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北郷きたごうすうひさ

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北郷きたごうすうひさ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん しょう
死没しぼつ だいひさし元年がんねん1521ねん
別名べつめい 次郎じろう通称つうしょう)、尾張おわりもり
戒名かいみょう つり璜院殿どのあきらおう忠英ただひでだい禅定ぜんじょうもん
墓所はかしょ 宮崎みやざきけん都城みやこのじょう庄内しょうないまちつり璜院
氏族しぞく 北郷きたごう
父母ちちはは ちち北郷きたごう敏久としひさはは野辺のべもりひとしむすめ
兄弟きょうだい かずひさしおんな樺山かばやま長久ちょうきゅうしつ)、ただしさかえきんひさひさりく
つま 正室せいしつ島津しまつひさしむすめ
むすめしんおさめ忠武ただたけしつ)、むすめ島津しまつただしあさしつ)、
むすめ樺山かばやまひろひさしつ)、忠相ただすけ
テンプレートを表示ひょうじ

北郷きたごう すうひさ(ほんごう かずひさ)は、戦国せんごく時代じだい日向ひなた武将ぶしょう都城みやこのじょう領主りょうしゅ薩摩さつま大隅おおすみ およ日向ひなた守護しゅご有力ゆうりょく支族しぞくである北郷きたごう7だい当主とうしゅ北郷きたごう敏久としひさ嫡男ちゃくなん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

島津しまつ伊東いとう抗争こうそうにより日向ひなた飫肥おび討死うちじにした伊東いとうゆうこくいんゆうは、ちちうらみをらし領土りょうど拡大かくだいするため島津しまつめたてた。この状況じょうきょうをみた豊後ぶんご大友おおとも島津しまつ伊東いとう和睦わぼく仲介ちゅうかいし、あかりおう4ねん1495ねん)、島津しまつ忠昌ただまさ伊東いとうさん俣院1000まち割譲かつじょう両者りょうしゃ和睦わぼく成立せいりつした。三俣みつまたいんはかつては北郷きたごうりょうでありその回復かいふく北郷きたごう宿願しゅくがんとなった。

この時代じだい島津しまつ宗家そうけ弱体じゃくたいつづき、覇権はけんもとめて島津しまつ一族いちぞく国人くにびと領主りょうしゅ宗家そうけ無視むししてたがいに抗争こうそうし、家臣かしんなかにも離反りはんするものがあらわれた。かずひさ志布志しぶししんおさめ忠武ただたけとともに梅北うめきたじょう島津しまつ忠明ただあきめ、梅北うめきた忠武ただたけ領地りょうちとなった。このときの戦闘せんとうによりおおくの神社じんじゃ仏閣ぶっかく灰燼かいじんかえした。また、伊東いとう対抗たいこうするため、飫肥おび領主りょうしゅであるゆたかしゅう連携れんけいつよめた。そのかずひさ都城みやこのじょう嫡男ちゃくなん忠相ただすけゆだね、自身じしん安永やすながしろ引退いんたいした。北郷きたごう忠相ただすけだい都城盆地みやこのじょうぼんち統一とういつ最大さいだい版図はんとほこることになる。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 都城みやこのじょう
  • 高城町たかぎまち
  • 瀬戸山せとやまけい都城みやこのじょうとう津家つげ歴代れきだい ちょんさんしゅう文化ぶんかしゃ、1992ねん
  • 都城盆地みやこのじょうぼんち 史跡しせきガイドブック ①きゅう都城みやこのじょうへんみなみ九州きゅうしゅう文化ぶんか研究けんきゅうかい、2014ねん