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耳川みみがわたたか

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耳川みみがわたたか
耳川
耳川みみかわ
戦争せんそう戦国せんごく時代じだい
年月日ねんがっぴ1578ねん
場所ばしょ高城たかぎ川原かわら
結果けっか島津しまつ勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
島津しまつ 大友おおとも
指導しどうしゃ指揮しきかん
島津しまつ義久よしひさ
島津しまつ家久いえひさ
田原たはらちかしけん
戦力せんりょく
20,000 - 30,000 30,000 - 40,000
損害そんがい
- -

耳川みみがわたたか(みみかわのたたかい)は、天正てんしょう6ねん1578ねん)、豊後ぶんごこく大友おおとも宗麟そうりん薩摩さつまこく島津しまつ義久よしひさが、日向ひなたこく高城たかぎ川原かわはら宮崎みやざきけん木城きじょうまち)を主戦しゅせんじょうとした合戦かっせん。「高城川たきがわたたかい」、「高城たかぎ川原かわらたたかい」ともいう。

後述こうじゅつのように、耳川みみかわ敗北はいぼくしただい友軍ゆうぐん撤退てったいし、勝利しょうりした島津しまつぐん追撃ついげきした地点ちてんにあるかわ名前なまえであり、主戦しゅせんじょうとはことなることに注意ちゅういようする。

天正てんしょう年間ねんかん以前いぜん大友おおとも島津しまつ関係かんけい

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豊後ぶんご大友おおとも薩摩さつま島津しまつとの関係かんけいながあいだ良好りょうこうであった。島津しまつ日向ひなた伊東いとうとの対立たいりつにおいてもえいただし年間ねんかん以来いらい大友おおとも度々たびたび島津しまつ有利ゆうり条件じょうけんでの仲介ちゅうかいしており、おたがいの勢力せいりょくけんには干渉かんしょうしあわない事実じじつじょう同盟どうめい関係かんけいにあった。不安定ふあんてい領内りょうない情勢じょうせいつづいていた島津しまつにとっては自国じこく安定あんていたもうえ大友おおともとの関係かんけい重要じゅうようであり、あきらなどとの対外たいがい交易こうえき関心かんしんゆうしていた大友おおともにとっても海上かいじょうでの船舶せんぱく安全あんぜんはかじょう島津しまつとの関係かんけい重要じゅうようであったからである。実際じっさい島津しまつりょうない漂着ひょうちゃくした大友おおともふねあつかいをめぐって天正てんしょう元年がんねん1573ねん)8がつ25にちづけ大友おおともばんしゅ田原たはらちかしけん臼杵うすきあきらそく志賀しがちかしたび佐伯さえきおもんみきょう)から島津しまつ老中ろうじゅう川上かわかみ忠克ただかつ島津しまつひさし村田むらたけいじょう伊集院いじゅういん久信ひさのぶ平田ひらたあきらむね伊集院いじゅういんただしきん)にてた連署れんしょじょうには両家りょうけ関係かんけいを「貴家きか島津しまつ当方とうほう大友おおとも代々だいだい披得御意ぎょいこう」と表現ひょうげんし、反対はんたいに9がつ島津しまづがわ川上かわかみ村田むらた伊集院いじゅういんただしきんから大友おおともがわてられた返書へんしょにも両家りょうけが「けんめい」の関係かんけいであることがしるされており、両家りょうけ関係かんけい同盟どうめい関係かんけいであったことをしめしている。また、えいろく3ねん1560ねん)に室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる島津しまつ伊東いとう対立たいりつ仲裁ちゅうさいにあたったときも、島津しまつ貴久たかひさ義輝よしてる使者ししゃである伊勢いせさだこう政所まんどころ執事しつじ)にたいして大友おおともくわえた和平わへいであればれると回答かいとうしたと、島津しまつ家臣かしん樺山かばやま善久よしひさのこしている。この同盟どうめい関係かんけい結果けっか島津しまつ不安定ふあんてい領内りょうないかせ、大友おおとも北部ほくぶ九州きゅうしゅうでのたたかいの最中さいちゅう島津しまつ伊東いとう背後はいごかれる不安ふあん解消かいしょうできたとかんがえられる[1]

