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北郷きたごうちゅう

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北郷きたごう ちゅう
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 正平しょうへい14ねん/のべぶん4ねん9月21にち1359ねん10月13にち[1]
別名べつめい 七郎しちろうみぎ衛門えもんじょう尾張おわりもり
戒名かいみょう やまひさいん殿どのがつまど道明どうみょう居士こじ
墓所はかしょ 宮崎みやざきけん都城みやこのじょう庄内しょうないまちやまひさいんあと
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
氏族しぞく 島津しまつ北郷きたごう
父母ちちはは ちち島津しまつただしむね
兄弟きょうだい 島津しまつ貞久さだひさ和泉いずみただし佐多さた忠光ただみつしんおさめひさし樺山かばやまひさしちゅう石坂いしざか久泰ひさやす
つま 正室せいしつ宮丸みやまる蔵人くろうどみちむすめ
義久よしひさ樺山かばやまおとひさもとただしちゅうせん松岩まついわあま
すえひろし忠直ただなお光久みつひさ
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北郷きたごう ちゅう(ほんごう すけただ)は、南北なんぼくあさ時代じだい薩摩さつまおよ日向ひなた武将ぶしょう薩摩さつま守護しゅご島津しまつ有力ゆうりょく支族しぞくである北郷きたごう初代しょだい当主とうしゅ島津しまつ宗家そうけ4だい当主とうしゅである島津しまつただしむねろくなん

生涯しょうがい

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薩摩さつまはさまかんあとくち

島津しまつ宗家そうけ4だい当主とうしゅただむねには7にん男子だんしがあった。長男ちょうなん貞久さだひさ宗家そうけぎ、次男じなんただし和泉いずみ三男さんなん忠光ただみつ佐多さた四男よつおどきひさししんおさむ五男いつおひさし樺山かばやまろくなんちゅう北郷きたごうなななん久泰ひさやす石坂いしざかおこし、「ななにん島津しまつ」とばれた。当時とうじしょ分家ぶんけは、いえ由緒ゆいしょ将軍家しょうぐんけ幕府ばくふとの直接的ちょくせつてき関係かんけいもとめており、島津しまつ宗家そうけとのあいだ身分みぶん上下じょうげはないとしていた。

ちゅう生年せいねんしょうであるが、たてたけし3ねん1336ねん)、島津しまつ大隅おおすみこく瀬田せたじょうめのさい搦手からめて大将たいしょうとして従軍じゅうぐんしている。その島津しまつ一員いちいんとして各地かくち転戦てんせんした。かんおう2ねん1351ねん)、足利あしかがしたが北朝ほくちょうかた武将ぶしょうとして南朝なんちょうほうたたかい、その功績こうせきみとめられ、足利尊氏あしかがたかうじまた義詮よしあきらしもぶんをもって薩摩さつまはさま一帯いったい現在げんざい宮崎みやざきけん都城みやこのじょう山田やまだまち古江ふるえ)の庄内しょうない北郷きたごう300まちあたえられた。文和ふみかず元年がんねん1352ねん)、そのかんかまえ、さとめいって北郷きたごうしょうした。

また、在地ざいち土豪どごう宮丸みやまる姻戚いんせき関係かんけいむすび、その所領しょりょう継承けいしょう北郷きたごういしずえきずいた。なお一時期いちじきみなみ九州きゅうしゅうではみなみ朝方あさがた優勢ゆうせいになり、島津しまつ宗家そうけみなみ朝方あさがたてん北郷きたごうみなみ朝方あさがたとなった。これにおこった足利あしかが北郷きたごう肥後ひご球磨くま相良さがらあたえたが、ほどなく宗家そうけともどもきた朝方あさがたふくしている。

北郷きたごうちゅうまつ神社じんじゃ

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安永やすなが諏訪すわしゃ

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都城みやこのじょう庄内しょうないまち諏訪すわ神社じんじゃいち鳥居とりい
都城みやこのじょう庄内しょうないまち諏訪すわ神社じんじゃ社殿しゃでん

