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立花たちばなせんだい

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立花たちばなせんだい
生誕せいたん えいろく12ねん8がつ13にち1569ねん9月23にち)
死没しぼつ 慶長けいちょう7ねん10がつ17にち1602ねん11月30にち
かみごう みずだま霊神れいじん
戒名かいみょう 光照みつてるいん殿どのいずみほまれりょうきよしだい禅定ぜんじょうあま
父母ちちはは ちち立花たちばなみちゆき
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立花たちばなせんだい(たちばな ぎんちよ、えいろく12ねん8がつ13にち[注釈ちゅうしゃく 1]1569ねん9月23にち) - 慶長けいちょう7ねん10月17にち1602ねん11月30にち))は、戦国せんごく時代じだい女性じょせい武将ぶしょう立花たちばな宗茂むねしげ正室せいしつ

略伝りゃくでん[編集へんしゅう]

大友おおとも有力ゆうりょく家臣かしんばんしゅ)であった戸次とつぎかんれん立花たちばなみちゆき)の一人娘ひとりむすめとして筑後ちくごこく山本やまもとぐんげん福岡ふくおかけん久留米くるめ田主丸たぬしまるまち竹野たかの)のといほん(といもと)しろにて誕生たんじょう[注釈ちゅうしゃく 2]名前なまえふくまれる「誾」のは“つつしじんはなし”という意味合いみあいをふくめて肥前ひぜん僧侶そうりょぞうぎん名付なづけた。でんやくには、みちゆき後妻ごさい仁志にしひめとの仲介ちゅうかいったえんで、城戸きど知正ともまさめいじられる[2]

天正てんしょう3ねん5月28にち1575ねん7がつ6にち)、誾千だいが7さいとき立花りっかじょうじょうただしじょうりょうしょ道具どうぐ一切いっさいゆずられている。みちゆき後継こうけいしゃとなるべき息子むすこがおらず、一人娘ひとりむすめしろとくがせるため、通常つうじょう男性だんせい当主とうしゅ相続そうぞくおな手続てつづきをみ、主家しゅかである大友おおともゆるしをうえで(同年どうねん6月28にち8がつ4にちけで大友おおとも宗麟そうりん義統よしむね安堵あんどける)、ひめ立花りっかじょうしろとくとした[3][4]戦国せんごく時代じだいでもまれなれいわれている。天正てんしょう9ねん1581ねん)、高橋たかはし紹運大友おおとも宗麟そうりん宿老しゅくろうよしひろしかん次子じし)の長男ちょうなんであるそうしげる戸次とつぎわたる七郎しちろうみつるとら)をみちゆき養嗣子ようしし婿養子むこようし)にむかえ、天正てんしょう10ねん11月18にち1582ねん12月13にち)、本丸ほんまる西にししろにおけるはた名字みょうじしゅくをもってはじめて立花たちばなせい名乗なのる。

さき立花りっかじょう家督かとくとなったみちゆき立花りっかせいをもちいることをのぞんだが、大友おおとも本家ほんけは2離反りはんをした立花たちばなあきらせい名乗なのることをきらったともわれ、みちゆき立花たちばなせい名乗なのるのはもとかめ2ねん(1571ねん)、筑前ちくぜんこく守護しゅごだい就任しゅうにんしてからのことになる。

その天正てんしょう6ねん1578ねん)11月、日向ひなたこく耳川みみがわ本家ほんけ大友おおとも島津しまつへの大敗たいはい耳川みみがわたたか)、天正てんしょう13ねん9月11にち1585ねん11月2にち)の実父じっぷ戸次とつぎどうゆき御井みいぐん北野きたのでの陣没じんぼつ天正てんしょう14ねん7がつ27にち1586ねん9がつ10日とおか)の義父ぎふ高橋たかはし紹運の岩屋いわやじょうたたかでの討死うちじにて、九州きゅうしゅう平定へいていをなした豊臣とよとみ秀吉ひでよしにより天正てんしょう15ねん 6月25にち1587ねん7がつ30にち)に立花たちばな宗茂むねしげ筑後ちくご柳河やなかわ拝領はいりょうする(秀吉ひでよしたかし行状ぎょうじょう)。これにより、従来じゅうらい大友おおとも被官ひかん立場たちばから秀吉ひでよしちょくしんわる。

