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島津しまつ久治きゅうじ

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島津しまつ 久治きゅうじ
島津しまつ 久治きゅうじ
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ
生誕せいたん 天保てんぽう12ねん4がつ25にち1841ねん6月14にち
死没しぼつ 明治めいじ5ねん1がつ4にち1872ねん2がつ12にち
別名べつめい 通称つうしょう図書としょ
かみごう れいぶん新治しんじ彦命
墓所はかしょ 宮之城みやのじょう墓所はかしょ
官位かんい おくしたがえよん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 薩摩さつまはん家老がろう
氏族しぞく 島津しまつ(宮之城みやのじょうとう津家つげ)
父母ちちはは ちち島津しまつ久光ひさみつはは島津しまつせんひゃく
養父ようふ島津しまつ久宝くぼう
兄弟きょうだい 忠義ちゅうぎ茂久しげひさ久治きゅうじちんちゅうちゅうずみ
つま 島津しまつ久宝くぼうむすめ
ちょうまる
テンプレートを表示ひょうじ

島津しまつ 久治きゅうじ(しまづ ひさはる)は、幕末ばくまつ薩摩さつまはん家老がろう島津しまつ一門いちもん宮之城みやのじょうとう津家つげ15だい当主とうしゅ島津しまつ久光ひさみつ次男じなん薩摩さつまはん最後さいご藩主はんしゅである忠義ちゅうぎ茂久しげひさ同母どうぼおとうと史料しりょうではいみな久治きゅうじではなく、百官ひゃっかんめい通称つうしょう)で島津しまつ 図書としょ(しまづ ずしょ)としるされる。

略伝りゃくでん

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天保てんぽう12ねん島津しまつ久光ひさみつ次男じなんとして重富しげとみかんげん鹿児島かごしまけん姶良あいら)に誕生たんじょうする。はは正室せいしつせん百子ももこよしみひさし5ねん1852ねんうるう4がつ島津しまつ久宝くぼう養嗣子ようししとなることが決定けっていし、同年どうねん3がつ家督かとく相続そうぞくした。また、久宝くぼうむすめ結婚けっこんする。

幕末ばくまつ

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文政ぶんせい2ねん1855ねん)に海防かいぼうそう頭取とうどり任命にんめいされ、薩摩さつまはん沿岸えんがん防衛ぼうえいようつとめる。文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)の薩英戦争せんそう勃発ぼっぱつさいして実兄じっけい茂久しげひさ(のちの忠義ちゅうぎ)の代理だいりとして薩摩さつまはん海軍かいぐん指揮しきる。元治もとはる元年がんねん1864ねん)、禁門きんもんへんでも茂久しげひさ代理だいりとして皇居こうきょ警衛けいえい総督そうとく同年どうねん12がつには薩英戦争せんそう講和こうわ使節しせつ代表だいひょうとなり長崎ながさき訪問ほうもんする。慶応けいおう2ねん1866ねん)に家老がろうにんぜられる。若年じゃくねんでありながら次々つぎつぎ要職ようしょくつとめたのは、国父こくふ久光ひさみつ次男じなんで、藩主はんしゅ茂久しげひさおとうとという血統けっとうがものをったものとおもわれる。

ところがこのころ薩摩さつまはんないでは倒幕とうばく主流しゅりゅうとなり、孝明天皇こうめいてんのう基本きほん方針ほうしん沿った公武こうぶ合体がったい論調ろんちょうをとっていた久治きゅうじ窮地きゅうちたされることとなる。慶応けいおう3ねん1867ねん)には小松こまつ帯刀たてわきかつらひさたけらの強硬きょうこうろんたいして、重職じゅうしょくでは慎重しんちょうろんとなえただ一人ひとり反論はんろんした。明治めいじ元年がんねん1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそうではわたしりょう4ばんたい会津あいづはん攻撃こうげきかわせたものの、久治きゅうじ本人ほんにん参加さんかしなかった。これが若手わかて藩士はんしからは「軟弱なんじゃく行為こういうつり、川村かわむらじゅんよしらに藩主はんしゅ目前もくぜん詰問きつもんされるという屈辱くつじょくてきう。

維新いしん急死きゅうし

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明治めいじ2ねん1869ねん)2がつ家老がろう辞職じしょくし、同年どうねん8がつにはわたしりょう15750せきはん返上へんじょうわりにいえろく1500せきたまわる。以後いご国政こくせい藩政はんせいにはかかわらず、以前いぜんより関心かんしんのあった教育きょういく事業じぎょう参加さんかした。明治めいじ4ねん1871ねん)、所領しょりょうのあった吉野よしのむらげん鹿児島かごしま吉野よしのまち)にだい12さとこう建設けんせつされたさい建材けんざい提供ていきょうなどをおこなっている。

明治めいじ5ねん1872ねん正月しょうがつ急死きゅうしした。享年きょうねん32。島津しまつつたわる公式こうしき系図けいずなどでは急病きゅうびょうによるとしているが、西郷さいごう隆盛たかもりから大久保おおくぼ利通としみちてた当時とうじ書簡しょかんでは「ピストル自殺じさつ」と明言めいげんされている。家老がろう辞職じしょくころより孤立こりつかんから気鬱きうつとなっており、ちち久光ひさみつも「気遣きづかっていたが手遅ておくれとなった」とある。幕末ばくまつ勝者しょうしゃがわの、それも藩主はんしゅ一門いちもんとしてはあまりにもあわれな最期さいごであった。墓所はかしょ歴代れきだい宮之城みやのじょう墓所はかしょであるそういさおてらではなく鹿児島かごしま天神山てんじんやま墓地ぼちもうけられたが、戦後せんごになって子孫しそんにより歴代れきだい宮之城みやのじょう墓所はかしょ移転いてんした。

あとには前年ぜんねんまれたばかりの長男ちょうなんちょうまる未亡人みぼうじんのこされた。ちょうまるながじて叔父おじちん彦のむすめである治子はるこ結婚けっこん明治めいじ30ねん1897ねん)3がつ男爵だんしゃくとなり、華族かぞくれつした。

大正たいしょう5ねん(1916ねん)、したがえよん追贈ついぞうされた[1]

登場とうじょう作品さくひん

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テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.41