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島津伊久しまづこれひさ

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島津伊久しまづこれひさ
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい - 室町むろまち時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん 正平しょうへい2ねん/貞和さだかず3ねん2がつ1にち1347ねん3月13にち
死没しぼつ おうひさし14ねん5月4にち1407ねん6月9にち
改名かいめい ひさみちあきら法名ほうみょう
別名べつめい きゅうはな
かみごう 鎮玉けんおとこ彦命
戒名かいみょう ひさしあきらみちかんだい禅定ぜんじょうもん
墓所はかしょ 鹿児島かごしまけん鹿児島かごしま池之上いけのうえまち島津しまつ墓地ぼち
官位かんい 大夫たいふ判官ほうがん上総かずさかい
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ薩摩さつま守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義満よしみつ義持よしもち
氏族しぞく 島津しまつそうしゅう
父母ちちはは ちち島津しまつひさ
兄弟きょうだい ひさいかりさん久安ひさやす[1]
まもりひさしちゅうあさひさしあきら[1]
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島津しまつ ひさ(しまづ これひさ)は、南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代ときよ前期ぜんきにかけての守護しゅご大名だいみょう薩摩さつまこく守護しゅご島津しまつ7だい当主とうしゅそうしゅう2だい当主とうしゅ)。

生涯しょうがい

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島津しまつひさ嫡男ちゃくなんとして誕生たんじょう

島津しまつ南北なんぼくあさ時代じだいそうしゅう奥州おうしゅう分裂ぶんれつ九州きゅうしゅう探題たんだい今川いまがわ了俊りょうしゅん九州きゅうしゅう下向げこうすると叔父おじ奥州おうしゅう当主とうしゅ氏久うじひさとも了俊りょうしゅんしたがせい西府にしふたたかったが、永和えいわ元年がんねん/天授てんじゅ元年がんねん1375ねん)、しょうふゆ了俊りょうしゅんに諜殺されると氏久うじひさとも南朝なんちょう寝返ねがえり(水島みずしまへん)、えいいさお2ねん/弘和ひろかず2ねん1382ねん)に薩摩さつま守護しゅご復職ふくしょくすると了俊りょうしゅん帰順きじゅんした。

明徳めいとく4ねん1393ねん)、嫡男ちゃくなんまもりひさし仲違なかたがいして川辺かわべぐん平山ひらやましろかこまれたが、従弟じゅうてい島津しまつ元久もとひさ大隅おおすみ守護しゅごである奥州おうしゅう島津しまつ氏久うじひさ)の仲介ちゅうかいおさまり、見返みかえりとして薩摩さつま守護しゅごしょく島津しまつ家宝かほう領地りょうち川辺かわべぐん硫黄いおうとうふくむ)をもとひさゆずった。しかしおうなが7ねん1400ねん)、もとひさ養子ようしとしていたひさ三男さんなんひさしあきらひさ一族いちぞくである夫人ふじんとを突然とつぜん離縁りえんさせた[1]さらもとひさ薩摩さつま守護しゅごひさ領地りょうち薩摩さつま国内こくないしろて、支配しはいつよめたことが原因げんいん奥州おうしゅうそうしゅう絶縁ぜつえん状態じょうたいになった。幕府ばくふひさ支持しじし、おうなが8ねん1401ねん)には鶴田つるたのぞ渋谷しぶやよんひさ味方みかたして、もとひさ鶴田つるた菱刈ひしかりげん鹿児島かごしまけん伊佐いさ菱刈ひしかり)にるなどしたが、おうなが11ねん1404ねん)に幕府ばくふ調停ちょうてい和睦わぼくした。

おうなが14ねん(1407ねん)に平佐ひらさじょうにて死去しきょ家督かとくまもりひさいだ。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 島津しまつ歴代れきだい略記りゃっき』(島津しまつ顕彰あきらかい 1985ねん