豊前ぶぜん覚書おぼえがき』によれば、6月11にち7がつ16にち)に小野おの和泉いずみもりたいしてしろりのいのちはっせられ、12にち17にち未明みめいには城下しろした井出いできょう到着とうちゃく13にち18にち)には柳川やながわじょうりが完了かんりょうし、15にち20日はつか)には誾せんだいはじめ奥方おくがた立花りっかじょうて、17にち22にち)には一統いっとう柳河やなかわりをたしたとしている。しかしながらその、誾せんだいしろ宮永みやながきょかまえて「宮永みやなが殿どの」とばれるようになる。そのわけは、夫婦ふうふ不和ふわしるされている。

関ヶ原せきがはらたたかさいには、そうしげる京極きょうごく高次こうじこも近江おうみ大津おおつじょうにあり(しゅ毛利もうり元康もとやす小早川こばやかわしげるつつみ筑紫つくしひろもん以下いか15,000)、関ヶ原せきがはら本戦ほんせんには参加さんか出来できなかった(この高次こうじ降伏ごうぶく)。西にしぐん敗戦はいせんらせをくと、そう大将たいしょう毛利もうり輝元てるもとだい坂城さかきでの籠城ろうじょう進言しんげんするもれられず、海路かいろにて九州きゅうしゅうもどり、10がつ初旬しょじゅんには柳河やなかわじょうはいっている(10がつ10日とおか11月10にちづけ大津おおつじょう合戦かっせん感状かんじょう家臣かしんあたえられている)。誾せんだいいえ従者じゅうしゃなどすうじゅうめいひきいてみずか出迎でむかえた。

柳河やなかわもどったそうしげるは、小野おの鎮幸大将たいしょうとして10がつ20日はつか11月20にち)には三潴みずまぐん江上えがみげん福岡ふくおかけん久留米くるめ)・はちいんげん福岡ふくおかけん大川おおかわ三潴みずまぐん大木おおきまち付近ふきんにて、西にしぐんから寝返ねがえった鍋島なべしまぐん衝突しょうとつする(江上こうじょう合戦かっせんはちいんたたかい)。22にち22にち)には、大友おおともとのせんせいした黒田くろだ如水じょすい軍勢ぐんぜい三潴みずまぐん酒見さかみげん福岡ふくおかけん大川おおかわ)に到着とうちゃくする。おな善後ぜんご処理しょりおこなうため上方かみがたのこしてきたたんなかば左衛門尉さえもんのじょうが、家康いえやす発給はっきゅうにかかる「身上しんじょう安堵あんど朱印しゅいん」をたずさえ、下妻しもづまぐん水田すいでんげん福岡ふくおかけん筑後ちくご)に到着とうちゃくしてたたかいは和平わへいへとうごきだす。山門やまとぐん久末ひさすえげん福岡ふくおかけん柳川やないご)にじん加藤かとう清正きよまさのもとへ薦野こものぞう立花たちばなけん)を派遣はけんし、25にち25にち)には柳河やなかわじょう開城かいじょうされている。

このときの誾せんだい武勇ぶゆうとして、逸話いつわのこされている。小西こにし行長ゆきなが領地りょうち制圧せいあつした加藤かとう清正きよまさそうしげる開城かいじょう説得せっとくすべく、柳河やなかわ進軍しんぐんしたおり[注釈ちゅうしゃく 3]、「街道かいどうすすむと、宮永みやながというとおることになりますが、ここは立花たちばな宗茂むねしげ夫人ふじん御座所ござしょです。柳川やながわ領民りょうみん立花りっか大変たいへんしたっており、宮永みやながかん軍勢ぐんぜい接近せっきんしたとあれば、みな武装ぶそうしてせてくるでしょう」とかされたため、宮永みやながむら迂回うかいして行軍こうぐんしたとされている[6][7][8]

