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島津しまつ忠久ただひさ

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島津しまつ 忠久ただひさ
武将ぶしょうぞう でん島津しまつ忠久ただひさ画像がぞうなお集成しゅうせいかん所蔵しょぞう[注釈ちゅうしゃく 1]
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん うけたまわ3ねん(1179ねん)12月30にち以前いぜん[注釈ちゅうしゃく 2]
死没しぼつ よしみろく3ねん6月18にち1227ねん8がつ1にち
別名べつめい 三郎さぶろう[2]おもんみそう忠久ただひさ
かみごう みずたからつね照彦てるひこいのち[2]
戒名かいみょう きよし光明寺こうみょうじ殿でん とく佛道ぶつどう阿弥陀あみだほとけ[2]
墓所はかしょ 神奈川かながわけん鎌倉かまくら西御門にしごもん
官位かんい ひだり兵衛ひょうえじょう左衛門尉さえもんのじょう検非違使けびいし大夫たいふ判官ほうがん
したがえした豊後ぶんごもりおくしたがえ[3]
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ 越前えちぜんこく守護しゅご
主君しゅくん みなもと頼朝よりともよりゆきじつあさ藤原ふじわらよりゆきけい
氏族しぞく 島津しまつ
父母ちちはは ちちおもんみむね広言こうげん養父ようふ?)
はは丹後局たんごのつぼね比企ひき)?
兄弟きょうだい 忠久ただひさ津々しんしんちゅう
異父いふ弟妹ていまい?:安達あだち景盛かげもり安達あだち時長ときなが源範頼みなもとののりよりしつ
つま さだだけ夫人ふじん畠山はたけやま重忠しげただむすめ
ちゅう忠綱ただつな忠直ただなお
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島津しまつ 忠久ただひさ(しまづ ただひさ)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんきにかけての武将ぶしょう鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん島津しまつ本姓ほんせいおもんみそうおもんみそう忠久ただひさ(これむね の ただひさ)、また後年こうねんには藤原ふじわらしょうした。出自しゅつじ生年せいねんについては諸説しょせつある。

生涯しょうがい

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生誕せいたん

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生誕せいたん大阪おおさか住吉すみよし大社たいしゃであり現在げんざいでも境内けいだい誕生石たんじょうせきのこされている。『島津しまつ国史こくし』などの島津しまづしょ家伝かでんによればうけたまわ3ねん1179ねん)の12月31にちとある[4]。15世紀せいき後半こうはん島津しまづ家臣かしん山田やまだきよしさかえによりかれた『山田やまだきよしさかえ自記じき』には、文治ぶんじ5ねん1189ねん)の奥州おうしゅう合戦かっせんさい畠山はたけやま重忠しげただ烏帽子えぼしおやとして13さい元服げんぷくしたという記述きじゅつがあり、1177ねん安元やすもと3ねんうけたまわ元年がんねん)の生誕せいたんということになるが、山田やまだきよしさかえべつのところで1166ねんであるともしるしているという[4]

忠久ただひさ史料しりょうじょうはつは、うけたまわ3ねん1179ねん)2がつ8にち春日しゅんじつさい使つかい行列ぎょうれつ供奉ぐぶしている記録きろくである(『やまえんじゅ』)[注釈ちゅうしゃく 3]。また『たま』にも翌年よくねんひだり兵衛ひょうえじょう忠久ただひさ」の記録きろくがある[5]島津しまつ家伝かでん山田やまだきよしさかえ記述きじゅつただしければ、10さいにもたない忠久ただひさ兵衛ひょうえじょう任官にんかんしたこととなるが、事実じじつとはみなしがた[6]。またまごおもんみそうただしけいは、『しんせん和歌集わかしゅう』で祖父そふ忠久ただひさ検非違使けびいし賀茂かも祭主さいしゅつとめたと記述きじゅつしている[7]

島津しまつ家伝かでんでは忠久ただひさちちみなもと頼朝よりともははを「丹後局たんごのつぼね」としている。家伝かでんではこの女性じょせい比企ひきだしであるとしており、安達あだち盛長もりながつまであった丹後たんご内侍ないし比定ひていされている[8]。ただし忠久ただひさみなもと頼朝よりともであったという記述きじゅつられるようになるのは15世紀せいきのはじめごろからであり、どう時代じだい史料しりょうには存在そんざいしない[9]

