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北郷きたごう忠相ただすけ

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北郷きたごう忠相ただすけ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 文明ぶんめい19ねん1487ねん
死没しぼつ えいろく2ねん11月16にち1559ねん12月14にち
別名べつめい 左衛門尉さえもんのじょう通称つうしょう
諡号しごう せんいわおきよしなが居士こじ
戒名かいみょう りゅう峰寺みねでらせんがんきよし永大えいだい禅定ぜんじょうもん
墓所はかしょ 宮崎みやざきけん都城みやこのじょう都島みやこじままち都城みやこのじょうとう津家つげ墓地ぼち
氏族しぞく 北郷きたごう
父母ちちはは ちち北郷きたごうすうひさはは島津しまつひさしむすめ
兄弟きょうだい しんおさめ忠武ただたけしつ島津しまつただしあさしつ
樺山かばやまひろひさしつ忠相ただすけ
つま 正室せいしつ島津しまつただしれんむすめ
ちゅうおやむすめ伊東いとうゆうたかししつ)、忠孝ちゅうこうむすめひさ
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北郷きたごう 忠相ただすけ(ほんごう ただすけ)は戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう北郷きたごう8だい当主とうしゅ

だいひさし3ねん1523ねん)までは、伊東いとう北原きたはらさらにはしんおさむ本田ほんだらの四方しほうてきかかえて長年ながねんたたかつづけ、伊東いとういんゆう猛攻もうこうかろうじてしろ安永やすながしろへい800めい領地りょうち維持いじしている状態じょうたいだったが、いんゆう急死きゅうしによって伊東いとう和議わぎむすぶ。これを転機てんきとして、本田ほんだちかしなおしんおさめ忠勝ただかつめ、次第しだい領域りょういき拡大かくだいしていく。

天文てんもん元年がんねん1532ねん)、島津しまつただしあさ北原きたはらひさけん密約みつやくわし、三軍さんぐん伊東いとうりょう三俣みつまたいん高城たかぎ襲撃しゅうげき伊東いとうぐん壊滅かいめつてき打撃だげきあたえた(不動寺ふどうじ馬場ばばたたかい)。 伊東いとうはこの敗戦はいせんくわえ、家中いえじゅう内紛ないふん発生はっせいしたことで三俣みつまたいん維持いじ困難こんなんとなり、軍勢ぐんぜいげた。

こうして伊東いとういんゆううばわれた領域りょういき回復かいふくたし、いきおいにじょうじてしんおさむ梅北うめきたじょう松山まつやまじょう末吉すえきちじょうなどのしょしろ攻略こうりゃくすると、都城みやこのじょうからさん俣院だかじょう本拠ほんきょうつした。

天文てんもん11ねん1542ねん)には伊東いとう北原きたはら連合れんごうぐんふたた侵攻しんこうしてきたが、だいらく撃退げきたいした(だいらく合戦かっせん)。この合戦かっせん以降いこう伊東いとう三俣みつまた方面ほうめんから完全かんぜん撤退てったいし、北原きたはら野々美谷ののみたにじょううしなってげた。 こののちさらに北原きたはらから山田やまだしろ志和しわ池城いけのじょう奪取だっしゅした北郷きたごう庄内しょうない現在げんざい都城みやこのじょういちえん知行ちぎょうする最盛さいせいむかえることになる。

えいろく2ねん(1559ねん)、73さいぼつ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]