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島津忠長 (宮之城家) - Wikipedia コンテンツにスキップ

島津しまつ忠長ただなが (宮之城みやのじょう)

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島津しまつ忠長ただなが
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 天文てんもん20ねん7がつ17にち1551ねん8がつ18にち
死没しぼつ 慶長けいちょう15ねん11月9にち1610ねん12月23にち
改名かいめい かま菊丸きくまる幼名ようみょう)、又五郎またごろう図書としょあたまひだり馬頭めず通称つうしょう
別名べつめい 紹益(法号ほうごう
戒名かいみょう 既成きせいそういさお庵主あんしゅ
墓所はかしょ 宮之城みやのじょうそういさおてら
官位かんい 図書としょあたま
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 島津しまつ義久よしひさ義弘よしひろ家久いえひさ
はん 薩摩さつまはん家老がろう
氏族しぞく 島津しまつ
父母ちちはは ちち島津しまつ尚久なおひさはは頴娃えいけんひろしむすめ
兄弟きょうだい 多久たくまさししつ忠長ただなが喜入きいれ久道ひさみちしつ
つま 島津しまつただししょうむすめ
ちゅうばい久元ひさもとじき根立ねだちよりゆきおんな島津しまつ豊久とよひさしつ町田まちだ久幸ひさゆきしつ
テンプレートを表示ひょうじ

島津しまつ 忠長ただなが(しまづ ただたけ[1]/ただなが)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての武将ぶしょう薩摩さつまこく島津しまつの庶流で、島津しまつ義久よしひさ従兄弟いとこであり家老がろう、さらに老中ろうじゅう

生涯しょうがい

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島津しまつ貴久たかひさ末弟ばってい尚久なおひさ嫡男ちゃくなんとして誕生たんじょうした。天正てんしょう4ねん1576ねん)の日向ひなたこく高原こうげんじょうめに従軍じゅうぐん天正てんしょう6ねん1578ねん)7がつ石城せきじょう合戦かっせんそう大将たいしょうつとめるが攻略こうりゃく失敗しっぱい。9月のだい石城せきじょう合戦かっせんには副将ふくしょうとして従軍じゅうぐんして攻略こうりゃく耳川みみがわたたか従軍じゅうぐんこうげ、天正てんしょう9ねん1581ねん)の肥後ひごこく水俣みなまたじょうめではわき大将たいしょうおおづけかった。

また、天正てんしょう12ねん1584ねん島津しまつ家久いえひさとも肥前ひぜん有馬ありま援兵えんぺいとして島原しまばら渡海とかいし、沖田おきたなわてたたか軍功ぐんこうげた。

天正てんしょう12ねん(1584ねん)10がつ1にちから7にちまでのいち週間しゅうかんにかけて、島津しまつ義弘よしひろから金瘡きんそうじゅつ伝授でんじゅけ、秘伝ひでん医書いしょあたえられている。金瘡きんそう医術いじゅつとは戦傷せんしょう全般ぜんぱんとこれに付随ふずいする病気びょうき、およびこれから派生はせいする婦人病ふじんびょうあつかった医術いじゅつのことである[2]

天正てんしょう14ねん1586ねん)に高橋たかはし紹運まも岩屋いわやじょうめのそう大将たいしょうつとめ、7がつ27にち攻略こうりゃくには成功せいこうするが、わずか800にもたないしろへい決死けっし反撃はんげきにより900にん以上いじょう戦死せんししゃ、1500にん以上いじょう死傷ししょうしゃしてしまった。その、8がつ6にちには宝満山ほうまんざんじょう攻略こうりゃく。さらに立花りっかじょう包囲ほういするが、岩屋いわやじょう損害そんがいおおきかったためちからめをする余力よりょくがなく、さらに毛利もうりぜい九州きゅうしゅうかってはっしたことをるとしろめを断念だんねん。8月24にち秋月あきづき種実たねざね筑前ちくぜんぜい包囲ほういまかせて肥後ひご撤退てったい結局けっきょく島津しまつぐんによる筑前ちくぜん侵攻しんこう失敗しっぱいわった。

秀吉ひでよし降伏ごうぶく天正てんしょう15ねん1587ねん)、義久よしひさ上洛じょうらくきょうをしそのまま豊臣とよとみ人質ひとじちとして伏見ふしみんだ。ぶんろく元年がんねん1592ねん)に島津しまつとしひさし自害じがいまれたさいは、くび京都きょうといちじょうもどはしにさらされたのをかえしにくという気骨きこつのあるところをせている。その文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきにも従軍じゅうぐん泗川のたたか奮戦ふんせん忠長ただながは100のへいで10,000のあきら大軍たいぐんやぶり、義弘よしひろ窮地きゅうちすくうという神業かみわざをやってのけた。これらの功績こうせきにより宮之城みやのじょう領主りょうしゅ任命にんめいされた。なお祁答院けどういん領地りょうちとしてあたえられている。

帰国きこく慶長けいちょう4ねん1599ねん)の庄内しょうないらんさんじん

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかさいは、小西こにしこうけい援軍えんぐん要請ようせいにこたえて、10月2にち加藤かとう清正きよまさ家老がろう加藤かとう重次しげつぐまも佐敷さしきじょうめる。加藤かとう軍勢ぐんぜい水俣みなまたまでふねせたため、嫡男ちゃくなんちゅうばいとも国境こっきょう警備けいびやくおおづけかっている。戦後せんご島津しまつ代表だいひょうとしてしんおさめたびあん市来いちき家政いえまさとも徳川とくがわ家康いえやす交渉こうしょうたった。慶長けいちょう15ねん(1610ねん)11月9にち宮之城みやのじょうにて死去しきょ享年きょうねん60。家督かとくは、嫡男ちゃくなんちゅうばい忠長ただなが先立さきだったため、しんおさむ婿養子むこようしとなっていた次男じなん久元ひさもといだ。この忠長ただなが系統けいとうが、のち宮之城みやのじょうとう津家つげとなる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 地元じもと郷土きょうどなどでは「ただたけ」とルビがられている。
  2. ^ 宮本みやもと義己よしみ戦国せんごく武将ぶしょう健康けんこうほう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1982ねん、63-64ぺーじISBN 9784404011169NDLJP:12867437https://dl.ndl.go.jp/pid/12867437。「国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん館内たてうち限定げんてい公開こうかい