合戦かっせん背景はいけい概要がいよう

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大友おおとも日向ひなた侵攻しんこう

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ところが、天正てんしょう5ねん(1577ねん)、日向ひなた伊東いとうよしゆう島津しまつ敗北はいぼく日向ひなた一時いちじてき退去たいきょし、大友おおともせた。大友おおとも宗麟そうりん伊東いとう主従しゅうじゅうに300まちあたえて庇護ひごした。また伊東いとう家臣かしんであり島津しまつ投降とうこうした門川かどがわ城主じょうしゅ米良めらよんろうみぎ衛門えもん潮見しおみ城主じょうしゅみぎまつ四郎しろう左衛門さえもん山陰さんいん城主じょうしゅよねりょう喜内きない大友おおとも家臣かしん佐伯さえきおもんみきょう日向ひなた侵攻しんこう先導せんどうやくもうた。

こうした状況じょうきょうなか天正てんしょう6ねん(1578ねん)にはいると、大友おおとも宗麟そうりん義統よしむね島津しまつ北上ほくじょう対抗たいこうして伊東いとう日向ひなた復帰ふっきさせるために3まんとも4まんともいわれるぐんひきいて日向ひなたへの遠征えんせい決定けっていする。だい友軍ゆうぐん肥後ひごこう豊後ぶんごこうかれ、志賀しがみちてる朽網くさみかんやすしいち萬田まんだあきららが肥後ひごくちを、大友おおとも宗麟そうりん親子おやこ豊後ぶんごくち担当たんとうした。天正てんしょう6ねん(1578ねん)2がつ21日大にちだい友軍ゆうぐん先鋒せんぽう日向ひなたこく門川かどがわじょうはいった。豊後ぶんご退去たいきょしていた伊東いとう家臣かしんだん先鋒せんぽうくわわり日向ひなたくにしゅ調しらべりゃくおこなった。伊東いとう家臣かしん長倉ながくら祐政すけまさ山田やまだそうあきららは耳川みみかわえて島津しまづ勢力せいりょくけん侵入しんにゅういししろ挙兵きょへいをした。それに呼応こおうして内応ないおう約束やくそくしていた伊東いとう家臣かしんだん米良めらよんろうみぎ衛門えもん右松みぎまつよんろう左衛門さえもんよねりょう喜内きない挙兵きょへい島津しまづかたけん城主じょうしゅ土持つちもちちかしなりめた。3月18にちには佐伯さえき入道にゅうどう田原たはらちかしけん田北たきた鎮周らが土持つちもちちかしなり攻撃こうげき参加さんかし、だい友軍ゆうぐんによる日向ひなた侵攻しんこう本格ほんかくした。土持つちもちちかしなり松尾城まつおじょう籠城ろうじょうしたが、4がつ15にち陥落かんらく行縢むかばきへの撤退てったいちゅうらえられ斬殺ざんさつされた。だい友軍ゆうぐん耳川みみがわ以北いほく日向ひなた制圧せいあつ成功せいこうし、島津しまつ勢力せいりょく耳川みみがわ以南いなん後退こうたいした。一方いっぽう島津しまつ義久よしひさは6がつ島津しまつ忠長ただながそう大将たいしょうとした7000めいほどぐん日向ひなたへと派遣はけん長倉ながくら祐政すけまさ山田やまだそうあきら伊東いとう家臣かしんだん600めいほどまもいししろめ(石城せきじょう合戦かっせん)をめいじた。島津しまづぐんは7がつ8にちそう攻撃こうげき開始かいししたが、副将ふくしょう川上かわかみ範久のりひさ討死うちじにそう大将たいしょう島津しまつ忠長ただながひだりひじ射抜いぬかれ重傷じゅうしょううなど、500めい以上いじょう死傷ししょうしゃをだして伊東いとうぐんかえちにされ敗北はいぼくし、日向ひなた佐土原さどわらへと撤退てったいした。大友おおとも義統よしむねいししろ伊東いとう籠城ろうじょうぐん感状かんじょうおくり、勝利しょうりをねぎらっている。だい友軍ゆうぐん土持つちもちりょう攻略こうりゃく領内りょうない神社じんじゃ仏閣ぶっかく徹底的てっていてき破壊はかいしている。その背景はいけいにはキリシタンだった宗麟そうりん意向いこう影響えいきょうしている。一説いっせつによると宗麟そうりん日向ひなたでキリシタン王国おうこく建設けんせつをめざしたという。宗麟そうりんキリスト教きりすときょうへの傾倒けいとう大友おおとも家臣かしんだんとのあいだ協和きょうわしょうじさせた。宗麟そうりんは8がつ宣教師せんきょうしとともに日向ひなたこくはいり、鹿しか本営ほんえいいた。