そうしげる改易かいえきされると誾せんだい肥後ひごこく玉名たまなぐん腹赤はらかむら市蔵いちぞうたくげん熊本くまもとけん玉名たまなぐん長洲ながすまち)に居住きょじゅうする。そうしげる高瀬たかせってほどないころに、清正きよまさ小野おの鎮幸にあたえた書状しょじょうには「左近さこん殿御とのご内儀ないぎへい粮まいらせこうところ、御礼おれいとして飛脚ひきゃくたまうについて御状おんじょうあずかりこうまこと隔心かくしんがましき御礼おれいなどこうへば、かえって迷惑めいわくせしめこう、しかるべきよう心得こころえたのこう左近さこん殿御とのご身上しんじょう落着らくちゃく到来とうらいこうはばしめあずかるべきこう」といった慇懃いんぎん文言もんごん使つかわれている(小野おの文書ぶんしょ141)。2ねん慶長けいちょう7ねん1602ねん)7がつごろからやまいわずらい、金剛こんごういんみつじょうによる医療いりょう祈祷きとう甲斐かいなく、10月17にち11月30にち)に死去しきょした。享年きょうねん34。引導いんどう筑後ちくご山門やまとぐん上庄かみしょう正覚しょうがくやま聖衆しょうじゅいん来迎寺らいこうじだい二代曼蓮社誠誉上人、法名ほうみょう光照みつてるいん殿どのいずみほまれりょうきよしだい禅定ぜんじょうあま。誾せんだいにより、ちちどうゆき血筋ちすじ途絶とだえることとなった。

立花りっか稲荷いなりしんつかさどった稲荷山いなりやま観音寺かんおんじ金剛こんごういんの「当社とうしゃ傳記でんき」(立花りっか文書ぶんしょ藩政はんせい1091)には、


いち光照みつてるいんさまにも信仰しんこうつね居間いま勧請かんじょう朝暮ちょうぼゆうはいこう 同年どうねん肥後ひごこくゆうえつ腹赤はらかむら百姓市蔵茂申者方へ

ため居候いそうろうにも同様どうようゆう信仰しんこう、其節の金剛こんごういんため召御近村ちかむらやめざいこうさまおおせづけ高瀬たかせざい大濱おおはまむらさるしょ歓喜寺かんぎじ
さる無住むじゅうぜんてらやめざいこう祈祷きとうとうさるじょうこうしょ

いち光照みつてるいんさま肥後ひごこく腹赤はらかむら百姓ひゃくしょう市蔵いちぞうさるしゃかたため居候いそうろうにも同社どうしゃゆう信仰しんこう慶長けいちょうみずのえとら6がつ16にち召候につき
其節金剛こんごういん罷出まかりでこうしょふか心中しんちゅうの思召おぼしめしためざいうらためづけこう御鏡おかがみ、併御守本尊まもりほんぞん千手観音せんじゅかんのん守刀まもりがたな
ひとしゆう 奉納ほうのうこう 其御むねえつは、此節病気びょうき快気かいき思召おぼしめしじょう ながりょうこれどうを以可たてまつつるしむねおけに、御意ぎょい
稲荷いなりしんいちしょたてまつたかしおけこう同年どうねん10がつ17にち 在世ざいせいさんひろえよんさいにてゆう逝去せいきょこうみぎ蔵屋敷くらやしきたてまつそうこうとくども
つるしこれづけ 御意ぎょいこれどおり みぎ御鏡おかがみに而心供養くようとうさるじょうこう。 こん以朝くれつとむほうさるじょうこう

どうはちみずのとねんいち周忌しゅうき為相ためすけとうこうぶし瀬高せたか上庄かみしょう来迎寺らいこうじやめこし引導いんどうさるじょうこう。 此節より
光照みつてるいん殿どのいずみほまれりょうしん大姉だいしたてまつしょうこう 其後りょうしんてら建立こんりゅう
  どうてら供養くようごととういん住職じゅうしょくこれしゃ御寺おてらつめひとしため拝領はいりょうこう。且又とういんあずか
  稲荷いなり大明神だいみょうじん 遷宮せんぐうふしりょうしんてら和尚おしょうしょう罷出まかりで御宮おみやつめ御座ぎょざこうごと

