(Translated by https://www.hiragana.jp/)
島津斉興 - Wikipedia コンテンツにスキップ

島津しまつひとしきょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
島津しまつ ひとしきょう
島津しまつひとしきょうぞうなお集成しゅうせいかんくら
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 寛政かんせい3ねん11月6にち1791ねん12月1にち
死没しぼつ 安政あんせい6ねん9月12にち1859ねん10月7にち
改名かいめい 忠温ただよしはつ)→ひとしきょう
戒名かいみょう 金剛こんごういん殿どのあかりさとしあきらしのぶだい居士こじ
墓所はかしょ 鹿児島かごしまけん鹿児島かごしま池之上いけのうえまち島津しまつ墓地ぼち
官位かんい したがえよん侍従じじゅう豊後ぶんごまもるひだり近衛このえけん少将しょうしょうしたがえよんじょうひだり近衛このえけん中将ちゅうじょう大隅おおすみまもるせいよん参議さんぎせいよんじょうしたがえさん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家斉いえなり家慶いえよし
はん 薩摩さつま鹿児島かごしまはんあるじ
氏族しぞく 島津しまつ
父母ちちはは ちち島津しまつひとしせん
はは鈴木すずきかつただしむすめ佐竹さたけ義和よしかず養女ようじょ
兄弟きょうだい ひとしきょう本多ほんだかんただししつつよしこれしんちゅうこうしょくじょずいひめ武五郎たけごろうさとしひめ泰之やすゆきすすむちゅうつよし謙次郎けんじろう繁之しげゆきすすむ松平まつだいらやすししつせい二郎じろう松平まつだいら勝善かつよし種子島たねがしまひさしめずらしふうすすむしんじはちろう大久保おおくぼただししつ
つま 正室せいしつわたるひめ周子かねこけんあきらいん
側室そくしつよしほう関根せきね常忠じょうちゅうおんな西成にしなり駿しゅんおんな
斉彬なりあきら池田いけだひとしさとしじゅんひめこうひめ久光ひさみつ
養女ようじょきょうはれひめ
テンプレートを表示ひょうじ

島津しまつ ひとしきょう(しまづ なりおき)は、江戸えど時代じだい後期こうき外様とざま大名だいみょう島津しまつ27だい当主とうしゅ薩摩さつまはん10代藩主はんしゅ

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

家督かとく相続そうぞく

[編集へんしゅう]

寛政かんせい3ねん1791ねん11月6にち、9だい藩主はんしゅ島津しまつひとしせん長男ちょうなんとして江戸えどまれた。生母せいぼ実家じっか鈴木すずき浪人ろうにんであったため、ひとしきょう出生しゅっしょう島津しまづ鈴木すずきとのあいだいさかいがきている[注釈ちゅうしゃく 1]

文化ぶんか元年がんねん1804ねん10月元服げんぷく、11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなりよりへんいみなたまわって、はつ忠温ただよし(ただよし/ただはる/ただあつ)からひとしきょう改名かいめいしたがえよん侍従じじゅうけん豊後ぶんごまもる叙任じょにん

文化ぶんか6ねん1809ねん6がつきんおもえろくくず責任せきにんかたちちちひとしせん祖父そふ重豪しげひでによって強制きょうせい隠居いんきょさせられたため、家督かとくいで10代藩主はんしゅとなった。しかし藩主はんしゅになったとはいえ、藩政はんせい改革かいかくなどの実権じっけん重豪しげひでにぎられていた。