島津しまつ反撃はんげき

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島津しまつ義久よしひさ大友おおとも侵略しんりゃくのために、日向ひなた伊東いとう家臣かしんだん攻略こうりゃく開始かいしした。島津しまつただしひさらのしょしょうが8がつ伊東いとう家臣かしんだんまも日向ひなたこく上野うえのじょうくまじょう攻撃こうげき、9月にりょうしろ攻略こうりゃくしている。上野うえのじょう攻略こうりゃくから4にち将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき使者ししゃ島津しまつしたおとずれた。大友おおとも北九州きたきゅうしゅうめぐって毛利もうり攻防こうぼうつづけていたが、その毛利もうりには織田おだ信長のぶながによって京都きょうとから追放ついほうされていた室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき亡命ぼうめいしていた(幕府ばくふ)。毛利もうり上洛じょうらくらないのは大友おおとも背後はいごおどかしているからだとかんがえた足利あしかが義昭よしあきは、9月に島津しまつ大友おおともりょううば大友おおとも毛利もうりりょう侵攻しんこうめさせるようにめいじる御内おんうちしょした。これをけた島津しまつ義久よしひさ御内おんうちしょ大義名分たいぎめいぶんとしてさらなる北上ほくじょう決定けっていする[2]義久よしひさ島津しまつただしひさら1まんぐん北上ほくじょうさせふたた長倉ながくら祐政すけまさ山田やまだそうあきら伊東いとう家臣かしんだんまもいししろ攻撃こうげきした(石城せきじょう合戦かっせん)。おさむしろせんは9月19にちから開始かいしされたが、29にち島津しまづぐん攻撃こうげきくっ伊東いとう籠城ろうじょうぐん講和こうわもうた。島津しまづぐんしろへい生命せいめい保証ほしょうし、長倉ながくら祐政すけまさ山田やまだそうあきら伊東いとう家臣かしんだんいししろわたすと豊後ぶんご退去たいきょした。