  同社どうしゃ遷宮せんぐうふしは、紅粉屋べにや罷出まかりで御鏡おかがみこうごと

のこされている。

また、誾せんだいけられていたじゅうれんさだ次男じなんじゅう八右衛門はちえもんなりじゅうは、誾千だいなながつよりおこりやましにかかりじゅうがつじゅうななにちくなったとする[9]


じゅう由来ゆらいしょ

 先祖せんぞ十時摂津守連貞、りょうきよしさま守役もりやくおおせづけもとかめさんねんはちがつ成長せいちょうまで御守おまもりしょうつとむ、 其後家職かしょくおおせづけこう
 そうしげるさま慶長けいちょうねんじゅうがつさんにち肥後ひごこくえつゆうこうりょうきよしさまにも肥後ひごこくえつゆうこう、 此節 りょうきよしさま御供ごくう
 じゅう摂津せっつ 元来がんらいこれやくを以嫡八右衛門はちえもんなりじゅう御供ごくうつかまつこうさま申付もうしつけこうしょ、 女性じょせいさま御供ごくう是非ぜひそんこうあずかさるこうへば、
 いままで御家おいえ相続そうぞくへん 宮永みやながさま御家人ごけにんどもやめざいこう、其方上方かみがた出陣しゅつじんみぎり御供ごくうためつかまつこうはずこうとくども
 宮永みやながさま先途せんどさとしたばこう留置りゅうちこうしかに此度御供ごくうしょうだんこうは、三代相恩さんだいそうおん主人しゅじんを致忘却候哉、
 其方わたるいなあずかそんこうは、わがとう御供ごくうさるゆかり申聞もうしきけこうづけ嫡子ちゃくし八右衛門はちえもん かしこり致御きょう肥後ひごこくやめこし
 玉名たまなぐん腹赤はらかむら百姓ひゃくしょう蔵屋敷くらやしきへ僅計居宅きょたく出来でき慶長けいちょうななねんとらねんまで介抱かいほうさるじょう同年どうねんなながつおこりやましはんゆう
 其跡痢病にためなりじゅうがつじゅうななにち逝去せいきょゆうやまいちゅう忠勤ちゅうきん介抱かいほうさるじょうこう死期しきまで見届みとどけさるじょうこう
 其後番頭ばんがしらおおせづけあいつとむやめざいこうとおるじゅういちうまはちがつひまおおせづけ、□上妻あがつまあいまきやめざいこうさまおおせづけこうしょ
 とおる十卯年十二月為御合力白米五俵拝領仕候、明和めいわ三戌年八月四拾石拝領仕候、文政ぶんせいななさるねんきゅうがつ

 三柱宮御贈神にづけ拾石じっこく加増かぞう都合つごう拾石じっこくだかおおせづけこう

とある。

また、宇田うたみぎ衛門えもん子孫しそん宇田うだ啓二けいじの「乍恐たてまつねがい くち上覚じょうかく[10]でも、誾せんだい病気びょうきにふれている。


乍恐たてまつねがい 口上こうじょうさとし

 いちわたし祖先そせん宇田うたみぎ衛門えもんさるしゃ乍恐
 光照みつてるいんさまこうさるじょう 御國みくにより肥後ひごこく腹赤はらかむら御供ごくうさるじょうゆう
  逝去せいきょこうぶしまで さるじょう すんでやまいちゅういたりおもこうむ
  御意ぎょいこう次第しだいしげる御座ぎょざこう同所どうしょ はかばん おおせづけなんゆうしょうつとむ其後
  墓所はかしょ国許くにもとこう引取ひきとこれぶし御供ごくうさるじょう御寺おてらこれかたすうだい掃除そうじ
  罷出まかりでこうしゃ委細いさいなり承知しょうちこう御座ぎょざこう すんで祖父そふみぎ衛門えもんだいまでしゃ年々ねんねん添米
  ひろえ七俵宛被為拝領難有相勤罷在候 しかしょみぎ衛門えもんしょうはてこうみぎり其子そくおや 生得しょうとく病身びょうしんニ而
  墓所はかしょ掃除そうじとうしょうつとむけんすうだい拝領はいりょうまいしげじょうこう 且又勿躰腹赤はらかニ而之
  位牌いはいいま 御法みのりさいさるじょうこうみぎ訳合わけあいニ而私風情ふぜいこう 御法みのりさいふしごとしげる
  御寺おてら罷出まかりでときため頂戴ちょうだいまことニ以冥至極しごくなんゆう仕合じあいたてまつそんこう しかしょ此節
  格別かくべつこれ 御法みのりさいづけ何卒なにとぞため以 慈悲じひうえ 以前いぜんうつしつう掃除そうじばん
  おおせづけしたこうハヽ すうだいこうおんすえしょうりつわたししゃ及申じょう
  先祖せんぞまで如何いかなん有可ゆかたてまつそんこうあいだ 此段思召おぼしめしこうハヽおおせよろしよう