天保てんぽう4ねん1833ねん)、重豪しげひでが89さいだい往生おうじょうげるとようやく藩政はんせい実権じっけんにぎり、重豪しげひでだいからの藩政はんせい改革かいかく重鎮じゅうちん調しらべしょ広郷ひろさと重用じゅうようして、財政ざいせい改革かいかくおもとした薩摩さつまはん天保てんぽう改革かいかくんだ。藩政はんせい改革かいかくでは調しらべしょ主導しゅどうもと借金しゃっきんの250ねん分割ぶんかつ支払しはらいやきよしとのみつ貿易ぼうえき砂糖さとう専売せんばい偽金にせがねづくりなどがおおいに効果こうかげんわし、薩摩さつまはん財政ざいせい一気いっき回復かいふくした。しかしよしみひさし元年がんねん1848ねん)、幕府ばくふからみつ貿易ぼうえきけんとがめられ、責任せきにんしゃ調しらべしょ12月急死きゅうしした。ひとしきょう責任せきにんおよばさないために1人ひとりつみこうむり、服毒ふくどく自殺じさつしたとされる。また対外たいがい危機ききたかまりにさいしては、洋式ようしき砲術ほうじゅつ採用さいようめ、藩士はんし長崎ながさき派遣はけんしてまなばせたり、せいかた設置せっちして大砲たいほう製造せいぞうなどにも着手ちゃくしゅした。

よし騒動そうどう

[編集へんしゅう]

このころになると、ひとしきょう跡継あとつぎをめぐってはんないではあらそいがきていた。ひとしきょう成人せいじんした男児だんじ正室せいしつわたるひめ周子かねこ)(鳥取とっとりはんおも池田いけだおさむどうむすめ)とのあいだ嫡子ちゃくし斉彬なりあきらが、側室そくしつよしほうとのあいだには五男いつお久光ひさみつがいた(次男じなんひとしさとし備前びぜん池田いけだいでいた)。本来ほんらいならば嫡男ちゃくなん斉彬なりあきらぐはずであるが、ひとしきょうはおよしとそのあいだまれた久光ひさみつ溺愛できあいし、かれ後継こうけいしゃにしようとかんがえていた。しかしはんないでは聡明そうめい斉彬なりあきら後継こうけいしゃすすめるものすくなくなく、よしみひさし2ねん1849ねん)12月にはいえ騒動そうどうよし騒動そうどう)が勃発ぼっぱつした。これは、斉彬なりあきら擁立ようりつのぞ山田やまだきよしやす高崎たかさき五郎右衛門ごろうえもん近藤こんどうたかし左衛門さえもんら50めい対立たいりつする久光ひさみつとその生母せいぼ・およし暗殺あんさつ計画けいかくはかったものであるが、事前じぜん計画けいかく露見ろけんして自害じがいさせられた事件じけんである。そのはんないでは斉彬なりあきら久光ひさみつかれて対立たいりつえなかったが、よしみなが4ねん1851ねん2がつ老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろ調停ちょうていにより、ひとしきょう隠居いんきょし、斉彬なりあきら家督かとくこととなったのである。

晩年ばんねん最期さいご

[編集へんしゅう]

安政あんせい5ねん1858ねん7がつ16にち斉彬なりあきら先立さきだって50さい急死きゅうしすると、斉彬なりあきら遺言ゆいごんにより藩主はんしゅいだ久光ひさみつ長男ちょうなん茂久しげひさ若年じゃくねんであることを理由りゆうに、ふたた藩政はんせい掌握しょうあく斉彬なりあきら計画けいかくしていたりつへい上洛じょうらくりやめ、安政あんせい大獄たいごく京都きょうとから薩摩さつまのがれてきたつきあきら保護ほごこばんだものの、西郷さいごう隆盛たかもり身柄みがらについては奄美あまみ大島おおしまかくし、幕府ばくふには西郷さいごう偽装ぎそうした。また集成しゅうせいかん事業じぎょう縮小しゅくしょうめいじるなど復古ふっこてき政策せいさくおこなったが、安政あんせい6ねん1859ねん9月12にち病死びょうし享年きょうねん69(まん67さいぼつ)。

