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島津しまつ忠広ただひろ (ゆたかしゅう)

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島津しまつ 忠広ただひろ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 文明ぶんめい14ねん1482ねん
死没しぼつ 天文てんもん20ねん5がつ20日はつか1551ねん6月23にち
改名かいめい 忠真ただざね
別名べつめい 二郎じろう三郎さぶろう通称つうしょう)、みぎ馬頭めず豊後ぶんごまもる
戒名かいみょう 永徳寺えいとくじえんおうさとしかんだい禅定ぜんじょうもん
氏族しぞく 島津しまつゆたかしゅう
父母ちちはは ちち島津しまつただしあさはは北郷きたごうすうひさむすめ
つま 正室せいしつしんおさめ忠武ただたけむすめ
養子ようしひさしちゅうおや
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島津しまつ 忠広ただひろ(しまづ ただひろ)は、戦国せんごく時代じだい薩摩さつま武将ぶしょう薩摩さつま島津しまつ分家ぶんけゆたかしゅう4だい当主とうしゅちちは3だい当主とうしゅ島津しまつただしあさ島津しまつひさし養子ようし)、島津しまつただしおや養子ようし、5だい)。

薩摩さつま島津しまつ分家ぶんけであるゆたかしゅう4だい当主とうしゅ。3だい当主とうしゅちゅうあさ天文てんもん7ねん1538ねん)、ちゅうちょう志布志しぶしうつると飫肥おびじょうまかせられる。病身びょうしんのため政務せいむ談合だんごうしゅ日置ひおき美作みさくまもる一任いちにんしていたといい、どう9ねん1540ねん)、日向ひなた伊東いとうへの抵抗ていこう勢力せいりょく長倉ながくらゆうしょう長倉ながくら能登のとまもるらん)から援軍えんぐん要請ようせいされると、美作みさくまもる独断どくだん出兵しゅっぺいし、敗北はいぼくしている。

島津しまつ宗家そうけで15だい当主とうしゅ島津しまつ貴久たかひさまえ当主とうしゅ島津しまつ勝久かつひさあらそいがきると勝久かつひさ重臣じゅうしんであった肝付きもつきけんえんじ本田ほんだかおるおやなどと共謀きょうぼうし、天文てんもん10ねん1541ねん)、貴久たかひさちち島津しまつ忠良ただよしむすめ婿むこである樺山かばやま善久よしひさ攻撃こうげきするが、忠良ただよし家臣かしんである伊集院いじゅういんただしろうにより撃退げきたいされている。どう12ねん1543ねん)には伊東いとうよしゆう攻勢こうせいつよめ、日向ひなたにある島津しまづとりで次々つぎつぎ陥落かんらくどう14ねん1545ねん)、貴久たかひさ宗家そうけをまとめ伊集院いじゅういんいち宇治うじじょう居城きょじょうとすると、北郷きたごう忠相ただすけとともに伊集院いじゅういんかい貴久たかひさ薩摩さつま守護しゅごとしその指示しじしたがうことをもうた。

天文てんもん15ねん1546ねん)、養子ようし二郎じろう三郎さぶろうひさし島津しまつただしすみ)が夭逝ようせいしたために北郷きたごうよりちゅうおや養子ようしむかえる。どう18ねん1549ねん)に家督かとくちゅうおやゆず隠居いんきょどう20ねん1551ねん死去しきょ享年きょうねん69。