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島津しまつたかあつし

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島津しまつたかあつし
時代じだい 幕末ばくまつ
生誕せいたん 天保てんぽう3ねん5月14にち1832ねん6月12にち
死没しぼつ 明治めいじ23ねん1890ねん9がつ20日はつか
改名かいめい しょう源太げんた幼名ようみょう)→あつし
別名べつめい 又四郎またしろう讃岐さぬき通称つうしょう)、かめゆうごう
墓所はかしょ 鹿児島かごしまけん垂水たるみ田神たがみ垂水たるみとう津家つげ墓所はかしょこころおう寺跡てらあと
主君しゅくん 島津しまつひとしきょう斉彬なりあきら忠義ちゅうぎ
はん 薩摩さつまはん
氏族しぞく 垂水たるみとう津家つげ
父母ちちはは ちち島津しまつたかてんはは:お絮(いと)(島津しまつ忠寛ただひろむすめ
兄弟きょうだい あつしにゅう来院らいいんこうひろし
つま 正室せいしつはちひゃくひめ南部なんぶしんじゅん[1]むすめ
貴徳たかのり
テンプレートを表示ひょうじ

島津しまつ たかあつし(しまづ たかあつ)は、江戸えど時代じだい後期こうき薩摩さつまはん大隅おおすみぐん垂水たるみ[2]領主りょうしゅ藩主はんしゅ一門いちもん垂水たるみとう津家つげ14だい当主とうしゅ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

天保てんぽう3ねん(1832ねん)5がつ14にち一門いちもん垂水たるみ島津しまつたかてん長男ちょうなんとしてまれる。幼名ようみょうしょう源太げんた安政あんせい3ねん1856ねん)、てん隠居いんきょして家督かとく相続そうぞくした。

文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)5がつ藩主はんしゅ島津しまつ斉彬なりあきらいのち領内りょうない洲崎すさき台場だいば建設けんせつする。同年どうねん8がつ薩英戦争せんそう出陣しゅつじんして戦功せんこうがあった。明治めいじ元年がんねん1868ねん)、戊辰戦争ぼしんせんそうにも家老がろう町田まちだ案山子かかしひきいる小銃しょうじゅうたい出陣しゅつじんさせ、このときの功績こうせきにより、まごとおる明治めいじ30ねん1897ねん)に男爵だんしゃくじょされている。

明治めいじ2ねん1869ねん)8がつ版籍はんせき奉還ほうかんにより垂水たるみりょう返上へんじょうして士族しぞくとなる。明治めいじ9ねん1876ねん)5がつ15にち家督かとくとくゆずる。明治めいじ23ねん(1890ねん)9がつ20日はつか死去しきょ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 垂水たるみだい1かん 垂水たるみ編集へんしゅう委員いいんかい、1973ねん