんしょうじゅういちねん[152]せつ、「天正てんしょうじゅうさんねんおつとり正月しょうがつ[153]せつ、「天正てんしょうじゅうねんきゅうがつせつ[154]がある。
  13. ^ みちゆき親族しんぞくみぎ衛門えもん大夫たいふ名乗なのったのは、戸次とつぎ(立花りっか)みぎ衛門えもん大夫たいふ鎮実但馬たじまりょうひとしのみとされる。
  14. ^ 薦野こものぞう名代なだい。『柳川やながわはん叢書そうしょ』・だいいちしゅうによると、天正てんしょう12ねん(1584ねん)8がつ28にち筑後ちくご城島じょうしまたたかいで戦死せんしした。なお、のち11がつ下旬げじゅん三潴みずまぐん掃討そうとうせん西牟田にしむたじょう戦死せんししたせつ有力ゆうりょく。『柳川やないご史料しりょうへん近世きんせい文書ぶんしょ前編ぜんぺん)39 薦野こもの文書ぶんしょ いちはち どうゆき書状しょじょう (前略ぜんりゃく) いち安部あべ六弥太前廿八動之砌、於西牟田にしむたひょう分捕ぶんどこう前日ぜんじつ石垣いしがきひょう分捕ぶんどつかまつこう両度りょうど比類ひるいこうさんじん以来いらい両家りょうけ討補頸ひゃくあまりにてこう大利おおとしだん満足まんぞくこう、(後略こうりゃく) きゅうがつさんにち どうゆき花押かおう ぞう P.230。[155]
  15. ^ 立花たちばな戸次とつぎみぎ衛門えもん太夫たゆう城島じょうしまじょう攻防こうぼうせん戦死せんししたとする文献ぶんけんは『きたこえせん(九州きゅうしゅう治乱ちらん)』『鍋島なべしまただししげこう』『歴代れきだい鎮西ちんぜいこころざし: 鍋島なべしま文庫ぶんこぞう』『筑後ちくご国史こくし筑後ちくご将士しょうし軍談ぐんだん』などがあるが、[156] によるとこういう記述きじゅつあきらかな誤記ごき指摘してきされた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  158. ^ 柳川やないご史料しりょうへん近世きんせい文書ぶんしょ前編ぜんぺん)39 薦野こもの文書ぶんしょ いちはち どうゆき書状しょじょう (前略ぜんりゃく) いち黒木くろきこといたり紹運・みちせつ種々しゅじゅわびげんこう、一昨日朔日猫尾属御案利候、ため人質ひとじち黒木くろき伊豆いずまもるそうたく罷出まかりでこう、以其ひびきだか牟礼むれいればん者共ものどもかか方々かたがた落行こうのり人数にんずう差遣さけん普請ふしん堅固けんご申付もうしつけいちしゅうかごこう、 (後略こうりゃく) きゅうがつさんにち どうゆき花押かおう ぞう P.230。
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 古賀こが敏夫としお戸次とつぎどうゆき高橋たかはし紹運(長編ちょうへん歴史れきし物語ものがたり戦国せんごく武将ぶしょうシリーズ)》』(1974ねん
  • 吉永よしながただしはる九州きゅうしゅう戦国せんごく武将ぶしょうたち』(海鳥うみどりしゃ、2001ねん)95-105ぺーじ ISBN 4874153216
  • 吉永よしながただしはる筑前ちくぜん戦国せんごく争乱そうらん』(海鳥うみどりしゃ、2002ねん)197ぺーじ-231ぺーじ ISBN 4874153372
  • 中野なかのひとし穴井あない綾香あやか ちょ柳川やないご編集へんしゅう委員いいんかい へん柳川やながわ歴史れきし4・近世きんせい大名だいみょう立花りっか』2012ねん 
  • 桑田くわた和明かずあき戦国せんごく時代じだい筑前ちくぜんこく宗像むねかたはならんしゃ、2016ねんISBN 978-4-905327-60-8 
  • 中野なかのとう立花たちばな宗茂むねしげ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ227〉、2001ねんISBN 978-4-642-05220-7 
  • 犬塚いぬづかもりじゅん ちょ高野たかの和人かずと へん歴代れきだい鎮西ちんぜいこころざし復刻ふっこく)、あおしおしゃ、1992ねんNCID BN07817739 
  • 矢野やのはじめさだ校訂こうてい筑後ちくご國史こくし : 筑後ちくご將士しょうし軍談ぐんだんした名著めいちょ出版しゅっぱん、1972ねんNCID BN08011786 
  • 馬渡まわたりしゅんつぎ ちょ高野たかの和人かずと へんきたこえせん(九州きゅうしゅう治乱ちらん)』 ちゅうあおしおしゃ、1995ねん1がつNCID BN11676164 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
高橋たかはしあきらしゅ
筑後ちくご高橋たかはし当主とうしゅ
高橋たかはし鎮種(紹運)
次代じだい
高橋たかはしみつるぞう