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伊東いとうゆうたかし

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伊東いとうゆうたかし
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん えいただし7ねん1510ねん
死没しぼつ 天文てんもん2ねん8がつ28にち1533ねん9月16にち
別名べつめい ゆうおさむゆう
官位かんい 大和やまともり
氏族しぞく 日向ひなた伊東いとう
父母ちちはは ちち伊東いとういんゆうはは福永ふくながゆうむすめ
兄弟きょうだい 福永ふくながみなもと兵衛ひょうえしつ男子だんし生母せいぼ中村なかむら)、
ゆうたかしよしゆうたまはちす夫人ふじん島津しまつ忠治ただはるしつ)、祐吉ゆうきち
つま 北郷きたごう忠相ただすけむすめ
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伊東いとう ゆうたかし(いとう すけみつ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう日向ひなたこく戦国せんごく大名だいみょう日向ひなた伊東いとう9だい伊東いとう14だい当主とうしゅ伊東いとうよしゆう祐吉ゆうきち同母どうぼおとうと

ちちいんゆう晩年ばんねん北郷きたごうとのこうそう没頭ぼっとうし、北原きたはら味方みかたにつけ優位ゆういち、ついに野々美谷ののみたにじょうおさむしろせん勝利しょうりしたが、だいひさし3ねん1523ねん)に急死きゅうしした。このため若年じゃくねんゆうたかし家督かとくいだ。叔父おじゆうはりいんゆうからいちがつ病死びょうししたため、外祖父がいそふ福永ふくながゆうはじめとする外戚がいせき福永ふくなが国政こくせい牛耳ぎゅうじるようになった。

このころ伊東いとう日向ひなた南部なんぶ掌握しょうあくしており、しろ拠点きょてんとする北郷きたごうとのこうそうつづけていた。北郷きたごう本家ほんけ島津しまつ同盟どうめい勢力せいりょく挽回ばんかいはかるが、いんゆうだいきずいていた伊東いとう優位ゆういわらなかったが、ゆうたかし野々美谷ののみたにじょう割譲かつじょう北郷きたごう忠相ただすけむすめめとることを条件じょうけん北郷きたごう和睦わぼくする。だいなが8ねん/とおるろく元年がんねん1528ねん)にはしんおさむ攻撃こうげきした。

伊東いとう勢威せいいゆうたかし時代じだいおおいにさかんになったが、家中いえじゅう不安定ふあんていであり、福永ふくなが専横せんおうたいし、家臣かしん稲津いなつじゅうゆかりによる「わかしゅ内紛ないふん勃発ぼっぱつしている。このようななかとおるろく4ねん1531ねん)、北郷きたごう島津しまつ北原きたはら味方みかたにつけ伊東いとうとのこうそう再開さいかいし、三俣みつまたいん高城たかぎ合戦かっせんおよぶが伊東いとう大敗たいはいすることになった。

ゆうたかし天文てんもん2ねん(1533ねん)に病死びょうしした。ゆうたかし死後しご福永ふくながせんよこにくゆうたかし叔父おじ伊東いとうゆうたけによる反乱はんらん勃発ぼっぱつし、福永ふくながゆう炳ら福永ふくなが一族いちぞく4にん自害じがいまれた(伊東いとうたけししゅうらん)。