人物じんぶつ逸話いつわ

[編集へんしゅう]
  • ひとしおき時代じだいおこなわれた改革かいかく薩摩さつまはん経済けいざい発展はってんたし、幕末ばくまつ財産ざいさんとなったといえる。
  • 斉彬なりあきらきらったのは、正室せいしつわたるひめ周子かねこ)となかわるかったためともわれている。反対はんたいに、わたるひめとのなかはよかったともわれている。ひとしきょう周子かねことのあいだに4なん1じょもうけており、うち3にんしょこれすけ久光ひさみつおなねんまれである。文政ぶんせい2ねん1819ねん)にしょこれすけ死去しきょするが同年どうねんよんなんちんすけむ。翌年よくねんめずらしこれすけ死去しきょする。じつ周子かねこにはおよしふく側室そくしつたちよりもおおくのませているが、これは薩摩さつまはんでは異例いれいなことであった。
  • 斉彬なりあきら急死きゅうしかんしては、幕府ばくふ対立たいりつ姿勢しせいつよめる斉彬なりあきら姿勢しせいたいして不満ふまんひとしきょうによる毒殺どくさつともいわれる。しかしながら、斉彬なりあきら幕府ばくふのいいなりになっていることに不満ふまんかんじていた資料しりょう存在そんざいしている。
  • ひとしきょうがなかなか隠居いんきょしなかったのはしたがえさんへの官位かんい昇進しょうしんねらっていたためという。このため、隠居いんきょしても官位かんい昇進しょうしん可能かのうだとるとあっさり隠居いんきょしたという。
  • 隠居いんきょ斉彬なりあきら後見こうけんすること宣言せんげんしており、これをやめさせるのに半年はんとしかかったという。
  • 薩摩さつま切子きりこられる薩摩さつまはんガラス製造せいぞうは、ひとしきょう製薬せいやくかん設置せっちしたさいに、江戸えどからガラス職人しょくにんまねいてくすりびん製造せいぞうさせたことからはじまった。
  • わかころから密教みっきょうたいする関心かんしんつよく、文化ぶんか7ねん1810ねん以前いぜん大覚寺だいかくじ門跡もんぜきあきらふかより「あきらにん」のほういみなさづけられ、文政ぶんせい5ねん1822ねん)6がつには在俗ざいぞくのままだい僧都そうず法印ほういん免状めんじょうけている。また、文政ぶんせい4ねん1821ねん)には寺社じしゃ奉行ぶぎょうつうじて、領内りょうない全域ぜんいき寺社じしゃに『法華経ほけきょう』の「ひろしもんひん」をあたえている[2]

島津しまつひとしきょうと「ちょく秘法ひほう

[編集へんしゅう]

鹿児島かごしまけん歴史れきし資料しりょうセンター黎明れいめいかんには「玉里たまさととう津家つげ資料しりょう」の1つとして『ちょく看経かんきん作法さほう伝書でんしょ』とばれるくろうるしりのはこおさめられた文書ぶんしょぐん存在そんざいする。金泥きんでいほどこされたはこぶた表題ひょうだいおよびうらぶたしるされた目録もくろく文字もじひとしおき本人ほんにん直筆じきひつであり、蒔絵まきえほどこされた目録もくろくには文政ぶんせい11ねん2がつ25にち日付ひづけひとしおき自身じしん花押かおうがあることから、ひとしおき自身じしんによって作成さくせい保管ほかんされた文書ぶんしょぐんであったことがかる[3]

ひとしきょう元々もともと島津しまつかんして独自どくじ歴史れきしかんっていたことは文政ぶんせい5ねん(1822ねん)にみずからの草稿そうこうもと木場きば貞良さだよし整理せいり作成さくせいした『系譜けいふりゃく』(東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ所蔵しょぞう)でられていた。同書どうしょ下巻げかんしょげんによれば、瓊瓊きねみことから三種さんしゅ神器じんぎとともに代々だいだいつたえられてきた歴代れきだい天皇てんのう秘法ひほう存在そんざいしていたが、清和せいわ天皇てんのうけいもとおう臣籍しんせき降下こうかするさいにこの秘法ひほうさづけてけいもとが「とらまき」とび、「とらまき秘法ひほう」の代々だいだい嫡流ちゃくりゅうつたえられたとする。けいもと子孫しそんにあたるみなもと頼朝よりともが「とらまき秘法ひほう」を島津しまつ忠久ただひさ島津しまづには忠久ただひさ頼朝よりとも落胤らくいんとする伝承でんしょうがある)にさづ島津しまづ歴代れきだい当主とうしゅによってまもられてきたが、島津しまつ光久みつひさ時代じだい江戸えど幕府ばくふにそのことを追及ついきゅうされたため「とらまき秘法ひほう」はうしなわれたといつわってひそかに「ちょく秘法ひほう」とあらためて歴代れきだい当主とうしゅのみがる「さいきょく甚深秘事ひめごと」としたとしるす。すなわち、ひとしきょうは「瓊瓊きねとうと以来いらい歴代れきだい天皇てんのう秘法ひほう清和せいわはじめ嫡流ちゃくりゅうである島津しまつ当主とうしゅによって今日きょうまで継承けいしょうされている」という主張しゅちょうしていたことになる。「ちょく秘法ひほうとらまき秘法ひほう)」の実際じっさい由来ゆらいなど不明ふめい部分ぶぶんもあるが、すくなくてもひとしきょうはこれを史実しじつとしてしんじて、その実践じっせん島津しまつ歴代れきだい当主とうしゅつとめとしんじていた[4]