合戦かっせん経過けいか

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10がつ20日はつか耳川みみがわ以北いほく布陣ふじんしていただい友軍ゆうぐん南下なんか再開さいかい島津しまつぐん占拠せんきょしていた高城たかぎ包囲ほういした。佐土原さどわらしろおも島津しまつ家久いえひさ高城たかぎ救援きゅうえんむかっていた途中とちゅう佐伯さえきおもんみきょうぐん遭遇そうぐうして撃退げきたいされ敗北はいぼくした。だい友軍ゆうぐんすうせんちょう鉄砲てっぽうくにくずばれる大筒おおづつ使用しようして3にわたって攻撃こうげきおこなったが、島津しまつ家久いえひさ高城たかぎ城主じょうしゅ山田やまだ有信ありのぶしろまもった。10月24にち島津しまつ義久よしひさ薩摩さつま大隅おおすみ軍勢ぐんぜい動員どういん、3まんへいひきいて鹿児島かごしま出陣しゅつじんした。島津しまづぐん紙屋かみやじょう経由けいゆして佐土原さどわらじょうはいると日向ひなたない島津しまづへいもあわせ4まんぐんになった。11月9にち島津しまつ義弘よしひろ島津しまつただしひさ伊集院いじゅういんただしとう上井かみいさとしけんらのしょしょう財部たからべじょうはいぐんひらいた。松原まつばら布陣ふじんするだい友軍ゆうぐん攻撃こうげきするため陽動ようどう部隊ぶたいと3つの伏兵ふくへい部隊ぶたい小丸川おまるがわ渡河とかして出立しゅったつし、島津しまつ義弘よしひろ小丸川おまるがわ南岸なんがん布陣ふじん戦況せんきょう確認かくにんした。300めい陽動ようどう部隊ぶたい松原まつばらだい友軍ゆうぐん攻撃こうげき荷駄にだ破壊はかいした。事態じたい気付きづいただい友軍ゆうぐん松原まつばらじん救援きゅうえんのために急行きゅうこうすると、陽動ようどう部隊ぶたい伏兵ふくへい埋伏まいふく地点ちてん退却たいきゃくした。また伏兵ふくへい支援しえんするため高城たかぎ島津しまつ家久いえひさ出撃しゅつげきだい友軍ゆうぐん本隊ほんたい牽制けんせいした。3つの伏兵ふくへい部隊ぶたい埋伏まいふく地点ちてん到達とうたつしただい友軍ゆうぐん攻撃こうげきし、松原まつばらじん侵入しんにゅうはなった。島津しまつ義弘よしひろ島津しまつただしひさ島津しまつ忠長ただなが伊集院いじゅういんただしとうらの主力しゅりょく部隊ぶたい混乱こんらんじょうじて渡河とかし、高城川たきがわ南岸なんがん布陣ふじんした。前哨ぜんしょうせん損害そんがいけて大友おおともかた田原たはらちかしけんら16にん使者ししゃ島津しまつじんへと派遣はけん講和こうわもうた。そのなかだい友軍ゆうぐんない講和こうわ主戦しゅせんれている状態じょうたいであった。ぐんでは主戦しゅせん田北たきた鎮周交戦こうせん主張しゅちょうしていたが、大将たいしょう田原たはらちかしけん島津しまつぐんとの和睦わぼく交渉こうしょうすすめていたため講和こうわとしておうじなかった。おやけん説得せっとくにもかかわらず、田北たきた鎮周と佐伯さえきはじめてんがこれを不服ふふくとして島津しまつぐん攻撃こうげき仕掛しかけてしまったため、だい友軍ゆうぐんはこれを放置ほうちするわけにもいかず、やむなく島津しまつぐんたたかうことになった。また、だい友軍ゆうぐん軍師ぐんしすみくませきむねは「血塊けっかいくも頭上ずじょうおおっているときたたかうべきでない」と主張しゅちょうするも、田北たきた鎮周と佐伯さえきはじめてんかくくませきむね主張しゅちょうをききいれず結局けっきょく交戦こうせんいたった。佐伯さえきはじめてん当初とうしょ田原たはらちかしけんとも慎重しんちょう講和こうわろんとなえていたのだが、ぐんせき田北たきた侮辱ぶじょくされ、それが原因げんいん田北たきたとも攻撃こうげき仕掛しかけてしまった。

一方いっぽう大友おおともかたぐんった島津しまつ義久よしひさ合戦かっせんそなえてしょしょう埋伏まいふくさせ、みずからは1まんへいひきいてしろざか布陣ふじんした。11月12にちあさ田北たきた佐伯さえき軍勢ぐんぜい小丸川おまるがわ北岸ほくがん布陣ふじんする島津しまづぐん前衛ぜんえいへの攻撃こうげき開始かいしした。だい友軍ゆうぐん本隊ほんたいにんつづき、島津しまつぐん前衛ぜんえい部隊ぶたい壊滅かいめつ北郷きたごうひさし北郷きたごう久盛ひさもりらが討死うちじにした。だい友軍ゆうぐん小丸川おまるがわわたると島津しまつ義久よしひさ本隊ほんたい攻撃こうげきした。島津しまつ義弘よしひろ島津しまつとしひさし伊集院いじゅういんただしとうらがだい友軍ゆうぐんむかえうち、伏兵ふくへい部隊ぶたい指揮しきする島津しまつただしひさ馬標うまじるしてた。伏兵ふくへいだい友軍ゆうぐん攻撃こうげきし、高城たかぎ島津しまつ家久いえひさしろざか島津しまつ義久よしひさ攻撃こうげき参加さんかした。だい友軍ゆうぐん態勢たいせいととのえるために撤退てったいはじめ、そのさい一部いちぶ部隊ぶたいたけばとふち方面ほうめん撤退てったいし、ふち佐伯さえきはじめてんらが溺死できししてしまう。川原かわら久尾くおじん制圧せいあつ本陣ほんじん制圧せいあつされると大友おおともぐん耳川みみがわ方面ほうめんへと撤退てったい開始かいしだい友軍ゆうぐん撤退てったいさい耳川みみかわわたりきれず溺死できししたしゃや、そのさい島津しまづぐん兵士へいしころされてしまったものもいたという。戦況せんきょうけて、大友おおとも宗麟そうりん態勢たいせいととのえるために豊後ぶんご一時いちじ退去たいきょした。耳川みみがわ合戦かっせん島津しまつぐん勝利しょうりわった。