  した重畳ちょうじょう たてまつねがいじょうこう 以上いじょう

    

せんだいきょう市蔵いちぞうたくった実母じつぼ仁志にしひめたからいつきいん)は、死去しきょのち米多比ねたび鎮久立花たちばな丹波たんば仁志にしひめ於吉の婿むこ[注釈ちゅうしゃく 4]もん註所三右衛門さんえもんせいれん仁志にしひめ実家じっか)・立花たちばな弥左衛門やざえもんみつる仁志にしひめみちきよし[注釈ちゅうしゃく 5]はない、丹波たんばたくにひきとられ、元和がんわ2ねん5月28にち(1616ねん7がつ11にち)、肥後ひご熊本くまもと柳川やながわ小路こうじ)にてくなる[11]命日めいにち御忌ごきには、もん註所米多比ねたび安武やすたけ仁志にしひめ最初さいしょよめさき)・城戸きどみちゆきとの媒酌人ばいしゃくにん)・金剛こんごういん信仰しんこう稲荷いなり守護しゅごいえ)・宇田うだ(誾千だい居住きょじゅうした腹赤はらかむら市蔵いちぞう子孫しそんで、誾せんだい墓守はかもり)が招待しょうたいされている。

柳河やなかわげん福岡ふくおかけん柳川やないご移転いてんそうしげる別居べっきょ事実じじつじょう離婚りこん)するなど、おっととは不仲ふなかであったとわれ[注釈ちゅうしゃく 6]夫婦ふうふあいだ子供こどもはいなかった。しかしそうしげると誾千だいをめぐるエピソードには「不仲ふなか」とはいえないものもおおく、いち史料しりょうでは不仲ふなか裏付うらづけるものがない。またそうしげるは誾せんだい死別しべつ継室けいしつむかえているが(みずまついん長泉ながいずみいん)、ついに実子じっしもうけることはなかった。

せんだい菩提寺ぼだいじは、りょうしんてら福岡ふくおかけん柳川やないご西魚屋にしうおやまち)で、立花たちばな宗茂むねしげが、瀬高せだか福岡ふくおかけんみやま上荘かみそう来迎寺らいこうじそうで、戦国せんごく時代じだい柳川やながわ城主じょうしゅ蒲池かまちあきらもりまごになる来迎寺らいこうじだいよんせいえんはちすしゃおうほまれ上人しょうにんまねいてひらかせた。また熊本くまもとけん玉名たまなぐん長洲ながすまち江戸えど時代じだい建立こんりゅうされた供養くようとうがあり、形状けいじょうから「ぼたもちさま」とばれている。また、2016ねん善導寺ぜんどうじから誾せんだい墓石はかいし発見はっけんされた[13]

死後しご[編集へんしゅう]

長洲ながすまちにある誾せんだい供養くようとう

文政ぶんせい3ねん1820ねん)6がつ8にちには誾せんだいみずだま霊神れいじんおっとそうしげる松陰まつかげ霊神れいじんかみごうおくかみされた[14]

天保てんぽう8ねん1837ねん)には、真言宗しんごんしゅう当山とうざん門主もんしゅ醍醐寺だいごじ三宝さんぼういん)より誾せんだいあきらやなぎ大明神だいみょうじん御璽ぎょじおくかみされている[15]

