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伊作いさく親忠ちかただ

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伊作いさく 親忠ちかただ
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
改名かいめい あい寿ことぶきまる幼名ようみょう)→親忠ちかただ
官位かんい 下野げやもり
氏族しぞく 伊作いさく
父母ちちはは ちち伊作いさく宗久そうきゅう
兄弟きょうだい 親忠ちかただひさ忠武ただたけ
久義ひさよしひさおや西にしおやひさし久幸ひさゆき久次きゅうじじゅうちゅう
ひさしゅう
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伊作いさく 親忠ちかただ(いざく ちかただ)は、南北なんぼくあさ時代じだい武将ぶしょう薩摩さつまこく島津しまつ分家ぶんけ伊作いさくの3だい当主とうしゅ

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

かんひさし元年がんねん/興国こうこく3ねん1342ねん)、南朝なんちょうかたなつけ親王しんのう薩摩さつまはいったため、ちち伊作いさく宗久そうきゅうとも北朝ほくちょうかたとしてさんじん薩摩さつま南朝なんちょう勢力せいりょくあらそいをかえす。文和ふみかず3ねん/正平しょうへい8ねん1354ねん)、ちちから家督かとくゆずけ、さく領地りょうちぐ。当時とうじ薩摩さつま北朝ほくちょう尊氏たかうじかた北朝ほくちょうはんみことかたみなみ朝方あさがたしょ勢力せいりょくかれていた。島津しまつ宗家そうけ6だい島津しまつひさ薩摩さつま統一とういつするためにみなみ朝方あさがた帰属きぞくすると、貞治さだはる3ねん/正平しょうへい19ねん1364ねん)、親忠ちかただ南朝なんちょう帰順きじゅん後村上天皇ごむらかみてんのうから官位かんいさずかっている。建徳けんとく2ねん1371ねん)、さく領地りょうち久義ひさよしやその兄弟きょうだい、また自分じぶんつまあた隠居いんきょおな時期じき幕府ばくふ南朝なんちょう勢力せいりょく殲滅せんめつのため今川いまがわ了俊りょうしゅん九州きゅうしゅう探題たんだいとして派遣はけんすると、親忠ちかただ了俊りょうしゅん招聘しょうへいおうじている。