影響えいきょう

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大友おおともはこのたたかいにより、佐伯さえきそうたかし田北たきた鎮周や、筑後ちくごこく国人くにびと蒲池かまちあきらもりをはじめとする家臣かしん兵力へいりょくうしなった。このため、立花たちばなみちゆきぐんかんつとめていた志賀しがちかしもりつみ糾弾きゅうだんしている。足利あしかが義昭よしあき御内おんうちしょ大友おおとも支配しはいない有力ゆうりょく国人くにびとたちにもおくられ、その結果けっか秋月あきづき種実たねざね筑前ちくぜんこく)の反抗はんこう龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ肥前ひぜんこく)の謀反むほんなどをはじめとする国人くにびとたちの離反りはんまねき、その勢力せいりょく領国りょうごくがれることとなった(勿論もちろん島津しまつをはじめはん大友おおとも諸氏しょし義昭よしあき本当ほんとう協力きょうりょくする意思いしがあったかはべつ問題もんだいとなる)。また、足利あしかが義昭よしあき上洛じょうらく妨害ぼうがいする障害しょうがいろくヶ国かこく凶徒きょうと」(天正てんしょう6ねん12月10にちづけ毛利もうり輝元てるもとあて島津しまつ義久よしひさ書状しょじょう)として糾弾きゅうだん対象たいしょうになった大友おおともは、義昭よしあきほうじる毛利もうりおよび御内おんうちしょけた島津しまつ龍造寺りゅうぞうじ長宗我部ちょうそかべ近隣きんりん有力ゆうりょく大名だいみょうすべてと対立たいりつすることになり、大友おおとも京都きょうと織田おだ政権せいけんおよびその後継こうけい政権せいけんとなった豊臣とよとみ政権せいけんとの関係かんけいふかめて大友おおとも窮地きゅうちだっするためのはん足利あしかが義昭よしあき外交がいこう政策せいさく展開てんかいすることになる[2]

島津しまつ一連いちれんたたかいによって一時いちじてき九州きゅうしゅううち拮抗きっこうするてきかた減少げんしょうし、薩摩さつまこく大隅おおすみこくなどの統治とうちつよはじめた。大友おおともからのうしたてよわくなった肥後ひごこく球磨くま相良さがら島津しまつたい投降とうこうしてしまう事態じたいとなり、それをけて肥後ひごこく阿蘇あそ阿蘇あそ島津しまつからの直接ちょくせつ侵略しんりゃくける状態じょうたいおちい投降とうこうし、また肥前ひぜんこく龍造寺りゅうぞうじ鍋島なべしま沖田おきたなわてたたか有馬ありま島津しまつ連合れんごうぐんくだされたため、九州きゅうしゅうない国人くにびとたち島津しまつかたになびきはじめる。さらに島津しまつ大友おおとも本拠地ほんきょち豊後ぶんごこく侵略しんりゃく開始かいしいち現在げんざい大分おおいた付近ふきんにまでせまることとなった。しかし大友おおとも宗麟そうりんからの要請ようせい受諾じゅだくした豊臣とよとみ秀吉ひでよし九州きゅうしゅう征伐せいばつによって島津しまつ敗北はいぼく放逐ほうちくされ、島津しまつ秀吉ひでよし降伏ごうぶくすることになる。