柳川やながわじょう北東ほくとう鬼門きもん)に鎮座ちんざするさんはしら神社じんじゃに、ちち立花たちばなみちゆきおっとそうしげるとも祭神さいじんとしてまつられて、誾せんだい慈愛じあいかみとして崇敬すうけいされている[16]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ひめ柳川やながわにてしょうするせいへぬきたる本吉もとよし清水しみず観音かんのん也。その権柄けんぺいつよまたるべきなり。
旧記きゅうきればひめ天資てんし婉麗にして文武ぶんぶしょげいたっ穎悟えいご慈愛じあい識見しきけんだか邁也。
ひめいむあつしにしてしょごうぎょすることほうあり。天正てんしょう14ねん島津しまつ大軍たいぐん立花山たちばなやま包囲ほういせしとき、また慶長けいちょう5ねんはちいん戦争せんそうさいひめよろい薙刀なぎなたおんなぐん編成へんせいして一方いっぽう防禦ぼうぎょしてのこさんなからしめたり。またのう士卒しそつ救護きゅうご愛撫あいぶせしためみな一命いちめいささげんことをねがいへり。此のごと才幹さいかんおそらくは女王じょおうこく卑弥呼ひみこおよところにあらざるなり。
しかるにひめいむつよし丈夫じょうぶぐるしょあり。加藤かとう清正きよまさ柳川やながわはいるにあたりてみちみちびけしゃとえふ、いわみちゆきこう息女そくじょせんだいひめ山門やまとぐん西宮にしのみやながむらじゅう邦人ほうじんふくす。みちうら宮永みやながてば、ひめ指揮しきしたつよやりすものおおからんと。ってこれけてみちだかれり。もうしょうかしこ避せらるる、おっとれ此のごとし。
またぶんろくせいかんやくゆたかこう肥前ひぜん名護なごにあるや、一夕いっせきひめのべす。とき美貌びぼう才藻さいそう九州きゅうしゅうしょ夫人ふじんちゅうだいいちとなす。また高論こうろん卓説たくせつき、おおいに勇将ゆうしょうどうゆきこうおんなぢずとなせり。
国民こくみん神功しんこう皇后こうごう聖母せいぼとして尊崇そんすうせしごとく、さとみん国母こくぼとして敬仰けいぎょうするもまたあるをる也。女傑じょけつちゅうさきがけたるもの乎。 [7]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

西国さいこくいちうつくしいひめ」としょうされる美女びじょであるとともに、ちちゆずりの武勇ぶゆうけたひめというはなしおおつたわっている。

  • 大友おおとも文書ぶんしょ』によると、「戸次とつぎ伯耆ほうきもり大友おおとも宗麟そうりん重臣じゅうしんなれど、きずにてあしがくさりおとろえたり。されどむすめありて勇壮ゆうそう城内きうち腰元こしもと女中じょちゅうじゅうめいほど訓練くんれんし、せんはじめには一斉いっせい射撃しゃげきをなしててき心胆しんたんうばう」という記述きじゅつがある。
  • 鉄砲てっぽうはもちろん、薙刀なぎなたもかなりの腕前うでまえであった。
  • そうしげる文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき不在ふざいあいだ秀吉ひでよしは誾千だい言葉ことばだくみに名護屋なごやしろ手込てごめにしようとしたが、それを察知さっちした誾せんだいはおきの女中じょちゅう鉄砲てっぽうかまえさせて護衛ごえいさせ、またみずからも武装ぶそうをしてんだため、それにおそれをなした秀吉ひでよしあしなかったとされる[6][17]
  • そうしげる不在ふざいあいだしろまもりはつまである誾千だいまかされていた。そのため侍女じじょたちとともに武装ぶそうし、てきからの攻撃こうげきそなえていた[6]
  • 関ヶ原せきがはらたたかいのときには、居館きょかんから甲冑かっちゅう出撃しゅつげきさき柳川やながわ西側にしがわ渡船とせんこうにて鉄砲てっぽうたいかま射撃しゃげきして鍋島なべしま水軍すいぐんちかづけず、そして南側みなみがわき、自分じぶん別居べっきょちゅう宮永みやながむらにてせる加藤かとう清正きよまさぐん威嚇いかくして、加藤かとうぐん進軍しんぐんあらためどうさせたとされている[6][18][8]

