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島津しまつただしたつ

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島津しまつただしたつ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん えいろく8ねん1565ねん
死没しぼつ ぶんろく2ねん8がつ27にち1593ねん9月22にち
別名べつめい ちゅうひさし和泉いずみまた太郎たろう
戒名かいみょう 通津つづむねあん
官位かんい 薩摩さつまもり
主君しゅくん 島津しまつ義久よしひさ
氏族しぞく 島津しまつ薩州
父母ちちはは ちち島津しまつ義虎よしとら
兄弟きょうだい 志岐しき親弘ちかひろしつちゅうたつ忠隣ただちか忠清ただきよちゅうさかえ
ちゅうとみちゅうゆたか小川おがわゆうしつ?
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島津しまつ ただしたつ(しまづ ただとき)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう薩摩さつまこく島津しまつ分家ぶんけ薩州7だい最後さいごの)当主とうしゅ

略伝りゃくでん[編集へんしゅう]

豊臣とよとみ秀吉ひでよし九州きゅうしゅう平定へいていでは肥後ひごこく方面ほうめんにありはちだい南方なんぽう高田たかだ(こうだ、現在げんざい肥後ひご高田たかだえき近辺きんぺん)をまもっていたが、肥前ひぜんこく島原しまばら有馬ありま晴信はるのぶ裏切うらぎりによって本領ほんりょう出水しゅっすい撤退てったい[1]天正てんしょう15ねん1587ねん)4がつ秀吉ひでよし降伏ごうぶく本領ほんりょう安堵あんどされた。

ぶんろく2ねん1593ねん)、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいさいには島津しまつ義弘よしひろぞくして出兵しゅっぺいすることになっていたが、義弘よしひろ陣立じんだてべつにしてくれるよう秀吉ひでよし直訴じきそ秀吉ひでよしちゅうたつねがいをききいれなかったため、やむなく義弘よしひろとも玄界灘げんかいなだわたったものの病気びょうきしょうして上陸じょうりくしなかった。このちゅうたつ行動こうどう秀吉ひでよし激怒げきどをかい、同年どうねん5がつ1にち肥後ひご宇土うとじょうおも小西こにし行長ゆきなが身柄みがらあづけられ幽閉ゆうへいされたうえ改易かいえきもうわたされた(ちゅうたつ領地りょうち細川ほそかわ幽斎ゆうさい石田いしだ三成みつなり分与ぶんよされた)。それからほどなくして、朝鮮ちょうせん徳島とくしましょう西陣にしじんちゅうにて病死びょうしした。享年きょうねん28。

補注ほちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 島津しまつがわ史料しりょうでは「ちゅうたつ勝手かって秀吉ひでよし寝返ねがえったばかりか、秀吉ひでよしぐん道案内みちあんないまでした」と強烈きょうれつ非難ひなんしているものがおおい。ただし、このはなしどう時代じだい史料しりょうにはられず、後世こうせいかれた史料しりょうにしかてこないため、信憑しんぴょうせいうすいとされている。