ちょく看経かんきん作法さほう伝書でんしょ』はひとしきょう存在そんざい主張しゅちょうする「ちょく秘法ひほうとらまき秘法ひほう)」にかんする集大成しゅうたいせいであり、そのなかにある『とらまき根本こんぽんしょ作法さほうさい口伝くでん規則きそく』というひとしおき自筆じひつ文書ぶんしょには文政ぶんせい10ねん(1827ねん)に硫黄いおうとうはち咫鏡発見はっけんされ、ひとしきょうがこれを入手にゅうしゅしたとき感慨かんがいしるされている。ひとしきょう京都きょうと御所ごしょ当時とうじ)にあるはち咫鏡は本物ほんものではなく、本物ほんもの安徳天皇あんとくてんのうによって硫黄いおうとうされ、「ちょく秘法ひほう」の実践じっせんしゃである自分じぶんることになったと確信かくしんし、上山かみのやまじょう現在げんざい城山しろやま)にみや造営ぞうえいして安置あんちしたという[5]安徳天皇あんとくてんのう末裔まつえい名乗なのっていた硫黄いおうとう長浜ながはま(いわゆる「長浜ながはま天皇てんのう」)には島津しまつによって中身なかみされたとする「ひらかずのはこ事件じけんつたえられており[6]、この2つの出来事できごと対応たいおうしているとみられている。

なお、ひとしきょう入手にゅうしゅして本物ほんものであると主張しゅちょうしたはち咫鏡とそれをおさめたみや所在しょざい現在げんざいでは不明ふめいとなっている[7]

履歴りれき

[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれき

参考さんこう幕末ばくまつ明治めいじ重職じゅうしょく補任ほにんしょはん一覧いちらん 東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい 2016ねん発行はっこう

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 当初とうしょ鈴木すずきむすめ旗本はたもと養女ようじょしてから側室そくしつにしたのがとがめられたとされる[1]。しかし、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ側室そくしつもこのようなかたち出身しゅっしん底上そこあげしていることはおおく、何故なぜこのことがいさかいとなったのかはいまなお解明かいめいされていない。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 薩藩旧記きゅうき雑録ざつろく所収しょしゅう文書ぶんしょなど。
  2. ^ 鈴木すずき井上いのうえへん(2016ねん)、P98
  3. ^ 鈴木すずき井上いのうえへん(2016ねん)、P101-102
  4. ^ 鈴木すずき井上いのうえへん(2016ねん)、P99-100
  5. ^ 鈴木すずき井上いのうえへん(2016ねん)、P103-106
  6. ^ 鈴木すずき井上いのうえへん(2016ねん)、P86-89、94-97
  7. ^ 鈴木すずき井上いのうえへん(2016ねん)、P106

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 鈴木すずきあきら硫黄いおうとう安徳天皇あんとくてんのう伝承でんしょう薩摩さつまはん島津しまつひとしきょう-文政ぶんせいじゅうねんの「たからきょうげをめぐって-」井上いのうえやすしいたり近世きんせい日本にっぽん歴史れきし叙述じょじゅつ対外たいがい意識いしきつとむまこと出版しゅっぱん、2016ねん7がつ ISBN 978-4-585-22152-4

登場とうじょう作品さくひん

[編集へんしゅう]