合戦かっせんとき系列けいれつ

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  • 天正てんしょう5ねん(1577ねん)12がつ10日とおか
  • 天正てんしょう6ねん(1578ねん) 1がつ
  • 3月15にち
  • 4がつ7にち
    • だい友軍ゆうぐん日向ひなたはいり、「しゃばら(やしろがはら)」(げん延岡のべおか夏田なつたまち-稲葉崎いなばさきまち-無鹿むしかまち一帯いったい)に布陣ふじんする。この前後ぜんごキリスト教きりすときょうによる理想りそうこく建設けんせつをめざしていただい友軍ゆうぐんけん領内りょうない神社じんじゃ仏閣ぶっかくをことごとくはらった(フロイス『日本にっぽん』)ため、寺社じしゃ建築けんちく仏像ぶつぞう古文書こもんじょなど宮崎みやざきけんきた文化財ぶんかざいがことごとく破壊はかいやぶあしされる。その結果けっか宮崎みやざきけん北部ほくぶ地域ちいき近世きんせい以前いぜんいち史料しりょうは、ほとんど壊滅かいめつてきうしなわれている。
  • 4がつ10日とおか
    • だい友軍ゆうぐん土持つちもちちかしなりけん松尾城まつおじょう攻略こうりゃくし、土持つちもち滅亡めつぼう以後いご、11月まで佐伯さえきそうたかし(おもんみきょう)が「牟志」(げん延岡のべおか鹿しかまち)にざいじんする。
  • 9月6にち
    • 9月4にち臼杵うすき出発しゅっぱつした大友おおとも宗麟そうりんいちぎょう海路かいろけんはいる(フロイス『日本にっぽん』)。同行どうこうイエズスかい宣教師せんきょうし修道しゅうどうフランシスコ・カブラルルイス・デ・アルメイダ、アンドレ・ドゥオーリア、ジョアン・デ・トルレス(日本人にっぽんじん)。「牟志」(げん延岡のべおか無鹿むしかまち)にかり司祭しさいかん教会きょうかいて、以後いご毎日まいにち、オルガン音楽おんがくともなったミサおこなう。宗麟そうりんつまのジュリア、その家臣かしんたちも礼拝れいはいおとずれる(フロイス『日本にっぽん』)。
  • 9月11にち 毛利もうりりょうである備後びんご・鞆に滞在たいざいちゅう将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき島津しまつたいして、自身じしん上洛じょうらくへの協力きょうりょくおよび毛利もうり敵対てきたいする大友おおともりょうへの侵攻しんこう奪取だっしゅもとめる御内おんうちしょ発給はっきゅうする。
  • 10がつ20日はつか
  • 11月9にち - 12にち だか城川原じょうがわらたたかい(通称つうしょうとしてはいわゆる「耳川みみがわたたかい」として認知にんちされている合戦かっせん
  • 11月11にち ゲリラせんなどで松山まつやまひねちにする。
  • 11月12にち 島津しまつぐん本隊ほんたい島津しまつ義久よしひさたい)、しろざかじょうじんこれない)に到着とうちゃく
    • りょうぐん木城きじょうまちづる付近ふきん合戦かっせんにおよび、緒戦しょせん島津しまつかた北郷きたごうひさし北郷きたごう久盛ひさもり討死うちじに
    • 戦況せんきょう拮抗きっこうしているところをろうざかじょうひねから島津しまつ以久ひがしから攻撃こうげき高城たかぎ篭城ろうじょうへい西にしから攻撃こうげきしたため、態勢たいせいととのえるためにだい友軍ゆうぐん豊後ぶんご方面ほうめん撤退てったい開始かいしする。そのさい耳川みみかわ方面ほうめん撤退てったいした一部いちぶ部隊ぶたい溺死できししゃ発生はっせい。これをけて「耳川みみがわたたか」と通称つうしょうされる。
    • 11月12にちよる大友おおとも宗麟そうりん態勢たいせいととのえるために牟志本陣ほんじんから豊後ぶんご一時いちじ撤退てったい(『川上かわかみひさたつ耳川みみがわ日記にっき』、フロイス『日本にっぽん』)。
  • 11月14にち けん土持つちもち島津しまつ被官ひかん(『川上かわかみひさたつ耳川みみがわ日記にっき』)し、けん島津しまつりょうとなる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 長田ながた弘通ひろみち天正てんしょう年間ねんかん以前いぜん大友おおとも島津しまつ」『大分おおいたけん地方ちほう』143ごう、1991ねん /所収しょしゅう:八木やぎ直樹なおき へん豊後ぶんご大友おおともえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい西国さいこく武士ぶし研究けんきゅう だいかん〉、2014ねんISBN 978-4-86403-122-6 
  2. ^ a b 伊集いじゅ守道もち天正てんしょう島津しまつ領国りょうごく拡大かくだい足利あしかが義昭よしあき関係かんけい」『九州きゅうしゅう史学しがく』157ごう、2010ねん /所収しょしゅう:新名にいな一仁かずひと へん薩摩さつま島津しまつえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい西国さいこく武士ぶし研究けんきゅう だいいちかん〉、2014ねんISBN 978-4-86403-103-5 

関連かんれん作品さくひん

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ボードゲーム

外部がいぶリンク

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