ただ名護なご屋城やしろはなしなど確実かくじつ史料しりょうでは裏付うらづけがとれないものもおおい。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 一說いっせつには8がつ11にち。『柳川やないご史料しりょうへん近世きんせい文書ぶんしょ前編ぜんぺん)74 じゅう(正道せいどう)文書ぶんしょ いちいちきゅう 願書がんしょ どうゆきさまいちりょうしん大姉だいししゃえいろくひろえ二己巳年八月十一日筑後国於問本村御誕生被遊、ぎん千代様与奉申候、誕生たんじょう早速さっそく城戸きどしゅみず知正ともまさ御守おまもりおおせづけこうしかしょもとかめ三壬申年八月十五日亀菊丸(安武やすたけほうきよし茂庵もあんたからいつきいんさま安武やすたけ阿波あわもり殿どの御子みこ)御家おいえ連子つれこ御両人ごりょうにんかめ菊丸きくまる殿どの・於吉ひめ、於吉ひめしゃ米多比ねたび丹波たんば鎮久ニよめ箱崎はこざき座主ざす麟清法印ほういん弟子でしすすむこうづけしゅみずなり親分おやぶんふくこうこれ家柄いえがらしげ御座ぎょざこうあいだ御守おまもりあとやく十時摂津守連貞江被仰付、もとかめさんねんはちがつヨリ成長せいちょうまで御守おまもりしょうつとむこう、其後段こうだん取立とりたてなり家老がろうしょくまでおおせづけ、(後略こうりゃく) P.722。
  2. ^ 一般いっぱんに、立花たちばなみちゆき唯一ゆいいつ実子じっしとしてられるが、『薦野こもの』などでは、薦野こものぞう婚約こんやくしゃ候補こうほとなった「せいせんだい」という実姉じっしにあたる人物じんぶつ存在そんざいしるされている(せいせんだいは12さい早世そうせい)。ただし「せいせんだい」は誾せんだいははとい註所安芸あきまもる三善みよしあきらゆたかむすめ仁志にしひめ吉子よしこや於吉とも)とするせつもある[1]が、仁志にしひめ米多比ねたび鎮久と結婚けっこんしてさんにん男子だんし出産しゅっさんしており、12さい早世そうせいした人物じんぶつとは別人べつじん。もしくはみちゆき前妻ぜんさい入田にゅうたとのあいだまれたむすめだとしても、みちゆき入田にゅうたは1550ねんごろ離縁りえんしており、彼女かのじょが1550ねんまれたと推測すいそくすると1562ねんで歿したことになり、1575ねんごろみちゆきより立花りっか承継しょうけいしゃ要請ようせいぞう婚約こんやくしゃ候補こうほとなることもありない。よってせいせんだいは、入田にゅうたとい註所むすめ認定にんていすることはむずかしく、生母せいぼ不明ふめいである。
  3. ^ 三池みいけ藩主はんしゅ立花たちばな直次なおじ江之浦えのうらじょう籠城ろうじょうしている。また鷹尾たかおじょうには米多比ねたび鎮久がった[5]
  4. ^ 清正きよまさ加藤かとうの「うしかた馬方うまかた騒動そうどう」で加藤かとう美作みさくくみしたために、元和がんわ4ねんそうしげる棚倉たなぐら御預おあづけとなる。このときに、米多比ねたび親子おやこによりみなもとさとしてら遺骸いがいは、仁志にしひめさま信仰しんこう久留米くるめ善導寺ぜんどうじないひじりひかりいんへと改葬かいそうされている。(現在げんざいはかのこっている)。また、金剛こんごういんみつじょうは誾せんだいひめいつけどおり「稲荷いなりしん」をそうしげるもと棚倉たなぐらへと遷宮せんぐうする。のち、そうしげる柳河やなかわさいふうもと6ねんには「稲荷いなりしん」も奥州おうしゅうより柳河やなかわじょう中之島なかのしまへと遷宮せんぐうされている。これをもって現在げんざいも「棚倉たなぐら稲荷いなり」とばれている立花たちばなせんだいひめ物語ものがたり
  5. ^ みちきよしについては、「柳川やないご史料しりょうへんⅤ・近世きんせい文書ぶんしょ(前編ぜんぺん)」p31田村たむら文書ぶんしょ解説かいせつくわしくり。