吉見よしみ家系かけい』では頼朝よりとも乳母うばであった比企ひき比企ひき掃部まことさんじょ二条天皇にじょうてんのうつかえていたさいに、おもんみむね広言こうげんつうじて忠久ただひさみ、その鎌倉かまくら安達あだち盛長もりながとついだとされる[10]。これが事実じじつであれば、丹後たんご内侍ないし頼朝よりとも乳母子うばこであることとなる。ただし『吾妻あづまきょう』には丹後たんご内侍ないし忠久ただひさ関係かんけいについてまった言及げんきゅうされていない[11]

さんちょう』1198ねん正月しょうがつ晦日みそか除目じもく記事きじでは、「ひだり兵衛ひょうえじょうおもんみそう忠久ただひさ」とあり、このほかいくつかの文書ぶんしょから当時とうじ忠久ただひさおおむおもんみそうせいしょうしていた[12]

鎌倉かまくら御家人ごけにん

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もとこよみ2ねん1185ねん)3がつ比企ひきのういん手勢てぜいとして平家ひらか追討ついとうくわわっていたとされ、恩賞おんしょうとしてもとこよみ2ねん1185ねん)6がつ頼朝よりともより伊勢いせこくなみ出御しゅつぎょくりや、須可そう地頭じとうしょく任命にんめいされる。「島津しまづ文書ぶんしょ」では、このときは「ひだり兵衛ひょうえじょうおもんみそう忠久ただひさ」としるされている。文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)8がつ17にちづけで、みなもと頼朝よりとも推挙すいきょにより摂関せっかんりょう島津しまつそう下司げすしょく任命にんめいされる[注釈ちゅうしゃく 4]。これが忠久ただひさみなみ九州きゅうしゅうとの関係かんけいはじまりとなる。そのまもなく島津しまつそうそう地頭じとうにんじられている。

また、おなねん信濃しなのこく塩田しおだそう地頭じとうしょくにも任命にんめいされる。文治ぶんじ5ねん1189ねん)の奥州おうしゅう合戦かっせん頼朝よりとも配下はいか御家人ごけにんとしてさんじん[4]たてひさ元年がんねん1190ねん)の頼朝よりとも上洛じょうらくさいにも行列ぎょうれつ供奉ぐぶしている。けんひさ8ねん1197ねん)12月、大隅おおすみこく薩摩さつまこく守護しゅごにんじられ、こののちまもなく、日向ひなたこく守護しゅごしょく補任ほにんされる。けんひさ9ねん1198ねん)、左衛門尉さえもんのじょう任官にんかんされる。諸国しょこく守護しゅごぐん地頭じとうしょく任命にんめいされているが、これ以降いこう忠久ただひさもっと広大こうだい島津しまつそうほんぬきにしようと、その地名ちめいから、島津しまつ嶋津しまづ左衛門尉さえもんのじょうしょうする。

ただしこれらについて『吾妻あづまきょう』において言及げんきゅうはされていない。『吾妻あづまきょう』に忠久ただひさ記載きさいされるのは、正治しょうじ2ねん1200ねん)2がつ26にちみなもとよりゆき鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうしゃさん記事きじ最初さいしょであり、忠久ただひさは20にんこうしゅ一人ひとりとして登場とうじょうしている[11]

比企ひきらん

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頼朝よりともたてひとし3ねん1203ねん)9がつ比企ひきらん比企ひきのういんへん)がこり、このらん忠久ただひさ北条ほうじょうによってほろぼされた比企ひきのういん縁者えんじゃとして連座れんざし、大隅おおすみ薩摩さつま日向ひなた守護しゅごしょく没収ぼっしゅうされた[注釈ちゅうしゃく 5]。このとき忠久ただひさ台明寺だいみょうじ紛争ふんそう解決かいけつのため、守護しゅごとしてはじめて任地にんち大隅おおすみこく下向げこうしており、鎌倉かまくらには不在ふざいであった。同年どうねん10がつ19にちつとめをえてもど上洛じょうらく無事ぶじいのり、台明寺だいみょうじ願文がんもんおさめている。