都城みやこのじょう庄内しょうないまち安永やすなが諏訪すわ神社じんじゃは、文和ふみかず4ねん1355ねん)にちゅう創建そうけんしたとつたえられている。ちゅう北郷きたごう入部にゅうぶまえつね日頃ひごろ崇敬すうけいしていた薩摩さつま諏訪すわ神社じんじゃ参詣さんけいしたさい社頭しゃとうから一本いっぽんかまんできてちゅう直衣なおしそではいった。神意しんいかんじたちゅうはそのかまほうじ、家臣かしん石川いしかわ祠官しかんとして庄内しょうない安永やすなが諏訪すわ神社じんじゃ勧請かんじょう尚武しょうぶ祈願きがんしょとした。

この由来ゆらいは、都城みやこのじょう諏訪すわ神社じんじゃ鹿児島かごしま諏訪すわ神社じんじゃぶんかみであることしめしている。また、かまんできてそではいったというのは、にわかにはしんじられないが、かま農民のうみんにとって、くさったりするのに必要ひつよう農具のうぐであり、それがそではいるということは、農民のうみんをそのなかにおさめたということ意味いみする。すなわち、ちゅうがこの人々ひとびとおさめたということ象徴しょうちょうてきしめしているものともいえる。

以来いらい安永やすなが諏訪すわ神社じんじゃへの累代るいだい領主りょうしゅ尊崇そんすうあつく、おうやす5ねん1372ねん)6がつ1にち社殿しゃでん再興さいこうくすのきばん2まい上諏訪かみすわ大明神だいみょうじん下諏訪しもすわ大明神だいみょうじんしるされていた。また、天文てんもん年間ねんかんには8だい領主りょうしゅ忠相ただすけ神馬じんば奉献ほうけんし、10代領主りょうしゅどきひさし天正てんしょう11ねん1583ねん)7がつ24にち、19だい領主りょうしゅ島津しまつひさりゅうとおる3ねん1718ねん)12月にしゃ再興さいこうしている。近代きんだい社殿しゃでん改築かいちくも、明治めいじ20ねん1887ねん)11がつ20日はつか島津しまつひさよりかね5えん寄進きしんがあり、代々だいだい領主りょうしゅ今日きょういたるまでわりなく崇敬すうけいしてきたことかる。

祭礼さいれい盛大せいだい格別かくべつなものであった。江戸えど時代じだいまでは、旧暦きゅうれきの7がつ28にちに「諏訪すわ祭礼さいれい」がおこなわれていた。このまつりは領主りょうしゅ主導しゅどうまつりで、その準備じゅんびには領内りょうないのあらゆる身分みぶん人々ひとびとたっており、領主りょうしゅによる直接ちょくせつ参詣さんけいおこなわれていた。

祭礼さいれい当日とうじつ領主りょうしゅあさどき諏訪すわ神社じんじゃけて出発しゅっぱつ、その行列ぎょうれつ総勢そうぜいやく260にんかぞえ、さながら行軍こうぐんおもわせるものであった。その道筋みちすじは、祭礼さいれいまえ道普請みちぶしんによって整備せいびきよめられていた。領主りょうしゅ神社じんじゃ到着とうちゃくすると、社頭しゃとう舞楽ぶがくなどがおこなわれ、もん農民のうみんによる相撲すもう流鏑馬やぶさめあげなどがおこなわれていた。

このように、都城みやこのじょうにとって領主りょうしゅが「御社おんしゃさん」といえば安永やすなが諏訪すわ神社じんじゃのことであり、都城みやこのじょう鎮守ちんじゅとしての役割やくわりっていたものとおもわれる。

豊幡とよばた神社じんじゃ

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都城みやこのじょう庄内しょうないまち豊幡とよばた神社じんじゃ社殿しゃでん
やまひさいんあとのこ北郷きたごうちゅうつまはか

都城みやこのじょう庄内しょうないまち豊幡とよばた神社じんじゃちゅう祭神さいじんとしている。

その一角いっかくにある菩提寺ぼだいじやまひさいんあとには、石垣いしがきかこまれたちゅうつまはか現存げんそんし、都城みやこのじょう文化財ぶんかざい指定していされている。つま法名ほうみょうかしわにわみょう大姉だいし

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日向ひなた郷土きょうど年表ねんぴょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 都城みやこのじょう
  • 高城町たかぎまち
  • 瀬戸山せとやまけい都城みやこのじょうとう津家つげ歴代れきだい ちょんさんしゅう文化ぶんかしゃ、1992ねん
  • 都城盆地みやこのじょうぼんち 史跡しせきガイドブック ①きゅう都城みやこのじょうへんみなみ九州きゅうしゅう文化ぶんか研究けんきゅうかい、2014ねん