  6. ^ 豊臣とよとみ秀吉ひでよしいのち立花たちばな山城やましろ退柳川やながわじょうにうつることがまったときにも、誾千だいはげしく抵抗ていこうしたことをつたえる文書ぶんしょがある[12]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 吉永よしながただしはる戦国せんごく九州きゅうしゅうおんなたち西日本新聞社にしにっぽんしんぶんしゃ、1997ねんISBN 4816704329 
  2. ^ ろう纂聞 うめだけおおやけのここと p.69~70
  3. ^ 柳川やないご史料しりょうへん近世きんせい文書ぶんしょ前編ぜんぺん)61立花りっか文書ぶんしょ戸次とつぎどうゆき譲状ゆずりじょう』358ぺーじ
  4. ^ 中野なかのとう穴井あない綾香あやか柳川やながわ歴史れきし4・近世きんせい大名だいみょう立花りっか』P.41~42
  5. ^ 伊藤いとうもりもとむへんたまみね時代じだい
  6. ^ a b c d 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅう 補遺ほいはちよんそうしげる夫人ふじん壮擧そうきょ 213~215ぺーじ
  7. ^ a b きゅう柳川やながわはんこころざし』誾せんだいひめ 642~643ぺーじ
  8. ^ a b 立花りっかのここう』 P.152~153
  9. ^ 柳川やないご資料しりょうへん近世きんせい文書ぶんしょ前編ぜんぺん)、2011ねん、722ぺーじ。"じゅう正道せいどう文書ぶんしょ128"。 
  10. ^ 柳川やながわ立花りっか文書ぶんしょ4634
  11. ^ とい註所旧記きゅうき
  12. ^ 中野なかのとう立花たちばな宗茂むねしげ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2001ねんISBN 4642052208 
  13. ^ せんだいひめ立花たちばな宗茂むねしげおおやけ正室せいしつはか確認かくにん 供養くようとう文字もじ感嘆かんたんこえ 久留米くるめ善導寺ぜんどうじ 郷土きょうど会誌かいし紹介しょうかい 柳川やながわ有明ありあけ新報しんぽう』2016ねん2がつ18にち
  14. ^ きゅう柳川やながわはんこころざしちゅうまき だいじゅうしょう 寺社じしゃ だいよんせつ さんきょうむら だいいちけんしゃ 高畑たかはたさんはしら神社じんじゃ 469ぺーじ
  15. ^ きゅう柳河やなかわ藩主はんしゅ立花りっか文書ぶんしょ藩政はんせい1091・「当社とうしゃ傳記でんき
  16. ^ さんはしら神社じんじゃについて of 成就じょうじゅ復活ふっかつ縁結えんむすびのしゃ福岡ふくおかけん柳川やないご”. 成就じょうじゅ復活ふっかつ縁結えんむすびのしゃ福岡ふくおかけん柳川やないご. 2019ねん12月16にち閲覧えつらん
  17. ^ きゅう柳川やながわはんこころざし』誾せんだいひめ 643ぺーじ
  18. ^ きゅう柳川やながわはんこころざし』誾せんだいひめ 642ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • きゅう柳河やなかわ藩主はんしゅ立花りっか文書ぶんしょ」(柳川やないご古文書こもんじょかん保管ほかん
  • 渡辺わたなべむらおとこ宮永みやながさま一代記いちだいき資料しりょう」(柳川やないご古文書こもんじょかん保管ほかん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
立花たちばなみちゆき
筑前ちくぜん立花たちばな当主とうしゅ
1575ねん - 1581ねん
通例つうれいでは代数だいすうふくめない)
次代じだい
立花たちばな宗茂むねしげ