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島津しまつひさぶく

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島津しまつひさぶく
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん とおる3ねん12月11にち1804ねん1がつ23にち
死没しぼつ 明治めいじ2ねん3月21にち1869ねん5月2にち
別名べつめい 通称つうしょう太郎たろう次郎じろう木工もっこう右門うもん伯耆ほうき
戒名かいみょう しゅんりょういん殿どのらんみさおとくえいだい居士こじ
墓所はかしょ 鹿児島かごしまけんみなみ九州きゅうしゅうらんまちぐん島津しまつ墓地ぼち
主君しゅくん 島津しまつひとしきょう斉彬なりあきら茂久しげひさ
はん 薩摩さつまはん家老がろう
氏族しぞく らん島津しまづ
父母ちちはは ちち島津しまつ久典ひさのり
つま 正室せいしつ村橋むらはし久隆ひさたかむすめ
ひさちょう
テンプレートを表示ひょうじ

島津しまつ ひさぶく(しまづ ひさとみ)は、幕末ばくまつ薩摩さつまはん家老がろう島津しまつ分家ぶんけらん島津しまづ21だい当主とうしゅ家格かかくいち所持しょじ佐多さたらん所領しょりょうした。

生涯しょうがい

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文化ぶんか10ねん1813ねん)、ちち島津しまつ久典ひさのり讒言ざんげんけて隠居いんきょさせられると、翌年よくねんにそのあといだ。天保てんぽう5ねん1834ねん)に江戸えど参勤さんきんし、2ねんあまり在府ざいふした。よしみひさし4ねん1851ねん若年寄わかどしより抜擢ばってきされ、よしみなが6ねん1853ねんペリー来航らいこうさいには藩主はんしゅ斉彬なりあきらいのちふたた江戸えど出府しゅっぷし、その3ねんあいだ勤務きんむした。

安政あんせい3ねん1856ねん家老がろう就任しゅうにん斉彬なりあきら養女ようじょあつしひめ右大臣うだいじん近衛このえただしひろし養女ようじょとなるさいに、表立おもてだって名前なまええる。安政あんせい5ねん1858ねん)に斉彬なりあきらぼっすると、幕府ばくふへの報告ほうこく使者ししゃつとめている。その後継こうけい茂久しげひさにもつづづかえ、安政あんせい6ねん1859ねん)には軍役ぐんえきかけ就任しゅうにんしたが、文久ぶんきゅう3ねん1865ねん家老がろうしょくした。また、このころ嫡男ちゃくなんひさちょう家督かとくゆずっている。

登場とうじょう作品さくひん

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テレビドラマ