比企ひきらん在京ざいきょうしていたとみられ、けんれき3ねん1213ねん)2がつに3だい将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねとも学問がくもんしょばんとなり、御家人ごけにんとしての復帰ふっきがみられる。同年どうねん6がつ和田わだ合戦かっせんにおいては勝者しょうしゃがわち、らん荷担かたんした甲斐かいこく都留つるぐんぐん所領しょりょうであるなみそう新荘しんじょう)を拝領はいりょうした(本荘ほんじょう甲斐かいはじめ棟梁とうりょう武田たけだでんりょう)。同年どうねん7がつ薩摩さつまこく地頭じとうしょくかえされ、同国どうこく守護しゅご同年どうねん再任さいにんされたとみられるが、大隅おおすみ日向ひなた守護しゅごしょく北条ほうじょうわたったまま、その2こく復権ふっけんがなされるのは南北なんぼくあさ時代じだい以降いこうのこととされている。

うけたまわひさし3ねん1221ねん)の承久じょうきゅうらん同年どうねん7がつ越前えちぜんこく守護しゅご補任ほにんされた[14]。これよりまえの5がつには同国どうこく足羽あすわぐん東郷とうごうそう地頭じとうしょくあたえられている[14]。また、このころおもんみそうせいえて藤原ふじわらせいしょうしている[15]げんひとし元年がんねん1224ねん)に八十島やそじま使つかいずいへいつとめ、よしみろく元年がんねん1225ねん)には検非違使けびいしにんじられ、よしみろく2ねん1226ねん)には豊後ぶんごまもるとなった。

よしみろく3ねん1227ねん)6がつ18にちたつこく脚気かっけ赤痢せきりにより死去しきょ(『吾妻あづまきょう』)。はかは、島津しまつだい25だい当主とうしゅ島津しまつ重豪しげひでにより、江戸えど時代じだい後期こうき鎌倉かまくら西御門にしごもんみなもと頼朝よりともはかとも建立こんりゅうされ、頼朝よりともはかからやく70メートル程度ていどはなれた場所ばしょてられている(白旗しらはた神社じんじゃ#島津しまつ忠久ただひさはか参照さんしょう)。

出自しゅつじ

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忠久ただひさ出自しゅつじについては、『島津しまつ国史こくし』や『島津しまつ正統せいとう系図けいず』において、「摂津せっつ大阪おおさか住吉すみよし大社たいしゃ境内けいだい忠久ただひさんだ丹後局たんごのつぼねみなもと頼朝よりとも側室そくしつで、忠久ただひさ頼朝よりとも落胤らくいん」とされ、出自しゅつじ頼朝よりとも側室そくしつ比企ひきのういんいもうと丹後局たんごのつぼね丹後たんご内侍ないし)のとされている。そのため頼朝よりともより厚遇こうぐう地頭じとうにんじられたとされている。

その出自しゅつじかかせつについて

忠久ただひさ実父じっぷについてはおもんみむね広言こうげんであったとするせつもあるが、つう問題もんだいなどから広言こうげん実子じっしせつについては近年きんねん疑問ぎもんするせつ有力ゆうりょくであり養子ようしであったとされている。その場合ばあい実父じっぷ候補こうほかんして、忠久ただひさおとうとちゅうから、おもんみそうで「ただし」のおもんみそう忠康ただやす父親ちちおやであるとするせつ存在そんざいする。

母親ははおやかんしては、忠久ただひさたてひとし3ねん1203ねん)の比企ひきのういんへんに「縁坐えんざ」(連座れんざ)して処分しょぶんけているので、比企ひき縁者えんじゃのういん義姉ぎしいもうと)であるとみなされ、『吉見よしみ系図けいず』にしるされているとおり比企ひき長女ちょうじょ丹後たんご内侍ないしであるのがただしいとされている。将軍しょうぐん学問がくもんしょばんつとめや陰陽いんようどうかかわる行事ぎょうじ差配さはいまかされていることから、忠久ただひさ公家くげ文化ぶんかふか理解りかいっていたとかんがえられる。

