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島津しまつ久寿ひさとし

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島津しまつ久寿ひさとし
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 寛文ひろふみ4ねんうるう5月17にち1664ねん7がつ10日とおか
死没しぼつ 元禄げんろく6ねん8がつ3にち1693ねん9月2にち
戒名かいみょう 青原あおばらいん殿どのあつほまれいさむ信義のぶよしあきら居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょう小金井こがねい前原まえはらまちはたずいいん
官位かんい したがえ式部しきぶしょう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ 旗本はたもと寄合よりあいせき
主君しゅくん 徳川とくがわ家綱いえつな綱吉つなよし
はん 日向ひなた佐土原さどわらはんあるじ
氏族しぞく 島津しまつ
父母ちちはは 島津しまつ久富ひさとみ鎌田かまた正統せいとうむすめ
島津しまつただしだか
兄弟きょうだい 久寿きゅうじゅひさしたけ
つま 島津しまつ
おもんみひさしひさしたけとも養子ようし
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島津しまつ 久寿ひさとし(しまづ ひさとし)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき大名だいみょう日向ひなたこく佐土原さどわらはん5だい藩主はんしゅ。のちに江戸えど幕府ばくふ旗本はたもと寄合よりあいせき官位かんいしたがえ式部しきぶしょう

生涯しょうがい

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島津しまつ久富ひさとみ(2だい藩主はんしゅ島津しまつ忠興ただおき次男じなん)の長男ちょうなんとして誕生たんじょうはは薩摩さつまはん家老がろう鎌田かまた正統せいとうむすめ

従兄じゅうけいにあたる先代せんだい藩主はんしゅ島津しまつただしだかのべたから4ねん1676ねん)に早世そうせいし、その息子むすこであるまん吉丸よしまる(のちのおもんみひさ)が幼少ようしょうであったため、そのだいつなぎ(ばんだい)として家督かとくぐことをゆるされた。しかしこのような経緯けいいから藩主はんしゅとしての統制とうせいりょくがなく、はんないではちち家老がろう松木まつき(2だい藩主はんしゅ忠興ただこうはは実家じっか子孫しそん)の対立たいりつ発生はっせいし、さらに本家ほんけ薩摩さつまはん藩政はんせい介入かいにゅうするようになるなど、はんだい混乱こんらんおちいった。

元禄げんろく3ねん1690ねん5月29にち、16さい成長せいちょうしたおもんみひさ家督かとくゆずった。同時どうじ幕府ばくふ意向いこうによりおもんみひさよりきた那珂なかぐんヶ村かそん芳士ほうじむら山崎やまざきむら塩路しおじむら島ノ内しまのうちむら)3000せき分与ぶんよされて旗本はたもと寄合よりあいとなった。もと大名だいみょうということもあってか元禄げんろく4ねん1691ねん)にはだい番頭ばんがしられっする。のちだい坂城さかきばんつとめている。

元禄げんろく6ねん1693ねん8がつ3にち江戸えど死去しきょした。享年きょうねん30。法号ほうごう青原あおばらいん殿どのあつほまれいさむ信義のぶよしあきら居士こじ墓所はかしょ東京とうきょう小金井こがねい前原まえはらまちはたずいいん

久寿きゅうじゅからはじまる系統けいとうが、島之内しまのうちとう津家つげである。また薩摩さつまはん島津しまつ義弘よしひろのように、久寿きゅうじゅはあくまでばんだいとしてあつかわれ、歴代れきだい藩主はんしゅとしてかぞえない史料しりょうおおい。

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ

  • 島津しまつ

養子ようし