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島津しまつ国久くにひさ

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島津しまつ国久くにひさ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 嘉吉よしきち2ねん1442ねん
死没しぼつ あかりおう7ねん2がつ29にち1498ねん8がつ16にち
改名かいめい 国久くにひさはじめ法名ほうみょう
別名べつめい 通称つうしょう三郎さぶろう太郎たろう薩摩守さつまのかみ
戒名かいみょう かつらりん
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ薩摩さつま守護しゅごだい
氏族しぞく 島津しまつ薩州
父母ちちはは ちち島津しまつ用久ようきゅう
兄弟きょうだい 国久くにひさ延久のべひさよしくも夫人ふじん島津しまつたてひさしつ
成久なりひさ忠綱ただつな秀久ひでひさ光久みつひさ
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島津しまつ 国久くにひさ(しまづ くにひさ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう薩摩さつまこく島津しまつ分家ぶんけ薩州2だい当主とうしゅ

嘉吉よしきち2ねん(1442ねん)、薩州初代しょだい当主とうしゅ島津しまつ用久ようきゅう長子ちょうしとして誕生たんじょう

島津しまつ宗家そうけ11だい当主とうしゅ島津しまつ忠昌ただまさ対立たいりつし、所領しょりょう出水しゅっすい叛旗はんきひるがえ[1]国久くにひさ大隅おおすみこく国分こくぶ方面ほうめん侵攻しんこうしたが、忠昌ただまさ救援きゅうえん出向でむいたため撤退てったい手薄てうすになった加世田かせだ占領せんりょうする。どう時期じき国久くにひさおうじるようにゆたかしゅう島津しまつひさし相州あいしゅう島津しまつ友久ともひさ反乱はんらんこす。友久ともひさ鎮圧ちんあつされひさ降伏ごうぶくするが、国久くにひさ出水しゅっすい勢力せいりょくたもっていた。

文明ぶんめい16ねん1484ねん)、伊作いさく伊作いさくひさいっ忠昌ただまさそむ鹿児島かごしま侵攻しんこうすると、忠昌ただまさしたが鹿児島かごしま守備しゅびについている。またひさゆたかしゅう2だい当主とうしゅちゅうれんひさいっおなじくして反乱はんらんこすとこれを説得せっとく味方みかたにつけてともひさしいっ攻撃こうげきひさいっ反乱はんらんおさめている。こうして一種いっしゅはん独立どくりつ状態じょうたいにあった薩州だったが、あきらおう7ねん(1498ねん)、国久くにひさぼっすると跡目あとめめぐ御家おいえ騒動そうどう勃発ぼっぱつかく分家ぶんけ騒乱そうらんとなった。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 伊地知いじちやす編纂へんさんした『当家とうけはじめしょ』によれば、島津しまつ当家とうけ10代当主とうしゅ島津しまつたてひさ国久くにひさ養嗣子ようししむかえていたが、かつしょくとしててらあづけられていた忠昌ただまさ当主とうしゅになったとされる。