これにたいして、『吉見よしみ系図けいず』によると丹後たんご内侍ないしは「無双むそう歌人かじん」であったとされ、忠久ただひさまご曾孫そうそん玄孫げんそんにあたる越前えちぜん島津しまつちゅうけいちゅうむね忠秀ただひで歌人かじんとして有名ゆうめいである。また忠久ただひさ生誕せいたんである住吉すみよし大社たいしゃ航海こうかいかみとして信仰しんこうされているが、当時とうじ和歌わかかみとしても崇敬すうけいされており、うけたまわもと2ねん1208ねん)の住吉すみよししゃ会合かいごうにも参加さんかしたことがられる[16]女房にょうぼうさんじゅう六歌仙ろっかせん一人ひとりむべあきもんいん丹後たんご摂津せっつ源氏げんじ出身しゅっしんでもあることから、むべあきもんいん忠久ただひさははであるとのせつ提示ていじされている[17]

生年せいねんについては『島津しまつ系図けいず』などによるとうけたまわ3ねん1179ねん)とされているが、うけたまわ3ねん時点じてんで『やまえんじゅ』や『たま』に「ひだり兵衛ひょうえじょう忠久ただひさ」として記載きさいされていることから、1179ねんには任官にんかんされるにりる成人せいじん男子だんしであったとおもわれるので、生年せいねんうけたまわ3ねんよりじゅうすうねん以上いじょうさかのぼっているものと推定すいていされる。

薩摩さつまでの忠久ただひさ

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山田やまだきよしさかえ自記じきおよび、島津しまつ国史こくし江戸えど後期こうき成立せいりつ)によれば、地頭じとうとなった忠久ただひさは、文治ぶんじ2ねん1186ねん)に薩摩さつまこく山門さんもんいん鹿児島かごしまけん出水いずみきゅう野田のだまち中心ちゅうしんきゅう高尾野たかおのまち出水しゅっすい針原はりはら六月田ろくがつだ一部いちぶそう江内えうち阿久根あくね脇本わきもと)の牟礼むれじょうはいり、その日向ひなたこく島津しまついん宮崎みやざきけん都城みやこのじょう)の堀之内ほりのうち御所ごしょうつったとつたえられている[注釈ちゅうしゃく 6]。このほかに、さん国名こくめいしょう図会ずえ江戸えど後期こうき成立せいりつ)では、たてひさ7ねん1196ねん)に、山門さんもんいんから島津しまついん祝吉いわよし御所ごしょはいり、その堀之内ほりのうち御所ごしょうつったとする伝承でんしょうもある。しかし、史実しじつとしては忠久ただひさ山門さんもんいん島津しまついんいずれにも移住いじゅうしたとはみとめられず、伝承でんしょうにすぎないという指摘してきがされている[19]

鹿児島かごしまけん出水いずみ牟礼むれ城址じょうし
宮崎みやざきけん都城みやこのじょう祝吉いわよし御所ごしょ門柱もんちゅうあとてられた石碑せきひ

出水いずみ教育きょういく委員いいんかいによる牟礼むれ城址じょうし解説かいせつばんでは、文治ぶんじ2ねん(1186ねん島津しまつ忠久ただひさ薩摩さつま大隅おおすみ日向ひなたさんこく地頭じとうしょくにんぜられたのち家臣かしん本田ほんださだおや任地にんち下向げこうさせて、さんこく情勢じょうせいさぐらせたことしるされている。山門さんもんいん豪族ごうぞくたいらげてけんひさ7ねん1196ねんさだおや山門さんもんいん牟礼むれしろきずいて島津しまづさんしゅう支配しはい基礎きそつくったという。

すなわち、忠久ただひさ自身じしん牟礼むれじょう定住ていじゅうしたことはないが、牟礼むれじょう薩摩さつまこく守護しゅごしょであり、ここに本田ほんだ守護しゅご島津しまつ家臣かしん常駐じょうちゅう守護しゅご勢力せいりょく拠点きょてんとなり、5だい貞久さだひさまでいたるのである。

なお、牟礼むれ城址じょうし東南とうなん200メートルの付近ふきん野田のだまち屋地やちという地名ちめいであるが、当時とうじ城郭じょうかくないになっていたとつたえられ、城址じょうしない竹林ちくりん城址じょうしつたえられている区画くかくがあり、本田ほんださだおや居城きょじょうであったという。

忠久ただひさ鎌倉かまくら活動かつどうしてそこで生涯しょうがいえ、代目だいめ島津しまつただしとき同様どうよう鎌倉かまくらぼっしている。さん代目だいめ島津しまつひさけいもと下向げこうして以来いらいみなみ九州きゅうしゅうへの在地ざいち本格ほんかくし、よん代目だいめ島津しまつただしむね島津しまつとしてはじめて薩摩さつまぼっした。 島津しまづ当主とうしゅみなみ九州きゅうしゅう土着どちゃくしたことが確認かくにんできるのは代目だいめ島津しまつ貞久さだひさ以降いこうである。いかり山城やましろ薩摩さつま川内せんだい)に貞久さだひさ守護しゅごしょかれていたという。

島津しまつそう地頭じとうしょく任命にんめい背景はいけい

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忠久ただひさ鎌倉かまくら時代じだい以前いぜん京都きょうと公家くげ警護けいごする武士ぶしであり、親戚しんせき大隅おおすみ日向ひなたこく国司こくしつとめていた。

出身しゅっしんであるおもんみ宗家そうけ近衛このえいえ代々だいだいつとめたいえで、忠久ただひさ近衛このえつかえる一方いっぽうで、みなもと頼朝よりとも御家人ごけにんであった。東国とうごく武士ぶし比企ひき畠山はたけやま関係かんけいがあり、儀礼ぎれいつうじ、頼朝よりとも信任しんにんていたという。

おもんみ宗家そうけ元々もともとつかえていた近衛このえは、ひらもとから島津しまつそう寄進きしんけた藤原ふじわら頼通よりみち子孫しそんである関白かんぱく藤原ふじわらただしどおり長男ちょうなんもととするいえであり、鎌倉かまくら時代じだいから島津しまつそう荘園しょうえん領主りょうしゅとなっていた。

また、もとであるもとどおりについては、婚約こんやくしゃであったみなもと義高よしたか殺害さつがいされた直後ちょくごみなもと頼朝よりとも長女ちょうじょだいひめもとどおりとつがせる構想こうそうがあったことがられており、最終さいしゅうてきには実現じつげんしなかったものの、この構想こうそうかんして忠久ただひさ関与かんよ可能かのうせい指摘してきされている[20]

こうしたみなもと頼朝よりとも近衛このえめぐ関係かんけいから、島津しまつ忠久ただひさ地頭じとうしょく守護しゅごしょくたのではないかとかんがえられる。 

以後いご島津しまつ島津しまつそうめぐって近衛このえなが関係かんけいつにいたった。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 鎌倉かまくら時代じだいから南北なんぼくあさ時代じだいさく絹本けんぽんちょしょく鹿児島かごしまけん指定してい文化財ぶんかざいなが京都きょうと高山寺こうざんじつたわった作品さくひんで、ぞうぬし島津しまつ忠久ただひさだとされる。付属ふぞくする松方まつかた正義まさよしふで由緒ゆいしょきによると、元治もとはる元年がんねん1864ねん)に島津しまつ久光ひさみつほん作品さくひんせられ、のち島津しまつ忠義ただよしほん作品さくひん入手にゅうしゅ松方まつかた依頼いらいし、明治めいじ31ねん1898ねん)ようやく島津しまつゆずられたという[1]
  2. ^ 島津しまつ歴代れきだい略記りゃっき』(島津しまつ顕彰あきらかい)では、うけたまわ3ねん1179ねん12月30にちとしているが、これはみなもと頼朝よりとも落胤らくいんせつのっとってのもの
  3. ^ やまえんじゅ』には「ひだり兵衛ひょうえじょう忠久ただひさ」としるされている。もとこよみ2ねん1185ねん)の地頭じとう補任ほにんじょうに「ひだり兵衛ひょうえじょう忠久ただひさ」としるされていることから『やまえんじゅ』の「ひだり兵衛ひょうえじょう忠久ただひさ」はおもんみそう忠久ただひさすものであると推測すいそくされる。
  4. ^ 父方ちちかたかんがえられるおもんみそうには平安へいあん末期まっき薩摩さつま」「大隅おおすみ」「日向ひなた」などの国司こくしにんじられたものすうめいがおり、忠久ただひさはこの延長線えんちょうせんじょうにたって領家りょうけならびに頼朝よりともから島津しまつそう下司げすにんじられたとの見解けんかいもある[13]
  5. ^ 異父いふおとうと安達あだち景盛かげもり時長ときながらは比企ひきがわからはな北条ほうじょうがわいたため、連座れんざしていない。
  6. ^ さき薩摩さつま山門さんもんいん御下おしもおっとより嶋津しまづ御荘みしょううつり嶋津しまづしょう庄内しょうない也、さんヶ国かこく庄内しょうないためふところ在所ざいしょ也、ほど庄内しょうない南郷なんごうない住所じゅうしょじょうほりない嶋津しまづ所作しょさゆう御座ぎょざこう訖」[18]

出典しゅってん

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  1. ^ 尚古しょうこ集成しゅうせいかん図録ずろく尚古しょうこ集成しゅうせいかん編集へんしゅう発行はっこう、1987ねん、pp.6-7
  2. ^ a b c 島津しまつ歴代れきだい略記りゃっき』(島津しまつ顕彰あきらかい 1985ねん
  3. ^ 官報かんぽうだい139ごう敍任じょにん及辞れい」1927ねん6がつ17にち
  4. ^ a b c 朝河あさかわ貫一かんいち 1939, p. 281.
  5. ^ 朝河あさかわ貫一かんいち 1939, p. 280.
  6. ^ 朝河あさかわ貫一かんいち 1939, p. 281-282.
  7. ^ 朝河あさかわ貫一かんいち 1939, p. 282.
  8. ^ 朝河あさかわ貫一かんいち 1939, p. 283-284.
  9. ^ 朝河あさかわ貫一かんいち 1939, p. 339.
  10. ^ 朝河あさかわ貫一かんいち 1939, p. 285.
  11. ^ a b 朝河あさかわ貫一かんいち 1939, p. 295.
  12. ^ 朝河あさかわ貫一かんいち 1939, p. 308-309.
  13. ^ 野口のぐちみのるおもんみそう忠久ただひさめぐって」(『中世ちゅうせい東国とうごく武士ぶしだん研究けんきゅう高科たかしな書店しょてん、1994ねん
  14. ^ a b いち 承久じょうきゅうらん御家人ごけにん動向どうこう戦後せんご越前えちぜん若狭わかさ”. 福井ふくいけん通史つうしへん2 中世ちゅうせい. 福井ふくいけん文書ぶんしょかん (1994ねん). 2023ねん3がつ14にち閲覧えつらん
  15. ^ 朝河あさかわ貫一かんいち 1939, p. 309.
  16. ^ しんぞく古今ここん和歌集わかしゅう
  17. ^ 野村のむら武士たけし島津しまつ忠久ただひさ鎌倉かまくら幕府ばくふ』(南方みなかたしんしゃ2016ねん)20-27ぺーじ
  18. ^ 山田やまだきよしさかえ自記じき鹿児島かごしまけん史料しりょうしゅうⅦ)
  19. ^ 三木みきやすし鹿児島かごしま国際こくさい大学だいがく短期大学たんきだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ寄稿きこう みなみ日本にっぽん新聞しんぶん 2008ねん4がつ16にちづけ
  20. ^ 保立ほたて道久みちひさ義経よしつね頼朝よりとも問題もんだい国土こくどだかけん」『中世ちゅうせい国土こくどだかけん天皇てんのう武家ぶけ校倉あぜくら書房しょぼう、2015ねん ISBN 978-4-7517-4640-0)P385-388.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 朝河あさかわ貫一かんいち島津しまつ忠久ただひさなまち : ていとう批評ひひょういちれい」『ふみえんだい12かんだい4ごう、1939ねん1がつdoi:10.14992/00000838 
  • 江平えひらもち拾遺しゅうい 島津しまつ忠久ただひさとその周辺しゅうへん 中世ちゅうせい史料しりょう散策さんさく高城たかぎ書房しょぼう、2008ねんISBN 9784887771185
  • 野口のぐちみのるおもんみそう忠久ただひさめぐって」-『中世ちゅうせい東国とうごく武士ぶしだん研究けんきゅう高科たかしな書店しょてん、1994ねん
  • 野村のむら武士たけし島津しまつ忠久ただひさ鎌倉かまくら幕府ばくふ南方みなかたしんしゃ、2016ねんISBN 9784861243455
  • 島津しまつ歴代れきだい略記りゃっき島津しまつ顕彰あきらかい、1985ねん